第24話

 蟹江技研の裏門。

 波止工業に福音がもたらされたのと同じころ、社長の蟹江のぶ代が、取引先のあいさつ回りに出掛けようと、事務棟を出るところだった。

 駐車場には、愛車であるピンクのベンツが停められている。

 と、車に乗り込もうとドアに手を掛けた蟹江が、目の端で思い掛けない人物の姿を捉えた。

 格納庫に入っていこうとしているのは、自宅謹慎を食らっているはずの沖野だった。

 はて? いったい何しに? 疑問に思った蟹江が、よく通る声で呼び止める。

「ちょっと、アンタ!」

 沖野はすぐ振り返ったが、「どうも」と軽く会釈しただけで、そのまま格納庫の中に入っていってしまった。

 その表情は、蟹江が見てきた中で、一番確信に満ちたものだった。

 どういうこと? 蟹江の疑問が、ますます膨らんだ。


 格納庫の中を、ズンズンと進んでいく沖野。

 その脳裏に、先ほどまでのアル美とのやり取りがよみがえる。

 沖野がアパートの部屋で「考えがある」とたんかを切り、そのプランを説明した後、アル美は自身の境遇について意外なことを語り始めた。

 シロが二階堂家の飼いイヌだったことは聞いた。しかし、その大切なペットが、なぜ〝野生化〟してしまったのか。その裏には、衝撃的な事実があった。

 実のところ、沖野はアル美から話を聞かされる前から、間接的に彼女の家族に関する情報を得ていた。というのも以前、武藤が見せてくれた獣襲撃事件の報告書に、アル美の家族に関する記述があったのだ。

 自宅の中で襲われた小学生の男の子と、それを守ろうとして折り重なるように亡くなっていた母親。そして、いったんは仕事に出掛けたものの、家族の窮地を知って家に戻り、巨獣に惨殺された父親。

 それがアル美の家族だった。

 アル美自身は、当時、島を離れて関西の大学に通っていたため、事件について聞かされたのは、丸二日たってからだったという。

 沖野が印象的だったのは、その話をアル美が淡々と語ったことだった。普通であれば、当時のことを思い出し、感情がたかぶって涙を流したり、怒りに震えてまともに話ができなくなったりしそうなものだ。

 しかし、アル美はいつものように落ち着いていた。その姿を見て、沖野はアル美についての自分の認識が、間違っていたことに気づいた。

 第一印象は、ろくにあいさつもできないスカした女。クールを気取って格好つけているだけだと思っていた。しかし、自分が見えていたのは表面的な部分だけで、実像は違う。

 彼女は、事件以来、心を凍らせたのだ。

 感情に支配され、冷静さを欠き、自分の目的を見失うことがないように。言うまでもなく、彼女の目的とは、家族のかたきを討ち、島を取り戻すことだ。

 胸の内まで聞いたわけではないが、沖野はアル美の心情を、そう解釈した。

 ただ、今検証すべきは、〝もう一人の登場人物〟である、シロの話だ。

 アル美によると、事件の一報を聞いて、島の実家に戻ったときには、すでにシロの姿はなかった。裏庭には、引きちぎられたリードだけが残されていたという。

 その後、アル美は島内で必死にシロの姿を探したというが、そうこうするうちガスによる避難指示が出され、離島を余儀なくされたらしい。

 すなわち、アル美にとってシロは、〝行方不明の家族〟なのだ。

 話を聞いて、沖野は決意を新たにした。シロが完全に巨獣化する前に生け捕りにし、何としてでも保護したい。

 その裏には、巨獣が生み出されるメカニズム解明の足掛かりを得たいという思惑もある。しかし、今はそれ以上に、〝家族であるシロをアル美のもとに帰してやりたい〟という思いの方が強かった。

 また、戻るものなら、シロを元の姿に戻してやりたいという思いもあった。

 もちろん、そんな都合のいい奇跡が、簡単に起こせると思っているわけではない。安っぽいSF映画じゃあるまいし。それでも沖野は、愛犬を胸に抱き、満面の笑みを浮かべるアル美の姿を想像しないではいられなかった。


 しばしの回想から頭を切り換え、格納庫内の目的地に足を早めて向かう沖野。視線の先には、組まれた足場の中に鎮座する、ブルローバーの巨体が見える。

 その背面に回った沖野は、精密機械が詰まったバックパックに頭を突っ込んで作業している小さな背中の前でピタリと足を止めた。

「亀山さん! お願いがあります!」

 大声で呼び掛けたものの、当人には何の反応も見られない。何事もなかったかのように、黙々とブルローバーの修理を続けている。

 沖野は、その応対も折り込み済みだった。

 師匠である技術者の亀山嘉は、作業中に邪魔が入ることを何よりも嫌う。彼の中で一区切りつくまでは、例え社長が呼び掛けようとも、手を止めようとしない、応答すらしないというのが慣例だった。

 ただ、作業に集中し過ぎて、周りの音がまったく聞こえなくなっている……というわけではないことも沖野は知っていた。

 会話を交わすことは拒否しているものの、こちらの声はちゃんと届いている。

 あれはいつのことだったか。蟹江技研に入社したばかりの沖野が、亀山の行動ルールをよく理解していなかったころ。

 あまりにも無愛想な亀山に業を煮やし、返事が返ってこなくてもお構いなしに、クライアントから発注を受けた部品の削り出しについて、伝えるだけ伝えたことがあった。

 自分はちゃんと言われた通りに伝えたので、それができていなかったら、全部亀山さんのせい。腹立ち紛れに、職場放棄ともいえるそんな無責任な仕事をしたことがあった。しかし、翌日の朝には、すべての部品の削り出しが終わっていた。

 要するに、亀山は、独自の行動規範を持った頑固な職人なのである。

 最近になって、ようやくそれが分かってきた沖野は、まったく反応がないことなど気にする様子もなく、亀山の背中に向かって用件を伝えた。

「害獣の捕獲用の箱罠が必要なんです! サイズが特殊で、イノシシとかシカ用のものでは代用が利きません。それに、強度も高めておく必要があって……。亀山さん、作ってもらえませんか?」

 沖野が亀山へのアピールを終えたと同時に、背後から甲高い女性の声が聞こえてきた。

「ちょいと、アンタ! 何言ってるんだい。勝手なこと、許さないよ。だいたい、アンタ謹慎中の身だろ」

 声の方を振り返ると、蟹江が両手を腰に手を当てて仁王立ちしていた。

「そもそも、出向先で問題を起こした〝元社員〟が、どのツラ提げて……」

 と、蟹江の小言は続いたが、それを別の女性の声が遮った。

「これは、私からのお願いなんです!」

 怪訝そうに振り向いた蟹江が、声の主を知って驚きの声を上げる。

「あらま! アル美ちゃん!?」

「会社からの依頼じゃありません。私個人のお願いなんです。お金は自腹でお支払いします。……分割になってしまうかもしれませんが、必ず」

 蟹江には、さっぱり事情が飲み込めなかったが、妙なことを依頼してきた若者二人の暴走は、大人として止めなければならない。あえて厳しい口調で、要求を突っぱねる。

「そんなこと、できるわけないじゃない」

 そこで沖野が割って入ったが、思いだけが先走っているようで、話はまったく要領を得なかった。

「どうしても生け捕りにしたいんです! 小さなヤツが出たんです! 小さいうちなら生け捕りにできます! でも、小さいのは今しかないんです!」

 それを聞いて、〝なるほど、だったら作るしかないね〟と納得する者などいないだろう。ただ、必死さだけは伝わったようで、作業が一段落したらしい亀山が、バックパックから体を引き抜き、ひょっこり顔を出してつぶやいた。

「化け物か……」

 その言い回しが気になったのか、アル美がうつむきながら控えめに反論する。

「いえ、……私のイヌです」

 今度は何を言い出したのかと、蟹江が胸の前で腕を組ながら尋ねる。

「イヌ? イヌってどういうことさ」

 床に視線を落としたまま、アル美が辛そうに言う。

「島に置き去りにしてしまった、ウチの飼いイヌ……。私の家族なんです」

 その驚くべき告白に、蟹江は息を飲んだ。

 しかし、亀山には響くところがなかったのか、いつもと変わらない口調で、アル美たちとは関係のない、作業の進捗状況を口にした。

「お~い、こっちの修理は終わったぞ」

 ブルローバーをあごで示しながら、離れた場所で別の作業をしていた若い作業員に声を掛けた亀山。首と肩を回しながら、「はあぁ」とため息を漏らす。

「俺はちょっと、休憩させてもらうぜ」

 誰にともなくそう言うと、端材などが乱雑に積まれた倉庫外の一角に、のんびりと歩いていってしまった。

 その姿を見て、落胆の色を隠せない沖野とアル美。

 だが、三人に背中を向けて歩き始めた亀山が、思わぬことを口にした。

「使いみちのないゴミの山をどうしようと、文句を言うヤツぁいねえよな」

 急に何を言い出したのか、首を傾げる蟹江。その仕草が目に入ったわけではないだろうが、亀山の〝独り言〟は続いた。

「休憩中によ、ちょっくらプライベートな頼まれ事を片付けてぇんだ」

「頼まれ事?」

 疑問を挟んだ蟹江に、亀山が振り向くことなく答える。

「いやな、いなくなったイヌを捕まえてくれっていう知り合いがいてよ。そいつが特注品の箱罠を作ってくれってうるせぇんだ。余りにうるせぇもんだから、こしらえてやることにしたよ。はあぁ~、メンドくせ!」

 亀山が足を向けている外の廃材置き場には、鋼鉄製の鉄筋なども混じっている。その不要品から、望みの品を生み出そうというのだ。

 沖野は、なぜか全身が震え出すのを感じた。喜びなのか、感動なのか、あるいはこれからやろうと思っていることに対する武者震いなのか分からない。

 ただ、目標に向かって一歩前進できたことだけは確かだった。

 アル美に目を向けると、こちらを見て微笑んでいた。そんな柔らかいアル美の表情を見るのは、これが初めてではないかと沖野は思った。

 遠ざかっていく亀山の方に向き直り、

「ありがとうございます!」と頭を下げる沖野。

 やはりそれにも答えず、どんどん歩いて行ってしまう亀山。そんなぶっきらぼうで照れ屋な師匠の背中を、沖野は全速力で追い掛けた。


「え? そう。うん、分かった。はいはい。じゃ……」

 携帯の通話を切る成瀬。振り返った先には、田島、片岡、みゆきがいる。

 波止の事務室。

 ストーカーマスク男から、会社の救世主へ昇格した成瀬が、レンタル船について、さっそく持ち主と連絡を取ってくれたところだ。

「よっしゃ。いつ取りに来てくれても構わねぇって。何なら、これからでも大丈夫らしいぞ」

「これからすぐでも大丈夫ってことですか?」

 田島が驚きの声を上げる。今までの苦労が嘘のように、話があまりにもスムーズに進むので、うれしさの半面、戸惑いもあった。

 しかし、出動できない鬱憤が人一倍溜まっていた武藤は、すっかりその気のようで、自ら船の引き取り役を買って出る。

「なら、俺が行くよ。ちょっとでも早い方がいいだろ?」

 会社としてはそうなのだが、お目付役である片岡が、経営サイドらしい判断で待ったを掛けた。

「武藤君は、夜勤明けだろ? 居眠りでもして、船をぶつけたらシャレにならんぞ」

 片岡と対立しがちな田島も、それには同意する。

「確かに、ここは安全を優先させた方がいい。もうすぐ遅番の二階堂君が来る。彼女にお願いしよう」

 そう言った矢先、部屋の固定電話が鳴った。受話器を取ったみゆきが、すぐ保留ボタンを押し、「社長、アル美さんです」と田島に呼び掛けた。

 何たる偶然! 話が良い方向に転がり始めると、すべてが上手く回っていくものだ。声を弾ませて電話に出る田島。

「はい、変わりました。いや、スゴイ! 今、ちょうど電話しようと思っていたところなんだ!」

 勢い込んで話し始めた田島だったが、電話先のアル美とやり取りを始めると、その表情はみるみるうちに曇っていった。

「え? ……うん。そうか。大丈夫なの? ……分かった。お大事に」

 成り行きを見守っていた一同は、その一言で事情を察した。

 田島は、電話を替わったときとは別人のようにテンションが下がっていたが、それは勝手に盛り上がっていたこちらの都合。受話器から聞こえてきたアル美の問い掛けには、努めて明るく返した。

「こっちの用件? ああ、いや、借りられる船が見つかってね。それを報告しようと思っただけなんだ。うん。ありがとう。じゃ」

 電話が終わるのを待ち構えていた武藤が、答えは分かっているものの、念のため中身を尋ねる。

「何だって?」

「うん、今日の夜勤、休ませてくれって」

 デフォルトが困り顔の田島が、今は本当に困った顔で言った。

「二階堂君が?」

 片岡の問い掛けに、田島が答える。

「ええ、体調を崩して、熱が出ているみたいで」

 それを受け、武藤が思案顔で言う。

「アイツが休み? 珍しいな」

 記憶にある限り、アル美が病欠したことは、今まで一度もなかった。弱い部分を人に見せないというのが、アル美の性分。というのが、波止社員の共通認識である。だとすると、容態はかなり悪いのだろうか? みゆきが心配を口にする。

「大丈夫ですかね……」

 体調不良に関して、田島には思い当たる節があった。

「昨日の夜、島から戻ったときはズブ濡れだったからね。それがたたったのかもしれん」

 お祝いムードから一転、場に重苦しい空気が流れる。応接スペースで二杯目のお茶をすすっていた成瀬までもが難しい顔をしている。

 そんな雰囲気を吹き飛ばすように、武藤が声を張り上げた。

「やっぱり、俺しかいねぇじゃねえか! ま、こういう状況だ、頼ってくれても構わねえ! 船のあるマリーナまで、電車とバスで……四時間くらいか? 向こうに着くのが六時過ぎだとして、ちょっくら仮眠させてもらえれば、夜中に現地を出航できる。明日の朝には戻って来られるぜ」

 それを聞いた田島が、申し訳なさそうに言う。

「勤務、繋がっちゃいますが……」

 この日の朝、会社に出てきた武藤が、今言ったプランを実行するとなると、二十四時間近い連続勤務になってしまう。仮眠を取るとは言っているものの、武藤だって五十半ば。けっして若くない。

 しかし、武藤は、そんなこと気にするなとばかりに、ドンと自分の胸を叩いた。

「任せとけって!」

 片岡も、いつもであれば反対するところだが、背に腹は代えられない。世知辛い現実に肩を落として嘆く。

「こういう状況になると、少人数体制の脆さが露呈するな……」

 成瀬も、漁師として同じ問題に直面しているのか、同情したように言う。

「人手不足ですかい?」

 田島がため息混じりに、「零細企業の弱点です……」と返す。

 武藤に行ってもらうと決めたものの、片岡はいまだに気が進まないようで、

「これでもし、武藤君が怪我でもしたら……」などと、不吉なことを言う。

 言霊など信じる武藤ではなかったが、いい気はしない。邪気を追い払うように、あえて片岡の〝暗示〟を打ち消す。

「俺が怪我なんて、するわけないだろ!」

 田島もそう願いたかったが、今は励ましの言葉を掛けるより他なかった。

「とにかく、無理はしないでください」

 そんな心配されるいわれはない! と返す代わりに、武藤が冗談めかして言った。

「ダイジョブ、ダイジョブ!」

 それが、武藤なりの気遣いだと分かり、苦笑を浮かべる田島。

「じゃ、行ってくるぜ!」

 武藤はスクッと立ち上がり、意気揚々と出て行った。それを、応接コーナーで茶をすすりながらボーっと見送っていた成瀬だったが、あることに気づき、ハッと我に返る。

「んあ? 俺、詳しい場所、言ったっけか?」

 言ってない。田島たちもそれに気づき、後を追おうとしたが、窓の外に見える武藤はすでに、バス停に向けて波止の社屋から遠ざかりつつあった。

 はっきりした目的地も、船の形も、持ち主の名前も知らないまま、武藤はいったいどこに向かおうとしているのか。

 田島は勢い任せの行動に不安を覚えつつ、慌てて武藤の後を追った。


 蟹江技研、格納庫。

 シャッターのある建物の正面から少し離れた場所に、トラックも停められる大きな駐車場が設けられている。

 その一角で電話を掛けていたアル美が、運んできた鉄材を駐車場の空きスペースに積んでいる沖野の方に戻って来た。

「船、何とか見つかったって」

 思わぬ朗報に、沖野の表情がパッと明るくなる。

「本当ですか!」

 アル美が、わずかに微笑んで首肯した。

 沖野は、「よし!」と拳を握って、気合いを入れ直す。

 事態が好転しつつあると感じ、二人の中にも期待感が広がっていた。

 駐車場の端っこにある廃材置き場に目を向けると、亀山が一人、鉄くずの山を漁っている。

 二人は、目を合わせて頷きあうと、小走りでそちらに向かった。


 蟹江技研は、ロボットなどの精密機械だけを扱っている会社ではない。町工場時代の名残もあって、ハイテク機器のいっぽう、いまだにアナログな工業製品や農機具の生産も請け負っている。

 使いみちがなくなった鉄くずや廃材は、日々自然と出る。

 亀山は、その中から、使えそうな物を見繕っていた。

 沖野とアル美は、亀山のお眼鏡にかなった資材を、駐車場の空きスペースに運んでいく。

 アル美が欠勤の連絡を入れたのは、亀山の作業をサポートするためだった。病欠という方便を使ったのは、箱罠の計画をまだ会社に説明していないため。独断で勝手に動いていると知ったら、間違いなく片岡に止められる。それを見越してのことだった。

 いっぽう沖野は、自分のやるべきことが見つかり、生き生きとしていた。

 作業は進み、選び出した資材を一箇所にまとめ終えると、今度は亀山主導のもと、組み立て作業に入る。

 資材運搬という力仕事では、男の沖野が一応リードしていたが、実作業に入ると、今度はアル美が活躍する番だった。

 普通に考えれば、勝手知ったる元の職場で、ましてや亀山の下で働いた経験のある沖野の方に分があるように思える。が、作業のアシスタントとしては、アル美の方が沖野よりはるかに優秀だった。

 職人気質の亀山は、ひたすら無口だ。自分から指示を出すことは、ほぼない。

 ゆえに、亀山が何を欲しているか、補助を務める者が先回りして読まなければならないのだが、アル美はその能力に長けていた。

 亀山が、レンチを求めていると思えば、工具箱から最適なものを取り出して渡し、電動カッターが必要とあれば、すかさずスッと差し出す。

 そんなやり取りを繰り返しているうち、亀山とアル美は、二十年来の師匠と弟子のようなあうんの呼吸を完成させていった。

 そのいっぽう、別の師弟関係も完成しつつあった。

「そっち持って!」

 アル美の指示に、沖野が「はい!」と従う。

 もはや指示系統は、亀山→アル美→沖野という序列になっていた。その構図に疑問も不満も持たないのが、沖野らしさでもある。

 亀山は、二人が持ち上げている鉄柵の下に体を潜り込ませ、手際よく底面と溶接していく。

 完全に下っ端作業員と化した沖野だったが、アル美が気づいていない亀山の変化を、ひとつだけ見抜いていた。

 亀山の耳は、顔や体の小ささに見合わない、ダンボのように極端な福耳なのだが、さっきからそれがしきりにピクピクと動いている。それは、亀山が上機嫌であるサインだった。

 本人は、まったく意識していないと思われるが、沖野は亀山の下で働いていた当時、その変わった反応に気づいた。以来、亀山の虫の居所を探るバロメーターとして利用していた。

 今、さかんに耳が動いているのは、アル美のサポートによって、作業が思った以上にはかどっているせいだろう。

 ただ、そのメンタリストさながらの洞察は、実作業では一切役に立たない。

 効率的に作業を進めていく亀山とアル美を見るにつけ、沖野は自身の不甲斐なさを改めて思い知らされた。

 と言っても、けっして後ろ向きな気持ちになっているわけではなかった。黙々と作業に打ち込む二人に、『退職願』まで書いてウジウジ悩んでいた自分が、恥ずかしいと思えてくる。

 沖野は、必死に二人についていくうち、目の前のことに夢中で挑んでいる自分に気付いた。

 いつの間にか、逃げ出したいとか、消えて無くなりたいといったネガティブな気持ちは、どこかに吹き飛んでいた。

 帰ったら真っ先に『退職願』を破いて、ゴミ箱に放り込もう。沖野は人知れず、そう決意していた。


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