第1章 組織の新たな憂鬱②
シオタバイオ研究棟。
建物の内部には、傾きかけた日が差し込んでいる。
小型巨獣が波止から移送されてきてから、二十四時間が経過していた。
シオタバイオは、塩田化学の傘下にある大手製薬会社。業務内容は、医薬品や医療機器の開発、食品添加物の製造など幅広い。
その研究所に〝想定外の厄介事〟が初めて持ち込まれたのが、約半年前。親会社である塩田化学から、「波止工業という害獣駆除会社が持ち込んでくる生物の分析を担当せよ」との指示が下りてきたのだった。
担当を押しつけられた獣医薬部を取り仕切る部長の猪俣は、おおいに反発したのだが、親会社の指令を突っぱねられるはずもなく、形だけでも引き受けざるを得なかった。結果、「厄介事を押しつけられた」という不満は、半年たった今も根強い。
今回も、突然トラックで乗りつけて、得体の知れない生き物を至急調べてほしいなどという面倒極まりない案件を持ち込んできた弱小企業に、猪俣はますますいら立ちを募らせていた。
それでも、親会社の手前、まったくなかったことにはできない。塩田化学から発せられたお達しを無視した……なんてことになれば、自身の出世にも響く。猪俣は、「明日には報告書を渡す」と言って、小型巨獣を引き取らざるを得なかったのだった。
そして、きっちり二十四時間後の今、シオタバイオに〝招かれざる客〟がやってきた。
ちなみに、田島たちが忌むべき訪問者だから……というわけではないが、研究棟への入館には、それなりの手続きがいる。機密事項が多いため、カメラ付きのスマホなどは持ち込みが禁じられており、各自守衛室脇の保管庫に入れる決まりになっているのだ。
田島、沖野、アル美も、規則に従ってスマホを預けたのだが、なぜか田島だけ探知機に引っ掛かってしまう。
首をひねる田島だったが、そこでベルトのサックに、ガラケーを差していることを思い出した。
それは、電話機能だけを持つ旧式の携帯。田島が前の勤務先、塩田化学に勤めていたときの愛機だが、今はまったく使っていなかった。
いまだに持っているのは、電池ケースの裏に、家族で撮った写真が貼ってあるから。若き日の妻と幼い娘が、幸せそうに笑っている。しかも、音声データには、誕生日に娘が吹き込んでくれたメッセージが保管してあった。
妻と娘が出ていってしまってから、時が流れ、スマホに買い換えたのだが、そのガラケーを捨てる気にはなれなかった。もしかしたら、二人がこの番号に電話を掛けてくるかもしれない。田島は、淡い期待をいまだに抱いているのだ。
「これも預けないとだめですよね?」
田島がガラケーを手に、守衛に聞いたところ、「まあ、それはいいんじゃない」との回答だった。
要するに、カメラ機能がないもの、機密情報を持ち出す手段になり得ないものは、手間が掛かるだけなので預かりたくないということらしい。
田島は、ガラケーをベルトのサックに収めると、守衛に一礼して、廊下の先で待っている沖野とアル美の方に小走りで向かった。
三人が案内されたのは、研究棟の一画に設けられた、打ち合わせ用のスペースだった。大きなテーブルを挟んだ向かい側のイスには、いかにも面倒くさそうに、猪俣がふんぞり返っている。
その隣の隣、一人分の空席を挟んだイスに、二十代前半と思しき白衣姿の女性が座っている。
田島は、彼女が入ってきたとき、名刺交換をしようと立ち上がったのだが、猪俣に、そんなことはいい、とばかりに手で制されてしまった。
結局、紹介もされないままなので、彼女が猪俣の助手なのか、部下なのかさえ分からない。黒いロングヘアをひとつに束ね、黒縁メガネを掛けた地味なビジュアル。
それをチラ見した沖野は、彼女があえて気配を消しているのではないかとさえ思えた。実際、申し訳なさげに座っている姿は、そこに居ることを忘れてしまうくらい、まったく存在感がなかった。
と、入り口のドアが、コンコンと二度ノックされ、白衣姿の男性が現れた。手には数枚のコピー用紙を携えている。
男性研究員は、軽い会釈と共に、手にした用紙を猪俣に差し出した。どうやらそれが、この報告会議で使われる、完成ホヤホヤの資料らしい。
沖野は、ようやく説明役が現れたのかと思ったが、その男性研究員は猪俣に資料を手渡すと、一言も発することなく部屋を出て行ってしまった。田島たち客人の方を一顧だにしなかったのには、面倒事を押しつけてきた相手への、抗議の意味があったのかもしれない。
猪俣は、手渡された資料を、興味なさそうにペラペラとめくった後、それをテーブルに放り出し、いかにも煩わしそうに田島の前に滑らせてよこした。
思うところはあったが、黙って資料を手に取り、内容に目を通す田島。
席についてからずっと、険しい表情でテーブルの一点を見つめていたアル美も顔を上げ、隣に座った田島が手にしている資料に視線を走らせる。
が、読み込むまでもなく、資料はあっという間に見終えてしまった。
それもそのはず。そっけなく『報告書』と題されたその資料は、A4のコピー用紙で三枚。内容も、体長、体重、体温、脈拍など、基本的なデータしか書かれていない。会社や学校で行われる定期検診の方が、まだ細かいことが書かれているのではないかと思うくらい、ざっくりしたものだった。
さすがの田島も、批難めいた口調で問いただせずにいられなかった。
「これだけ、ですか?」
資料を田島の方に払いのけた後、我関せずとばかりに明後日の方を見ていた猪俣が、視線だけを動かして田島に目をやる。その表情は、「何が不満なんだ」とばかりに歪んでいる。
田島は、口にしかけた文句をぐっと飲み込み、重ねて尋ねた。
「まだ、これだけしか分からないということですか?」
猪俣は、無視していてもらちが明かないと考えたのか、やれやれといった様子で、ようやく口を開いた。
「今、分かっているのは、そこに書かれていることだけだよ」
そう言うと、猪俣は思い出しかのように、背広のポケットからゴムで口が閉じられた小さな試験管を取り出した。
「ああ、それと、これ……」
猪俣が田島たちの前に掲げて見せたその試験管には、緑色の物体が入れられている。それは、形が定まらない粘液状の物質で、もずくやめかぶのようにヌメっとした質感であることが見て取れる。
田島が、「これは?」と尋ねると、さも面倒くさそうに、猪俣が説明を始めた。
「あの化け物の足の爪の間に付着していたものだ。今までアンタらが運び込んできた死骸にも、同じようなものが付着していた。この物質が何なのか分からんが、ヤツらは同じような場所を徘徊しているようだな。まあ、そのどこかで病気にかかったんだろ」
「病気?」
猪俣が口にした言葉を繰り返し、田島は話の続きを促した。
「細菌とかウイルスに感染したんじゃないかねぇ。その報告書に書いてあるとおり、巨獣ってのは、何らかの哺乳類であることは間違いない。あの島には、タヌキとかイタチとか、結構いろんな動物がいたろう? それが病気に掛かって、あんなみてくれになっちゃってってことだよ」
波止工業が龍眼島で駆除し、シオタバイオに運び込んだ巨獣は、シロを除くと七体。共通点は、体毛がないヌルっとした表皮と、口から突き出た鋭い牙だ。しかし、そのほかの部位に関しては、それなりの違いが見て取れた。
脚部が異常に発達したものもいれば、手に鋭利な爪を備えているものもいた。そうした不可解な個体差が、別の動物から変異したからであるとすれば、確かにつじつまが合う。
ただ、そうであるとしても、それは根本的な疑問の答えにはなっていない。仮に、猪俣が言うように、原因が細菌やウイルスだった場合でも、その原因菌を特定し、徹底的に分析しなければ意味がない。
しかし、猪俣の物言いは、まったく他人事だった。
「あのちっこい化け物も、何かの動物が変異したものだろうな」
その言い方に引っ掛かった沖野が、猪俣に突っ掛かる。
「化け物ではなく、シロです」
突然、耳慣れないワードが発せられ、猪俣は反射的にオウム返ししてしまった。
「シロ? 何だよ、それ」
田島が話を引き取り、猪俣に説明する。
「うちの二階堂が飼っていた犬です」
田島は、そこでチラリとアル美に視線を向けたが、いまだショックから立ち直れずにいるのか、アル美は無表情にテーブルの一点を見つめるばかりだった。
その辛さは、田島にも痛いほどよく分かる。
龍眼島の元住民であるアル美は、巨獣によって家族を奪われた。大切にしていたシロの行方も分からなくなっていたのだが、島で変態しているところを発見し、捕獲したのだ。アル美は、そんなシロに亡き家族を重ねている。
田島も自宅で、〝ハナコ〟と名付けたフレンチブルドッグを飼っている。その姿に、家族を重ねているのは、田島も同じだった。
しかし、猪俣がそんな思いをくみ取るはずはなく、無反応のアル美を見て、フンっと鼻白む。田島は、猪俣が完全にへそを曲げてしまう前に、話を繋いだ。
「あの生体は、飼い犬が変異したものだと我々は思っているのですが……」
猪俣は、答えになっていない答えを返した。
「イヌねぇ。どうかな。詳しい検査をしないと断定できないよ」
「詳しい検査?」
「遺伝子検査とか、高度なことをやらないと難しいだろうなぁ」
あくまで他人事の猪俣に、再び沖野が噛みつく。
「やってくださいよ、その検査! 生体サンプルがあれば、調査を進められるって言ってたじゃないですか!」
しかし、猪俣はまったく取り合おうとしない。
「だから、巨獣は何らかの動物が変異したものって結論は出てるでしょ!」
そう突っぱねられたが、沖野も引き下がらない。
「どんな動物が、どんな原因で巨獣化しているのか。もっと詳しく調べてくださいよ!」
若造と見なしていた沖野に詰め寄られ、比較的冷静だった猪俣もキレ始める。
「こっちも慈善事業じゃないんだ! 払うモノを払ってない人間に、とやかく言われる筋合いはない! ウチは社員の管理が行き届いた大企業なんでね。すべての研究員は、個々に年間スケジュールが組まれていて、余計な作業をする隙間なんてまったくないんだ。お気楽に狩りを楽しんで、後片付けだけこっちに押しつけてくる君たちとは違うんだよ!」
じっと耐えていた田島も、その見当外れの中傷には黙っていることができなかった。しかし、どんなに波止社員の思いを伝えたとしても、猪俣に響かないことは分かっている。今は巨獣の調査を続ける、社会的意義を訴えるしかなかった。
「巨獣は人を襲います。一年ほど前に起きた龍眼島の惨事を、猪俣さんもご存じのはずです。そして、最近の我々の調査では、巨獣が島を出る可能性も浮上しています」
熱のこもった田島の説明にも、納得した様子のない猪俣。それどころか、話など聞くまでもないということをアピールするためなのか、明後日の方向を向いて耳をほじっている。
あまりの態度に完全にキレた沖野が、立ち上がって声を荒らげた。
「僕らが一昨日倒した巨獣は、明らかに海を越えようとしていました! 海を越えたら、その先にあるのはここ! 今、あなたがいる市街地だ!」
けんか腰の沖野に、猪俣がボソリと反論する。
「だから、さっきも言ったろ? ウチに動いてほしいんなら、先に払うモノ払えって話なんだよ」
結局は金か。沖野に加勢したい田島だったが、何かしようとすれば必ず費用が発生することは、経営者として身に染みて分かっている。それだけに、返す言葉が見つからなかった。
田島と沖野が完全に沈黙してしまったのを目の端で確かめると、猪俣は勝ち誇ったようにニヤつきながら席を立った。波止一同は、それを見送るしかない。
それを察した猪俣は、ドアの前で立ち止まると、わざわざ振り返って捨てぜりふを吐いた。
「こっちはね、本来の業務を何とかやりくりして手伝ってやっているんだ。グループ会社のよしみだから仕方ないが、自分らの立場をわきまえるんだな!」
暴論であることは間違いなかったが、今は耐えるしかない。田島は歯を食いしばって、猪俣が去るのを待った。しかし、すっかり調子に乗った猪俣は、いつになく饒舌で、嫌みの言葉を吐き出し続けた。
「あの化け物が、島にいた動物のなれの果てだったからって、いったいそれが何だっていうの? そうだとしても、害獣ってことに変わりはないだろう? まったく金にならないそんなもののために、何でウチが人を使って、身銭まで切らなきゃいけないわけ? 道理に合わないってのは、まさにこのことだよ。はい、この件は、これで終わり! あの化け物の後始末は、アンタらが責任を持ってやってくれ!」
猪俣は一方的にそうまくし立てると、出口のドアに手を掛ける。
しかし、そこで突然、思わぬ人物が声を上げた。
「化け物じゃありません!」
その声を力強さに、猪俣も思わず足を止めて振り返る。
声の主は、ずっと黙って座っていた白衣姿の女性だった。
あ然とする一同の注目が集まる中、女性はスッとアル美の方を見た。二人の視線が交錯する。しかし、それも一瞬のことだった。
女性は、「あの生体は、イヌ……だと思います」と言うと、再び顔を伏せてしまった。ただ、その言葉を聞いたアル美は、彼女の中に秘めた何かがあることを感じていた。
同じ建物内の研究室。
シオタバイオに運び込まれた問題の小型巨獣が、檻の中で徘徊している。
口からよだれを滴らせ、低いうなり声を上げている。
その姿は、到底イヌのようには見えない。
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