第1部 研究所

第1章 先輩と後輩、ときどき少女

1‐1.彼女たちは騒がしく、しかし可愛く

「おやすみ」


 寝室のベッドで寝る娘の梨乃の髪を撫で、リビングへと戻る。

 あるのは様々な家具家電と、遊びっぱなしで散らかった豊富な遊び道具。それに夕食で使った食器たち。


 梨乃は食欲旺盛で、作った料理は跡形もなく梨乃の胃袋へと消えていく。残るのはきれいになった皿と食欲が満たされた幸福感だ。

 その余韻を少し分けてもらいながら、父の一ノ瀬は皿を洗い、その他諸々の後片付けを終えて家を出る。


 向かったのは、家から五分ほどのところにある勤務先、研究室のとある一室だ。


「おかえりなさーい」


「おう」


 扉を開け、先に勤務していた後輩の双葉の隣に座る。今晩はここから明け方まで、二人が交代で作業をすることになっていた。


 席の前のモニタを覗き込み、映し出されているものを報告書に書いていく。


「また、か……」


「そうみたいですね。この一週間はずっとです。今回はずいぶん悪ガキなやつ引っ張ってきましたね」


「ああ……。次が良いやつになるのを祈るしかないな」


 大きなため息を一つ吐き出して、作ったインスタントコーヒーを口に含む。


「一年もやってると、さすがに先輩も家事が一通りできるようになってきましたね。これなら私と一緒になっても大丈夫ですよ」


「からかうなよ……」


「からかってないですよ。割と本気ですー」


「よく飽きないな……。考えとくよ……」


 このやりとりは二十代後半の独身同士が勤務のたびに毎回行う、いわば二人の恒例行事だ。

 毎回やってるせいで、彼女の一ノ瀬に対する結婚願望がどこまで本気なのかは、もう見極める気力さえ失っていた。最近では「考えとく」の一言で終わらせている。


 別に双葉のことが嫌いというわけではない。ここ数年会った女性の中では一番顔立ちが整っているし、無邪気な笑顔の中に少しだけ大人っぽさもある。

 あまり喋らない一ノ瀬とは正反対の性格はそれだけで魅力的で、むしろ好意を抱いているが、もはや幼馴染に近い関係になってしまっているのが問題だった。



 双葉とは大学のサークルで一緒になった。前の会社でも同じ部署で、ペアを組んで仕事をしていた。

 今の研究所に異動になるときも、その一ノ瀬と双葉はペアとしてまとめて異動することになったのだ。

 結果、初顔合わせから今まで、すでに十年近く経っていた。双葉のことは元気な妹のようにしか見れないのが、最近の一ノ瀬だ。


「もうそんな目で見れないよなぁ……」


「何か言いました?」


「いや何も」


 独り言が聞かれてしまったらしいが、何を言っていたかまでは聞き取れなかったようで、一ノ瀬は胸をなでおろす。


「で? あいつはまだゲームやってんの?」


「あ、はい。布団に潜ってるみたいですけど、残念ながら光が漏れちゃってます」


「何してんだか……」


 半ば呆れながら、重い腰を持ち上げて研究室の部屋を出る。


「いってらっしゃーい。……あ、今の夫婦っぽいかも!」


「うるさい……」


 おかえりなさいのときは違うのか、と思いながら、きゃー、と頬を手で押さえる双葉を軽くあしらい、一ノ瀬はモニタに映る場所——梨乃のところへと向かった。



   *   *   *



 梨乃の部屋のドアを開けると、ベッドの上で丸くなっている布団がビクリと跳ねた。


「まさか起きてないよなー。梨乃は良い子だもんなー。寝てたら返事してくれー」


「梨乃、ちゃんと寝てるよ。……あ……」


 やらかした、みたいなくぐもった声が布団の中から小さく聞こえた。

 その音源の状態を確認すべく布団を引き剥がすと、少女が申し訳なさそうにゲーム機を抱えていた。


「早く寝ろって。明日は定期更新の日だぞ」


「だって、面白いんだもん。ていうか、これを梨乃にくれたパパが悪い!」


「俺のせいかよ……。いいから、もう寝な」


 ゲーム機を取り上げようとすると、梨乃は口を尖らせながら渋々差し出し、自分で布団をかけ直した。


「おやすみっ!」


「おやすみ」


 挨拶を聞くに、やっぱりゲームを止めさせられたことに怒っているのかもしれない。

 それをちょっと可愛らしく思いながら、再びさっきの部屋へと戻った。


「梨乃ちゃんに怒られちゃいましたね」


「しょうがないだろ……」


 帰るなり、モニタで見ていた双葉がケラケラと笑って楽しんでいた。さっきもカメラの向こうで見ながら笑っていたに違いない。


「梨乃にくれたパパが悪い! ですって! 可愛いー!」


「それはもういいから。ほら、明日の準備するぞ。明日は大変だからな」


 うっとりした顔で体をくねらせるバカ後輩のテンションを無視して、一ノ瀬は明日の作業の準備に入る。夜中は梨乃も寝ているはずだし、朝までの暇を有効活用できる。


「はーい……」


 双葉も梨乃と同じように口を尖らせて手を動かし始めた。


「そういうところは子どもっぽくて可愛いんだが……」


「あ、先輩今可愛いって言いました!? 私のこと可愛いって!」


「言ってない言ってない! 気のせいだ! 口じゃなくて手を動かせ、手を!」


 この後輩、うるさいだけじゃなくて、自分に都合のいいものだけ聞き取る、謎の地獄耳でもあるようだ。


 同じようなやりとりを何回も繰り返しながら、二人は一晩、パソコンに映るプログラムと監視カメラに映る梨乃を交互に睨み続けた。

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