Swallow
3.Swallow1
オレンジ色の夕陽が差し込む体育館の中に、ぽつんと小さな影があった。
黒い髪に体操着姿の幼い少年は、光のない瞳を瞬かせ、バスケットゴールを見上げる。
同い年の中では背が高いなんて言われる彼だが、まだ幼い彼にとってバスケットゴールはとても高い場所だ。ジャンプしたって届かない。
近くのキャスター付きの籠に多く詰め込まれたバスケットボールをひとつ取って、ゴールめがけて投げてみるが、リングに当たってしまい、無常にも床をてんてんと転がった。
――もう一回だ。
もう一度、ボールを手に取って放る。手から離れたボールは放物線を描きゴールへ吸い込まれて行く……かと思いきや、当たりどころが悪かったか、また弾かれる。何度も何度も挑戦するがなかなかボールは入らない。何十回と投げたのに、入ったのはほんの二、三回。
少年は、暗い瞳で転がったボールを見つめて、悲しげに零す。
「……そうか、やっぱり僕には、何もないのか」
『自分にはなにも誇れるものがない』――燕の胸中にそんな考えが燻るようになってからかなりの歳月が経過した。
記憶している中で初めて思ったのが小学校になったばかりの頃。それはなにも始めたばかりのバスケットボールが上手くいかなかったから――ではない。それよりも更に前から、様々なことが原因となり俄には思い始めていた。
しかし当時はまだランドセルを背負い始めたばかりだ。これから作ればいいことだし、誰だって苦手なことはある。落ち込まなくていいと思っていた。
確かに、既に兄達と比べて劣っているところは多くあったが、兄達も努力の末に今ある能力を身につけたのだ。自分だって頑張ればなんとでもなるはずだ。
ここまでハッキリと自覚していたかというと首を傾げるものではあるが、ともあれ、このようなニュアンスのことを、燕は思っていたのである。
しかし、成長するにつれて、益々自分に誇れるものなんてないと、思うようになっていた。
成長して出来ることは徐々に増えていっている。勉強も良い成績を残してきた。バスケットボールだって上達した。シュートも上手くなって、高身長を活かしチームに貢献している。自分のプレイが直接的な勝利に繋がって、チームメイトに賞賛されたこともある。
だけど、何故だろうか。満たされない感覚があった。誇りだとかなんだとか、大層なものでなくともいい。そう、達成感だとか、やり切った気持ちだとか、満足しただとか、そういうのがさほど感じられなかったのだ。
『市河、お前、勝ったのに嬉しくないのか?』
そう聞かれたこともあるが、それはハッキリと否定できる。勝利が嬉しくないわけがあるか。勿論、嬉しい。どんな規模の試合であれ、勝ちは勝ちだ。チームメイトには大袈裟すぎるほどに喜んでいる者もいるのだから、それを少し真似して喜んでみるのも、一興だろう。
だけど出来ない。周りにどう思われるかなどではない。ただ、冷静な自分が、こんなふうに考えるのだ。
『この程度で喜んでどうする』『こんなので認められるわけがないだろ』――と。
高校の広い体育館。靴が床と擦れる音を鳴らして、燕は多くの部員とともに放課後の部活動の練習に取り組んでいた。
フットワークやハンドリング、シュート練習等も手は抜かず、汗まみれになって数時間の練習を熟す。
それが終わっても居残り練習に時間を使う。中には様々な理由で帰る者もいるが、燕は特に用がない限り居残り、ギリギリの時間まで練習に励んでいた。
同級生との会話もそこそこに、体育館の片隅でボールを放る。
ごつごつとした手から放たれたオレンジ色の球は、リングに一切当たることなく綺麗に通り、ネットを揺らす。一見そつなくこなしているように見えるが、内心はシュートが決まる度に安堵しているし、頭の中は余計なことで思考が掻き乱されていた。
それは数十分前のこと。賑やかに下校する上級生がこんなことを言っていたらしい。
『一年の市河って、あの市河信濃と市河雄和の弟なんだって?』
『えっ、スケートと陸上の? マジで? ぜんっぜん似てねえじゃん! どーせ嘘だろ?』
『いや、でもあの字の市河って中々いないし、本当に弟なんじゃねーか?』
『なら本人に聞けよ』
『えー、あいつ話しづらいんだよ。お前いけよ』
数人の上級生がテンポよく会話を交わしてケラケラと笑っていた中、ふと、誰かがこんなことを言った。はは、と笑いを零して、『でもさあ』と切り出す。
『あの二人の弟って割には、そんなに凄いやつでもねぇよなあ』
周囲の反応は様々だった。肯定否定が飛び交ったが、なんであれ笑いに変換され、あっという間に別の話題へと移っていったようだ。
そんなことをついさっき、燕は同級生から聞かされた。
同級生は『市河ってあの市河選手の弟なのか』とその事に興味を示したらしく、わざわざ聞いてきた。
興味津々といった様子で目を向ける同級生に悪気はないだろう。ミーハーなタイプなのだろうとそんなことを思いながら、燕はそれを否定する。
別に隠している訳ではないし、知っている人物は知っていることだし、口止めされている訳でもない。
ただ、そのように聞いてくる者にはあまり答えたくないのが正直な気持ちだった。大して仲良くもないのに真っ先にその事だけを聞いてくる者と関わる必要なんてない。そういうものは、どちらの兄にせよ燕を通して『市河選手』を見ているだけなのだ。
その読みは今回は的中したらしい。否定した途端同級生はつまんなそうな表情になる。どうやら姉がファンだからサインなどを……という話だったらしいが、燕に繋ぐ義務もない。
そんなこともあり、燕は集中力を欠いていた。弟かどうか聞かれたことはどうでもいい。問題は、同級生が無意味に伝えた上級生の様子であり、同級生の言葉である。
――先輩達が、市河はあの市河選手の弟じゃないのかって話しててさ。全然似てねぇなあとか言っててさ。
――あと、市河のこと『あの二人の弟って割にそんな凄いやつでもない』みたいなこと言ってたんだけどさぁ。
――お前って本当に市河選手達の弟なの?
同級生の言葉が頭に
意識しては駄目だ。そう思うのに、考えれば考えるほどに思考や心が乱される。
一見、冷静にボールを取りに駆け出しているように見えるからこそ、誰も燕の乱れに気づかない。
他に居残り練習をしている者達は、自分の友人と競い合っていたり、ひとり黙々と取り組んでいたりしており、燕を気にかける者はいなかった。
もしここに龍樹がいれば、すぐさま燕の異変にも気づいたろうし、余計なことを話した同級生に対して怒りを向けただろうが、今ここに龍樹はいない。サッカー部での練習に励んでいるか、帰宅しているかのどちらかだろう。
この場にいない彼に対する想定は置いておこう。そもそも、燕に、同級生に対する怒りはなかった。確かに、同級生が口にしたことはわざわざ言うべきではないものだったろうが、当然の疑問も含まれている。それで心を乱される方が悪いのだと、本人はそう思っていた。
――自分の心が弱いのが悪い。あの程度で自分に怒る権利などあるものか。兄貴達が謗られた訳でもない。それに、だ。
燕の投げたボールは綺麗な弧を描き、手から放られる。
――自分が兄貴達より劣ることも、競技が全く違うのにやけに比べられるのも、今に始まったことじゃない
冷めた瞳で結論づけた彼は、胸にある蟠りを奥へと押し込んだ。
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