5.Swallow3
通話を終えて携帯を閉じ息をついた燕は、全身から力が抜けていく感覚に任せるまま、ベッドに倒れ込んだ。196センチの燕が横たわっても足がはみ出ない特注サイズのベッドは、ずっしりとした体を受け止めて優しく包み込む。
「おーい、どうした、大丈夫か?」
脱力した燕の近くをケイがふよふよと舞って心配そうにかけられた声に、心配させぬまいと頷き体を起こす。
「大丈夫です。なんだか、急に力が抜けてしまっただけです」
「ふぅん。へーきならいいんだけどよ、ちょっとびっくりすんだろ」
「すみません……」
衝撃で乱れた髪を無造作に直しつつ口にすれば、ケイは呆れたように言葉を返した。続けて、ところで……と前置きをして何気なく口にする。
「アンタ、誕生日だったんだな? えーと、ニンゲンはこういう時オメデトーって言うんだっけか。うん、オメデトウだな」
「ありがとうございます。……そういう人間の風習は、やはり舞鶴から聞きました?」
「そうだな、そういうのはいつも舞鶴から聞くな。あと、ニンゲンは誕生日ってときは……もっとこう、美味いもん食ったりなんか物をあげたり、派手なことすんだって感じのことを」
ケイは舞鶴とのやり取りを思い出すように目線を動かした。見て分かる通りケイは人間ではないため、文化や風習についても非常に疎い。その多くは彼等が護衛として傍に仕える舞鶴から聞くようだ。彼の言うことは間違ってはいないが家庭によるだろうと少しだけ訂正を入れる。
「一応言っておきますと、誕生日をどう祝うかは家庭によって違いますよ。うちでは特に祝うものでもありませんし、一言誰かに祝ってもらえばいい方です」
「確かにアンタらはそういうのしてねぇな。じゃあ、美味いもん食ったり……ってのはなんだったんだ?」
「ほかの家庭の話ではありませんか?」
燕の言葉を受けて、ケイは先月のことを思い出すように再び視線を動かしたが、該当する事象がなかったことが疑問だったのだろう。ケイは少し不思議そうにぼやく。
舞鶴の説明も間違ってはいない。一般家庭の多くは恐らく家族から祝福され、ケーキを食べたり豪勢な食事を食べたりするのだろうが、それは燕からすればあまり馴染みがない。
親は殆ど家におらず、いたところで誕生日など祝われることはほぼない。今回のように父が祝ってくれることもあるが、それは距離があるからこその祝い方だ。
そんな身からすれば、『なんだったんだ』と問われたところで他の家庭の話だとしか言えず、ケイも素っ気なくそうなのか、と呟いた。
補足をすれば、燕達兄妹も全く他人から祝われたことがないわけではない。今回のようなケースはあるし、燕の場合友人である龍樹からは多い。
思い返せば龍樹はどこか律儀で、小さい頃は菓子を分けてくれたことが多くあり、先月はクーポンがあったからといってファストフードを奢ってくれた。
『お前の母さんにバレなきゃいいだろ。毎年なんかしらやってんだから今更気にすんな』
そう言って龍樹と共にハンバーガーを食したのは、存外旨かったし楽しかったことを覚えている。
自分は夏に一言『おめでとう』と言うことしか出来ない。プレゼントもなにもないのに祝ってくれることに申し訳ないも思いつつ感謝し、黙々と食べたのだ。
先月末のことを頭の片隅に浮かべながら、燕はベッドから立ち上がり机に置かれた本を手に取る。どれから読もうか、ジャンルも作者もバラバラの書物を並べる燕の様子を、ケイはふわふわと浮かびながら眺めた。彼と会話をしながら一冊を選んで椅子に座り、表紙を開く。中も当然日本語ではなく、素人には非常に難解であろう文章が並ぶが、燕にはさほど難しいものではない。
ぱらりとページを捲る手に合わせて、ケイもそれを覗き込んだ。
横書きかつ右に文頭がくる小説。その登場人物の独白を読み進める。
後に世界的に有名な王になる少年と、その友とされる人物の逸話を元にした歴史小説であるこの本は、必ずしも全てが史実通りではない。作者によるオリジナル要素も随所に含まれているが、彼がどのような王であったかを知るには中々いい作品だと、燕は勝手に思っている。
黙々と読書に耽る燕の傍らでケイはふと呟く。
「こんな難しそうな本読めるなんて、やっぱりお前すげぇなぁ」
口元を緩ませて軽い気持ちで呟かれた言葉だったが、それが燕の手の動きを制止した。
――これの何が凄いんだ。
真っ先に抱いた感覚を口にしかけて、なんとか飲み下す。しかし飲み込んだところで疑問が消えぬ訳では無い。
今燕が手にしている本は確かに外国語で書かれたものだ。しかもあまり日本人には馴染みがないものであるため、目にしたところで知識無しに読めるものではないだろう。
しかしこのように外国語が読めたところでこの家ではさほど珍しくない。燕が今手にしている本も家族は普通に読んでみせるだろうと思う。家の誰もができることができたところで褒められる要素にはなり得ない。
「兄貴達の方が凄いですよ。こんなの、全く凄いものではありません」
そんなことを考えていたら自然と口に出ていた。それに気づき少し焦るか、ケイの反応は燕が予想していたものとは大きく異なっていた。燕の目線の先で、ケイは不思議そうに首――彼の場合は体全体か――を傾げ疑問を口にする。
「なぁ燕、別に兄貴達と比べる必要はねぇんだぜ?」
僅かに驚きを見せる燕に向けて、ケイは更に言葉を続ける。
「つーかよ、例え兄貴が読めてもお前が凄いことは事実じゃねーか? それにこれ、お前が読めるように勉強したんだろ?」
「……一応は」
「だったら、相当すげぇと思うんだけど。兄貴達が読めることはなにも影響しねーと思うし、兄貴達と比べるまでもなくお前はすげぇよ」
「…………」
ケイの言葉に反応できないまま、黒い瞳から本へと目線を移した。
彼の言うことも分かる。血の繋がりはあれど兄妹と燕は何もかもが違う。見た目も好き嫌いも能力も。だからこそ過剰に比べる必要はないはずなのだ。
だが今まで燕は些細なことでも比較されて生きてきた。今日の同級生や話に出た先輩のようなタイプの赤の他人の比較の目を受けて育ってきた燕としては、自他問わず比べるのは自然なこと。
だがケイの気持ちも無下にできない。折角、お世辞であっても褒めてくれているというのに、否定し続けるのも失礼だ。そんなふうに考えて、なんとか礼を返す。
「……ありがとう、ございます」
「言っとくけど、別にお世辞じゃねーからな」
作った表情は歪なものだろう。色もあまりいいとは思えず、心のこもった礼とは見えない。しかしケイは燕の様子自体になにか口を出すことは無い。燕の心を読んだかのようにそれだけ言い切って、静かに部屋を出ていった。
――そんな馬鹿な。きっと世辞だ。
一人残された部屋で、燕は先程の言葉を否定しながら改めて本を開いた。
物語はまだまだ序盤で、王になる少年の穏やかな日常が記されている。このような日々の些細なことも燕は好きだ。さっきの出来事も極力頭の片隅に追いやって、ページを捲っていく。
読み始めてから数十分経ち、物語が変化を見せていたその頃。唐突にベッドの上に放置してあった携帯電話が音を立てた。どうやらメールらしい。一旦栞を挟んで携帯電話を手に取ると、画面に映るのは『青滝龍樹』の文字。メールを開けば数学の問題を撮った画像と、『分からないから教えてくれ』という簡潔な文章。
「……授業でやったのを見れば分かるんじゃないか……?」
独りごちるが、龍樹がとても数学が苦手であることを思いだし、カチカチと文字を打つ。自分の教え方で分かるだろうかと少し不安になりながら解説や必要な公式を打ち込んで返信した。
数分後、龍樹からの返事には『ありがとう! やっとわかった!』という元気さを感じ取れる文字列と、ささやかな褒め言葉。
『やっぱりお前凄いな!』
その文にまた燕は複雑な気持ちになる。それは決して聞かれた問題が簡単だから、というわけではない。これが例え難解なものでも、燕は同じような感想を抱くだろう。
友からの賞賛も、不思議な同居人からの賞賛も、どうしようもなく受け入れ難いものではあった。
――どこが、凄いんだ?
その疑問を龍樹に問うてみようかと考えて、聞かれても困るだろうと慌てて棄却した。代わりに、『また分からないのがあったら聞いて。教えるから』そんなふうに打ち込んで送信した。
返ってきた龍樹からのメールには、簡潔な謝辞が載せられていた。
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