1.不可思議なもの


 甲高い電子音が鳴り響く薄暗い部屋で、黒い髪の少年、つばめは目を覚ます。白い天井を目に映し、音を発する携帯電話を開いて音を止めた。画面に映し出された時刻は午前6時より少し前を示す。

 部屋を照らす光は、カーテンの隙間から漏れる淡い光程度。そんな薄暗い部屋にてぼんやりとした頭をもたげ、ゆっくりと体を起こせば、同時に視界の端でとある物体が動いた。ゆっくりとそちらを見る。

 視線の先にあったのは、自分の頭より一回り小さいくらいの人の首だ。閉じられた瞳に、頬の上に引かれた縦の黒い線。短く揃えられた前髪とボサボサとした長い髪。そして、長い額に生えた二本の短い角と通常の人とは形が異なる長い耳。そんな異質なものが部屋の隅で転がっていた。

 燕は寝ぼけ眼を何度か瞬かせるとベッドから下り、目の前でしゃがみこんで手を伸ばして、大きな手で、ボサボサの髪に触れた。


「今日はここにいたんですね」


 その声に反応して、閉じられていた瞳が開かれる。黒白目の瞳と燕の視線が合わさり、口が開かれる。


「よう、今日も早起きだな燕」


 生首が喋った。普通はありえないであろう生首が目を瞬き喋るという異様なる光景が展開される。しかし燕は特に驚くことも、気味悪く思うこともなく、その首の名前を口にする。


「おはよう、ケイさん」


 ケイ、それがその生首もとい『大首』の名前だった。



 燕はこの春から高校生になったばかりの『普通』の男子生徒である。決して猟奇的な人物でも奇妙な趣味を持っているわけでもなく、家系にも本人にも特筆するほどの霊感があるわけでもないただの高校生だ。

 そんな平凡な状況が変わったのは数ヶ月前。燕からすればなんの前触れもなく自宅に出現するようになった喋る生首やスケルトンに大層驚き――といえども感情表現に乏しい燕は、傍から見れば平常どおりにも見えたのだが――自分の目がおかしくなったのか疑った。

 しかしそれは何も幻覚でも何でもない。彼らが姿を見せていればという前提はあるが、宙に浮く生首に触れることも話すことも可能だった。

 目の前の生首は確かに現実だ。その事実に体が冷え、同時に何故こんな不可思議な存在がいるのか当然疑問に思った。ケイと名乗った大首やギーグというらしいスケルトンに訊ねてみると彼等は言う。


「リーグ様がこの家の娘に惚れ込んだからだ」

「……誰ですかそれ」

「俺達の住処である地獄界の王だ」

「……地獄界?」


 妙な単語に頭を捻る燕に対し彼等は続ける。


「お前達には分からんことだろうが、この世界にはいくつもの世界があるんだ。特に大きい『七界』と、小さいいくつもの界ってものがな」


――何を言ってるんだこの大首は。


 率直な感想がそれだった。目の前の大首は信じてねぇな? とぼやいていたがこちらが信じないのも当たり前だろう。ここは現実だ。なにも四兄、雄和ゆうわが好むような漫画やアニメ、ゲームの中といった世界ではない。だが燕には目の前で大首が浮いて喋っている現状を完全に無視したり否定したりすることもできない。

『雄和兄貴に言えばすぐさま高揚して聞くだろうに』そんなことを思いながら一先ず相手の話に耳を傾けた。


「今言ったように、お前らが知らねぇだけでこの世界にはいくつか『界』がある。そのうちの『人間界』がここだ。主に人間が生活してるからな。お前らがいるこの『界』は『人間界』のうちのひとつだ。そこに、オレたちは別の界から縁あって来たってことだ。信じる信じないは勝手だが、俺は嘘は言ってねぇぜ」


 嘘だろ、という前に言いきられ言葉を飲む。本当に漫画やアニメのような世界の話ではないかと言いたくなるものだったが、不思議と燕は落ち着いてその話を聞き受け入れていた。

 ふぅ、と小さく息を吐いて問いかける。


「そんな簡単に来れるものですか」

「オレたちみたいな人じゃない存在にはな。我が王がお前の妹に会ってるから余計に、かねぇ」


 いつの間に、と言いたくなったが小学生の妹、舞鶴まいづるは家で一人留守番をすることも多いからその時だろう。

 問題はその王が舞鶴になにかしたんじゃないかという一点だが、ギーグが骨をカクカクと動かしながらそれを否定する。


「リーグ様がそのつもりならさあ、俺達はなんだってやるけど、今のところは大丈夫だろうな。いわば健全なお付き合いってやつだ」


『今のところは』その言い方にやや不安になるが、小学生の女児に手を出すような輩でないということが分かっただけでもよかったものだ。いや、本来はそれが当たり前だし、そもそもリーグ様とやらの年齢も性別も外見も知らぬが、妹に被害がないなら一応安心できる。

 あまり表情に変化のない燕のその気持ちがケイとギーグに伝わっているのかは分からないが、尖った歯をぎらりと見せて笑ったケイが言葉を続ける。


「それで、だ。舞鶴はリーグ様が惚れ込んだ相手だ。俺達は舞鶴を守らなきゃならない。だから暫くここにいさせてもらう」

「別に俺達に飯を出せとかそんなことは言わねーよ。迷惑になんねぇ程度にテキトーに姿消してうろうろしてるさ」

「そんな感じで、まぁ宜しくな」


 ニカッと笑った彼等の明るい表情に随分淡々と燕が言葉を返したのが数ヶ月前のこと。

 その日以降、燕の家にはケイやギーグのような存在が現れるようになり、彼のような人間ではない存在がいる生活は燕にとって当たり前となっていた。

 宙に浮く生首やスケルトンはそこにいるだけで普通は恐怖だろう。特にケイの額に生えた角や黒白目の瞳は恐怖を増幅させる要因となろう。燕も、最初の頃こそ驚きはしたが今ではすっかり慣れてしまっていた。それでも真っ暗な部屋で会うと少し驚いてしまうのは致し方ない。



 灰色を基調としたジャージに着替えた燕の周りをふよふよと浮くケイは、そのまま燕に続いて部屋を出る。

 とんとんと階段を降りて洗面所に向かい用を済ませてリビングへ続く戸を開けると、それまで微かに聞こえていた食材を油で炒めているようなジュウジュウという音やテレビから発せられる人の声が、はっきりと聞こえるようになっていた。

 キッチンに目を向けると、立っていたのはやはり予想通りの人物、三兄の信濃しなのだった。


「おはよう、信濃兄貴」

「ん、おはよう燕。ケイさんもおはよう、早いね」

「燕が起きるの早ぇからなあ」


 キッチンに立ちフライパンを振るう黒髪の癖毛が特徴的な背の高い細身の青年、彼は三番目の兄である信濃だ。今年の春に高校三年生となり勉強にトレーニングに忙しい身でありながらも、こうして兄弟達の弁当や食事を用意してくれて、この家にとっていなくてはならない存在だ。そして、彼はケイ達の姿を目視することが出来る人物の1人である。

 燕が壁にかけられた各自の予定表となるホワイトボードにペンを走らせていると、信濃が目線も向けずに訊ねる。


「走りに行くの? 朝練は?」

「今日はないよ」

「そう。朝ご飯に食パン置いとくから、帰ってきたら適当に食べなよ。別にひと袋全部食べてもいいから」

「うん、わかった。それとは関係ないんだけど……兄貴、機嫌悪い?」


 その言葉に手際よく弁当のおかずを用意する信濃の手が一瞬止まる。聞かない方がよかったかと焦るが、しかし燕の謝罪よりも先に大きな溜息をついた信濃が言葉を続ける。


「昨日の夜、兄さん達煩かったでしょ、知ってる?」

「あぁ、そういえばなにか聞こえてたな」


 呆れた様子の信濃の言い方に燕は思い出す。

 深夜、勉強を終えて眠ろうかとしていた時刻、階下から長兄のあさひと次兄のにしきが喧嘩をしているような声が聞こえていたことに。

 日付もとうに変わっていた時間帯にあの二人は何をしているのかと思ったが、わざわざ巻き込まれに行くような馬鹿げたことはしたくないと、見に行くこともせず眠りについた。その結果間接的被害は信濃にいったらしい。

 よく見ればリビングの様子がいつもと違う上に、キッチンの片隅、普段瓶や缶を纏めて片す箇所に空の酒瓶と空き缶が増えている。もう何があったかなんてわかったも同然だ。

 恐らく個別で呑んでいたであろう二人が些細なことでぶつかり喧嘩へと発展し、酒が入っていたことでそれがヒートアップしたのだろう。そして、それの後片付けを起床したばかりの信濃がしたと。機嫌が悪くなっても仕方ないことだ。

 ケイも同じように感じたようで、口を僅かに開けて同情するような表情を浮かべていた。


「……悪かった、兄貴の気持ちも知らず」

「いいよ別に。燕悪くないし。さ、早く走りに行くならいっておいで。気をつけてね」

「気ぃつけろよ、燕」


 なんでもないように送り出してくれた信濃とケイに小さく会釈して玄関に向かう。ランニング用の靴を履いて紐を調整し玄関扉を開けると、早朝の気持ちのいい空気が舞い込む。

――……いい天気だ。

 雲もさほど見受けられない晴れ渡った空の元、入念にストレッチをした後軽快にいつものコースを走る。

 早朝でも散歩やジョギングを行う人達は意外と多く、走り出して数分でも何人かすれ違い言葉を交わした。顔見知りの者とは少し世間話しをして、そうでない者は挨拶を軽く交わす程度。そしてそういう者は大抵珍しいものでも見るかのような驚いた目線を送る。

 大方燕の身長に驚いているのだろう。高校一年生の現在、燕は成人男性の平均を優に越すどころか二メートル近い背丈と相応の体格となっていた。

 両親からの遺伝か小学生の頃より励むバスケットボールのせいか、恐らく両方だろう。当然のようにクラスでも一番背が高く、頭を色んなところにぶつけることも多い。そんな背の高い彼は普通に日々の日課を熟す内でも目立つものは仕方ない。慣れてしまっていた燕は、それで心を乱されることはなくなった。

 二、三十分ほど町内を走りいい汗をかいて自宅へ戻る。相変わらずキッチンの方からはいい香りがしていて、出迎えにやってきたらしいケイがあたりをふわふわと彷徨う。

 信濃の機嫌はだいぶ上向きになったらしいと聞いて安堵しながら洗面所に向かい、汗まみれになった顔を洗って濡らしたタオルで簡単に頭部や体の汗を拭き取った。


 いつもの日課を終えて漸く朝食の時間だ。さっさと食べて学校に向かおうと考えながら洗面所の扉を開けた途端、どたどたと豪快な音が届いた。

 音が発生する方向は階段。朝から騒々しいのは勘弁してもらいたいし、なにもそんなに慌てて降りてこなくてもとは思うが、降りてきた人物にその呆れを口にはしなかった。

 階段から降りた兄は、燕の姿を確認すると慌てて口を開く。


「燕! 今何時!?」

「……6時45分くらいかな 」

「ぁああああ!? まじかよ、もう出演しとるかもしれんやんか!」


 淡々とした返答に彼は更に青ざめる。大事件でも起きたかのような大袈裟な反応でリビングへと走り出した寝巻き姿の男は四兄の雄和。

 この春で高校二年になった陸上部のエースと言われ、大会でも多くの功績を修める有名な選手であるが、そんな彼は言わば『オタク』であった。この家ではほぼ禁止されている漫画やアニメ、ゲームにどっぷりと嵌っている。

 そんな彼が朝早くからここまで慌てているということを考えれば、何が起こったかなんて意外と分かりやすい。恐らく、応援している役者などが朝の番組に出るのだろう。


「雄和は元気だなー」

「あ、おはようございます、ギーグさん」


 雄和の後からひょっこりと顔を出したギーグに声をかければ、彼はカラカラと軽い調子で笑う。


「おはよー、ここは皆早起きだし、あいつはうるせぇな」

「アサレン? とやらがねぇ時くらいゆっくりすりゃいいのに」


 二人の言葉を肯定して燕はリビングに向かった。食卓に置かれた食パンの袋を開け、複数枚をトースターにセットする。

 食卓には既に朝食を終えたらしい信濃の姿はなく、代わりに庭で大量の洗濯物を干す姿が見受けられる。


「燕、あとで手伝って」

「分かった」


 六人分の衣類となれば、洗濯も一苦労で干すのだって楽じゃない。あの量を一人で干すのは時間がかかることは明らかだ。登校までまだ余裕はあることを思えば、手伝うことに文句はない。

 ギーグなどに手伝ってもらうことも考えたが、室内での家事ならともかく室外に出ると誰に見られるか分かったものでは無い、と取り下げになった。


 トースターがパンの焼き上がりを知らせる。こんがりきつね色に焼かれた熱いトーストにたっぷりとジャムをつけて口にする。

 その一方では、テレビの前を正座で陣取る雄和が朝食の用意もそこそこにきらきらと目を輝かせて画面を見つめていた。

 そこにはどうやら雄和が今最も応援しているモデルが映っているらしく、何度もモデルの名前を呟きながら時々妙な奇声を上げている。かっこいいだの素敵だの言う兄の様ははっきり言って奇妙だが、放置しておけばきょうだいへの被害は基本ないため放置である。

 食パン一斤を1人でほぼ食べ尽くし、食器をひとまず流しへ下げて庭に向かう最中ちらりと画面に目を向ける。そこには朝のワイドショーにゲストとして招かれたらしい金髪碧眼のとんでもない美形の外国人が、にこやかな笑顔で話しており、その姿に雄和は興奮する。どうやら彼がお目当ての男性らしいが、特に声をかけることもなく横を通り過ぎサンダルを履いて庭へ降りる。

 籠に溜まる洗濯物とハンガー等を手に取って順に干していく。自分達の使うジャージに、兄のシャツ。どれがどのペアか分からなくなりそうな靴下をピンチに挟んで吊るし、ひと仕事終えた。


「ありがと、助かった。あの状態の雄和は話しかけると面倒くさいから、燕が手伝ってくれてよかったよ」

「いいよ別に、これくらい」

「あぁそうだ、今日も僕練習で遅くなりそうだから、先にご飯食べちゃって。舞鶴に夕飯は頼むけど、出来たら燕も手伝ってあげて」

「わかった。……帰りに買うものはあるか?」

「洗剤かな。緑の箱のやつね。あとシャンプーがないからそれも」

「いいよ」


 信濃は学校の部活動には入っていないが、地元のスケートクラブに所属し練習に励んでいる。彼は地元で、いや、信濃は全国的に有名な選手であるため、例えシーズンオフだろうと多忙な日々を送る。

 つい先月大きな大会を終えた彼は非常にいい成績を収め、メディアでも大きく報じられ、母である双葉や、母方の祖父母の機嫌も非常に良かった。

 だからといって気は抜けず当然練習を怠る訳にはいかない。それだけでなく普段の練習以外にメディア等の仕事もあるらしく、彼はまた忙しそうだ。

 雄和もじきに忙しくなるのだろう、大事な大会で家を空けることだってあるだろう。彼等は優秀な選手だからこそ、多忙な兄達の代わりに家のことを熟すのも弟として大事な役目であろうと燕は考える。自分と比べれば二人の方が素晴らしい選手なのだから。

――本当は俺は部活よりも家のことをもっとやるべきなんだろうな……。

 そんなことを思うものの口にはせず、燕は一旦自室に戻り黒を基調としたブレザーへ袖を通し、鞄を抱えて家を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る