1‐2.怠惰な先輩は四面楚歌
「おはようございまーす」
「んあ……」
勢いよく開いた扉の音で一ノ瀬は目を覚ます。
後輩研究員の
時計の短針はもうすぐ真左になるころだ。そこで一ノ瀬は自分が寝てしまっていたことに気づいた。
「おはようございまーす! 先輩も、おはようございます」
「すまん、寝ちまった……」
二人係の勤務で片方を置き去りにうとうと、ついには夢の中。罪悪感に苛まれた。
そんな先輩を見て気を良くしたのか、常時ハイテンションの後輩が目をキラキラさせて顔を覗き込む。
「私は先輩の寝顔を拝ませてもらったので、全然気にしてないですけどね!」
「う……、マジか」
「写真も撮影済みです!」
そう言って慣れた手つきで撮った写真を見せつける。なるほど、たしかに一ノ瀬が机に突っ伏して目を閉じているのがしっかり捉えられていた。
「消しとけ……。
「じゃあ今度デートしましょう! それで全部ちゃらです!」
「えー……」
いいこと思いついた、とばかりに両手を合わせてテンションをさらに上げる。
双葉とは何回か二人で出かけたことがあるが、毎回決まって荷物持ちと長蛇の行列待ち、長時間の移動のトリプルコンボで疲労が尋常じゃない。自分の部屋に帰ったときには意識を失う直前だ。
白衣を着てロッカールームからちょうど出てきた小松に、助っ人を頼んでみる。
「小松、お前も一緒に来い。荷物持ち手伝え」
「いや先輩、自業自得ですって。お二人で楽しんできてください。ですよね、藤原さん」
「は……?」
小松はかなりドライな性格だ。研究員たちは上下関係をあまり気にしていないが、小松においては特に顕著。先輩に対してもはっきりものを言うタイプだ。だがそこがかえって憎めない部分でもある。
そんなことより、一ノ瀬は小松の最後の言葉に背筋を震わせた。小松の視線を追うと、そこには我らが研究所の所長、藤原が腕を組んでニヤニヤしていた。しかしその表情に反して怒っているのがはっきり分かる。
藤原は一ノ瀬の肩にそっと手を添え、
「よかったな、寛容な後輩をもてて」
と、怒りを無理やり押し殺して耳元でささやいた。しかし残念ながらロッカールームに入っていく後ろ姿からは、若干怒りのオーラが漏れ出てしまっていた。
普段はもっと優しくて良い人なんだが。
「諦めてデート行きましょう、次の休みの日に」
「分かったよ……」
四面楚歌になった一ノ瀬は、もうほとんど逃げも隠れも出来なかった。あとは梨乃だけ。連れてくるついでに、少しくらい甘えてみてもいいだろう。
そう思った矢先、その最後の頼みは部屋の扉を開き、蔑んだ目で一ノ瀬を見ていた。
「パパ、仕事サボって寝てたんだー。へー」
いつもよりもトーンが確実に下がっている。
「早く寝ろって言われてゲームも取られて、人に命令しておいて、パパは仕事をしないで寝てたんだー。へー」
「あ、いや、ちが……くはないけど……。えと……」
娘になじられて縮こまる父のシュールな画。双葉も小松も、支度を終えて戻ってきた藤原も、堪らず腹を抱えて爆笑だ。
「パパはどうすれば罪を償えますか」
「どうすればって……」
「今度デートしましょう。それで全部ちゃらです」
さっきの会話を聞かれていたのか、双葉の言葉をそのまま流用した。さすがに動きまでは真似せず、梨乃独自の人差し指を突き出すポーズ。
双葉はそれを可愛いとかなんとか言って騒いでいるが、一ノ瀬にとっては休みの日が勝手に予定で埋まっていく、はた迷惑な言動だった。
こうして一ノ瀬はついに四面楚歌、反抗の余地なしだ。
「分かりました……」
「やったー!」
「良かったねー、梨乃ちゃん!」
半強制的に承諾すると、梨乃は声をいつものトーンに戻して飛んで喜んだ。
双葉と梨乃が一緒に笑っている光景で嬉しくなってしまうのは、一ノ瀬の良いところでもあり、悪いところでもある。
そんな感じで研究員たちが和気あいあいとしていると咳払いが聞こえ、
「そろそろ始めてもいいか?」
口角を上げつつも眉間にしわを寄せた副所長の
「はい……」
怒らせると怖い藤原も、生田には頭が上がらない。学生時代は不良で、よく喧嘩をしていたという噂もある。
研究員たちは研究の他に、彼女のご機嫌取りにも力を注いでいるのだ。
一悶着あったものの、ようやくこの研究室のメンバー全員、研究員五人と少女一人が一堂に会した。
時計の短針は真左を向き、それを知らせる鐘が鳴る。定期更新の時間だ。
「さあ梨乃。準備してきな」
「はーい」
言われるがまま梨乃は駆けていき、
「一ノ瀬と双葉も、早く行け」
「あ、はい」
「はーい」
二人も梨乃についていく形で隣の実験室に向かった。
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