第22話

 締め切った窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえる。

 そのかすかな物音で、家主は浅い眠りから覚めた。

 古びた木造のアパート。沖野のすみかである。

 武藤の突然の訪問を受けた後も、沖野はろくに眠れない状態が続いていた。ウトウトしては目を覚まし、目を覚ましては虚脱感で再びウトウトする。それを延々と繰り返している。

 本来、小鳥のさえずりで目を覚ますなど、もっとも爽やかな目覚めなのだろうが、沖野の気持ちはまったく晴れなかった。

 ただでさえ昨晩は、嵐がもたらした風雨の騒音で、余計に寝付けないでいた。明け方になって、ようやく眠気が訪れたのだが、さえずりという穏やかな朝の風物詩が、目覚まし時計代わりになってしまった。

 ここ数日、神経が過敏になっているのを感じる。自分はもはや不眠症なのではないか。睡眠薬でも飲まない限り、満足に寝ることさえできなくなってしまったのではないか。

 それを考えると、ますます眠れなくなってしまう。完全に悪循環スパイラルに陥ってしまっていた。

 沖野は、ベッドに横になっていること自体に嫌気が差し、とりあえず起き上がることにした。が、起きるや否や、やることが無いことに気づく。

 スマホの電源は切ったまま。食欲もほとんどない。武藤とみゆきからの差し入れを、モソモソ口にすることはあったが、それはほとんど義務的に胃に流し込んでいるようなものだった。「腐ったので捨てちゃいました」では、二人の思いやりを土足で踏みにじるようなものだ。そういう点で、沖野は律儀だった。

 ベッドから身を起こしたものの、すぐに手持ちぶさたになってしまった沖野は、気まぐれにカーテンを少しだけ開けてみた。

 差し込んできた光は、思った以上に強かった。このところ、雨ばかり降っていたので、朝日がよりまぶしく感じる。今日は、久々の快晴になりそうだ。

 光の筋が、パソコン机に置いたままになっていた、一通の封筒を照らし出す。武藤に見とがめられた『退職願』である。

 自宅に引きこもった当初は、それをなるべく早く提出しよう、何なら田島社長あてに郵送してしまおうかとまで思っていた。しかし、武藤にガツンと痛いところを突かれ、今は感情的な行動にブレーキが掛かっていた。

 それでも、捨てることができないでいるのは、いまだにどうすればいいか考えあぐねている迷いあらわれでもあった。

 そうこうしている間にも、出勤停止処分が明ける明後日は着々と近づいてきている。沖野は、その日を迎えるのが恐くて仕方なかった。

 どんな顔をして出社すればいいのか。いっそ、遠くに逃げ出してしまいたいという思いすら浮かんでくる。しかし、その先には、「逃げたら本当に終わりだ」という別の怖さもあった。

 結果、ただただ無気力に、時間だけを浪費している。それが、ここ数日の沖野だった。

 と、虚無状態だった部屋に、突然異音がもたらされた。

 トントン。明らかに玄関の扉を叩く音である。

 まさか、また武藤さん?

 沖野はとっさに、出しっ放しになっていた『退職願』を、プリンターの下に隠した。

 そこで再びノックの音。ドア越しに「はい?」と問い掛けて、訪問者の様子をうかがう。

 が、外からのリアクションはなかった。 ドアスコープをのぞき込むと、外に立っていたのは、思ってもみない人物だった。

 アル美……さん!?

 最初、沖野はいよいよか、と思った。いよいよ自分も、この領域にまで達してしまったのか、と。

 睡眠不足と過度のストレスによる、幻聴と幻覚。人によっては、それが精神の崩壊をもたらし、悲劇的な出来事のきっかけになることもあるという。

 アル美が自分のアパートにやってくるというのは、沖野にとって、自分の正気を疑うくらいあり得ないことだった。

 いったんドアスコープから目を外し、気を落ち着かせてから、もう一度のぞき込んでみる。と、やはりそこにアル美の姿はなかった。

 ですよね! いるはずないわな! 沖野は、どこか安心したような、それでいてちょっと残念なような、微妙な感覚に陥って、その場にしゃがみ込みそうになった。

 ところが、次の瞬間、会社で何度か聞いたことがある、特徴的な音が耳に届き、我に返った。

 これって、もしかして?

 とっさに玄関のドアを開けると、そこには自転車にまたがり、今まさにこぎ出そうとしているアル美の姿があった。

 やはり、聞こえてきたのは、アル美が愛車のスタンドを跳ね上げる音だった。沖野は、特に意識していたわけではないが、アル美が出退勤するたびに聞こえてくるその音、カシュンという小気味良い稼働音を、いつの間にか聞き分けられるようになっていた。

 部屋にいないとあきらめて帰りかけたアル美と、自分の妄想が作り出した幻影だと思って無視しかけた沖野。二人の視線が交錯し、奇妙な間ができる。

 先に口を開いたのは、アル美だった。

「ゴメン。寝てた?」

 表情はいつも通りクールだったが、言葉の端には戸惑ったような、あるいは恥じらっているような、いつものアル美とは違うニュアンスが感じられた。

 その問い掛けに、「あ、いや、大丈夫です。はい」と、しどろもどろに応じた沖野。そこで、自分がパンツ一丁という、あられもない姿であることに気付く。

「ああっ、す、すみません! すぐに服着るんで!」

 そう言うと、勢いよくドアを閉めて部屋に戻った。

 部屋を見回すと、雑多なモノの山の中から着られそうなスウェットの上下を引っ張り出し、超高速でそれを身につける。

 その間、よろけて壁に頭をぶつけ、足の小指をクローゼットの角に強打したのだが、その痛みによって、これが夢や幻ではないことを再確認した。

「はい! お待たせしました!」

 そう言って沖野が再びドアを開けたとき、アル美は敷地内の空きスペースに自転車を停め、部屋の前まで来ていた。

 目が合うと、下着姿を見られたことを思い出し、沖野が耳を真っ赤にする。しかし、アル美の方はまったく気になっていないようで、

「慌てなくてもいいのに」と、いつものように感情の読み取れない顔で言った。

 沖野は、思わず「スミマセン……」と無意味な謝罪を口にした。

 にしても、なぜアル美がここに? わずかばかり冷静さを取り戻した沖野が、用件を聞くため、おずおずと切り出す。

「あの~、それで、今日は……」

 シャンとしない沖野に対して、アル美は前置き無しで本題に入った。

「例の映像って、まだ残ってる?」

「レイのえいぞう?」

 言葉自体は聞き取れたものの、とっさにはピンとこなかった。

 沖野の頭上にハテナマークが浮かんでいることを察したアル美が、簡潔な説明を加える。

「間違って拡散しちゃったヤツ」

 それを聞いた沖野の背中に、戦慄が走る。

 やっぱりまだ気にしてたたんだ!

 慌てて言い訳を始める沖野。

「あ、だ、大丈夫です! 全部、破棄しましたので! もう拡散されることはありませんです、はい」

 しかし、アル美の反応は、予想していたものと違っていた。もう世に出回るはずはないという話なのに、なぜかガッカリしているように見える。

「そっか。ならしょうがないな。残っていれば良かったんだけど」

 アル美は、ため息交じりにそうつぶやくと、「じゃ」と言って踵を返した。

 事態が飲み込めない沖野は、慌ててアル美を呼び止めた。

「ええっ!? いや、ちょっ、どういう意味ですか?」

 すでに自転車に向けて歩き始めていたアル美だったが、沖野の声に首だけ振り返り、視線を下に向けたまま返した。

「ちょっと確認したかったから……」

 その意味深な発言に、ますます興味を引かれた沖野が、ドアから身を乗り出して尋ねる。

「僕が自撮りしたコックピットの映像を、ですか?」

 沖野に背中を向けたまま、コクリと頷くアル美。

 話の着地点はまったく見えないが、沖野は聞かずにはいられなかった。

「何かあったんですか?」

 一瞬のためらいの後、アル美が意を決したように質問を返した。

「最初の出動の時、私たちと校庭で合流する前に、林の中で小さな生き物を見掛けたって言ってたよね?」

 当時の記憶をたどる沖野。正直、巨獣を倒した強烈な印象に塗りつぶされていて、その前段の記憶はあいまいだったが、言われてみれば、そんなことがあったような気もする。

 沖野は、「あ……、はい」と間抜けな声で返した。

 アル美は、落胆したような表情で、地面を見詰めながら言った。

「昨日の夜、私も見たの。巨獣に似た、小型の生き物。沖野君が見たのが、それと同じヤツかどうか、映像で確認できたらと思って」

 そこでようやく、沖野にもおおよその事情が理解できた。要は、問題の生き物が自撮り映像に見切れているのが確認できれば、行動範囲の特定とかに役立つ……ってことか?

 その時点では、沖野はそう解釈した。

「朝早くに、ゴメン」

 そう言って、立ち去ろうとするアル美。

 沖野は迷ったが、やはり黙っていることができず、再びアル美を呼び止めた。

「あのっ、データなら残っていると思います」

 それを聞いたアル美が、勢いよく振り返った。それを見て、今度こそ責められると勘違いした沖野が、あたふたと取り繕う。

「い、いや、隠していたわけじゃなくて、一度はちゃんと捨てたんです! 捨てたんですけど、ゴミ箱に入れただけで、まだそれを空にしていないので……」

 嘘ではなかった。騒動の後、デスクトップ上のゴミ箱に放り込んだのは事実である。が、完全なる消去には、どこか抵抗があった。

 それは、男ならではのコレクション欲求なのか、自分でも分からなかったが、とにかく、二度と復活できないような状態にまではしていなかった。

 そんな自分の優柔不断さに、改めて嫌気が差す。

 全然反省していないじゃん、オレ……。

「あるってこと?」

 アル美に念を押されて、うなだれながら謝罪の言葉を口にする。

「は、はい……、スミマセン」

 しかし、アル美の方は至ってドライで、

「それ、見せて」と、淡々とした口調で要求した。

 そこに有無を言わさぬ圧を感じた沖野が、よく考えもせずに提案する。

「入りますか? 中に」

 そう言ってしまってから、沖野はすぐに、しまった! と後悔した。

 武藤だったらどう思われても気にならない。が、相手はアル美だ。ゴミ屋敷の住民……なんて思われたら精神的ダメージは計りしれない。

 せめて、掃除が済むまで外で待ってもらうか? 床に置きっ放しのペットボトルやヨーグルトの容器をゴミ箱に放り込んで、脱ぎ散らかした服はクローゼットに押し込んで、掃除機で床のほこりを吸い込んで、サボったリングが浮き出たトイレを磨いて……って、全部終わるまで何時間掛かるんだよ? さすがに帰っちゃうだろ!

 沖野が不用意発言をしてから、ここまでゼロコンマ三秒。

 考えはまとまらず、自問自答を続ける。

 いやいや、待てよ。部屋の汚れなんて気にしている場合か? よく考えてみたら、オレ自身がヤバいだろ! 顔も洗ってないし、歯磨きもしてないし、ヒゲなんて何日前からそってないか分からない。目やに? 付いてる! 寝癖? 付いてる! そもそも、最後に風呂に入ったのっていつだっけ?

 そんなことを超高速で考えているうちに、アル美は「ありがとう」と玄関に入ってきてしまった。完全に上がるつもりだ。

 恥ずかしいから入れたくない。でも、このまま帰ってほしくもない。心の中に複雑な葛藤が渦巻いている。

 とはいえ、もはや、「やっぱり無しで!」とも、「ちょっと待って!」とも言えない状況だ。

 よく考えてみれば、このアパートに身内以外の女性を招き入れるのは、オレ史上初ではないか。その初めての招待客がアル美となれば、永遠に語り継がれる伝説となるであろう。オレの中で。

 などという、どうでもいい妄想を膨らませているうち、アル美は靴を脱ぎ始めた。反射的にドアを背中で押さえ、「どうぞ」と道を開ける。

 結果、必然的にアル美と至近距離ですれ違うことになる。揺れるショートボブの髪からは、ほのかにシャンプーの香りがした。

「すみません、片付いてなくて」

 そう言いながら、先に通したアル美を、追い掛けるように部屋に戻る。せめてこもった臭いだけでも追い払おうと、窓を全開にした。

 その間、アル美は部屋に上がったところで立ったまま動こうとしなかった。それもそのはずである。沖野の部屋には、腰を落ち着けられるスペースなど存在しなかった。そのことに気づいた沖野は、武藤が来た時にしたように、雑多な荷物を部屋の隅に押しやって、何とか人一人が座れる空間をこじ開けた。

「適当に座っちゃってください」

 と言って、自身はデスクに置いていたノートパソコンをつかみ、ベッドに腰掛ける。

 すると、アル美は何を考えているのか、少しだけ間を空けて、沖野の横に腰を下ろした。

 えっ? ええ~!! マジかよ? そこ座る!?

 沖野は、パソコンを膝の上に乗せた姿勢で固まってしまった。

 確かに、「適当に座って」とは言った。が、沖野の想定では、その〝適当〟の中に、自分の真横は含まれていなかった。

 パソコンのアイドリングタイムを利用して、こっそり横目でアル美の表情を盗み見る沖野。そこには、いつも通り無表情なアル美がいた。

 どうやら、部屋の汚さとか、臭いとかには頓着しないタイプらしい。

 もしかしたら、男の一人暮らしの部屋に上がり込んでいる、ということさえ意識していないのかもしれない。それは、アル美がこういうシチュエーションに慣れているからなのか、よほど問題の動画に気を取られているせいなのか、もしくは自分を男として見ていないだけなのか……。沖野には分からなかった。

 開け放った窓から、微風が吹き込んでくる。その風に乗って、再び沖野の鼻腔をシャンプーの香りがくすぐった。

 ヤバい、ヤバいぞ、この状況!

 沖野は、理性を保つために、パソコンの操作に集中することにした。

 ゴミ箱を開くと、中にはやはり問題の動画データが残っていた。それをデスクトップに救い出し、再生する。

 画面にはすぐ、コックピットからの景色が映し出された。

 当然、編集などしていないので、出だしは波止社屋前の桟橋で、ブルバスターを艀に乗せるところからだった。

 沖野は、進捗状況を示すシークバーの適当な位置をクリックし、余計な部分をショートカットする。と、今度は龍眼島に到着した後、装輪走行モードで市街地を走り抜けている映像に変わった。

 該当の部分は、もう少しいったところに入っているはずだ。

 沖野が再びショートカットすると、スクリーンには茂みをかき分けて進む映像が映し出されていた。

「この後だと思います」

 動画を見るうち、沖野の記憶も鮮明になってきた。あの時の自分は、アル美たちが巨獣と対峙している学校まで最短コースで向かうため、茂みを突っ切っていた。小さな生き物が目の前を横切っていったのは、そのさなかのはずだ。

 見逃しを防ぐため、シークバーで大雑把に映像を飛ばすのではなく、早送りのボタンを押して、問題の映像を見つけに入る沖野。

 すると、ブルバスターの前をサッと何かが通り抜けていくのが見えた。

「これだ!」

 映像を戻し、再生させる。そして、画面の端から生き物が飛び出してきたところで一時停止させた。

 それは、イノシシを一回り小さくしたような生物だった。

 アル美は、肩が触れるくらい沖野に近づいて、画面に目を凝らしている。

 沖野は心の中で、パソコンに集中、パソコンに集中……と念じながら、煩悩を断とうと格闘していた。が、アル美の方は全く意に介してない様子。

 ただ、単に一時停止しただけの映像には限界がある。

「暗くて、よく見えない……」と、アル美が腕組みする。

 そのつぶやきに応じて、沖野は「ちょっと待ってくださいね」と、画像処理ソフトを立ち上げた。

 ロボット工学を専攻していただけあって、パソコン関係にはそれなりに詳しい。専門家クラス……とまではいかないが、人並み以上の知識は持っている。

 沖野は、動画の該当箇所を抜き出し、ソフトで処理を掛ける。最初、ブレブレで体の形さえ判然としなかった映像が、徐々にクッキリしてくる。さらに沖野が画面の明度を調整すると、問題の生物の姿が、はっきり浮かび上がってきた。

 解析が進むにつれ、マウスを握る沖野の手に、じっとり汗がにじみ出してくる。よく分からないが、重大な何かを探し当ててしまったような予感がする。いつもクールなアル美でさえ、緊張で身を固くしているのが分かる。

 最終的に、画面に映し出されたのは、体毛がなく、ヌルッとした表皮の、巨獣を小型化したような生き物だった。

 その個体の最大の特徴にアル美が気づく。

「片目が潰れてる……。やっぱり、昨日のと一緒だ!」

 あくまで画面を通しての印象だが、周囲の草木との対比から、昨夜目撃した個体より、目の前のものの方が、一回り小さいように見える。

 それ以上に、アル美の目を引いたのは、その生物のある部分だった。

「拡大できる?」

 要請に従って、沖野が生物にズームする。

 これでどうですか? という意味でアル美の方を見ると、彼女の目は画面の一点に吸い寄せられていた。

「首……」

 アル美に促されるまま、目を凝らす沖野。すると、生き物の首に何やら人工物が巻き付いていることに気づいた。

「ん? 何だコレ!?」

 沖野が、さらにその部分を拡大する。ズームアップして荒くなった画像に、再び画像処理ソフトで補正を掛けると、気になっていた物がはっきり見えるようになった。

 それを目にしたアル美が突然、沖野が膝に乗せていたノートパソコンをひったくるように、手元に引き寄せた。

「どうしたんですか? アル美さん」

 驚く沖野をよそに、画面に釘付け状態のアル美がつぶやく。

「シロ……」

「しろ?」

 確かに、生物の表皮は白色っぽく見えなくもない。が、それはズームアップする前から分かっていたことで、なぜ今さらそんなことを言うのか、沖野には理解できなかった。

 続いて、アル美の口から聞こえてきた言葉も、沖野を困惑させた。

「イヌ……」

 今度は、イヌ? いったい、どういうこと?

 沖野の混乱をよそに、アル美は叫ぶように言った。

「ウチで飼っていたイヌ!」

 まさか! 沖野は、アル美に向けていた視線を、再び画面に戻した。が、そこにいるのは、飼いイヌなんて呼べるような可愛いらしいものではなかった。

 どこからどう見ても、巨獣を小型化したような化け物である。

 ただ、アル美は、冗談や一時の気の迷いで、そんな突拍子もないことを言い出す人間でない。ここまで言うからには、それなりの根拠があるに違いない。

 そこまで考えたところで、沖野はハタと思い至った。

 首輪か! さっき、アル美の要請でズームアップした人工物。あれは、飼い主なら見間違いようもない、愛犬に着けた飼い犬の印だったのだ。

 いっぽう、アル美にも思い至ることがあった。

 昨日の夜、なぜ自分が水中銃の引き金を引けなかったのか。理由は、もはや明白だった。

 交錯した視線の先にあった化け物の目に、かつての愛犬の面影を見たのだ。

 アル美の全身から力が抜ける。

 沖野は沖野で、混乱の極みにいた。小型巨獣の首に、かつてアル美が飼っていたイヌの首輪が巻き付いていることは分かった。しかし、そこからの考えがまとまらない。

「ちょ、ちょっと待ってください! つまり、アル美さんが飼っていたイヌが、この化け物になったってことですか?」

 アル美は、状況証拠が出揃った今でも、それを認めたくなかった。しかし、認めざるを得なかった。小型巨獣がシロを襲い、殺害した後、首輪が切れないように外し、わざわざ自分の首に巻き付けた……なんてことがあるはずがない。

 沖野の問い掛けに、小さく頷くアル美。

 沖野は、こんなおびえたような表情を浮かべているアル美を見るのは初めてだった。ただ、単におびえているわけではなく、その裏には、悲しさや寂しさといった複雑な感情が入り乱れているように見えた。

 ここに至って、沖野はようやく、アル美が自分のアパートを訪れた、本当の理由を察した。当初は、沖野が初陣のときに見た個体と、アル美自身が昨晩見た個体を照合し、行動範囲の特定にでも役立てようとしているのだと、勝手に思っていた。

 だが、アル美はずっと気になっていたのだ。昨晩、片目の個体に遭遇した際に感じた違和感を。それを確かめずにはいられなかったということだろう。

 いずれにしろ、相当なショックを受けているはずである。しかし、沖野の心配をよそに、アル美の立ち直りは早かった。

 問題の個体に関する事実を、冷静に分析し始める。

「これ、撮影したのって、四週間くらい前でしょ?」

 沖野が、壁に貼ったアニメカレンダーの日付を目で追いながら、「はい」と頷く。

 今さらながら、このカレンダーくらいは、アル美を部屋に上げる前に外しておくべきだったと後悔した。

 ゴミ屋敷の住民かつ重度のアニメオタクって、どんな超絶コラボだよ! と我ながら思う。が、もはや後の祭りであることも十分に分かっている。

 沖野の葛藤など知る由もなく、アル美が分析を続ける。

「昨晩見たシロは、体長二メートル近くあったと思う」

 間近で対峙したからこそ分かる。立ち上がった姿は、明らかに自分の背丈を超えていた。百八十センチ以上は、間違いなくあったはずだ。

 その目撃証言を踏まえた上で、沖野も分析に加わる。

 アル美に奪われていたノートパソコンを、「いいですか?」と言いながらひょいと取り戻し、画像解析ソフトを操作する。対象物のおおよそのスケールを割り出すと、弾き出されたのは、百二十~百三十センチという数字だった。

「一か月もたたない内に、少なくとも五十センチは大きくなっているってことか……」

 そう口にしてみたものの、本当にそんなことが起こり得るのか、確信が持てなかった。というより、相当疑わしい。

 竹は、一日に百二十センチ伸びることもあるというが、しょせんは植物である。シロナガスクジラは、一日に三十センチ、九十キログラムも成長すると言われているが、そもそもサイズ感が違う。シロナガスクジラは、生まれたばかりの赤ちゃんでさえ、体長は八メートル近くあるのだ。

 百二十~百三十センチだった生き物が、一か月足らずで二メートル近くにまで巨大化するというのは、どう考えても異常である。

 しかも、現時点での推論に過ぎないが、その母体となった生き物は、イヌと思われる。常識が通用しないケースであることは間違いない。

 沖野が、真剣な表情で言う。

「生け捕りにしましょう。彼がこれ以上、大きくなる前に」

 その眼差しから、沖野が本気であることはアル美にも分かった。それでも、素直に頷けない事情があった。

「どうやって? 今、波止には船もお金もないんだよ」

 もちろん、アル美も沖野の提案には賛成だった。自分がシロと戦えるはずがないことは考えるまでもなかったし、他の誰かに〝害獣〟として殺されるのも耐えられない。残された道は、生け捕りしかないのだ。

 それに、もし生きたまま捕まえるというプランが実現し、生体を分析することができれば、龍眼島を取り戻すという計画は大きく前進することになる。

 ただ、その手立てがなかった。アル美が今、指摘した移動手段と資金難。さらに、シロが日増しに大きくなっているという事実。これ以上、巨大化したら、生け捕りどころか、大人しくさせることさえ難しくなるだろう。タイムリミットは、かなり差し迫っている。

 二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。

 が、考え込んでいた沖野が、あるアイデアをひらめいた。それによって、すべての問題が解決するわけではなかったが、何もせずに手をこまねいてはいられない。

 沖野は、アル美を真っすぐに見詰めながら、力強く言った。

「僕に考えがあります」


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