第19話

 日没前。波止前の岸壁を波が洗っている。相変わらず風が強い。

 防災スピーカーは、繰り返し波浪警報が発令中であることを告げている。

 海上に低気圧が居座っているのだろう。空の色は鈍色に沈み、これからますます天候が悪化することを予告している。

 事務所の窓から、外の様子を眺めていた田島は、この荒天が良からぬことの前触れになるのではないかと、妙な胸騒ぎを覚えていた。

 と言っても、未来のことを危惧するまでもなく、良からぬことはすでに起きていた。

 田島はこの日、片岡やみゆきと手分けして、結局三百件以上の関係各所に電話を掛けた。途中、前もってピックアップしていた、〝もしかしたら船を貸してくれるんじゃないかリスト〟は弾切れとなり、改めて候補を洗い直して連絡先を追加したのだが、それでも駄目だった。

 電話を掛ける→断られる。電話を掛ける→断られる。

 この日分かったのは、その無限ループを一日中繰り返していると、人間不信になりかけるということだけだった。

 精神的に疲弊し、揃ってヘトヘトの状態。田島は、明日、仕切り直して戦略から見直すことを提案し、片岡とみゆきを帰した。

 実質の残業時間は、一時間余りだったが、二人の疲労度は気になった。明日、ちゃんと出てきてくれるだろうか。片岡とみゆきのことだから、欠勤するようなことはないだろうが、心が折れかけているのは間違いない。明日の朝までに、少しはリフレッシュしてくれていればいいのだが……。

 ただ、田島自身はまだ、家に帰って休む気にはなれなかった。

 島民たちとの会合のさなか、天恵のようにひらめいた、ガスと巨獣の定説とは違う関係性。それが電話を掛けまくっている間も、ずっと頭のどこかに引っ掛かっていた。

 田島は、デスクの引き出しから、一冊のファイルを引っ張り出し、ペラペラとページをめくった。と、目当ての資料が見つかり、手を止める。

 それは、シオタバイオから提出された、ガスの成分分析表。そこに何かヒントがあるのではないかと、改めて自分なりに検証してみることにしたのだ。

 とはいえ、田島は化学のスペシャリストではない。元々は、塩田化学という総合化学メーカーに勤めていたのだが、任されていた業務内容は、主に取引先との交渉や、現場と開発の間を取り持つ調整役。化学への造詣は極めて薄い。

 案の定、資料に書かれた化学式や専門用語がまったく分からず、早々にネット検索に頼ることになってしまった。

 田島は、解析作業を続けながらも、前日自分が島民たちに言ってしまった〝任せてください宣言〟についても思いをめぐらせずにはいられなかった。

 あの場でそう言ったこと自体は、今でも間違っていたとは思っていない。むしろ、先行きへの不安で恐慌に陥りかけていた島民たちの精神状態を安定させるには、必要な方便だったと思う。

 ただ、別段根拠があって言ったことではないだけに、自分の勘が正しいのか否か、田島自身、大きな不安を感じているのは確かだった。

 ガスの発生源は、巨獣自身にある。その仮説が正しいとすれば、考えられるのは、ヤツらの吐く息か排泄物か……。

 しかし、波止としてこれまで何度か、巨獣と接近戦を演じたことがあるのだが、ヤツら自身からガスが発せられているのを確認したことは一度もない。実際に臨場した武藤やアル美からも、そういった報告は上がってきていなかった。

 もちろん、プロパンガスや都市ガスのように無色無臭で、人間の感覚では感じ取れていないだけかもしれない。家庭用のガスが臭いのは、漏出をいち早く察知できるように、わざわざ臭いをつけているから、と聞いたことがある。ただ、死骸を分析しているシオタバイオの解剖班が、ガスについて一度も言及してこないところを見ると、呼気や排泄物が原因ではないということか。

 だとしたら、例えば、交配の際に生殖器から分泌されているとか……。可能性を考えたら、それこそ無限に存在する。ただ、それでも手掛かりになる何かを、見つけることができれば、波止にとっても島民にとっても大きな前進になる。

 田島は、資料とパソコンにかじりつくように、独自の解析を続けた。


 事務室の奥にある宿直室。

 三畳ほどのスペースに、金属製のロッカー、簡易ベッド、サイドチェストだけが置かれた殺風景な部屋。窓はあるものの、建物の裏手に位置しているため、日中でもほとんど日の光は差し込まない。

 ベッドには、アル美が横たわっている。毛布にくるまり、壁の方を向いている。が、寝ているわけではなかった。

 この日の夕方、宿直当番として出勤してくると、筋トレをしていたらしい武藤が、倉庫前で汗を拭いていた。アル美が目礼であいさつすると、武藤は「おう」と手を上げたが、その素振りはどこかよそよそしく感じられた。

 その後、アル美は二階の事務室に上がるなり、更衣室も兼ねているこの部屋でパイロットスーツに着替え、ブルバスターの操縦訓練を始めた。すると、定時退社の武藤が、こちらに恨めしそうな視線を送りながら帰っていくのが見えた。

 一通り訓練を終え、宿直室に入ったのが、夜の十時。

 寝返りを打ってサイドチェストの上に置かれた目覚まし時計に目をやると、時刻は深夜零時を少し回ったところだった。もう二時間も寝付けないでいることに気づく。

 ベッドの上で身を起こすアル美。少しの間の後、何かを決意したように、毛布を払いのけて床に降り立つ。ベッドの上に無造作に放っておいたパーカーを手に取り、タンクトップの上に羽織ると、部屋を出た。


 自分のデスクで、黙々とキーボードに何か打ち込んでいる田島。パソコン画面と手元の資料に視線を行き来させているところを見ると、どうやら何かしらのデータを入力しているようだ。

 部屋の照明はほとんど落とされているが、田島の真上の蛍光灯だけがオンになっている。そのため、部屋の中で、田島の周囲だけがぼんやりと浮かび上がっていた。

 作業に集中していた田島だったが、気配に気づいてふと顔を上げると、宿直室に繋がるドアの前に、アル美がたたずんでいた。

「二階堂君、寝てなかったの?」

 田島の問い掛けに、アル美が応じる。

「ちょっと寝付けなくて……」

 田島は、まあそういうこともあるだろうと、さして気にもせずパソコンに向き直り、入力作業を再開させた。

 が、しばらくしても、アル美がその場を動く様子はない。不思議に思って再び顔を上げると、アル美がじっとこちらを見ていた。

「ん? どした?」

 手を止めて、意図を尋ねる田島。しかし、アル美はスッと視線を外すと、そのまま黙っている。いつもサバサバしているアル美には珍しい反応だ。

「何かあったか? 言いたいことがあるんなら、言ってくれ」

 アル美は、逡巡しているのか、しばらく左右に瞳を揺らしていたが、やがて意を決したように、田島の目を見ながら口を開いた。

「あんなこと、島の人たちに言って、大丈夫なんですか?」

 思い当たる節はひとつしかない。今、まさに田島が調べていることだ。

「巨獣がいなくなれば、ガスが無くなるって話か」

 アル美が、目を合わせたまま「はい」と頷く。

 その真っ直ぐな視線を受け止めきれなくなったのか、今度は田島の方が視線を外し、窓の外に目を向けながら言った。

「分からん。正直に言うと根拠はない。でも、もしそうだとしたら、希望が持てる。どうしたら島に戻れるか、それが分からないから、みんな不安に思っているんだ。巨獣さえいなくなれば、島の暮らしを取り戻せる。今の我々に必要なのは、そういうシンプルさじゃないかと思う」

 アル美は、田島の説明に納得がいかなかったようで、すぐさま反論した。

「そうやって安易に希望を持たせることが、信頼を失うことに繋がるとは思いませんか? 島の人たちは、波止が唯一の拠り所なんです。期待を裏切ることだけは、絶対にしたくありません」

 田島は、「もちろん」と答えたものの、それにも別段根拠があるわけではなかった。そのニュアンスを敏感に感じ取ったアル美が、さらに追究する。

「会社の財務状態が良くないのは分かっています。新しい船の調達のめども立っていないことも知っています。巨獣の生態の分析だって、ちっとも進んでいない。こっちがモタモタしている間に、いつ巨獣が現れて、島を荒らし回るか分かりません。こんな状況で、巨獣を殲滅できるなんて、到底思えないんです。希望なんて耳障りのいい言葉を使って、島の人たちをだますのはやめてください!」

 アル美は、わき上がる思いを言葉にして、一気にぶつけた。

 田島にとって、耳の痛い話ばかりだった。ただ、誤解しているところがたぶんにある。田島は、せめてそれを解こうと話し始めた。

「私は、島の人たちをだまそうとしてなんて……」

 しかし、アル美はそれも遮って、思いをはき出した。

「耐えられないんです! これ以上、化け物なんかに島を踏み荒らされるのを見るのが」

 田島には返す言葉がなく、黙り込んでしまう。

 と、突然、けたたましい警報音が事務所内に鳴り響いた。

 二人は、音が聞こえるや否や、弾かれたように動き出し、管制室に飛び込んだ。


 ズラリと並んだモニター群。

 そのひとつに、何かが横切った。

 管制室に入るや否や、目ざとくそれを見つけたアル美が、問題のモニターに駈け寄る。

 動体視力が落ちているせいか、あるいは老眼が進んでいるせいか、田島は、何かが横切った瞬間をまんまと見逃していたが、素直にアル美に追従して同じモニターをのぞき込んだ。若者の方が、優れた能力を発揮する場面があることは、前々から心得ている。

 二人が凝視しているのは、東2eエリアの様子をライブで映し出している監視カメラの映像。東2eエリアは、島の中央東部にある住宅街である。

 しかし、住宅街と言っても、今は建物の多くが損傷、あるいは半壊しているため、廃墟のような荒廃した雰囲気が漂っている。

 また、島民が島を出てから約一年。電気はストップしたままで、当然、街灯などの照明があるはずもない。月明かりのお陰で真っ暗闇ではないが、映像はかなり見にくかった。

 それでも、目を凝らしてモニターを注視していると、瓦礫と瓦礫の間を、何かが一瞬で走り抜けるのが見えた。

「巨獣!?」

 アル美が、姿を確認しようと、さらにモニター顔を近づける。

 今度は田島の視力でも、アル美と同時に動く何かを捉えることができた。しかし、田島にはその生き物が巨獣には見えず、

「いや、小さい!」と別の何かである可能性を示唆した。

 モニター越しで、かつ映像の暗さもあり、断言はできないが、大きさはせいぜいイノシシくらいのものに思える。

 ペットや家畜は、島民の避難と同時に本土に移送したので、それらである可能性は高くないだろう。だが、野生動物はその限りではない。島には元々、野生のシカやタヌキが生息していた。そうした野生動物が、無人化した住宅街に姿を見せたとしても不思議はない。

 しかし、その説はすぐに否定された。次に画面を横切ったとき、一瞬立ち止まったおかげで、その生物の特異な姿が見て取れた。アル美が鋭く指摘する。

「毛がない!」

 サイズこそ小さいものの、ヌラリと湿ったような表皮の質感は、完全に巨獣のそれだった。今まで対峙したことはなかったが、今モニターの前を行き来している生物が、〝巨獣の幼体〟ということだろうか? 二人の表情が、さらに険しさを増す。

 次の瞬間、監視カメラの集音マイクが、けたたましい破壊音を拾った。建物周辺の瓦礫の間を移動していた問題の生物が、今度は窓ガラスを割って家屋の中に侵入したらしい。

 それを察知したアル美が、いても立ってもいられなくなったように、「行きます!」と言って、出口の方にダッと駆け出した。

 出動やむなしと判断したのか、田島もその後を追って管制室を飛び出す。


 倉庫前。

 田島が、壁際のボタンを押すと、ガシャンという騒々しい音と共に、閉まっていたシャッターが上がり始めた。

 それが上がりきる前に、パイロットスーツ姿のアル美が、外の鉄階段を駆け下りてくるのが見えた。

 えっ、もう? 田島が驚きで目を丸くする。

 管制室を出た後、田島はまっすぐ事務室のドアに向かい、出撃のサポートをするべく、倉庫のシャッター前にやってきた。

 いっぽう、アル美は管制室を出ると、パイロットスーツに着替えるため、宿直室、兼更衣室に向かった。

 つまり、シャッターが上がる二十秒程度の間に、着替えを終えて、ここに現れたということだ。熟練の消防士だって、これほど早くは出動できないだろう。おそらく、緊急事態に備えて、人知れず着脱のトレーニングをしていたのだ。田島は、そういう抜かりのなさが、アル美らしいなと舌を巻いた。

 いっぽうアル美は、感心している田島の横を風のようにすり抜けると、ブルバスターに駈け寄り、ヒラリとステップに飛び乗って、瞬く間にコックピットに消えた。

 一連の動作の淀みなさに、またも目を見張る田島。日々、トレーニングを重ねていることは、もちろん知っていたが、これほど短期間の間に、ここまでのレベルに達しているとは。努力だけではない、生来のセンスを感じる。

 ほどなくして、ウィーンという起動音が聞こえ、ブルバスターが動き出した。

 その場で方向転換して開閉済みのシャッターの方に向き直ると、装輪走行モードで桟橋に向かう。

 が、社屋前の広場に出たブルバスターが、突然、その場で動きを止めた。

 何事かと、田島もブルバスターが顔を向けている先に視線を移す。

 と、そこには思ってもみなかった光景が広がっていた。

「船がない!」

 コックピット内のアル美と倉庫前の田島が、ほぼ同時に同じことを言った。

 桟橋に係留していたはずの運搬船が、忽然と消えている。

 理由について、田島には思い当たる節があった。

「成瀬さんだ! いつの間に持って行っちゃったんだ?」

 成瀬とは、言わずもがな、運搬船として漁船を提供してくれているタコ壺漁師である。緊急出動に備えて、エンジンキーは付けっぱなしにしてあった。取り返そうと思ったら、いつでも持ち去れたことだろう。

 ただ、深夜零時を過ぎて日付をまたいだとはいえ、返却期限までは、あと二日あるはずだ。それをなぜこのタイミングで? 田島が歯噛みする。もしかしたら、早めに船を引き上げるという後ろめたさもあって、黙って持って行ってしまったのかもしれない。

 ただ、今は成瀬の行いに、恨み言をぶつけている場合ではなかった。

 ブルバスターのハッチが開き、アル美がコックピットから身を乗り出して田島に問い掛ける。

「代わりの船、無いんですか?」

 素早く頭をめぐらせる田島。が、そんなものがあったら、最初から苦労していない。無い袖は振れないとは、まさにこのことだ。

 アル美は、フリーズしてしまった田島を見て、状況を察した。

 すると、何を思ったか、コックピットから飛び降り、ブルバスターをその場に残して、倉庫の方へダッシュで戻っていった。

 田島があ然としていると、水中銃を背負ったアル美が、パイロットスーツのまま飛び出してきた。そして、一切迷いのない動きで、建物の脇に停めてあった自分の自転車にまたがる。

 そこで、ようやく我に返った田島が呼び止める。

「どうするつもりだ!?」

 その声が聞こえてきたときには、アル美はすでにペダルをこぎ始めていた。

「島に行きます!」

 田島の方を振り返りながら、アル美が答えた。

 しかし、田島が「どうやって!?」と次の問いを発したときには、アル美はすでに波止工業の敷地を出るところだった。

「二階堂君!」

 田島が呼んだ名前は、誰の耳にも届くことなく、夜の闇に消えた。


 前傾姿勢で、懸命にペダルを漕いでいるアル美。

 海沿いの道を、猛スピードで走り抜けていく。

 やがて前方に、海岸から突き出た防波堤が見えてきた。その根元にプレハブ小屋のような建物がちんまりと建っている。屋根に掲げられた看板には、『マリンレンタルショップ』の文字。

 アル美は、走ってきた勢いのまま国道を折れ、ショップ前の空きスペースに自転車を乗り入れた。そこが目的地かと思いきや、防波堤の上をさらに疾走し、先端付近で急ブレーキ。車体は、ドリフトでもするかのように、横滑りして止まった。

 防波堤の内側は、入江状になっていて、外洋と比べて海は凪いでいる。その内湾に五台ほどの水上バイクが並んでいる。

 迷うことなく、そのうちの一台に駈け寄るアル美。手慣れた様子で座面後ろの収納ボックスを開ける。と、中に鍵が入っていた。

 アル美の脳裏に一瞬、レンタルショップのオーナーの顔が浮かぶ。日焼けした白髪の男性。アル美にとっては、幼少期からよく見知った顔だ。避難する前までは島で同じような店を出していたが、今は本土にこの仮店舗を構えている。

「好きなときに使ってくれていい」

 アル美は、オーナーの男性からそう許可されていた。植木鉢の下に隠したアパートの鍵のように、エンジンキーの〝保管場所〟を知っていたのもそのためだ。

 波止と自宅を往復するだけの暮らしをおくっているアル美だが、唯一と言ってもいい気晴らしが、ここに来て人知れず水上バイクを駆ることだった。

 夜勤明け、風を切りながら日の出直後の海を走っている瞬間だけは、胸の奥に溜まり続けているモヤモヤが、少しだけ忘れられた。

 船がないことが分かり、どうすれば島に渡れるか考えたとき、真っ先に思い浮かんだのが、この水上バイクだった。ブルバスターで島に乗り込むことはできないものの、身ひとつであれば渡航できる。

 危険であることは十分承知している。ただ、破壊された家々の映像が頭をよぎるたび、恐怖心は薄れ、ふつふつと怒りがわき上がってくる。アル美は、島を守るために、海を渡らずにはいられなかった。

 差し込んだキーをひねると、ブルルンという小気味良いエンジン音が聞こえてきた。握り込んだハンドルを手前に回転させると、水上バイクは一気に加速し、入江から外海へ、猛烈なスピードで飛び出していった。


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