第25話

 月明かりもない暗がりの森。

 あれ!? オレ、どうしてこんなところにいるんだろう?

 沖野は、怪訝そうな表情を浮かべて、首をひねった。

 視線を落とすと、自分が作業着姿であることが分かる。

 とにかく、この場に突っ立っていても仕方ない。とりあえず、どこか分かる場所まで出よう。

 あてもなく歩き始めた沖野だったが、途端に歩きにくさを感じる。足元の雑草が、まるで行く手を阻むかのように絡みついてくるのだ。

 それでも構わず前進を続けていた沖野だったが、膝下程度だった雑草の丈が、次第に股のあたりまで伸び、やがて胸元を覆うまでに高くなっていった。

 ただ、そんな状況にもかかわらず、不思議と歩みを止めようという気にはならない。生い茂った草を、闇雲にかき分けるようにして進んでいく。

 と、背後から、グルルルルゥゥ~という、獣のいななきが聞こえてきた。

 巨獣!?

 とっさに振り返る沖野。しかし、周囲を覆う草の壁のせいで、姿は見えない。

 そこで再び、低いいななき。先ほどよりさらに近い場所、今度は右手後方から聞こえてきたように感じる。

 逃げないとやられる!

 沖野は恐怖に駆られ、必死に走り始めた。

 が、草いきれはますます濃くなるばかりで、次の一歩を出すことさえままならない。いつしか、植物が出していると思われる粘液のようなものが、足ばかりでなく腕や胴体にまでベッタリと絡みついていた。

 いななきを発している生物との距離は、いまや荒い息づかいが耳に届くほど近い。

 ダメだ、追いつかれる!

 沖野の中に最悪の想像が広がる。と、頬に一滴、液体が当たるのを感じた。

 雨? 沖野が振り返りながら空を見上げると、そこに空はなく、あったのは不気味な獣が大口を開け、よだれを滴り落としている光景だった。

 そのまま口を閉じる獣。と同時に、沖野の視界もブラックアウトした。


 体をビクンと震わせ、ウウッとうめき声をあげる沖野。

 そこは、蟹江技研、格納庫の外壁沿いの一角。

 沖野は、もたれていた壁から身を起こし、ショボショボする目を何とか開こうと格闘し始めた。

 すると、すぐ真横から、グルルルルゥゥ~という不気味ないななきが聞こえてきた。

 ギョッとして、無理やり目をこじ開け、音の方に目を向ける。と、見えたのは、大口を開けて爆睡している亀山の姿だった。体格に見合わない、大きないびきをかいている。

 ホッとしたのもつかの間、今度は頬に一滴、液体が落ちてきたのを感じた。

 まさか……!?

 嫌な予感に駆られながら上空を振り仰ぐと、その滴が、格納庫の雨どいから落ちてきた、朝露であることが分かった。

 今度こそ、夢から覚めたことを確信し、胸をなで下ろす沖野。改めて周囲を見回すと、亀山とは逆サイドに、アル美が横になっているのが見えた。

 いや、横になっているというより、体育座りのまま、コロンと転がったような体勢で眠っている。

 おそらく、自分と同じように、最初は外壁に背中を預けて、座ったまま寝ていたのだろう。しかし、意識を失うように眠りに落ちたせいで、いつの間にか横に転がってしまった。そんな感じの寝姿である。

 アル美が、まだ目を覚ましていないことが分かると、沖野はコッソリ寝顔を見てやろうと思い立った。

 前屈の状態でグーッと体を倒し、アル美の顔をのぞき込む。その寝顔は、いつものクールな表情からは想像もできないような、安らかなものだった。

 それが逆に、沖野の罪悪感を刺激した。ちょっとした好奇心からの行動だったが、とんでもなく悪いことをしたように思えてくる。

 自分の中に目覚めた罪の意識をごまかそうと、沖野はアル美から目をそらして立ち上がった。視界に飛び込んできたのは、鉄製の大きな装置。

 三人掛かりで完成させた、特製の箱罠である。

 高さと幅は、それぞれ一・五メートル。奥行きは、二・五メートル。

 日本国内における害獣捕獲用の罠としては、破格のビッグサイズだろう。

 沖野は、立ち上がったついでに、近づいて仕上がり具合をチェックした。

 仕様に関しては、檻の中の餌につられて獲物が侵入すると、入口の仕掛け扉が落ちるというシンプルなものである。

 獲物は、正体不明の生物だ。こちらの思惑通りに事が運ぶという保証はない。想定外の事態に対処するには、仕掛けそのものは出来る限り単純なものしておいた方が良い。亀山が、そう判断したのだった。

 ただし、構造はシンプルでも、丈夫さは折り紙付き。廃材を組み合わせて作ったものとはいえ、素材は亀山が厳選した硬質なものばかり。いかに巨獣といえど、簡単に破れるような代物ではない。

 また、罠としての仕掛けとは別に、扉には閉まると発動するセンサーも取り付けた。離れた場所にいても、アラームで状況が確認できるように、アル美のリクエストで加えられた装置である。

 沖野が、仕上がりに改めて満足していると、腕時計がピピッという小さなアラームを発した。見ると時間は朝六時。

 すべての作業が終わったのが、夜明け前の四時過ぎだったので、二時間くらいは外で眠り込んでいたことになる。

 三人とも、ちょっと体を休めようとしただけだったのだが、ほとんど気絶するように寝てしまっていたらしい。

 そこで沖野は、寝ている二人に、ベンチコートが掛けられていることに気づく。さっきは寝ぼけまなこで見るともなしに見ただけだったため、意識の中に入ってこなかったが、よく見るとそれは、蟹江技研が社員の夜間作業用に用意している防寒着だった。

 ちょうど吹いてきた風が、嗅ぎ慣れた香水の香りを運んできた。ってことは?

 沖野は、その気遣いの主に、すぐ思い当たった。

 蟹江社長がきっと、心配になって見に来てくれたんだ。香りは、事務所からコートを抱えて運んできたときに付いたのだろう。

 無理に起こさなかったのも、蟹江らしい心遣いである。その温かさに、改めて感謝の気持ちを抱く沖野。しかし、そこでハタと思い至る。

 あれ? 何でオレにだけコート掛けてくれなかったの?

 確かに、初夏のこの時期、作業着一丁でも風邪を引くことはないだろうが、それでも三人中二人に掛けて、自分にだけ掛けない理由が分からない。

 沖野が、蟹江の優しさの発動基準について疑問を抱いていると、格納庫の中から、ブロロロン! という低いエンジン音が聞こえてきた。

 その重低音と振動に、熟睡していたアル美と亀山も目を覚ます。

 三人の前に現れたのは、荷台にブルローバーを積んだ大型トラックだった。

 トラックは、格納庫前のスペースをグルリと回り込み、沖野たちの前でつんのめるように停車した。

 運転席から現れたのは、いつものようにピンクの衣装に身を包んだ蟹江だった。あいさつも無いまま、出し抜けに行動を促す。

「行くよ!」

 突然のことに、呆気に取られる沖野。

「行くよ、って……」

 蟹江の意図が分からずポカンとする。助けを求めるように周囲を見回すと、寝ていたはずのアル美が、起き抜けとは思えないシャキッとした顔で、いつの間にか自分の横に立っていた。

 二人を見ながら、蟹江が気風良く言う。

「いつまでもボンヤリしてんじゃないよ! 直し終わったら即、納品! それがウチのモットーだって忘れたのかい?」

 ブルローバーの修理は、昨晩遅くに終わったらしい。

 蟹江はさらに、箱罠を指差しながら続けた。

「ついでに、そいつも持ってくんだろ?」

 そこでようやく状況を察した沖野が、背筋を伸ばして返事をする。

「あ、はいっ!!」

 沖野は、アル美と目配せを交わして頷き合うと、トラックの荷台に飛び乗った。アル美は、箱罠の方に駈け寄る。

 荷台に据え付けられたウインチを操作し、協力してトラックに箱罠を積み込む二人。

 亀山は、エンジン音で目を覚ましたものの、上半身を起こしただけで、すぐに壁の方を向いて横になってしまった。

 後はお前ら次第だ、ということだろう。

 沖野とアル美は、積み込み作業を終えると、亀山の背中に深々とおじぎをして、トラックの助手席に乗り込んだ。


 武藤が舵を握る小型船舶が、波をかき分けて進んでいく。

 右手には、水平線が見える大海原。左手には、工場や煙突が建ち並ぶ、複雑な景観の工業地帯が広がっている。

 武藤が操船しているのは、成瀬から借りていた漁船とはタイプが違う、スマートなプレジャーボート。個人で釣りやダイビングを楽しむための小型船舶である。

 このタイプは、漁船と異なり、操舵室が雨風のしのげる密閉空間になっているものが多いのだが、波止に貸し出された船は、簡単な屋根だけがついた運転席が剥き出しのタイプだった。

 風と潮しぶきがモロに吹き付けてくるため、武藤は目を細めている。

 しかし、表情こそ険しいものの、開放感があってダイレクトに海が感じられるこの船を、武藤はむしろ気に入っていた。

 ちなみに、成瀬から〝詳しく聞いた〟ランデブーポイントで持ち主と落ち合った際、武藤はそれとなくお値段について聞いてみた。すると、貿易関係の仕事で一発当てたというオーナーは、片手を広げて前に突き出した。

 つまり、船体の価格は、五百万円前後ということだろう。豪快さが売りの武藤でさえ、操船に慎重になるレベルである。

 夜中のうちに先方のマリーナを出航し、陸地に沿うように運行。ようやく地元の街まで戻って来た。

 やがて、向かう先に、『NAMIDOME』の赤いロゴが見えてくる。新看板お披露目の際、片岡が言っていた通り、確かにこのロゴは海から良く目立つ。逆に陸からは見えないので、宣伝効果はまったくないだろうが、舵を任された者としては、それが見えただけで〝無事に帰還した〟という実感はわく。

 その安堵感だけでも、リニューアルした意味はあったんじゃないか、と武藤は改めて感じた。

 そうこうするうち、船は社屋の前の桟橋に到着。速度を落とし、慎重に着岸させる。

 すると、窓から様子を見ていたのか、船が桟橋に近づいた時には、事務室から田島、片岡、みゆきの三人が姿を見せていた。

「武藤さ~ん、お帰りなさ~い!」

 みゆきが、手を振りながら駈け寄ってくる。

 それを追うように、小走りで近づいてきた田島が、船から伸びたロープを係留柱に巻き付けながら、「お疲れ様!」と武藤をねぎらう。

 滅多に感謝を示すことのない片岡でさえ、「ご苦労だったな」と声を掛けた。

 ただ、ここまでの航海がよほど気持ち良かったのか、武藤は疲れているどころか元気があり余っている様子。「カッコイイですね!」と船を称えたみゆきに、「俺がか?」とつまらない冗談を飛ばす余裕さえ見せた。

 そのジョークは軽く流されたものの、田島も新しい船が気に入ったようで、自然と声が明るくなる。

「いい船ですね!」

 武藤は、もはやオーナー気取りで、ヒラリと船から飛び降りると、さらにくだらない冗談を飛ばした。

「美女とクルージングでもキメたい気分だぜ! ブハハハハッ!!」

 誰からも笑いが起きなかった代わりに、プワ~ン! という、ややクセの強いトラックのクラクションが聞こえてきた。

 一同が振り返ると、桟橋の向こう、波止社屋前の空きスペースに、大型トラックが走り込んでくるところだった。

 荷台に積まれているものを見て、武藤が喜びの声を上げる。

「ブルローバー!」

 迷子になっていたペットが戻って来たかのように、無邪気にはしゃぐ武藤。

 田島やみゆきも、うれしいのは同じようで、揃ってトラックに駈け寄る。

 運転席から降りてきた蟹江が、両手を腰に当ててグッと胸を張る。

「ウチが手掛けたんだからね、修理は完璧だよ!」

 トラックのそばまでやってきた田島が、荷台のブルローバーを見上げながら「ありがとうございます!」と、蟹江に礼を言う。

 これでようやく仕切り直しだ。田島は新たな闘志がわいてくるのを感じた。

 ひと呼吸、間を置いて、一同が集まっているのとは逆の助手席側から、アル美が姿を見せた。

「おっ? アル美じゃねぇか。お前、もう熱下がったのか?」

 武藤が不思議そうに尋ねる。しかし、アル美はそれには答えず、スッと体を横にずらす。と、トラックの陰に沖野がいるのが分かった。

「えっ!? 沖野君まで?」

 田島が戸惑った表情を浮かべる。

 少し遅れて輪に加わった片岡が、「君はまだ、謹慎中だろ!」と言おうと口を挟み掛けたが、アル美がそれを遮った。

「言いたいことは、後にしてください。彼も必要だから来てもらったんです。大事な話があります」

 アル美の顔付きから、何か切迫した事情があることが分かった。沖野は、うつむいて小さくなっているものの、その眼には真剣な光が宿っている。

 田島が気になったのは、ブルバスターと共に運ばれてきた、檻のような積荷だった。これが〝大事な話〟とやらの核心になるものなのだろうか? 田島は、ただならぬ予感を覚えながら、「話は上で聞こう」と一同を促した。


 波止工業、管制室。

 田島、片岡、武藤、アル美、みゆき、沖野の六人が、作戦会議用のテーブルを囲んでいる。すなわち、全社員出席の会議である。

 蟹江は、事務室で片岡から受領書にはんこをもらった後、そそくさと帰っていった。最後まで見届けたいという思いは蟹江にもあったのだが、ここから先は部外者が立ち入るべき話ではないと判断したのだ。

 アル美と沖野が、互いの話を補足し合うようなかたちで、事の経緯が説明された。

 田島が一同を代表して質問を挟む。

「ちょっと待ってくれ! つまり、その幼体が二階堂君の飼っていたイヌだというのか?」

 おおよそのことは分かったものの、にわかには信じられない話である。

 アル美が、険しい表情で頷く。

 持参したノートパソコンを操作していた沖野が、田島たちの方に画面を向け、静止画内の一点を指さしながら言った。

「僕が撮った、この映像が証拠です」

 田島たちが画面に顔を近づけて、沖野が指す箇所に目を凝らすと、そこには確かに、首輪らしき物が映っていた。

 どうやら、二人が言っていることは、思いつきや誇大妄想の類いではなさそうだ。事の重大さを改めて認識し、一同に緊張が走る。

「これはあくまで仮説なんですが、巨獣は新たに生まれたのではなく、島に生息していた動物が変異したものなんじゃないかと……」

 沖野の推論に、田島が黙って考え込む。

 ここが攻め時だと感じたのか、沖野が攻勢を掛ける。

「シロは、日増しに大きくなっていると思われます。早く捕獲しないと、完全に巨獣化してしまう。箱罠は準備できてるんです。やらせてください!」

 箱罠は、亀山の協力を得て、作られたものであることも聞いた。しかし、だからと言って、簡単に首を縦に振ることは、田島にはできなかった。

 ましてや、今回は〝アル美の元飼いイヌ〟という要素が、ひとつ乗っかってしまっている。感情に動かされていること自体が、判断ミスや隙に繋がりかねない。

 しかし、失敗を恐れて手をこまねいていては、事態が好転しないというのもまた事実である。田島は、自身の責任において、ゴーサインを出すことを決断した。

「よし、やってみよう」

 片岡も、田島のその決断を尊重したが、細かいところは相変わらずだった。

「ただし、沖野。君はまだ出勤停止処分中だ」

 お目付役に釘を刺されたが、それは沖野にしても想定の範囲内だった。

「分かっています。だから現場には行きません。……ということでいいですよね?」

 片岡はそれでも、「厳密に言えば問題があるが、今回は事情が事情だ。特例措置として……」などとゴチャゴチャ言っている。が、要するに会社として公式に記録が残る〝島への出動〟以外は黙認するということらしい。


 沖野とアル美による報告と提案がなされた後、社員全員出席の話し合いは、そのまま対象生物を捕獲するための作戦会議へと移行した。

 そこで決定された計画内容は、罠の仕組み同様、実にシンプルなものだった。

①箱罠とブルバスターを船に積み込み龍眼島へ

②二階堂家までブルバスターで箱罠を運搬

③箱罠に餌となるドッグフードを仕掛け、裏庭に設置

④セッティングが終わり次第、離れた場所で待機

⑤捕獲センサーの発動後、対象生物が掛かっていればブルバスターで回収

⑥本土に戻り、箱罠ごとシオタバイオに搬送

 以上である。

 会議は午前中から始まったのだが、詳細な段取りを決めるのに手間取り、すべての準備を整え終えたころには、もうすっかり日が沈んでいた。

 片岡は、作戦決行を明日に順延した方がいいんじゃないかと提案したが、自然の営みがそれを許してくれなかった。

 明日の天気予報は雨。気圧配置が不安定で、海は荒れるらしい。しかも、その後、低気圧は停滞する見込みで、しばらくは荒天が続くとの予報だった。

 今夜、風雨が強くなる前というタイミングを逃すと、場合によっては数日、船を出せなくなってしまうかもしれない。

 新しく借りたプレジャーボートは、成瀬の漁船に比べて波に弱い。以前にも増して、天候には細心の注意を払う必要がある。

 もろもろの理由を勘案して、結局この夜、作戦が決行されることになった。


 波止工業前の桟橋。

 打ち寄せる波は穏やかだが、遠くの空には分厚い雲が垂れ込めている。嵐の前の静けさという様相だ。

 ブルバスターが箱罠を持ち上げたまま、歩行モードで一歩、二歩と進み、桟橋から慎重に艀に乗り移る。

 操縦しているのは、アル美。ブルバスターはそもそも、戦闘に特化して作られているので、荷物の運搬には向いていない。しかし、アル美は、持ち前のセンスと日頃の訓練の成果で、イレギュラーな作業も器用にこなした。

 ブルバスターが箱罠を足元に置き、艀に固定するのを見届けると、武藤はプレジャーボートに飛び乗った。すべて段取り通りである。

 沖野は、それらの作業を黙って見守っているしかなかった。自分も参加したいという思いはあるが、懲戒処分中の今は、手出しするわけにはいかない。

 沖野の横には、田島、片岡、みゆきの姿がある。全員、前日からの連続勤務になっていたが、疲れた顔を見せる者は一人もいなかった。

 操舵席の武藤が振り返って艀が安定しているのを確認すると、ゆっくりボートを発進させた。桟橋の田島と目配せを交わし、頷き合う。

 波止工業の今後、そして龍眼島の未来を左右する作戦がスタートした。


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