第1章 組織の新たな憂鬱⑦

 朝の海。

 穏やかな波の上を、プレジャーボートが滑るように進んでいく。

 操縦席にはアル美の姿。まだ借りてきてから日の浅い船だが、勘の良いアル美は、すでにこの船の操縦に慣れ始めていた。舵の切り方も堂に入っている。

 ただ、落ち着いた操船姿とは裏腹に、表情はどこか憂いを帯びていた。こうしている間にも、シロの変異は進んでいるに違いない。ジリジリと身を焦がすような焦燥感は隠しようもない。

 手は自然と、ポケットに忍ばせている、思い出の品に伸びていた。

 それは、アル美がまだ小さかったころ、父親にせがんで買ってもらった犬笛。どんなに遠くに行ってしまっていても、アル美がそれを吹けば、シロは駆け戻ってきてくれた。

 幸せの記憶がよみがえるのが辛くて、ずっと引き出しの奥にしまい込んでいたのだが、シロと再会したのを切っ掛けに、お守りとして持っておくことにしたのだ。

 ただ、自身の思いとは別の憂いもあった。人が住めない危険地帯と化した島に、無関係の生き物を放すという行い自体の是非である。巨獣の正体を解明し、島を取り戻すという切実な目的があるとはいえ、罪悪感は消せそうにない。

 ボートでけん引している艀の上には、ブルバスターが片膝立ちで鎮座している。

 コックピットには、パイロットスーツ姿の沖野。足元には、ハツカネズミが入れられたケージが置かれている。

 渚は波止を出る間際、「ネズミに装着したアルゴス送信機のデータは、リアルタイムで私のスマホに送られるようになっています」と言っていた。

 今も問題のネズミが、龍眼島に移送されていることを把握しているだろう。

 データの受診は、シオタバイオのパソコンなどを経由して行われているわけではないとのことなので、猪俣をはじめとする会社の人間に発覚する恐れはほとんどないとも説明していた。

 しかし、沖野には別の不安要素があった。

 ブルバスターの稼働限界である。

 ハツカネズミを放つポイントは、なるべく島の北西部。北神湖の近くであることが望ましい。というのも、アオコが検出されたという事実から、巨獣の謎を解く鍵は、湖にあるとあたりをつけている。ネズミの移動速度を考えると、できる限り核心に近づいた状態で実験を始めたいというのは当然の考えである。

 なるべく湖に近づくのは、別の生き物に襲われる可能性をなるべく低くするという狙いもある。虎の子の一匹が、旅の途中で巨獣や野生動物にパックリいかれてしまっては元も子もない。

 そうした理由で、ブルバスターは上陸後、住宅街を突っ切り、島の北部に広がる森林地帯の中心部まで進まなければならないのだが、ブルバスターの連続稼働時間は、フル充電で六十分。

 行って戻ってくるだけなら十分足りる計算だが、森の中心部は有毒ガスが発生している可能性もある。そのため、コックピットの空気清浄フィルターは、常に稼働させておかなければならない。

 普段以上に、電力消費が激しくなることは間違いない。

 そんな状況下で、もし大型巨獣にでも遭遇したら……。

 機関砲を撃って、その場から退散するのが精一杯だろう。大量の電気を流し込む必要がある必殺の武器、スタンショットを充電するだけの余裕があるとは到底思えない。

 島に実験用のネズミを放す。言葉にすれば、限りなくシンプルなミッションに思えるが、現実はそれほど甘くない。

 ギリギリの制限時間。毒ガスに取り囲まれる恐怖。そして、巨獣出現の可能性。沖野は、操縦桿を握る手に、じんわり汗がにじむのを感じた。


 龍眼島・南東部の港。

 アル美が操船するプレジャーボートが接岸する。

 操縦席から護岸に飛び移ったアル美が、手際よくボラード(係船柱)に船をもやう。

 その間に、沖野はブルバスターを操り、艀の上から島に乗り移らせた。上陸動作は、社屋前の桟橋で日頃から練習しているので、危なげはない。

「沖野、行きます!」

 往年のロボットアニメを思わせる合図を口にして、ブルバスターを港から島の幹線道路へと向かわせる沖野。

 その声は、ヘッドセットを通じてアル美にも届いていた。

「了解。気を付けて」

 短い応答だったが、いつもぶっきらぼうなアル美が、自分のことを心配してくれているのがうれしく、沖野は小学生のように元気な「はい!」で答えた。

 ただ、電力不足を心配しているにもかかわらず、余裕を見せるためにブルバスターの腕を振ってみせたのは、完全に余計だった。

 腰に手をあて、呆れた様子でそれを見送るアル美。

「まったく……」というつぶやきが漏れ掛けたが、ネガティブな発言は気分屋の沖野に逆効果であることも分かっている。今は、お調子者の後輩が、無事に任務を終えて帰ってくるのを待つしかなかった。


 島を東南から北西へと貫く幹線道路を、ブルバスターが滑るように進んでいく。

 機体の足の裏からせり出した車輪を使い、車を運転するような感覚で操縦できる装輪走行モード。その安定性と快適さは、ブルバスターの開発者である沖野自身が、特にこだわった部分だった。

 三叉路をいくつか抜け、住宅街や点在する集落を越えた先に、問題の森が見えてきた。

 やがて、うっそうとした樹海に沿うように続く丁字路に差し掛かる。沖野は、そこを左折して数百メートル進んだ地点で、ブルバスターを停止させた。

 北神湖に続く道はないため、ここからは歩行モードに切り替えて、森の中を突っ切っていくことになる。

 沖野は、作業の進捗状況を伝えるため、港で待機中のアル美に呼び掛けた。

「アル美さん、今、森への侵入ポイントに到着しました。これから、歩行モードに切り替えて、ネズミのリリースポイントに向かいます!」

 ヘッドセットから、「了解」というアル美の短い応答が聞こえてきた。

 交信を終えた後、改めて目の前に広がる森に視線を向ける沖野。

 この森の威圧感には、いまだに慣れることができなかった。

 手つかずの自然に対する畏怖もあるが、それ以上に、この森には来る者を拒むような異境感があった。不気味であると同時に、神聖さも感じる。

 沖野は、不可侵の聖域に足を踏み入れるような緊張感を覚え、ゴクリと唾を飲み込んだ。

  ドゥイーン、ドゥイーンという歩行音を響かせながら、木々をかき分けて進んでいくブルバスター。

 予想していたこととはいえ、歩行モードでは極端に移動スピードが落ちてしまう。

 ここまでの所要時間は、二十分。帰路のための余力を残しておくことを考えると、もたもたしている暇はない。

 森の中を百メートルほど進むと、背の低い草木に覆われた、やや開けた場所に出た。地図や航空写真を見る限り、そんな場所はなかったはずだが、うっそうと茂る木々を避けながら進む手間を考えると、その空白地帯はありがたかった。

 少しでも時間を短縮するため、迷わずその広場に機体を進ませる。

 と、数メートル踏み行ったところで、沖野は操縦に違和感を覚えた。

 歩行モード時は、パイロットスーツの脚部と連動したペダルを踏み込むことで、機体を前進させるのだが、先ほどまでの滑らかな動きが嘘のように、妙な引っ掛かりを感じるようになったのだ。

 言うなれば、吐き捨てられたガムを踏んだまま歩いているような違和感。歩くたびに、ネバっとした感触に足を取られる、嫌な感覚だった。

 何だろう?

 ARディスプレーを操作し、ブルバスターの足元を確認してみる。

 すると、単なる草原だと思っていた地面から、ジワリと泥水が染み出しているのが分かった。

 ぬかるみ?

 確かにここ数日、ぐずついた天気が多かったが、水溜まりを作るほどの大雨は降らなかったはずだ。だとしたらこれって……。

 沖野は、不思議に思いながらも、とにかく早くここを抜けてしまおうと、歩く速度を速めた。が、前に進めば進むほど、足に伝わる違和感は大きくなっていく。

「何だよ、コレ!」

 思わず悪態をつく沖野。

 それを聞いたアル美が、即座に反応する。

「どうしたの?」

 沖野が、ヘッドセット越しに状況を説明する。

「予定通りに森の中を進んでいたんですけど、妙にぬかるんでいる場所があって。でも、こんなところに、湿地帯なんてありましたっけ?」

 装着したヘッドホンから、バサリと紙を広げるような音が聞こえてきた。アル美が、船に積んであった島の地図を広げたらしい。

 その地図は、波止の司令室に貼られているのと同じもので、島全体が碁盤目状に細かく区分けされ、それぞれに数字や記号が割り振られているはずだった。巨獣の出現場所などを、速やかに把握するためのものだ。

 それを見ていると思われるアル美から、確認が入る。

「今、どのあたりにいるの?」

 沖野は、ARディスプレーに表示された記号を読み取り、アル美に伝えた。

「××××のポイントです!」

「小学校の西、湖から百メートル付近ね?」

「そうです!」

「おかしい。そんな場所に、湿地帯なんてない」

 元島民であるアル美が断言するのだから、その情報に間違いはないだろう。ということは、島民が避難した後、最近新たにできた湿地ということだろうか。

 だとしても、湿地帯ってのは、そんな簡単にわいて出てくるものなのか?

 沖野の背中に冷たい汗が流れ落ちる。

 アル美との更新中も、ブルバスターを前へ前へと進ませていた沖野だったが、ぬかるみを抜けるどころか、ますます深みにはまってしまっていた。

 ブルバスターの巨体とパワーがあれば、ぬかるみなどすぐに越えられる。その考えが甘かったことに、今更ながら気付く。

 改めて、ARディスプレーに目を凝らすと、草木は奇妙な色に変色し、地面自体も他の場所とは違う、どす黒い光沢を放っている。

 そこでふと、いつかネットで見たネイチャードキュメンタリーを思い出す。その番組は、火山地帯に湧く温泉のメカニズムを解説したものだったのだが、沖野が興味を覚えたのは、その本題よりもガスが地上に噴き出す仕組みだった。

 番組によると、火山性ガス、つまり硫化水素や亜硫酸ガスは、岩盤の割れ目を伝って、思い掛けない場所に噴き出すことがあるらしい。

 だとすると、この場所は、島を蝕んでいる有毒ガスと何か関係があるのかもしれない。

 一瞬、そんな想像がよぎった沖野だったが、今はぬかるみ発生のメカニズムを解明している場合ではない。一刻も早く、目の前の危機的状況を回避する方法を考えなければ!

 しかし、これ以上、前に進むことはあきらめざるを得なかった。この先、ぬかるみがどれくらい深くなっているか分からない。抜けるより戻る方が確実だ。

 そう判断した沖野は、とりあえず与えられたミッションだけは完了させておこうと、この場所でネズミを放すことにした。

 アル美に相談したら、確実に止められるような思慮不足の行動だったが、ぬかるみに足を取られた時点で、すっかり動転してしまっている沖野は、自分でも気付かないうちに正常な判断ができなくなっていた。

 パイロットスーツと機体の接続部を切り離し、床に置いてあったケージを拾い上げる。

「ここでネズミを放します!」

 ヘッドセットにそう声を吹き込んだ沖野は、アル美の応答を待たずにハッチを開き、地面に飛び降りてしまった。

 ジュポン。

 着地した途端、奇妙な音と共に足を取られる。その弾みでヘッドセットが吹き飛んでしまった。

 慌てて拾い上げたものの、全体が泥まみれ。

「アル美さん、応答願います!」

 と呼び掛けても、聞こえてくるのは、ザーというノイズだけだった。

 交信をあきらめ、とにかくネズミを放してしまおうと、ぬかるみの外に向かう沖野。が、思うように足が進まない。

 いや、進まないというより、泥に埋もれた足を引き抜くだけでも難しい。懐かしのテレビ特集で見た、池の水を抜く番組の映像を思い出す。

 水を抜いた後のヘドロの中に足を踏み入れたアイドルが、キャーキャー大騒ぎしているのを見て、「何を大袈裟な」と鼻白んでいたが、今なら騒いでいた理由が分かる。確かに、前に進みたくても進めない。

 数十秒掛かって、ようやく右足をぬかるみから引き抜いた沖野だったが、その拍子にバランスを崩し、脇に抱えていたケージを放り出してしまった。

「ああっ、まずい!」

 思わず悲鳴を上げる沖野。しかも、地面に落ちた衝撃で、ケージの蓋が開き、中からネズミが飛び出してしまった。

 ぬかるみに沈んじゃう! すぐ助けなきゃ!

 ますます慌てふためいた沖野だったが、救助対象者であるはずのネズミは、沖野の心配などどこ吹く風。ピョンピョンと軽快な足取りで泥の海を飛び越え、あっという間に森の奥に姿を消してしまった。

 自由を得たネズミが、湖の方角に向かってくれたことが、せめてもの救いだった。

 思っていた計画とはまるで違ってしまったものの、ミッションそのものは達成できた。あとはブルバスターで帰還するだけ。

 沖野が、そんな楽観的な展開を思い描いていると、不意に鼻腔が刺激された。

 どこからともなく、アオコのような異臭が漂ってきている。

 クサッ!

 思わず鼻をつまみかけたが、手が泥だらけであることに気付き、直前でストップを掛ける。

 ミッションは達成したし、こんな場所からは、さっさとおさらばしよう。

 そう考えてブルバスターの方に体の向きを変えた瞬間、頭上のコックピットからピーッ、ピーッ、ピーッというアラーム音が聞こえてきた。

 その音が何を意味するか思い出し、ハッと息をのむ沖野。

 それは、ブルバスターに搭載した臭気センサーが、有毒ガスを検出した際に発せられる警告音だった。

 鼻で感じている臭いは、アオコが放つ特有の腐敗臭で間違いないはずだ。だが、臭気センサーが反応したとなると、全島避難の直接的な要因となった有毒ガスとアオコに、何らかの関係があるということだろうか……!?

 有毒ガスの発生原因を解明するヒントになりそうな想像が、沖野の脳裏をかすめたが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。

 とにかく、コックピットに戻らなければ!

 中に入ってしまえば、チタン合金耐圧殻と複合積層装甲によって完全密閉されたブルバスターのボディーが、あらゆる有毒物からパイロットを守ってくれる。

 しかし、機体に這い上がろうとしても、ぬかるみに埋没した足がなかなか抜けない。その間も、ピーッ、ピーッという耳障りな警告音は鳴り続けている。

 それでも、機体脚部の出っ張りによじ登り、何とか体をぬかるみから引き上げることに成功した。

 泥まみれの体で機内に入るのは気が引けたが、命には代えられない。

 沖野は、コックピットに滑り込むと、すぐさまハッチを閉め、空気清浄フィルターを作動させた。稼働レベルはマックス。操縦席内にこもっている有毒ガスも、一気に機外に吐き出さなければならない。

 すると、数秒もたたない内に、耳障りなアラームが鳴り止んだ。ARディスプレーを確認すると、『外気の毒性に注意』を意味する警告ランプが点灯していた。しかし、警告音が止まったということは、コックピット内部の空気は浄化されたということだ。

 喫緊の窮地はどうにかしのげたものの、危機的状況が完全に回避されたわけではない。事実、沖野は、機体が右前方に傾きかけていることに気付いていた。

 右脚部が爪先方向に沈み始めている!

 完全に抜け出せなくなる前に、この得体の知れないぬかるみから脱出しなければ。慌てて左脚部に力を込める。

 しかし、今度は左足まで深く沈み込んでしまった。

 おい、おい、おい、おい! このぬかるみは、底なし沼かよ!!

 設計者として認めたくなかったが、ブルバスターには大きな弱点がある。

 極端に水に弱い。

 水没などもってのほかであることは言うまでもないが、足元が水に浸かっただけでも、大幅にパフォーマンスが落ちてしまう。粘りけのある泥水ならなおさらだ。

 しかし、沖野にしてみれば、「そこを責められても困る」というのが正直なところだった。元々ブルバスターは、対陸上生物との戦闘に特化させた機体。

 地上における戦闘では、最高の性能が発揮できるよう設計した。なぜなら、そういうロボットを作ってほしいという依頼だったから。そもそも、水辺での戦闘など想定されていないのだ。

 性能の話はさておき、今は一刻も早くこの窮地から脱出しなければならない。そう考えてもがけばもがくほど、機体はぬかるみにはまっていく。

 沖野の背中に、冷たい汗が伝い落ちていった。

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