第1章 組織の新たな憂鬱⑥
同じころ、シオタバイオの研究室。
小型巨獣は、相変わらず檻の中を徘徊していた。
口からよだれを滴らせ、低いうなり声を上げているのも運び込まれた当時と同じだ。
しかし、ふとした瞬間に、姿が見えない飼い主を求めるように首を上げてしきりに周囲の臭いを嗅ぎ、時には盛んに尻尾を振るような仕草も見せている。
その様子は、体を蝕み続けている何かに、必死に抗っているようにも見える。
再び波止工業の応接コーナー。
渚が説明を続ける。
「それと、先日ご説明した緑色の物質ですが、正体が判明しました」
アル美はグッと身を乗り出して、「何だったんです?」と続きを促した。
「アオコという藻の一種です」
何か未知の物質や、地球にあってはならない危険物質ではないかと、勝手に身構えていた沖野は、明らかに拍子抜けした様子でつぶやいた。
「藻……ですか」
「はい。アオコというのは、富栄養化した湖沼で発生する植物プランクトンで、毒性があるものも存在します。例え毒性がなかったとしても、大量発生することで生態系や自然環境にダメージを与え、ときに動物や人間にも影響を及ぼします」
夏場、汚れた沼や溜池に浮いている緑色のアレか。ロボット工学以外の分野に疎い沖野にもすぐ想像できた。
「龍眼島で水場っていうと……」
沖野の疑問に、アル美が答える。
「北神湖。龍眼島でアオコが発生するような水場は、そこだけです」
それは、島の北西部に位置する島唯一の湖沼。龍眼島は、上空から見た島のシルエットが、龍に似ているところから付けられた呼び名だと言い伝えられているが、北神湖は、その〝眼〟に当たる部分だ。
島民たちの間で語り継がれている民間伝承『龍眼島伝説』でも、重要な役割を果たしている場所である。
渚も、北神湖にあたりをつけていたらしく、アル美に同調する。
「アオコの発生源がその湖に限られるとなると、シロ君もそこに足を踏み入れていた可能性があります。これはあくまで推測ですが、湖に何かあるのかもしれません」
渚が口にした〝何かある〟とは、巨獣の出現メカニズムに繋がる何か、という意味であることは沖野にも察しがついた。が、回転の早いアル美が、先回りして沖野に言う。
「プライオリティを変えた方がいいかもしれない。電力の被害状況より、湖の調査を優先させよう」
沖野も同じことを考えていたようで、
「そうですね。社長たちが戻ってきたら、すぐに提案しましょう」と頷く。
そこまで話が進んだところで、渚が言いにくそうに割って入った。
「あのっ、これは私の勝手なお願いなんですが、その調査、今すぐにというわけにはいかないでしょうか?」
渚がなぜ急にそんなことを言いだしたのか、特別な事情があると感じたアル美が、真剣な表情で尋ねる。
「どういうことですか?」
しかし、自分から話を切り出しておきながら、余程の事情があるのか、渚は瞳を左右に揺らして口をつぐんでしまった。話していいものか否か、逡巡しているらしい。
再びアル美から「水原さん」と促されたことで、ようやく踏ん切りがついたのか、渚は話を続けた。
「実は、今こちらにおうかがいしていること自体、私の独断で、会社には言ってないんです」
アポなしで突然やってきたのは、そのせいもあってのことだったのだろう。しかし、独断というのはどういうことか。
沖野が「というと?」と事情を尋ねると、渚は手元に視線を落とし、うつむきながら説明を始めた。
「こんなこと言うの、恥ずかしいことなのですが……。弊社は仕事の効率化を最優先事項にしていて、社員全員が、すべての行動を管理されています。スケジュールはもちろん、研究室への出入りも細かくチェックされていて、お昼休みでさえ自由がきかないんです」
沖野たちの後ろで話を聞いていたみゆきが、まさか、そんな! という驚きで口元に手をあてる。特に〝昼休みに自由がない〟という部分に衝撃を受けたようで、信じられないという表情を浮かべている。食いしん坊の自分には、とても耐えられそうにないということだろう。
みゆきのショックはさておき、渚の話は続いた。
「そんな仕組みもあって、イレギュラーな案件は必然的に後回しにされてしまいます。それに加えて、巨獣は単に変異した害獣というのが社としての認識ですから、優先順位はさらに下げられてしまう。猪俣を含め、ウチの研究員で巨獣の危険性を正しく認識している人間は、皆無といっても過言ではありません」
渚は、そこでいったん言葉を句切ると、床に置いていたアタッシュケースを膝元に引き上げ、中から小さなケージを取り出した。
透明なアクリル板で覆われたそのケージの中には、白くて小さい生物が一匹だけ入れられている。
テーブルに置かれたそのケージをのぞき込んだみゆきが、驚きの声を上げる。
「その子、ネズミですか!?」
渚は頷くと、「研究用に実験室で飼っているハツカネズミです」と答えた。
さらに、ネズミの胴体に巻かれた黒いベルトを指差しながら解説を加える。
「このベルトには、小型カメラと送信機が付けられています。会社から無断で持ち出してきました」
ケージの中で盛んに動き回るネズミに目を奪われていた沖野だったが、穏やかならざるワードを耳にして、パッと顔を上げた。
「えっ、無断って!」
沖野からそうただされても、渚に動揺する様子は見られなかった。持ち出そうと考えた時点で、すでに決意は固まっているのだろう。淡々と経緯を説明する。
「稟議が通るのを待っていたら、何年掛かるか分かりません。まったく別の案件ですが、海東大学に生体の追跡システムを導入するのが、たまたま今日だったんです。その中の一台を拝借してきました」
渚の大胆な行動にがくぜんとする沖野。心配のあまり、口調が強くなる。
「バレたらどうするんです!」
それでも渚の語り口に変化はなかった。あくまで冷静に切り返す。
「懲戒処分になるでしょうね。でも、覚悟の上です。それよりも……」
渚はそう言いながら、ネズミの腹側に装着された小箱を指差した。
「これは、アルゴス送信機といって、動物の生態を調査するのに用いられるシステムです。このハツカネズミを島に放って、行動を追跡したいと考えています」
渚の狙いが分かった沖野が、確認の意味を込めて尋ねる。
「あえて巨獣化させて、そのプロセスを見るってことですか?」
渚も、その実験の危うさを認識しているのだろう。硬い表情で頷くと、研究者としての目論見を語った。
「ネズミのお腹に巻いたバンドには、収縮性があるので、一mくらいまでなら巨大化しても問題ないはずです。とにかく、変異の過程が少しでも掴めれば、巨獣の発生メカニズムに近づけるんじゃないかと」
そこまで一気に話すと、渚はチラリと腕時計に目をやった。その途端、ハッとした表情を浮かべ、慌てた様子で立ち上がる。
「すみません。もう出ないと。勝手なお願いであることは重々承知していますが、調査の件、お願いできませんか?」
アル美は、即座に「もちろんです」と答えると、沖野に視線を送った。
それが、同意を求める合図と気付いた沖野も、強く頷く。
「できますとも! むしろ、こちらからお願いします。その調査、ぜひやらせてください!」
それを聞いた渚は、心底ホッとした表情で、「ありがとうございます!」と頭を下げた。
沖野は、急いでいる様子の渚を気遣い、事務室の出口に彼女を促しながら、冗談めかして言った。
「でも、この場に片岡さんがいなくて良かったですよ。あ、片岡さんっていうのは、融通が利かないウチの経理担当で、決まりに反することには、有無を言わさずノーを突きつけるような人なんです」
渚を見送るため、事務イスから立ち上がってついてきたみゆきにも、一応念を押す沖野。
「みゆきさんも大丈夫ですよね?」
もちろんとばかりに頷くみゆき。調査の件は、この場にいる人だけの秘密。聞かれなくても、最初からそうすると決めていたようだ。
アタッシュケースを抱えた渚が、事務所のドアを出たところで、改めて礼の言葉を口にする。
「ありがとうございました。どうか、よろしくお願いします」
沖野は、不安げな渚を元気づける意味もあってか、ニカッと笑って、ドンと自分の胸を叩いた。
「任せといてください! ここからは、僕らの仕事ですから。これで巨獣の生態解明に一歩近づけると思うと、ワクワクします!」
すぐ後ろに控えていたアル美は、沖野の軽口には反応せず、気になっていたことを尋ねた。
「水原さん。なぜ、こんなリスクまで犯して、私たちに協力してくれるですか?」
渚は一瞬、言うか言うまいか、迷うような素振りをみせたが、すぐに踏ん切りがついたようで、アル美の目を見ながら口を開いた。
「御社のために、ということではありません。これは、私自身の問題なんです」
理由が飲み込めず、アル美が問い返す。
「あなた自身の?」
「はい。分からないことを分かるようにする。それが研究者の使命だと思っていますから。その考え方は、会社に入る前も、入った今も、変わっていません」
アル美は、その言葉の裏に、彼女なりの深い思いがあることを感じ取った。と同時に、みなまで聞かずとも、気持ちは理解できるような気がした。
初めて顔を合わせてから数日。アル美は、親しく言葉を交わしたわけでもない水原渚という女性に、不思議な共感を覚えている自分に気付いた。
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