第18話

問題が発覚してから三日後。

 波止工業からバスで二十分の木造アパート。一階東側の角部屋。

 沖野が一人、膝を抱えて毛布にくるまっている。

 夜中、一応、ベッドに横になってみたのだが、結局、空が白み始める今まで、一睡もすることができなかった。

 田島が島民たちにひと演説ぶった次の日の朝、沖野は波止の事務室まで来るよう呼び出された。応接コーナーでは、田島と片岡。そして蟹江が待っていた。

 促されるままソファに腰を下ろすや否や、片岡から手渡されたのは、『懲戒処分通知書』と書かれた一枚のコピー用紙だった。

 細かい文面は覚えていないが、そこには、『守秘義務を怠ったことにより、社則に従って、一週間の出勤停止を命じる』という旨が書かれていた。

 片岡から書類を手渡された後、厳しい口調で蟹江に言われたことを思い出す。

「この大甘な処分は、アンタが許されたからじゃないからね。アンタがまだ、波止さんや島の人たちのためにできることがあると思ってもらえたからこその温情なんだ。それを忘れるんじゃないよ!」

 その後、田島が結論に至るプロセスを説明してくれた。

「蟹江社長はね、最初、君を出向停止、つまり波止をクビにしてくれと言ってきたんだ。でも、私はそれに反対した。理由が分かるかい? それは、ウチにはまだ、どうしても君が必要だからだ。ブルバスターの機械的な調整や、操縦の指南には、専門家の力が必要だからね」

 さらに、片岡が実務的なことにも言及した。

「実際問題、今、君に戻られてしまうと、困るんだ。君のことはすでに、社員としてシフトに組み込んでしまっているからな」

 二人の言葉は、少なからず心に染みた。でも、だからこそ、たくさんの人に迷惑を掛けてしまったという思いが強くなる。

 最後は、蟹江にこう釘を刺された。

「勘違いするんじゃないよ。アンタが求められているのは、才能や知識じゃない。どう会社の役に立つかだ。この一週間で、それをよく考えるんだね!」

 言う通りだと思う。軽はずみな行動の結果、自分では責任を取りきれないほどの大変な事態を招いてしまった。

 しかし、田島たちは、それを冷静かつクレバーにフォローしてくれ、最終的には、むしろポジティブと言える方向に風向きを変えてしまった。

 これが、社会人として数々の修羅場をくぐり抜けてきた、大人の立ち居振る舞いなんだ……と、沖野は改めて思い知らされた。

 では、自分はどうか?

 たいして苦労することもなく、トントン拍子で蟹江技研に就職が決まり、先輩社員をごぼう抜きしてブルバスター開発という重要な役割を任された。ロボット開発において、自分は天才であるという自負は、今でもある。

 ただ、どんなに才能があっても、どんなにその分野に秀でていたとしても、事を一人で成し遂げることは絶対にできない。ましてや、ロボット開発という多様な技術が盛り込まれたものならなおさらだ。たくさんの人の手が入って、初めて仕事が成立する。

 自分ではすっかり一人前の技術者、一人前の社会人になったと思っていたが、まだ大人にさえなりきれていなかったということだ。

今、沖野は、その甘い処分をどう受け止めればいいのか、気持ちを整理できずにいた。「クビにならなかっただけマシか……」などと、ノーテンキに考える余裕など当然ない。どうせだったら、もっと厳しい処分を下してくれた方が、気が楽だったかも知れない……とさえ思う。

 自分に期待し、後ろ盾になってくれていた蟹江に迷惑を掛けていることも辛かった。

 処分を通告され、家に戻るよう指示されてからの帰り道、沖野はどこをどう歩いてアパートに戻ったのか、まったく覚えていなかった。会社を出てから家に着くまでに経過した時間を考えると、いつものようにバスに乗って真っ直ぐ帰ってきたわけじゃないことは確かだ。が、その間の記憶がスッポリ抜け落ちている。

 おそらくは、防波堤から海を眺めてみたり、公園のブランコに揺られてみたり、繁華街をあてもなくほっつき歩いたりしているはずなのだが、全然思い出せない。

 気づいたら、自分のベッドに寝そべり、ただ天井を見上げていた。

 新ホームページのオープンを祝した飲み会に参加したのが、今となっては遠い昔のことのように思える。ただ実際は、わずか三日前の出来事である。

 その間、沖野はほとんど寝ていなかった。ベッドに横たわりながら、うつらうつらしたことはあるが、眠りそうになるたびに、体の奥からわき上がってくる不安と絶望によって、現実に引き戻されてしまうのだ。

 目の下の隈は時間を追うごとに濃くなっている。しかし、今は鏡を見る気力さえないため、やつれた自分と対面して、さらなる絶望感にさいなまれることはない。それは、不幸中の幸いとも言えた。

 スマホの電源は、切ったままになっている。

 無人島に何かひとつだけ持っていけるとしたら? という質問に、迷わずスマホと答える人種にとって、スマホの電源を切りっぱなしにすることは、自身の活動スイッチをオフにしているに等しい。それでも沖野は、電源を入れる気になれなかった。

 スマホという小さな機械には、今や人の幸せや喜びのほぼすべてが詰まっている。

 SNSに上げられている情報は、ほとんどが生活の充実ぶりをひけらかす自慢話や、楽しい日常を綴った独りよがりの報告である。

 いつもであれば、それらを読み飛ばしたり、何なら『いいね』を押す余裕すらある。だが、今の沖野は、それを目にするだけで辛かった。

 自室で膝を抱えたまま、思考の迷路の中で身動きが取れなくなってしまった沖野。

 耳には、鳥のさえずりや、朝練に向かう中高生の話し声や、ジョギングに出掛ける隣人の足音が届いていたが、そのどれもが頭蓋骨の中を通り抜けていく、無意味な雑音でしかなかった。

 朝は来ている。が、この三日、沖野の頭上にだけは、朝日が昇っていなかった。

 と、玄関から扉を叩く音が聞こえてきた。

 トントン。

 沖野は反射的に、パソコンデスクに置いたデジタル時計に目をやった。時刻は七時半。宅配便の配達員がやってくるには、まだ早い。

 朝帰りの酔っ払いだろうか? 以前、この部屋に住んでいたという中年男が、酩酊状態で押し掛けてきたことがあった。そのときは単に、古い記憶の帰巣本能がはたらいただけのようだったが、まさかまたあのオッサンじゃないだろうな。

 とにかく、こんな朝っぱらからやってくる来客が、まともな人間であるはずはない。沖野は、肩に掛けていた毛布を頭からかぶり、居留守を決め込むことにした。

 ところが、ノックの音は鳴り止まない。

 トントン。トントン。

 それでも無視し続けていると、今度は聞き覚えのあるダミ声が聞こえてきた。

「おい、沖野!」

 やっぱり、酔っ払いだ! 声の主は、武藤である。

 予想外の珍客に、どうしていいか分からず思考が停止した沖野。

 すると、今度は扉を叩く音が、ドンドンドンという激しいものに変わった。

「沖野! いるんだろ?」

 呼び掛ける声も、最初のものより五割増しになっている。

 借金取りかよ! 沖野は、仕方なくかぶっていた毛布をおろし、ドアに向かうことにした。これ以上、大きな声を出されたら、今後の近所関係に支障をきたしてしまう。

 入口のドアを開けると、武藤がズーンと仁王立ちしていた。手にはなぜか、パンパンに膨らんだ大きなレジ袋を持っている。

「武藤さん……」

 いったい何しに来たのか? 思考停止状態が続いている沖野は、目の前に現れたゴツイ先輩社員の名を口にするだけで精一杯だった。

 いっぽう、武藤は、空いた手を腰に当て、ややわざとらしく困惑の表情を浮かべながら言った。

「お~い、男のハダカなんて見たかねぇよ!」

 沖野は、そこでようやく、自分がパンツ一丁で玄関先まで出てしまっていることに気づいた。

「ああっ、す、すみません!」

 慌てて部屋に戻り、床に脱ぎ散らかしていたTシャツと短パンを着る。そうしている間に、「ちょっと、邪魔するぜ!」と言いながら、武藤がズカズカと部屋に入ってきてしまった。

 沖野の戸惑いなどお構いなしに、無遠慮に部屋を見回す武藤。勝手に入ってきておいて、無礼千万なことを言う。

「しかし、きったねぇー部屋だな」

 確かに、そう言いたくなるのも無理はない。ワンルームの部屋には、コンビニ弁当の弁当がらや、まだ底に汁が残ったカップ麺の容器、空のペットボトルなどが、あちこちに転がっている。キッチンのシンクには洗い物が溜まり、その周辺には未分別と思われるゴミ袋が積み上げられている。

「ヤベーよ、コレは。ゴミ屋敷になっちまうぜ。つうか、半分なってる」

 沖野は突っ立ったまま、傍若無人な武藤の振る舞いをボーっと見ていたが、ゴミ屋敷と指摘され、とりあえず目についたゴミを隅に寄せた。

 武藤は、それによって空いたスペースにドカッと腰を下ろすと、沖野の顔を見上げながらのたまった。

「何だよ、ゾンビみてぇなツラしやがって」

 そう言うと、手にしていたレジ袋を、「ホレ」と沖野の方に差し出した。

 袋には、日本で初めて二十四時間営業を始めたことで知られる、スーパーのロゴが入っている。

「どうせ、なんも食ってないんだろ?」

 沖野が袋の中をのぞくと、中にバナナ、リンゴ、ヨーグルトなどが入っているのが見えた。病人じゃないのに、お見舞いのようなラインナップである。

「みゆきが、お前のこと心配だから見てこいって」

 食料は、二人からの差し入れということだろう。

 沖野は、そこでようやく武藤が来た理由が分かり、ボソリと謝意を口にした。

「ありがとうございます……」

 ただ、食べ物を口にする気にはなれなかった。思い返してみれば、問題が発覚した三日前の夜から、まともな食事をしていない。それでも腹が減ったという感覚はなかった。むしろ、空腹という感覚そのものを忘れてしまってさえいる。

 武藤は、沖野が土産に手を付けようとしないのを見ると、ため息交じりに話し始めた。

「事情は全部聞いたよ。ったくさぁ、スマホとか、もうなくなっちまえばいいのにな」

 武藤はゴリゴリのガラケー派である。

「お前ら若いヤツってのは、何でそんなにスマホばっかりやってるんだ? ウチの娘なんか、朝から晩までずーっとスマホ。テレビとか漫画には見向きもしねぇの。いや、娘の話はいいんだが……。これでまあ、お前には、ちょうどいい薬になったろ」

 武藤の話が一区切りつくと、沖野は力無くベッドの上に座り込んだ。

 完全に生気を失っている姿を見た武藤が、励ますように言う。

「でも、思ったより動画は広がってないみたいだからな。不幸中の幸いってやつだ。お前はあと四日、頭冷やして反省しとけ」

 それを聞いた沖野が、うつむいたままモゴモゴと反応する。

「あ、いえ……」

 武藤は、シャキッとしない沖野を見据え、「何だよ?」と話を促した。

「いろいろと、お世話になりました、というか……」

 沖野が口にしたのは、過去形のお礼だった。武藤がポカンとして、「はあ?」と間抜けな声を発する。

「短い間でしたが、いろいろとお世話に……」

 最後まで言い終わらないうちに、沖野は言葉に詰まり、目からポロリと涙をこぼした。握りしめた拳の上に、滴が落ちる。

 泣くつもりはなかった。が、涙は次から次にあふれてきて、肝心の言葉が出てこない。

 突然、泣き出してしまった沖野に、いつもあっけらかんとした武藤も、さすがに面食らい、どうしていいのか分からなくなる。所在なく視線を泳がせていると、沖野の背後のパソコンデスクに、一通の封筒が置かれていることに気づいた。

 その表書きに、『退職願』の文字が見える。

 武藤は、驚いて立ち上がり、その封筒を手に取った。

「おい、沖野。これは何だ?」

 そちらに目を向けずとも、武藤が何を手に取ったのかが分かった沖野は、うつむいたままの姿勢で言った。

「いろいろとご迷惑をお掛けしたので……」

 武藤が、驚いた表情で真意を問いただす。

「お前……、マジか?」

「はい……」

 下を向いているので、武藤には沖野の表情は分からなかったが、声のトーンから、考えた末のことであることがうかがえた。

 文面は昨晩、ネットで〝退職願〟スペース〝書き方〟と検索して書いた。テンプレートの部分以外にも、吐露したい胸の内は山ほどあったのだが、それを書き込むだけの精神的な余裕はなかった。結局、書面には、必要最低限のテンプレ通りの文章を綴っただけだった。

「もうダメです……。疲れちゃいました。頑張るの、疲れちゃったんです。僕、波止の皆さんにはどう映っていましたか? 明るく見えていましたか? でも、本当の僕は内向的で、学校に行っても、何だか居場所がないような気がして、自分の殻に閉じこもっちゃうような人間なんです。そういう自分が嫌で、就職を切っ掛けに、もっとポジティブに生きようって。そうしたら、あれよあれよという間に新型ロボットの開発を任されて、それを実戦で使う機会まで与えられて……」

 沖野の口から止めどなく思いがあふれてくる。武藤は、それを黙って聞いていた。

「正直、誰かに自慢したかった。僕のことを見下していた同級生たちを、見返してやりたかった。たまに、SNSとかのぞくと、中学や高校の同級生の中には、苦労して入った学校を中退したり、就職活動に失敗して仕事にあぶれてるヤツもいる。そういう連中に、どうだ、今の僕はこんなにスゴイんだぜって見せつけたかった。だから、スマホで撮影なんかして……」

 沖野自身、それが言い訳になるだなんて思っていない。しかし、口にせずにはいられなかった。

「蟹江技研に入って、波止に出向になって、僕の夢はどんどんかなっていった。それがうれしくて、いつの間にかテングになっていたんです。でも、もう、夢の時間は終わりです。せっかく見つけた居場所も、自分の手で台無しにしてしまいました。やっぱり僕は、そういうヤツなんです」

 沖野は、胸の中に淀んでいた思いをすべてはき出すと、ボロボロと涙をこぼした。落ちた滴が、拳の上を次々に滑り落ちていく。

 武藤は、退職願を手にしたまま、棒立ちでそれを聞いていたが、沖野がすべてを吐き出したと見ると、突然声を荒らげた。

「バカ野郎!」

 その怒声に、うつむいたまま体をビクンと硬直させる沖野。武藤が、それを見下ろしながら続ける。

「バカだバカだと思っていたが、お前は俺が思っていた以上にバカだったみたいだな! お前の好きっていうのは……、その好きに向けた覚悟ってのは、その程度のものだったのか?」

 何も答えられないでいる沖野に、今度は武藤が腹に溜まっていたものをぶちまける。

「ロボット好きってのは、その程度だったのかって聞いてんだよ! 一度ミスったくらいで、もう諦めちまうのか? だとしたら、スゲーな、その感覚。俺には、ついていけねーわ、お前みたいなヤツの感覚。今まで自分の居場所がないって感じてたんだろ? で、ようやくそれを見つけたって話しだよな? なのに、それを簡単に放り出して、ケツまくって逃げちまうのか?」

 沖野の涙は止まっている。完全に下を向いていた顔が少し上がった。武藤の熱弁に聞き入っていることが分かる。ただ、武藤の方は、沖野の反応など気にしている様子はない。まるで、自分に言い聞かせるように、思うに任せてしゃべり続けている。

「分からねぇ。俺、まったくそういう感じが分からねぇ。俺、パチンコやるんだけどよ、いっくら負けてもやめねぇもん。女房に怒られても、小遣いが底をついてもやめる気にならねぇもん。好きだから。やってて興奮すっから」

 まともに聞けば、とんでもない論法である。それでも、このときの沖野には、どこか響くものがあった。

 沖野は、ギャンブルを一切やらないので、その興奮がどんなものかは分からない。だが、武藤が己の駄目な部分をさらけ出して、自分に何かを伝えようとしていることだけは分かった。その方法が、つたないからこそ、心底バカみたいだからこそ、伝わってくる。

「で、どうすんの? この先。お前の居場所、なくなっちまうじゃん。他にねぇんだろ? それが分かってんのに、白旗上げて逃げちまうんだろ? お前、バカだろ……、マジで」

 全部ぶちまけた武藤が、ふと我に返ると、沖野が真っ直ぐこちらを見ていた。

 急にばつが悪くなって窓の方に視線を外す。いつの間にかカーテンの隙間から差し込んでいだ朝日が、部屋に一筋の光の道を作っている。沖野の目も、自然とその光跡に吸い寄せられた。

 と同時に、どこからともなく漂ってくる甘酸っぱい香りを、沖野の鼻腔が感じ取った。武藤が持ってきてくれたリンゴだ。

 沖野は、ほんの少しだけ、空腹感ってやつを思い出した。


 その日の昼過ぎ。波止工業前の岸壁。

 雲はほとんどなく、陽の光がさんさんと降り注いでいる。しかし、風は強く、海はそれに煽られて白波を立てている。

 港に設置された防災用のスピーカーが、さっきから盛んに、気象庁が波浪警報を発令したことを伝えている。大型の低気圧が接近しているらしい。

 それを受けて、波止では、この日の龍眼島での調査業務中止を決定していた。

 一応、天候は晴れのため、無理をして島に渡ろうと思えば、渡れないこともないのだが、島から本土に戻れなくなることも考えられる。風向きによっては島中にガスが充満する。しかも、巨獣はいつ現れてもおかしくない。そんな島に、社員が取り残される事態は避けなければならない。

 田島は、最悪の状況を考慮して、出動の判断には細心の注意を払っていた。

 こんな日に巨獣が現れたら、波止としては手の打ちようがないのだが、幸いにもここ数日は、まったく姿を見せていなかった。

 ただ、出動こそ見送られたものの、この日の事務室は、慌ただしく稼働していた。

 田島、片岡、みゆきの三人が、それぞれのデスクで電話にかじりついている。ダイヤルボタンをプッシュしては、二言三言、言葉を交わして受話器を置き、再び持ち上げて別の番号をプッシュ。そんな動作を繰り返している。

「そうですか。お忙しいところ、申し訳ございませんでした」

 みゆきが、見えているはずのない電話先の相手に頭を下げる。

 片岡は、ボールペンを手に、難しい顔で応対している。

「これ以上の値引きは……、難しいですか。はあ、そうですよね」

 困り顔がデフォルトの田島は、困っているのか、そうでないのか、普段から分かりづらいのだが、この日ばかりは本当に困っていることがありありと見て取れた。声音からも、事態に窮した様子がうかがえる。

「そこを何とか、お願いしたいのですが。……そうですね。はい、また何かありましたら、ぜひよろしくお願いします。失礼します」

 受話器を置くタイミングがたまたま重なり、田島が片岡とみゆきに視線を送ったが、二人はフルフルと首を振るばかりだった。

 この時点で、それぞれ三十数件、三人合わせて百件以上、電話を掛けまくっているのだが、船を格安で貸してくれる船主は、一向に見つかる気配がなかった。

 タコ壺漁師が貸してくれている漁船の返却期限は、三日後に迫っている。今日か明日にでも決まらなければ、出動できない空白の期間が発生してしまうというギリギリのタイミングである。

 のっぴきならない状況に、いら立ちを隠せない片岡が悪態つく。

「ったく、どいつもこいつも、無理の一点張りだ」

 苦労を共有しているだけに、他の二人も自分に同調してグチるものと思っていた片岡だったが、みゆきの反応は予想外のものだった。

「でも、沖野君のおかげで、少しは希望が見えています」

 片岡が、「ああ? 何だって?」とみゆきに驚きの表情を向ける。

 みゆきは、それを横目に見ながら、パソコンの画面に映る波止の新サイトに目をやって、発言の真意を説いた。

「ホームページをリニューアルしたおかげで、ウチの業務について、正しく知ってくれているオーナーさんもいらっしゃいましたから。それだけでも、一歩前進です!」

 それを聞いた片岡は、フンッと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。いかにも、「そのせいで苦労している部分もあるじゃないか」と言いたげである。

 ただ、田島はみゆきの意見に賛成のようで、頷きながら同意した。

「そうだな、白金さんの言う通りだ」

 みゆきは、田島が後押ししてくれたのがよっぽどうれしかったのか、パソコンの影に隠れるようにして、一人でニンマリしている。

 しかし、田島はすぐにデフォルトの困り顔に戻って、苦境の原因を分析した。

「要は、金額の問題ってことだろうな。まあ、それも無理ないことなんだけど。月額一万円で船を貸してくれなんて、普通に考えれば冗談にしか聞こえない。レンタル料を言った途端に、鼻で笑われてしまうからね」

 月々の会社の運営費を逆算して、その額を弾き出した片岡が、自分のせいじゃないとばかりに口を挟む。

「それが限界なんだからしょうがないだろう。鼻で笑われようが、鼻であしらわれようが、それ以上は鼻血も出んよ」

 みゆきは、不満タラタラの片岡に、精一杯の笑顔を向けて言う。

「もう少し頑張ってみましょう!」

 それは、心が折れそうな自分を励ますための言葉でもあった。

 田島も、「そうだな」と言って、自分を奮い立たせた。

 その言葉を合図に、一斉に手元の用紙に視線を落とした三人。それは、海上輸送会社や個人の船舶オーナーの連絡先がズラリと書かれたリスト。その半分ほどに×印が付けられている。

 三人は、まだ印が付いていない番号に、片っ端から電話を掛け始めた。


 同じ時間。一階の倉庫からは、フン、フン! という荒い息づかいが聞こえてきていた。

 ブルバスターの機体の前で、武藤がベンチプレスをしている。

 床には、ダンベルやゴムチューブが転がっている。いずれも、武藤が持ち込んだ、筋トレ用具である。

 トレーニング自体は、武藤にとって日々の日課になっているのだが、ここ数日は、強度とセット数が違っていた。どちらも格段に増しているのだ。

 沖野が出勤停止の処分を食らったことで、ブルバスターの操縦訓練は滞っていた。足の骨折が治った後、今日に至るまでにレクチャーは数回受けたのだが、それでも一人で自主トレできるまでには技術も知識も達していない。相手は繊細な最新鋭ロボットだ。沖野がいない間に自己判断で操縦し、故障でもさせてしまっては、それこそ目も当てられない。

 いっぽう、アル美はというと、武藤がスーツのサイズ違いで訓練を行えなかった間、ほぼ付きっきりで沖野からレクチャーを受けていた。吸収力の高さや生来のセンスもあるのだろう、端から見ても、その上達ぶりには目を見張るものがあった。少し前から、沖野なしに自主トレに励めるレベルまで達している。

 武藤にとっては、まったく面白くない状況である。ブルローバーが主力機だった時代は、エースパイロットは自分だという自負があった。アナログな操作感は、武藤が長年扱ってきた重機に通じるものがあり、自分の方に一日の長があると信じて疑わなかったのだ。

 しかし、ブルバスターの操縦に関しては、明らかに後れを取っていた。いや、後れを取っているどころではない。完全に置いて行かれている。

 肝心の沖野も、あの体たらくだ。武藤がアパートを出るときには、多少ましな顔付きになっているように見えたが、処分が明けても出てくる保証はない。

 焦りは募るばかり。中学時代、教育委員会だか何かが、「心のモヤモヤは、部活で発散させよう!」なんてスローガンを掲げていたが、あれは何だったのか。どんなに筋トレの負荷を上げても、武藤の気が晴れることはなかった。


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