第1章 組織の新たな憂鬱⑤

 夕方。沖野は市内の病院にいた。

 手には、レジ袋を提げている。

 袋の口から、バナナの柄やヨーグルトのふたが見えていることから、どうやら入院患者への差し入れのようだ。

 長い廊下の先、一番奥の病室の前で立ち止まった沖野は、入り口に掲げられたプレートに目をやった。そこに書かれた四人の名前の中に、『武藤銀之介』の文字を見つけると、開けっ放しになったドアから、室内に歩を進める。

 四人部屋の右奥、窓側の一画が武藤のベッドらしい。

 沖野は、「武藤さん、起きてます?」と声を掛けながら、パーテーションを開いた。

 中では、武藤がイヤホンを耳に突っ込んで、ラジオを聞いていた。

 武藤の姿を確認すると、沖野は改めてあいさつの言葉を口にした。

「こんちわっす」

 武藤は、沖野に気付くと、「おう!」と右手をあげてあいさつに応えた。

 窓から差し込んだ夕日が、室内をオレンジ色に染めている。病院自体が高台に位置していることもあって、カーテンを閉じないとまぶしいくらいだ。

 窓からは、海が望める。遠くには、龍眼島の島影が見えた。

「調子、どうですか?」

 沖野はあえて軽い口調で尋ねた。骨折してから数日しかたっていないので、まだ調子も何もないことは分かっているのだが、病は気から。見舞い相手を元気づけるための気遣いだった。

 そのニュアンスを感じ取ったのかは分からないが、武藤も軽口をたたいた。

「どうもこうもねぇよ。足以外はピンピンしてるんだ。退屈で仕方ねえ。だいたい、足首の骨折くらいで大袈裟な。医者のヤツ、儲けたいからわざと入院させてるんじゃねぇか?」

 確かに、夕日に照らされていることもあって、武藤の血色はすこぶる良く見える。とはいえ、武藤の性格だ。入院でもさせておかなければ、どんな無茶をしでかすか分からない。

 沖野は、「まあ、まあ」と言って、二回りも年上の先輩を、やんわりたしなめた。ただ、人を諭すようなことを言った割に、言葉に覇気が感じられない。

 それに気づいた武藤が問いただす。

「何だよ。見舞いに来た方が、元気ないじゃねぇか。俺っていう軸が抜けたことが、そんなにこたえてんのか?」

 しかし、武藤の思惑とは裏腹に、沖野は冗談に乗ってこず、何か嫌なことでも思い出したように、「はぁ~」とため息をつきながら返した。

「違うんですよ。武藤さんがどうって話じゃなくて、要は人員の問題なんです」

「何だよ、それ」

「あ、でも、元をただせば、やっぱり武藤さんのせいってことにはなりますね。武藤さんが、いい年こいて、骨折なんてするから」

 あまりの言い草に、武藤が憤慨する。

「いい年こいて、とは何事だ! 俺だから骨折くらいで済んだんだぞ! お前のようなヒョロヒョロじゃ、大人の男を担いで巨獣から逃げ切るなんて芸当、できなかっただろうが!」

 武藤が言う〝大人の男〟とは、立ち入り禁止の龍眼島に入り込み、巨獣に襲われたユーチューバーのことである。武藤の怪我は、民間人を救出するために負った、名誉の負傷と言える。

 そこで、ふと気づいた武藤が、沖野に尋ねた。

「そういえば、あのときのヤツ、どうなった?」

「ああ、あのユーチューバーだったら、大丈夫みたいですよ。頭の怪我もたいしたことないって。襲ってきたのもクマだと思い込んでいるみたいだから、放っておいても問題ないでしょう」

「そうか」と武藤が頷く。

 そこで一拍間を置いた沖野が、みゆきから電話で聞いたばかりの、聞き捨てならない情報を口にした。

「それで、武藤さんの穴を埋めるようなかたちで、新しい人が来ることになったらしいんです」

 四人部屋の病室ということで、ある程度配慮していた武藤だったが、意外な話を聞かされ、思わずトーンが上がる。

「えっ、マジ!? ウチの会社、そんな余裕あったのかよ! だったら、俺らの給料上げてくれって話じゃねぇか!」

「それが、給料はウチが払うわけじゃないみたいで」

「はあ? どういうことだ」

 寝耳に水の話に混乱気味の武藤に、沖野が説明する。

「塩田化学から、研修の名目で新人が来るらしいんです。期間は一か月。で、その間の給料は、あっちが持つって話で」

 みゆきからの又聞きなので、契約うんぬんの話は定かではないが、沖野は同じ職場にいながら、自分と違う給料体系であることに、違和感を覚えずにはいられなかった。

 いっぽう武藤は、〝自分の穴を埋めるかたち〟と聞いて、別の部分に引っ掛かっていた。

「塩田の研修って! そんな青臭い新人、ウチの現場じゃ使いもんにならねぇだろ」

 沖野は、その通り! と言いたいところだったが、不満気に口をとがらせながら、みゆきから聞きかじった情報を伝える。

「何でも、船舶免許を持ってるらしいんです。社長と片岡さんの話し合いでは、それが決め手になったみたいで」

 実は沖野は、自分も近々船舶免許を取ろうと考えていた。取得のために必要な費用が用立てられず、胸の内に秘めたままでいたのだが、最初から持っている新人が現れたとなれば、取得の価値もインパクトも薄れる。それが不満なのだ。

 武藤は武藤で、要はブルバスターの運搬係ということか……と解釈した。その程度のことで、俺様の穴を埋めようなんて片腹痛いぜ! などと、余計な対抗意識を燃やしている。しかし、自ら同じリングにあがっている沖野と違って、すっかり上から目線になっていた。

「つまり、研修って名目で、給料の心配もせず、使いっ走りにするってことだな。片岡のおっさん、相変わらず腹黒いぜ」

 まだ見ぬ新人を、勝手におとしめてみたものの、沖野にはまだ、腹に抱えたものがあるようで、「まあ、それはそうなんですけど」と口ごもる。

「何だよ。不満そうじゃねぇか」

 武藤にそう促されると、沖野は一番引っ掛かっていたことを吐き出した。

「そいつ、大卒らしいんですよ。一流の」

 それを聞いた武藤が、脱力しながら、沖野にシラっとした視線を送る。

「んあ? お前、そういうこと気にするヤツだったの?」

 コンプレックスを鼻で笑われた沖野は、子供のようにプッと頬を膨らませて、黙り込んでしまった。


 二日後。

小型巨獣をシオタバイオに移送してから四日目の朝。

 約一日半の強制休暇を与えられた沖野にとっては、待ちに待った出勤日だった。その間、やったことといえば、蟹江技研の資料室にこもっての自習と、武藤の見舞いくらい。

 無駄に過ごしたとはいわないが、島の電力復旧という目標ができた今、もどかしい時間であったことは確かである。

 幸いにも、沖野とアル美が出勤を止められている間、島に巨獣が現れることはなかった。

 ただ、正直なところ、沖野は「緊急出動が掛かっても構わない」と思っていた。いつ呼び出されるか分からないという緊張感には、この一か月の勤務で、すっかり慣れっこになっている。

 実際、今回の休暇中も、いつでも電話に出られる状態、いつでも波止に駆けつけられる状態であることを心掛けていた。

 とはいえ、巨獣が今この瞬間、出現するかもしれないし、もう永久に現れないかもしれないという不安定な状況は、精神衛生上、好ましいものではないことは確かだった。

 出現パターンが掴めればいいのだが、これまでの八例を詳しく分析してみても、それらしい予兆を見出すことはできないでいた。

 ここ数日の静寂は不気味でもあったが、それはともかく、沖野は愛機ブルバスターを数日ぶりに動かせるというだけで高揚していた。

 感情が表に出やすい性格だけに、足取りひとつ見てもうれしさが隠しきれない。波止社屋の外階段を、二段抜かしで駆け上がっていく。

 事務室の前まで達すると、勢いよくドアを開け、声を張り上げた。

「おはようございます!」

 しかし、若者らしいその元気なあいさつに応える者はいなかった。

 あれ? おかしいな。沖野が首をひねる。

 いつもであれば、社長の田島や経理の片岡。少なくとも、デスクの拭き掃除を日課にしている庶務のみゆきあたりは出勤している時間だ。

 まさか、自分が留守をしている間に、何かあったのだろうか?

 沖野がにわかに不安にかられていると、事務室の奥、応接スペースの方から、何やらガサゴソと耳慣れない音が聞こえてきた。

 もしかして、泥棒?

 沖野は不穏な空気を感じ、入り口の脇に置きっ放しになっているビニール傘を手に取って、身構えた。

 すると、フウッと息を吐き出す音が聞こえ、ソファの向こうから、白金みゆきが姿を現わした。

 すでに事務服に着替えているところを見ると、十分以上前には来ていたのだろう。手には雑巾らしき布が握られている。

 みゆきは、沖野に気付くと、

「ああ、沖野君、来てたんだ。おはよう」と、柔らかい微笑みを浮かべた。

 沖野は、自分に向けられた優しげな笑顔にドギマギしながら、再びあいさつの言葉を口にした。

「あ、おはようございます」

 そこでみゆきが不思議そうな顔になり、沖野に尋ねた。

「あれ? 今日、雨降ってたっけ?」

 沖野は、自分の早とちりが恥ずかしくなり、耳を真っ赤にしながら、「いや、これは何でもないんです」などとモゴモゴ言って、手にしていた傘を元に戻した。

 話をそらすため、慌てて話題を変える。

「ところで、そんなところで何してるんですか?」

「ああ、今、床掃除。ソファの下とかも、一通りきれいにしようと思って」

 その説明を聞いても、沖野の?は消えなかった。掃除だったら、社長の田島も含めて出勤中の社員全員が参加するタイミングが、夕方に設けられている。

「何で、こんな朝っぱらから」

 みゆきは、水をためたバケツで雑巾を絞りながら、沖野の疑問に答えた。

「この前、電話でちょっと話した新人さん。今から来ることになったらしいの。それで、片岡さんが、みっともないところを見せないように、きれいにしておけって」

 沖野は、ビックリして問い返した。

「えっ!? 今日から出勤でしたっけ?」

 みゆきが首を振って事情を説明する。

「違うの。正式には、予定通り来週からの出社なんだけど、契約の手続きとかで、片岡さんが呼び出したらしくって」

 そうなんだ……。

 沖野は、まだ見ぬライバルが、さっそくゴマをすりに来るのかと、反感を覚えた。そんな嫉妬心を見透かされないように、あえて平静を装って、みゆきがいる応接コーナーの方に向かう。

 沖野は、「後は僕が」と言って、みゆきからバケツと雑巾を受け取ると、一階の倉庫に片付けるべく、出入り口に向かった。

 その道すがら、ふと気になったことを尋ねる。

「あれ、そういえば、社長と片岡さんは?」

「駅まで迎えに行ったよ」

「はい? え、駅まで!」

 驚きを通り越して、衝撃を受ける沖野。

 いっぽう、みゆきは沖野のリアクションを見て、キョトンとしている。

「そうだけど、それがどうかした?」

 みゆきにしてみれば、それは率直な疑問だったのだが、沖野はみゆきの物言いにも再び衝撃を受けた。

 どうかしたって! どうかしているのは、社長と片岡さんの方でしょ! 親会社からの出向っていったって、相手はしょせん入社したての新人でしょ? そんなペーペーを、お偉方二人ががん首揃えて迎えに行くなんて!

 っていうか、オレの初出勤のときと扱いが違いすぎないか? あのときは、蟹江社長が一緒だったから、一応、波止社員一同、外で出迎えてくれたけど、オレ個人への歓待ムードなんて全然なかったじゃん!

 沖野が、モヤモヤした思いを抱えながら、ふくれっ面でドアを開けようとすると、そのドアが不意に外から開かれた。

 入ってきたのは、作業着姿のアル美。倉庫で作業でもしていたのだろう。手には出動時に装備する、ヘッドセットが握られている。

 先を越されたことを気にしながらも、とっさに朝のあいさつを口にする沖野。

「あ、おはようございます」

「おはよう」

 いつもと同じ、そっけない返し。しかし、その塩対応にもすっかり慣れた沖野は、ひるむことなく聞きたいことを尋ねた。

「アル美さん、知ってました? 今日、新人が来るって話」

 アル美は、軽く首を振って、知らないことを示した。いや、知らないというより、関心自体がないという様子だ。その証拠に、まったく別のことを口にした。

「それより、早く準備して」

 この日は、朝から龍眼島に渡り、電力復旧に向けた被害状況の調査を再開することになっている。

 一刻も早く、作業を前進させたいという思いは沖野も同じ。

「はい!」と返事した沖野は、とりあえず先に着替えを済ましてしまおうと、手にしていたバケツを床に置き、奥の更衣室に足を向けた。

 そのとき、カンカンカンと、外の鉄階段を駆け上がってくる音が聞こえた。

 ハイヒールのような硬質の音なので、田島や片岡ではないだろう。

 だとしたら誰?

 事務室内の三人が頭上に?マークを浮かべていると、今度はコンコンと控えめに扉をノッ

クする音が聞こえてきた。

 自然、一番近くにいたアル美が、ドアを開ける。

「えっ!? あなたは……」

 常に冷静なアル美が、珍しく驚きの表情を浮かべている。

 沖野が身をよじって、ドアに隠れて見えない人影をのぞきこむと、そこにいたのは、シオタバイオでの報告会議に出席していた研究員の女性だった。

 特徴的な黒縁メガネで、彼女であることにすぐ気付いた沖野だったが、同時に「私服になるとかなり印象が変わるな」とも思った。

 黒いブラウスにベージュのパンツというシンプルなスタイルだが、会議室での白衣姿とはまったく違う存在感がある。

 後ろでひとつにたばねていた髪も、今はサラリと背中に下ろしている。

 沖野は、彼女が凜とした美しい顔立ちをしていることに初めて気付いた。

 ただ、今は苦しそうに眉根を寄せている。

「すみません。ハア、ハア。……少し、よろしいですか?」

 そんなに急いで来たのか、女性は短距離走でもしてきたかのように息を切らしている。

 ただならぬ雰囲気を察した沖野は、「何か、あったんですか?」と問い掛けたが、彼女は呼吸もままならないようで、言葉が出ずにいる。

 それを見かねたアル美が、「とりあえず中へ」と言って彼女の背中に手を回し、支えるようにして事務室に招き入れた。


 事務室内の応接コーナー。

 といっても、粗大ゴミ置き場から拾ってきたような年代物のソファとテーブルが置かれているだけの一画。敷居もないので、話は事務室内で筒抜けなのだが、来客があった際には、とりあえずそこに案内することになっている。

 女性は、アル美に促されるまま、とりあえず奥の席に腰を落ち着けた。と同時に、気を利かせたみゆきが、「どうぞ」と言って、冷たい緑茶を差し出す。

 女性は、小さな声で「ありがとうございます」と言うと、緑茶に口をつけ、喉を潤した。それでようやくひと心地ついたようで、深呼吸して息を整えると、改めて立ち上がり、鞄から名刺入れを取り出した。

 差し出された名刺には、『株式会社シオタバイオ 総合研究所 獣医薬部 研究員 水原渚みずはらなぎさ』と書かれている。

 名刺交換が済むと、研究員の女性、水原渚がアポも取らずに突然駆けつけてきた事情を語り始めた。

「朝早くからすみません。この件に関しては、一刻も早く皆さんにお知らせしなければならないと思ったものですから」

 どんな話が始まるのか、対面に座った沖野とアル美が神妙な面持ちで小さく頷く。みゆきも応接コーナーの近くまで引っ張ってきた事務イスに腰掛けて話を聞いている。

「まず、遺伝子検査の結果なのですが、配列はほぼイヌと同じであることが確認できました。犬種は、柴犬……ですね」

「はい」と頷いたアル美に、渚は微笑みながら言った。

「私も飼っていたんです」

 見詰め合う二人。

 渚に信頼できる何かを感じたアル美は、身を乗り出して尋ねた。

「シロは、今どんな状況なんです?」

 渚は、柔らかい微笑みをたたえたまま答えた。

「元気です。ドッグフードを食べていますし、時々、遠吠えもします」

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