第15話
三章『組織の不協和音』
コポコポ、シュワシュワシュワー。
白い泡と共にジョッキを満たしていく黄金色の液体。みゆきが、そのさまをキラキラした目で見守っている。
みゆきが向き合っているのは、セルフのビールサーバー。棚に置かれたジョッキを客自身が機械にセットし、規定の枚数の百円玉(ここでは三枚)を投入すると自動的にビールが注がれる優れものである。ファミレスのドリンクバーのように、自分で量を調節する必要はなく、一度セットすれば勝手に注出が始まり、自動的にグラスが傾けられて、泡と液体の三対七の黄金比が完成する。
みゆきは、機械が静止するや否や、ビールで満たされたばかりのジョッキを左手で持ち、すでに注ぎ終えて横の棚に置いておいたジョッキふたつを右手でむんずと掴むと、クルリと振り返ってテーブル席の方に向かった。
そこは、波止工業のある海岸沿いから内陸部へ徒歩十五分。最寄り駅の繁華街の一番外れにある居酒屋・かどやす。千円あればベロベロになるまで酔える、いわゆる〝せんべろ酒場〟である。
テーブル席でみゆきの帰りを待ち構えていたのは、武藤と沖野。テーブルの上にはすでに、刺身やしらすおろしといったつまみが並んでいる。ラインナップがオヤジ臭いのは、武藤がチョイスしたからに他ならない。
この店では、四面ガラス張りの四角柱型冷蔵庫(個人スーパーなどで冷たい飲み物が収められているアレ)から、好みのつまみを取り出し、レジに持っていってその場で会計するというシステムが取られている。ちょっとした料理や焼き物などもメニューとしてはあるのだが、調理にそれなりに時間が掛かるため、武藤判断でお通し的なものを、ビール到着前に買っておいたのだ。
ちなみに、一番〝下っ端〟である沖野が動いていないのは、この店に来るのが初めてであるため。セルフのビールサーバーをはじめ、少々変わったシステムが採用されている店について、「まずは見て覚えろ」ということらしい。
「お待たせしましたぁ~!」
店員のようなフレーズを口にしながら、みゆきが二人の待つテーブル席に戻ってきた。
「おう、すまん、すまん!」
武藤が、顔の前で手刀を切るような仕草をして、ジョッキふたつを受け取り、ひとつを自分の前に、もうひとつを沖野の前に置いた。
「ありがとうございます!」
沖野は、みゆきと武藤の顔を交互に見ながら、ピョコンと頭を下げた。
もはや待ちきれないという様子の武藤は、沖野が下げた頭を上げる前に、
「じゃ、やろう!」とせっかちにジョッキを掲げた。
ところが、すっかりその気の先輩社員に、沖野が待ったを掛ける。
「ああ、ちょっと待ってください。まだ、五分前です!」
武藤とみゆきが、沖野の指差す方に目をやると、壁掛け時計が五時五十五分を指していた。
「ぬぅぅ~、マジかよ! 六時までこのまま待てって言うのか? せっかくキンキンなのが、ぬるくなっちゃうじゃんかよ!」
おあずけを食らった犬のように情けない表情を浮かべる武藤を、みゆきがなだめる。
「ちょっとの辛抱ですよ、武藤さん。だいたい、ホームページの開設記念の祝杯をあげようって言い出したの、武藤さんじゃないですか。波止のサイトが立ち上がったら、乾杯ってことにしましょう」
その口調はもはや、駄々っ子をたしなめる保育園の先生のようだったが、まったくの正論であるため、武藤は口をへの字に曲げながら従うしかなかった。
沖野の目の前にはノートパソコンが置かれ、ウェブブラウザが起動している。
その画面が対面に座ったみゆきにも見えるように、パソコンをテーブルの端に置いたまま九十度回転させた。
この日は、波止工業ブランディング計画のひとつである、新ウェブサイトの開設日。午後六時ピッタリに、世界中の誰でも見られる状態になるよう、すなわち一般公開されるよう、制作を依頼しているデザイン会社ドットエムピーに手配してある。
その公開タイミングに合わせて祝杯をあげようというのだ。夕方、突然そう提案したのは、みゆきが指摘したように武藤だった。
ただし、武藤は新サイトのオープンに、それほど思い入れがあるわけではなかった。ただ、理由をつけて、飲み会の相手を確保したに過ぎない。それでも沖野は、自分が主導したサイトのお披露目に、先輩社員が注目してくれたのがうれしく、ふたつ返事で武藤の誘いに乗ったのだった。
「六時にこだわるんだったら、もっとギリギリのタイミングでビールを注げば良かったじゃねぇか……」
その恨み節は、二人の耳にも届いていたが、みゆきはそれを聞き流し、沖野に向けて言った。
「本当はみんなで来られたら良かったんだけど」
よほど公開が待ち遠しいのか、沖野は時計をチラチラ見ながら、気もそぞろな様子だったが、その意見には「そうですね」と同意した。
実際、それは本音だった。参加者が三人というのは、楽しみにしていた自分の誕生会に友達がまばら……と同じような寂しさがある。
ただ、それも致し方ないところがあった。この夜、アル美は宿直のシフト。田島は、今夜にも片付けなければならない仕事が溜まりに溜まっているらしく、申し訳なさそうに欠席を告げたのだった。
そこでみゆきが、もう一人の社員の名を口にした。
「せめて、片岡さんはいらっしゃると思ったんですけど……」
時間がたって水分が飛びかけた、しらすの上の大根おろしに目をやりながら、みゆきが口をとがらせる。しかし、武藤は顔の前で手をヒラヒラと振って、即座にその考えを否定した。
「あ~、あの人はいいの、いいの。こういうのに呼んでやったって、どうせ来やしないんだから」
年齢的には、武藤の方が五つ上だが、立場としては一応上司にあたる。そんな片岡に〝呼んでやる〟は、ずいぶんな言いようだ。が、それはこの日の飲み会が武藤の主催したものだからなのか、普段から蓄積された片岡への個人的な鬱憤によるものなのか分からなかった。
沖野は、心ここにあらずといった様子で、パソコンの画面に目を向けていたが、黙っているのも悪いと思ったようで、片手間に会話に参加した。
「片岡さん、お酒飲まれないんですか?」
楽しいはずの飲み会で、名前が出ること自体に不満があるのか、武藤は取り付く島もなかった。
「知るもんか。付き合い悪ぃんだよ、あの堅物は。あんなんだから結婚できねぇんだ」
付き合いが悪いことは間違いない。ただ、その社交性と結婚を結びつけるのは、いくら何でも乱暴だろう。横暴中年の暴走を、みゆきがたしなめる。
「もう! そんなひどい悪口、やめてください」
「チッ、またいい子ちゃんぶって」
その武藤の言い草にカチンときたみゆきは、ムッと頬を膨らませながら、そっぽを向いて不満をあらわにする。
「いい子ぶってなんかいません!」
そんなやりとりを、右から左に聞き流していた沖野が、突然大声をあげた。
「キターッ!!」
沖野が見詰めるパソコン画面には、波止工業の新しいホームページが表示されている。時計の針は、武藤とみゆきが言い争っている間に、いつの間にか六時を回っていた。
そっぽを向いていたみゆきだったが、沖野の声で振り返り、今はパソコンの画面に釘付けになっている。
「すごい! カッコイイ!」
嬌声を上げるみゆきに満足げな沖野。みゆきが評価したとおり、波止の新サイトは、確かにスタイリッシュに生まれ変わっていた。
トップページのメインは、ブルバスターが凜々しく写った写真。サイドには、社屋の上に掲げられた看板と同じ『NAMIDOME』の赤いロゴが掲載されている。
ともすれば、地方局のローカルヒーローもののサイトに見えかねない構成要素だが、ゴテゴテした野暮ったさがないのは、デザインセンスの良さによるところだろう。
パッと見で、害獣駆除会社のホームページらしくないのは、片岡が危惧していたように賛否両論あるところかもしれないが、洗練された企業イメージの創出という意味では、沖野が思い描いていた以上に目的を果たしてくれそうだ。
ただ、その新サイトを前にしても、武藤は大して興味をそそられなかったようで、ろくに画面に目を向けることもなく「よっしゃ!」と膝を打つと、場の空気などお構いなしにジョッキを掲げて音頭を取った。
「ホームページの開設を祝して、カンパ~イ!」
その勢いに圧倒され、沖野とみゆきも思わずジョッキを手に取る。
「乾杯!」
なし崩し的なスタートではあったが、サイトが無事オープンしたことに変わりはない。沖野は、その喜びを噛みしめるように、グビリとビールを流し込んだ。二十歳を超えたばかりの沖野にしてみれば、それほど美味しい飲み物ではなかったが、このときばかりは、〝ひと仕事終えた後の一杯〟の良さが、ほんのちょっとだけ分かった気がした。
沖野が、最初の一口の喜びにふけりながら、ジョッキをテーブルに戻すと、横の席から「プハーっ」という声が聞こえてきた。反射的にそちらに目を向けると、武藤が空になったジョッキを、ドンとテーブルに置くところだった。
えっ、何? 手品!? オレが今、グビリと一口やって、武藤さんの方を見るまで、五秒くらいしかなかったよね。その間にジョッキ一杯のビールを飲み干したってこと?
武藤が顔をクシャクシャにしながら、「ひゃ~、うっめ~!」と歓喜の声を発しているところを見ると、手品でも魔法でも、ましてや床にこぼしてしまったわけでもないことが分かる。
沖野が、その飲みっぷりに目を丸くしていると、今度は目の前の席から、ドンとジョッキをテーブルに置く音が聞こえてきた。
再び反射的に、そちらに目を向ける沖野。そこには、わずかな泡だけを残して空になったジョッキと、いつもと変わらず柔らかな微笑みを浮かべたみゆきの姿があった。
その光景を前に、たっぷり三秒、固まってしまった沖野だったが、何とか頭を切り換え、後輩らしい一言を口にした。
「も、もう一杯、注いできましょうか?」
そう言いながら立ち上がりかけた沖野を、みゆきが制した。
「あ、大丈夫です。もう頼んでありますから」
頼んである? 沖野がキョトンとしながらイスに座り直すと、そのタイミングで店員がスイっと現れた。手には、焼酎のボトルとアイスペール(それすなわち氷の入れ物)を持っている。
どうやら、みゆきは先ほど、ビールを注ぎに行ったついでに、次の一杯を注文していたらしい。
「はい、お待ちどうさま」
そう言って焼酎セットをテーブルに置き、去っていったおばちゃん店員は、沖野にはそっけなく見えたが、それは気心の知れた常連への気安さの裏返しでもあるようだった。要するに、武藤やみゆきは、店の顔馴染みということだろう。
みゆきが慣れた手つきでグラスに氷を二、三個放り込み、そこに焼酎を注ぐ。完成品を差し出すと、武藤は、「おう、サンキュー!」と満面の笑みで受け取った。ついさっきのちょっとした言い争いなど、二人にとってはもはや過去のことのようだ。
みゆきは、自分の分の焼酎ロックを作ると、チビリと飲んで、くうぅ~美味しい! という満足げな表情を浮かべた。
ビールを一気して喉を湿らせた後は、濃い酒のロックに一直線。かなりの酒豪であることは間違いない。その様子を横目で見ていた沖野は、普段のみゆきとのイメージの違いに、心がザワついていた。
人知れずギャップ萌えの感情を抱きながら、沖野の目はノートパソコンの画面に映し出された、波止工業公式新サイトの文字を追っていた。
もちろん、オープン前に一通りのチェックは済んでいる。問題など、あるはずもないので、それは実稼働後の確認作業というよりは、沖野にとって、ここまでたどり着いた感慨にふける時間だった。
『会社概要』『沿革』『業務内容』など、各ページをメニュー順にクリックしていく。内容は、資本金やら、設立年月日やら、所在地のマップやら、当たり障りのないものばかり。沖野は、バランスの取れたデザインにうんうんと頷きながら、それらの項目にザッと目を通していった。
ノープロブレム! っていうか、カンペキ? 波止ブランディング計画は、このホームページひとつ取っても、成功と言っていいでしょ!
調子づく沖野。しかし、メインは別にあるようだ。
沖野は、楽しみを取っておいた、『害獣駆除専用マシンのご紹介』ページを、満を持してクリックした。
立ち上がったのは、ブルバスターとブルローバーの紹介ページ。全体像を写した写真の横には、それぞれの仕様や機能が記されている。また、機体の写真をクリックすると、三百六十度、横に回転させることができ、背面や横側を見ることができる機能も備えていた。
コーナーの目玉は、『実働例』と書かれたボタンをプッシュすることで現れる動画である。稼働しているブルバスターの姿は初出。沖野自身は、何度もそれをチェックしているので、今さら感動はないが、世間の人たちはおおいに驚くに違いない。何せ、搭乗型の未来型ロボットが、実際に動いているところが見られるのだ。マニアならずとも、興奮せずにはいられないだろう。
沖野は、改めてその勇姿を眺めようと、ボタンをクリックしかけたが、不意にみゆきに話し掛けられて、手を止めた。
「沖野くん、ありがとね」
画面から目を上げると、みゆきが微笑んでこちらを見ていた。何に対するお礼か分からず、沖野が「えっ?」と戸惑っていると、それを察したみゆきが理由を口にした。
「社名のロゴとかホームページが新しくなったの、ちょっとうれしくて。沖野君が提案してくれて、ホントに良かったなって思う。これで会社のイメージも変わるような気がするの」
それを聞いた沖野が、ニヤけ顔で「いや~」と照れる。
しかし、武藤には引っ掛かるところがあったようで、すかさずツッコんだ。
「何だよ、ウチの会社って、そんなにイメージ悪かったか?」
みゆきは、首を振って、そこに他意がないことを説明する。
「いえ、そういうことじゃなくて。最近、会社もピリピリしてたから」
それを聞いた武藤は、さもありなんとばかりに、頷きながら言った。
「その元凶は、完全に片岡のおっさんだけどな」
だが、それもまたみゆきの意図するところではなかったため、今度はちょっと強めにストップを掛けた。
「も~、またそうやって話を蒸し返す! 私は沖野君に言ってるんです。武藤さんは、少しの間、黙っていてください!」
それでも武藤に悪びれた様子はなく、ふざけた口調で「は~い!」と返すと、グラスに残っていた焼酎を一気に飲み干し、ボトルからドボドボと二杯目の焼酎を注いだ。氷の追加はなし。武藤にとって面白くない話題ばかりのため、早く酔っ払っていい気分になろうとしているのだろう、ストレートに切り替えたようだ。
みゆきは、呆れ顔でそれを一瞥したが、すぐに気を取り直して、沖野に視線を戻した。
「沖野君が入ってくれて、会社の雰囲気は間違いなく変わったと思うの」
話の流れ上、〝悪い方に変わった〟ということではないだろう。沖野は、みゆきの言葉を、素直に褒め言葉と受け取った。
「そう言ってもらえると、うれしいです」
みゆきは、両手で包んだ焼酎ロックのグラスに視線を落としながら、何かに思いをはせるように言葉を続けた。
「ほら、環境が変わると、人も変わるって言うじゃない。職場の環境とか雰囲気って、結構ないがしろにされていたりするけど、今回のことで改めて大事なことなんだって思ったんだ」
普段、褒められ慣れていない沖野は、声をうわずらせながら反応した。
「そ、そうッスか」
ヤバイ! もしかして、みゆきさんって、オレのこと好きになりかけてる!? っていうか、ほとんど当確? だって、そうでもなければ、こんなに熱く、新人相手に語らないでしょ? 間違いない。
しかし、その浮かれ気分を、みゆきの次の言葉が、木っ端微塵に打ち砕いた。
「田島さんの笑顔、久しぶりに見た気がするから」
ええ~っ! 何でここで社長の名前!? 今までのくだり、ずっと会社に現れたスーパールーキー、すなわちオレへの讃辞だったじゃないの? ……ん? アレ!? 考えてみれば、今、社長のこと「田島さん」って名前で呼んだよな。笑顔になってくれるとうれしい人。飲み会の席で思わず名前で呼んじゃう人。それって、もしかして……。
そこまで思い至ると、沖野は途端に浮かれていた自分が恥ずかしくなってきた。ミラクルなんて、そうそう起きるはずもない。ただ、それでも心のどこかでは、万が一の逆転ホームランに期待せずにはいられなかった。
その分、余計にモヤモヤする。
いっぽう、みゆきはマイペースで焼酎のロックを飲み続けていた。しかし、酔いが回っている様子は、微塵も見られなかった。いつもと同じ柔らかい表情で、この店のお勧めメニュー、ベストスリーについて語っている。
沖野は、慣れないアルコールにあてられて、もやの掛かり始めた頭でそれを聞きながら、ぼんやりと別のことを考えていた。
にしても、人は見掛けによらないな~。みゆきさんの酒豪っぷりは半端ない。女の人と飲みに行くときは、自分が先につぶれないように気をつけなくっちゃ。
酔いも手伝って取り留めもない思考に落ちかけていた沖野だったが、突然、居酒屋の入口の方から聞こえてきた大きな物音で我に返った。
見ると、そこには、見慣れた作業着に身を包んだ中年男が立っていた。
「片岡さん!?」
思わぬ来訪者に、目を丸くする沖野。
みゆきも片岡の姿を認め、一瞬ギョッとした顔をしたが、すぐに気持ちを切り替えたようで、こっちで~す! とばかりに笑顔で手を振った。
それに気づいた片岡が、大またで沖野たちが陣取っているテーブルに近づいてくる。
「来てくださったんですね! どうぞ、どうぞ!」
と、自分の横の空いたイスを勧めるみゆき。
しかし、どういうわけか片岡は座ろうとせず、テーブルに両手をついてうつむき、苦しそうに肩で息をしている。
時折、視線を上げ、何か言いたそうに口をパクパクさせるのだが、ゼエゼエと荒い呼吸音が漏れるだけで、肝心の言葉が出て来ない。ただし、表情は怒っているように見える。
それに気づいたみゆきが、テーブルに突っ伏してイビキをかいている武藤のせいかと気を回し、フォローの言葉を口にした。
「す、すみません! まだ始めたばかりなんですけど、武藤さん、もう酔っ払っちゃって。夜勤続きだったせいだと思います」
確かに、みゆきが言い添えたとおり、武藤が驚異的なスピードで自爆してしまったのは、夜勤続きで疲れが溜まっていたというのもある。ただ、それ以上に、年齢的な衰えを、武藤自身が自覚していないのが大きかった。
ただ、みゆきの必死のフォローにも、片岡はまったく反応しなかった。相変わらず、テーブルに手をついた姿勢で、ゼエゼエと息苦しさにあえいでいる。
沖野は、そんな片岡を見て、ここまで急いで来なくても間に合ったのに。って言うか、そんなに来たかったんなら、最初からそう言えばいいのに。と軽く引きながら思っていた。
立ったままでいる片岡に、再度「ここ、どうぞ」と自分の横のイスを勧めるみゆき。だが、ようやく声を発することができるようになった片岡の口から発せられたのは、思ってもみない言葉だった。
「ハア、ハア……。バカ! そんなんじゃないよ! ハア、ハア」
面食らったみゆきが、「えっ?」と驚いていると、顔を上げた片岡の視線が、沖野に向けられた。その目には明らかに、怒気が満ちている。
睨まれている理由が分からず、戸惑うばかりの沖野。
何とか息を整えた片岡が、怒りの表情のまま、一同を見回して言う。
「さっきから携帯鳴らし続けてんのに、誰も出やしない!」
沖野とみゆきが、慌ててスマホを見ると、『波止工業 片岡』と書かれた着信履歴が、鬼のように残っていた。おそらくは武藤のスマホも同じ状態だろう。
話に夢中になっていて、誰も気づかなかったのだ。
「すみません」
素直に謝罪する沖野。でも、待てよ。そもそも電話してきた理由って何?
沖野がその疑問を発する前に、みゆきが先回りして片岡に聞いた。
「あの~、それで、どうかされました?」
みゆきの口調は軽かったが、片岡は鬼の形相。その視線は再び、事態を把握できずにいる新入社員に向けられた。
「沖野! お前、大変なことをしでかしてくれたな!」
「はい?」
沖野は、素っ頓狂な声で応じながらも、ただならぬことが起きていることだけは察した。ほろ酔い気分が一気に醒める。
「見てないのか!? ホームページ!」
片岡にそう言われて、背筋に冷たいものが走る。誤字脱字? いや、それくらいじゃ、こんなに怒らないだろう。だったら、ブルバスターの写真あたりに、社員の誰かが見切れていたとか……!? いやいや、にしても激怒するようなことじゃない。だったら……何!?
「えっ!? 見ましたけど……」とモゴモゴ言いながら、一瞬のうちに目まぐるしく思考を回転させた沖野だったが、答えは出ない。
片岡は、周囲を気にした様子で、沖野の耳に小声で告げた。
「ブルバスターの動画だよ!」
その言葉に弾かれたように、テーブルの隅に押しやられていたノートパソコンを開く沖野。
動画が掲載されているのは、『害獣駆除専用マシンのご紹介』ページにある『実働例』のコーナーしかない。先ほど、見ようと思って開きかけたものの、「ありがとね」というみゆきの言葉に遮られて、結局開くのを忘れていた動画だ。
沖野は、再生されるまでのわずかなタイムラグももどかしく、食い入るように画面を見詰めた。アップした〝あの動画〟に、どんな問題があったというのか?
ところが、再生されたのは、事前に散々チェックした〝あの動画〟ではなかった。沖野の顔が、みるみる青ざめていく。
映し出されたのは、沖野が初陣のときに自分のスマホで撮影した、自撮り動画だった。座席の背もたれにセットしたスマホの映像である。
それは、例の戦いにおける沖野の視点とほぼ同じ。コックピット内の様子が克明に映し出されているのはもちろんのこと、前方のスクリーンには、不気味な巨獣の姿が生々しく映り込んでいる。
すっかり気が動転した沖野は、考えがまったくまとまらなかった。なぜ? どうして? という疑問ばかりが、頭の中でグルグルと渦巻いた。
茫然自失状態で固まってしまった沖野の耳に、片岡が再び怒気をはらんだ声を吹き込む。
「これじゃ、巨獣のことが世間に知られてしまうじゃないか! とにかく、いったんホームページを閉鎖しろ!」
その言葉で、ようやく自分にやるべきことがあると認識した沖野だったが、思考はフリーズしたまま。「えっ? あ……」とうろたえるだけで、具体的に何をすべきかまでは思いつかない。
沖野の煮え切らない様子に、さらにいら立った片岡が、今度は隣の席にまで聞こえる大きさで、「早く!」と叱責した。
沖野は、その声でようやく金縛り状態が解けたようで、一瞬ビクンと体を硬直させると、慌てた様子でスマホを手に店を飛び出していった。
店を出るとすぐ、震える指で電話を掛ける。外に出たのは、他の客に話を聞かれないためだったが、半分はパニクってその場から逃げ出したからだった。
電話の相手は、新サイトの制作と管理を依頼しているデザイン会社ドットエムピー。現在、平日の夜八時過ぎ。沖野は、誰でもいいから会社にいてくれ! と祈るような気持ちで、スマホを強く握りしめ、呼び出し音に耳をすませた。
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