2.友人

 家から学校までの数キロを自転車で駆けること十数分。燕は、額の汗を拭い指定の駐輪場に自転車を停めた。

 大きな校舎と広いグラウンドに沢山の生徒を擁する聖鈴せいれい高校、それが燕が通う学校の名前だ。

 地元では有名な学校であり、様々な学科を設置しながらも進学にもかなり力を入れている。無事合格したときは安堵したものだが、実を言うと燕には未だ複雑な気持ちが燻っていた。

 燕は、本当はバスケットボールの強豪校である別の高校を希望していた。有名選手を育てた名監督がおり設備なども充実している。自宅よりは少々遠いが通えないこともなく学校としてのレベルも悪くない。

 しかし、最初に考えた時点で、この学校に通うということを母は許可しないだろうと漠然と考えていた。レベルは悪くないとはいうが、兄達が通った高校を思えば大分低い、それでも諦めきれず母に具申したが、案の定反対された。

 燕は非常に恐怖を抱きながらも、それでも今までにないほどに懇願した。自分に出来る限り母に認めて貰うだけの条件も出し、それらを破らないと誓った。

 父も「ここまで言ってるんだから別にいいんじゃないのかな」と口にしてはくれたが、それでも母が首を縦に振ることはなかった。

――この人を説得することは無理だ。

 諦めた燕は最終的に折れ、結局話し合いの末現在の聖鈴高校に決まった。


 ここの部活も、厳しいが楽しく、選手の質も決して悪くはない。部活動に関してはなんであれ充実している。それでも少々未練は残り、更には『強豪校に行きたい』と話した際に母から言われたことがずっと頭の片隅に残る。

 だがそんな不満を今更考えてたところでなんの意味はない。未練も母の言葉も何もかもを思考の外へ追いやって、燕は後方からの聞き慣れた声に振り返った。


「おはよう燕! 朝から辛気臭い顔してるな!」

「おはよう。お前は朝から元気だな」


 燕の背をバンバンと叩いて元気よく笑う、日に焼けた肌が印象的な少年。彼の名は青滝あおたき龍樹りゅうき。家が隣で燕とは小学生の頃からの幼馴染であり、お互いに家庭環境もそれなりに知る相手だ。

 だからだろうか、辛気臭い顔をしていたらしい燕を心配そうに見やる。


「大丈夫か? もしかしてまた朝からなんかあった?」

「いや、何も無い。気にしなくていいよ」

「そういや深夜旭さんと錦さん喧嘩してたろ、それの被害が……」

「大丈夫、何もないから」


 自分への被害よりもなによりも、兄達の声が外まで響いていたことの方が問題だ、と焦る。確実に近所迷惑だ、周りにどう思われているだろうかと不安になるが、当の龍樹は燕の様子がどうも気になるらしい。再度大丈夫だと口にすれば、彼は複雑な表情で別の頼みを口にする。


「あ、そうだ。あのさ、燕。よかったらまた勉強教えてくんねぇ?」


 龍樹が『また』とつけているのは中学時代の前例を指してのことだろう。彼には中学時代も何度も勉強を教えたことがある。教えるのがうまいなどという自覚は燕にはないが、それでも龍樹とは相性がいいのか彼は燕のおかげで非常に助かっていると言う。

 そんな彼は、所謂前期試験でここに入学した。合格が決まってからも高校生活に備えて勉学に励んできたというが、どうやらどうしても勉強に対する不安はあるらしい。

 まだ四月上旬と言えど本格的な授業はとうに始まっている。実際に授業を受けてなにか思うところがあったのだろう、龍樹は早々に燕を頼ることにしたらしい。


「まだそんな……難しいことはやってないと思うんだけど」

「いや、それはそうなんだけど、さ? またそのうち数学とか訳分からんくなりそうな気がして……」

「……お前は真面目だな。いいよ。俺でよければ教える」

「さっすが燕! ありがと!」


 不安げな面持ちから打って変わって晴れやかになった彼は、安堵したようによかった、と零す。そして別の話題についてしばらくやり取りした後、彼らはそれぞれ別の教向かった。


 広い教室の片隅で一日様々な授業を受けて、信濃が作ってくれた弁当を食して、午後の授業を受ける。放課後には体育館で部活動となり汗を流す。特に異変もなく練習を終えた部員達が練習を終える頃には、空は徐々に薄暗くなりつつあった。

 居残り練習をする者も見受けられるが、それを断って買い物へと向かい、信濃に頼まれた洗剤とシャンプーを購入して帰路についた。



 玄関灯が灯された扉を通るといい匂いが鼻に着いた。香りからして恐らくはカレーライスか。妹が用意すると言っていたから簡単なものを頼んだと思われる。

 靴を脱いで上がって、いつもの様に汚れたジャージを洗濯機へ入れ、洗剤やシャンプーを定位置に置いてリビングへ行くと、微かに感じ取っていた香りが一層強くなる。

 ただいまと口にすれば、台所に立っていた妹の舞鶴と、傍にいたケイやギーグが振り返る。舞鶴のお下げが揺れ、どこか困惑したような視線が燕に向けられ、彼女はぎこちなく声を発する。


「お、おかえり」

「ただいま。兄貴達はまだ帰ってないのか」

「……今日は、カレー、だよ。……今、ポテトサラダ作ってるから、ちょっと待ってね」

「……わかった」


 噛み合わない会話を訝しく感じ呆れながらも、ケイやギーグと軽く会話をして燕は規定の位置に置かれた洗濯物の中から自分のものを選んで、部屋へ向かう。

 鞄を置いて制服から着替えた燕は、リビングに戻ると夕食づくりを手伝おうと舞鶴の元へ向かう。

 見れば彼女はポテトを潰している最中であった。代わりにやろうと提案するがやはり会話は妙に噛み合わない。ボウルを貸せと言っているのにカレーの具を答えられたり、量について返されたり。

 ケイやギーグが「分かるように言ってやれ」というが、これ以上どうわかりやすく言えというのか、とでも言いたげに燕は彼等を見やる。


「……だから、俺がポテト潰す方が早いだろう。俺がやるから貸して」

「私、やるから……いいよ」


 やっと噛み合ったと思えばこれである。不愉快な気持ちになることはなるが、そこまで言うなら仕方ないと諦め、せっかくだからと他の家事に取り組むことにした。


 そこから暫く経ち、漸く信濃を除くきょうだいが全員帰宅し食事の時間となった。

 家族全員が座れる大きなテーブルに置かれるのは、五人分のカレーライスとポテトサラダ。舞鶴の分を除きどれも大盛りで鍋もとても大きい。彼らの食事量の多さが伺える。いや、全員が運動部に所属する男子なのだから、これくらいは普通だろうか。


「今日は舞鶴が作ってくれたのかな? ありがとう」

「え、あ、うん……」


 旭が丸っこい瞳を細め穏やかに礼を言うが、舞鶴は苦い笑みを零し複雑そうに顔を伏せ、錦は特に何も言わず無愛想だ。機嫌が悪いのかなんなのか眉間に皺を寄せて食事を進め、その隣では雄和がカレーに大量の香辛料を掛けて見るからに辛そうな赤へと変えていく。


「うまい!」

「いや、雄和それ香辛料の辛さでしょ。でもカレー美味しいよ、舞鶴。ありがとう」

「美味しいぞ」


 和やかとも冷え切っているとも断定しづらい空気感の中、安心させるように旭や燕が美味しいと口にするが、それが伝わっていないかのように舞鶴はぎこちない返事とともに目を伏せる。

 その態度が癪だったのだろう、席についてから終始無言だった錦がはぁ、と呆れたように長い溜息を吐いた。

 ただそれだけである。それだけで、誰かに文句を言うことも何もなかったのだが、それは錦の向かいに座る旭を刺激してしまった。


「……錦、なにその嫌そうな溜息」

「………チッ」

「舌打ちしないでよ。なんで溜息なんか吐いたのって聞いてんのこっちは」

「お前には関係ないだろ、てめーに対して溜息吐いたわけじゃねーんだからよ」

「じゃあ誰に対して溜息ついてるの、舞鶴? この子いつもこんな感じでしょ、いちいち怒ってどうすんの」

「だから別に俺も怒ってねえだろ!」


 成人男性の割に妙に高い声と乱暴な舌打ちが響いて、燕と雄和はまたかと顔を見合わせた。

 今回のように些細なことで頻繁に旭と錦は喧嘩をする。しかも顔を合わすことが多い食事時が最も多い。錦から突っかかることが多いが、今回はどうも逆である。

 どちらがきっかけでも食事くらい静かにさせてくれと思うがなかなかそうはいかない。ならば止めればいいだけの話かもしれないが、2メートルを優に超す長兄と、燕や雄和より背は低いとはいえ大柄で力もある次兄に、無策で突っ込んでいくのは二人とも嫌だった。それに放っておけば基本被害はない。

 深夜にも喧嘩をしていたろうに、よく飽きないなとズレたことを燕は漠然と思って、まるで何事もないかのように燕は空っぽになった皿を手にお代わりに向かい、雄和がカラのタバスコの瓶を片手に顔を上げる。


「あ、燕。ついでにそこののタバスコとってくれやん?」

「まだ辛くすんの……ほら」

「別にええやろ。――ありがと」


 二杯目も大盛りにして席に戻る。雄和のカレーライスは更に赤みを増し、ポテトサラダすらも赤く変貌していたが、彼は実に美味しそうに食していた。

 テーブルの一方では、旭と錦の喧嘩のがなり声はヒートアップする。


「そもそも! 錦はいつも不機嫌そうな顔して苛立ってご飯食べてるよね!? ちょっとくらい落ち着いて穏やかに食べようって思わないわけ!?」

「高い声でぎゃんぎゃん喚くな! 普通に飯食ってるだけでなんでいちいちてめーに文句言われなきゃなんねーんだよ、今回だけじゃねーだろいつもいつも俺に突っかかりやがって!」

「眉間に皴寄せて溜息ついて機嫌悪そうにしてることのどこが普通なのさ! それに突っかかってくるのはそっちでしょ!?」


 ドスの効いたようなバリトンボイスと妙に高い声が混ざり、不協和音を響かせていく。止めるものがいないその嫌な言い争いはヒートアップして遂に手が出て乾いた音が響く。

 燕の向かいに座る舞鶴の手が止まっていた。青い顔をして目を見開いて恐怖に怯える彼女は見ていて痛々しい。なんと声をかけるべきか、もしくはそろそろ旭と錦を止めるべきなのか。そう考えていたその時。

 誰も触れていないのに、ビシッと大きな音を立ててテーブルに深い亀裂が入った。

 ばっくりと割れた木製のテーブルの、旭と錦の二人の丁度真ん中あたりに、剣を突き立てたように窪んだ跡とそこから伸びた亀裂が発生していた。机に並べられた料理は無事だが、それでも突然の出来事に一瞬で辺りが静まり返った。

 数秒の間沈黙が支配し聞こえるのは時計の秒針程度。そんな中で、亀裂が入り割かれたテーブルを呆然と見つめ、沈黙を打ち破るように誰からともなく声を上げた。


「は、え、なんで机割れたの」

「……兄貴がなんかしたんじゃねーのかよ」

「言い掛かりはやめて。モノ壊しそうなのはどっちかというとアンタでしょ」

「テメェこそ言い掛かりすんなよ。俺はそんなガキみてぇなこと――」


 途端に、再び机に大きな窪みと亀裂が発生し、反射的に肩が跳ねた。沈黙がまたも空間を支配して、それが徐に破られる。


「燕、適当に机くっつけといてくれない?」

「……はい」


 長い沈黙の後に、流石に奇妙に感じ恐ろしく思ったらしい旭が、錦の服を掴み上げていた手を離した。続けて、ぎこちない動きで皿を別テーブルへと移動させたあと、そんなことを口にした。

 二杯目も殆ど食べ終わっていた燕は、黙って席を立ち別室にある接着剤を手に戻る。

 応急処置にしかならないが仕方ない。直しても使いづらいようならまた大きなテーブルを買いに行こうとぼんやりと思いながら、極力綺麗に直す。雄和が手伝ってくれたのはラッキーだったろう。

 いつの間にかさっさと夕飯を食べ終えたらしい旭と錦の姿は消え、終始申し訳なさそうな舞鶴に「気にしなくていい」と声をかけた。

 その後、帰宅した信濃が亀裂が入ったテーブルに絶句し、兄二人に文句を言いに行ってまた別の喧嘩が発生するのは別の話である。

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