第20話

 穏やかだった内湾とは打って変わって、外洋は大シケと言っていいほど荒れに荒れていた。波はまるでそれ自体、生きているかのように、ウネウネとうごめいている。夜の海には、ベテラン漁師でさえ敬遠したくなるような不気味さをたたえていた。

 しばらく走ると、本土からの明りは届かなくなり、周囲は完全な暗闇に覆われた。水上バイクには、そもそもライトが装備されていないので、数メートル先を照らすことさえできない。

 というのも、水上バイクの夜間航行は、法律的に禁止されている。船舶は、法定灯火以外のライトを使用することが禁じられているのだが、水上バイクのような特殊小型船舶には法定灯火そのものが存在しない。ゆえに、夜間航行は事実上、法律違反という理屈になる。

 アル美は、もちろんそのことを知っている。だからこそ、いつもは日が昇った早朝に乗るようにしていたのだ。

 ただ、今は四の五の言っている場合ではなかった。わずかな月明かりを頼りに、暗闇の中を進んでいく。手元のアクセルは、限界まで引き絞られている。

 時折、水上バイクごと飲み込むような高い波が襲い掛かってくるが、アル美は巧みなハンドリングでそれを切り裂き、波間をすり抜けていった。

 やがて、進行方向にひょうたん型の島影が浮かび上がってきた。龍眼島である。

 アル美は、それが見えると抵抗を減らすべく身をかがめ、限界近くまで高めていたスピードをさらに上げた。


 龍眼島東側の岩礁帯。ゴツゴツした岩場に、わずかな砂地が露出している。

 アル美は、ピンポイントでそこに水上バイクを乗り上げた。

 漁船などであれば、南東部にある島唯一の港に着けなければ上陸できない。しかし、元島民のアル美は、ここに水上バイク程度なら横付けできるスペースがあることを知っていた。巨獣の小型版らしき生物が出没した東2eエリアは、ここから目と鼻の先である。

 アル美は、砂浜にヒラリと降り立つと、周囲を警戒しながら、岩場の奥の茂みに分け入った。

 伸び放題になった雑草を、ガザガサとかき分けながら進んでいく。余計な音は極力出したくないのだが、ここは島民さえ滅多に足を踏み入れなかった未開の地。道などあるはずもないのだから仕方ない。

 しばらく進むと、茂みが途切れ、人一人通るのがやっとという細い道に出た。道と言っても、下草を刈っただけの登山道ライクなものなのだが、歩きやすさは格段に変わる。

 その道は本来、島の北東部にある見晴台に出るために作られたものである。しかし、それを道なりに進めば、東2eエリアにも抜けることができる。

 荒れる海で散々波をかぶったため、いまだに髪から水が滴り落ちていたが、アル美がそれを気にする様子はなかった。闇の奥に目を凝らしながら、木々の間をグングン進んでいく。

 ほどなくして林を抜け、開けた場所に出た。モニターに映し出されていた東2eエリアだ。

 先ほどまで広葉樹の葉が頭上を覆っていたので気づかなかったが、いつの間にか雨が降り始めていることが分かった。雲の中では、稲光が渦巻いている。

 アスファルトで舗装された道に出ると、アル美は歩速を緩め、足音を消して進んだ。同時に、背負っていた水中銃を、背中から胸の前に持ち替えた。

 道はなだらかな上り坂になっている。島は全体として、西に行くほど標高が上がるのだが、今アル美が進んでいる道は、それに沿うようなかたちで延びている。左手には東2eエリア住宅街。右手には海岸から抜けてきた林が広がっている。

 日頃、ランニングなどで体を鍛えているアル美だったが、舗装路に入ってから呼吸は早くなるいっぽうだった。と言っても、上り坂がキツいせいではない。理由は、アル美がこの先の光景がどうなっているのか、知っているからだった。

 東2eエリアは、最初に巨獣の被害を受けた住宅エリアである。一年ほど前までは、一軒家が軒を連ね、穏やかな風景が広がる場所だった。しかし、今は巨獣に蹂躙され、朽ち果てたゴーストタウンと化していた。

 割れたガラスや屋根瓦、崩れ落ちたブロック塀が、そこら中に散乱している。伸び放題になった庭の草木は、自然の力強さを感じさせるというよりは、鬱蒼とした不気味さが漂わせていた。転々と立った電柱が、かろうじて往事の人間社会の痕跡を残しているが、切れた電線は力なく垂れ下がり、むしろ廃墟感を増すのに一役買っている。

 アル美は、その光景を思い浮かべただけで、見えない手に心臓を鷲掴みされたような息苦しさに襲われるのだった。

 道に出て三十メートルほど進むと、アル美の足がためらうように止まった。

 できることなら、この先には進みたくない。気持ちが折れかける。しかし、進まないわけにはいかなかった。今、この場所を守れるのは、自分しかいないのだ。

 パイロットスーツの襟の部分に収めていたチョーカーをスルリと引き出し、右手でギュッと包むアル美。

 そのまま、スウッと大きく息を吸い込み、ゆっくりとはき出す。すると、重圧でガチガチになっていた体から、いい意味で力が抜け、表情にはいつものクールさが戻った。

 戦闘態勢は整った。改めて、一歩を踏み出す。

 時折、稲光がフラッシュライトのように周囲を照らす。そのたびに、目を背けたくなるような荒廃した光景をまざまざと見せつけられた。しかし、集中力を高めて臨戦状態になったアル美は、もはや息苦しさを感じることはなかった。

 雨脚は徐々に強まっていたが、天気も自分に味方してくれているとアル美は感じていた。雨は、こちらの足音や臭跡を消してくれているはずだ。

 それに、吹き付けてくる風は、常に向かい風。つまり、こちらが風下にいるということだ。もっとも、巨獣が臭いで敵を察知しているかは定かではない。それでも、狩りの基本に忠実であることは、精神的な後ろ盾くらいにはなった。

 胸の前に水中銃を構え、一歩一歩、慎重に進むアル美。

 と、背後で稲光が起こり、前方の景色をパッと浮かび上がらせた。

 見えたのは、崩れかけた鉄製の門扉と、落ちそうなくらい斜めに傾いた表札。そこには、『二階堂』の文字が彫り込まれていた。

 アル美の脳裏に、平和だった当時の光景がフラッシュバックする。

 六歳。小学校の入学式当日。おめかしさせてもらった自分。すぐ横には、柔らかい笑顔を浮かべた母親がいる。父親は、三脚にカメラを固定し、タイマーをセットしている。デジタルではない、フィルムの一眼レフを使っているのが、父のこだわりだった。「よし、いくぞ」という声と共にこちらに駈け寄る父。三人が横に並ぶと、両親は示し合わせたように、そっと私の肩に手を置いた。パシャリ。フィルムに、自宅前で笑顔を浮かべる幸せな家族が焼き付けられた。

 今、アル美の目の前には、幸せの残骸が無残な姿をさらしている。

 一瞬の回想から戻ったアル美の目に、暗い光が宿る。

 巨獣らしき生物が動き回っていたのは、このあたりのはずだ。どこから現れても不思議はない。雨音の中に、ヤツの立てるノイズが混ざっていないか、アル美は、物陰に身を隠しながら聴覚に全神経を集中させた。

 すると、かつて住んでいた家の方から、ガサッという異音が聞こえてきた。

 モニターで確認したのは、別の家に入り込み、中を荒らしている音だった。自分が到着するまでの間に、わずかばかり移動したということか? よりによって、私の家族の家に。

 アル美は、わき上がってくる感情を抑え、冷静でいなければと自分に言い聞かせながら、かつての自宅の敷地内に足を踏み入れた。

 音を立てないように、瓦礫の山をすり抜け、家の壁伝いに進んでいく。

 そこでもう一度、ガサッという音が聞こえてきた。が、発生源が家の中なのか、外なのかまでは判断がつかない。

 ただ、この状況で家の中に踏み込むのは、あまりにも危険だ。狭い空間では、水中銃の取り回しが厄介だし、障害物の影から突然襲われた場合、対処できない。例え敵が小さかったとしても、取っ組み合いで倒せるような相手でないことは、何体もの巨獣と対峙してきたアル美にはよく分かっていた。

 このまま壁沿いに裏庭に回り込み、そこで待ち伏せする。それが最善の策に思えた。

 水中銃は、すでに目の高さに構えている。敵が現れたら、照準を合わせて引き金を引くだけだ。

 足音を殺し、すり足のような状態でジリジリ進む。と、壁の先の裏庭が視界に入ってきた。静かに息を吐き出し、呼吸を整える。

 いったん、水中銃を胸まで下ろし、壁に背を預けながら裏庭の状況を確認する。

 動くものはない。耳を澄ませても、聞こえてくるのは雨音ばかり。さっき聞こえた異音が、空耳であったかと思えるほど、何の気配も感じられなかった。

 が、地面に目を移すと、そこには目を疑うほどの、巨大な足跡が残されていた。その足跡は、かつて母が大切にしていた花壇を踏み荒らしていた。一歩の長さが、八十センチはあるだろうか。その足跡の持ち主が、いったいどれくらいの体格なのか、即座には思い浮かべることができない。

 ただ、モニター越しに見た個体が、この足跡をつけた張本人とは思えない。だとしたら、以前、この場所に侵入した別の個体がいたということだろうか。それとも、そのサイズの巨獣が、今もこの付近に身を隠しているということだろうか。

 にわかに、アル美の頭が混乱する。

 もし、今の装備で、この足跡の主と遭遇しては、対処のしようがない。逃げるより他ないどころか、逃げることさえままならないかもしれない。

 考えがまとまらないうちに、ガチャンという衝撃音が聞こえ、家の中から何かが飛び出してきた。

 監視カメラが捉えていた、あの生き物だ。

 モニターでも確認できた通り、体毛はなく、表皮は湿り気を帯びたようにヌメっとしている。牙を剥き出した顔は、今までアル美が何度となく見てきた、巨獣のそれだった。小さくなっても、その気色の悪さ、禍々しさは健在である。

 体長は一メートル八十センチほど。巨獣の小型版といった印象だ。

 巨大な足跡を目にして、混乱し掛けていたアル美だったが、目の前に敵が現れたことで、逆に冷静さを取り戻すことができた。

 半身になって身を隠していた壁際から横に一歩出て、水中銃を構えるスペースを確保する。アル美が、敵の頭部を照準内に収めるまでに、家から小型巨獣が飛び出してきてから三秒も掛からなかった。判断の速さと行動力は、アル美の武器でもある。

 次の瞬間、敵もアル美の存在に気づき、振り返った。自分に突きつけられているものが何なのか、巨獣が理解しているとは思えなかったが、少なくとも自分に敵意が向けられていることだけは分かったのだろう。小型巨獣は、グルルルゥーとうなり声を上げながら、アル美をにらみつけてきた。

 と言っても、周囲を照らしているのは、雨雲からわずかに差し込んでいる月明かりのみ。相手の視線まで、はっきりと見えているわけではない。

 ただ、両者の距離は、わずかに五メートル。引き金さえ引けば、確実に仕留められる距離である。

 そのとき、稲光が起こり、敵の姿が暗闇の中にくっきりと浮かび上がった。と同時に、小型巨獣と視線が交錯する。

 敵の片目は潰れていた。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。

 今だ! 引き金を引くんだ!

 アル美の脳が、体に指令を出す。しかし、引き金に掛けた指先は、本人の意志に反して動かなかった。

 まさか? なぜ……、なぜ撃てない!?

 アル美の頭が再び混乱する。恐怖心で硬直しているのか? いや、そんなはずはない。体に震えは感じられないし、呼吸も正常を保っている。だったらどうして? こんな状態で襲い掛かられたら、ひとたまりもない!

 だが、動けないでいるアル美から殺気が消えたせいなのか、小型巨獣は、急に興味を失ったかのように、スッと体の向きを変えると、そのまま茂みの奥に姿を消してしまった。

 それを、目で追うことしかできないアル美。

 敵の姿が完全に見えなくなると、一気に脱力して、思わずその場にへたり込んでしまった。自分が、こんな状態になるなんて思ってもみなかった。気持ちさえ切り替えれば、いつでも冷静な自分でいられる。そう確信していた。今までは。

 全身から、どっと汗が噴き出す。

 なぜだ?

 引き金を引けなかった自分に対する疑問だけが、グルグルと頭の中を回っている。あの瞬間、自分を縛り付けたものは何だったのか?

 ただ、自分への猜疑心に混乱するいっぽうで、憎むべき敵を目の前にしながら仕留められなかった悔しさもあった。私はいったい、何のためにここに来たのだろう……。

 複雑な感情が入り交じり、アル美はしばらく、その場から動けなかった。

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