第13話

 出向してから数日間、沖野はアル美のことをスタンダードに、「二階堂さん」と呼んでいた。しかし、そう呼びながらも、沖野は次のステップに進むタイミングを虎視眈々と狙っていた。

 無論、次のステップとは、アル美を本人の前で「アル美さん」と呼ぶことである。そのタイミングについて、沖野は綿密な計画を立てていた。武藤はアル美のことを、何のてらいもなく「アル美」、みゆきのことを「みゆき」と呼び捨てにしている。その尻馬に乗って、自分も下の名前で呼んでしまおうというのだ。

 そんな中、搭乗訓練を初めて四日後に、絶好のタイミングが訪れた。何か用があるらしい武藤が、コックピット内のアル美に、「アル美、ちょっといいか?」と呼び掛けたのだが、それが沖野にとって最大のチャンスとなった。アル美がすでに聞こえているのは分かっていたのだが、沖野はあえて、「アル美さん、武藤さんが呼んでますよ!」と声を掛けたのだった。

 そのとき、沖野の声は完全に裏返っていたのだが、アル美自身は特に気にしている様子はなく、いつも通りの無反応だった。沖野はそれを、勝手ながら受容のサインと受け取った。

 これにて第一段階コンプリート。さらに沖野は、アル美のことを、最終的には「アルミン」と呼んでやろうと、無謀な計画まで胸に秘めていた。

「二階堂さん」↓「アル美さん」↓「アルミン」。

 沖野は、そのバカ過ぎる計画のことを、密かに〝アルミン三段活用〟と名付けていた。

 そんな野望を抱かれていることなど露知らないアル美は、スーツのサイズ感という、雑談としか思えない話に抗議を込め、再び最小ワードで用件を促した。

「で?」

 さすがの沖野も、その〝ひと文字〟のプレッシャーには気圧されたようで、本題に入らないわけにはいかなかった。

「えっと、武藤さんは……!?」

 アル美は、自分が把握している事実だけを淡々と答えた。

「船舶免許の更新でしょ。まだ帰ってないけど」

 それを聞いた沖野は、「そうですか……。じゃあ、まあ、いっか」と言って、うんうんと頷き、一人納得している。

 アル美の表情に変化はなかったが、煮え切らない沖野に、さすがに思うところがあるのか、いつも以上にクールな語調で目的を問いただした。

「何なの?」

 すると、今度は沖野の方が問い掛けに答えず、クルリと倉庫の入口の方を向くと、声を張り上げて、姿の見えない誰かに呼び掛けた。

「どうぞ~! 入っちゃってください!」

 その声に応じて、倉庫のドアがガチャリと開き、外から二人の男性が入ってきた。

 打ち合わせに姿を見せたデザイン会社の社長であるホリウチと、もう一人は一眼レフのデジタルカメラを首から提げた三十過ぎの男性だった。後者の男性の方は、金髪のツーブロックで、いかにもクリエイターというビジュアルである。

 ホリウチは、倉庫に入ってブルバスターの後ろ姿を見るなり、感嘆の声を上げた。

「うわ~っ! いいじゃん。ヤバいよ、鉄っちゃん!」

 それに気を良くしたのか、沖野が我が子を褒められた親のように胸を張る。

「でしょ? コイツが対獣装甲ロボ、ブルバスターです!」

 美術品でも鑑賞するように、ブルバスターの勇姿に釘付けになっているホリウチ。

「シビれるね~」と感心しきり。

 一緒に来た金髪カメラマンも機体に見とれていたが、しばらくすると自分の仕事を思い出したようで、パシャパシャと一眼レフで撮影を始めた。背面と側面を撮り終えると、沖野を振り返って訊ねた。

「コックピットの方も撮っちゃっていいですか?」

 沖野は、「もちろんです!」と応じ、二人を引き連れて機体の正面に回り込む。

 と、そこで金髪が、コックピット内の人影に気付いた。

「あ、パイロットさんですか?」

 沖野がホリウチたちを倉庫に招き入れたのを見て、自分には関係ないと思ったのか、コックピットに戻っていたアル美だったが、自分のテリトリーにズカズカと踏み込んできた闖入者を無視するわけにもいかず、ステップに足を掛けた箱乗り状態で一同を見下ろした。

 金髪は、その姿に無遠慮な視線を送ると、見当外れな言葉を発した。

「いいっスね! コスプレばっちり決まってますよ!」

 それが耳に入ったアル美の目つきが、キッと鋭さを増す。表情自体にほとんど変化は見られないが、目の色は明らかに憤りを帯びていた。

 しかし、そのわずかな変化を初対面の人間が感じ取れるはずもなく、今度はホリウチが脳天気な提案を口にした。

「これさ、倉庫の中じゃなくて、外で撮った方がいいんじゃない?」

 金髪も「言えてる。自然光の方が絶対に映えるし」と同調する。

 すっかり舞い上がっている沖野は、ナイスアイデアをひらめいたと言わんばかりに、声を張った。

「ですよね! だったら、現場なんてどうですか?」

 ホリウチの頭上に、はてなマークが浮かぶ。

「現場って?」

 沖野が、得意満面の顔で説明する。

「島ですよ。龍眼島! あそこなら壊れた家とかいっぱいあるし。その前にブルバスターが立っていたりしたら、めっちゃハマりません?」

 それを聞いたホリウチが目を輝かせる。

「えっ!? いいの?」

 沖野は深く頷くと、〝そんなこと、自分に掛かれば簡単!〟というアピールなのか、あえてチャラけた声で言った。

「動かしちゃいますよ~!」

 金髪は、「マジっすか?」と、ビジネスシーンに不似合いな一言で応じた。が、ホリウチは急に冷静になったようで、ふと頭をかすめた懸念を口にした。

「でも、島ってさ、ガスがヤバいんじゃないの?」

「いや~、小一時間くらいなら、大丈夫ッスよ!」と無責任発言で応じる沖野。

 さらに、生来の調子の良さを爆発させる。

「結構荒れてる場所があって、学校の近くの住宅地〇〇地区ってところなんですけど、そこなら最高に映(ば)えると思うんですよ。無残に朽ち果てた瓦礫をバックに、救世主ブルバスター登場!『フロントミッション』ばりの、最高のビジュアルになりますよ!」

 最初の出動以来、島に上陸していない沖野。それは、一度しか行ったことがない高級料理店で常連を気取る、勘違い男の口ぶりそのものだったが、そんなことなど知る由もないホリウチは、サムズアップで提案に大乗り気であることを示した。

 いっぽう、金髪は〝移動の前にもう一押し〟とでも思ったのか、再びシャッターを切り始めた。アル美込みのコックピット付近を、無遠慮に撮影している。

 すると、箱乗り状態のままでいたアル美が、足を掛けていたフレームを蹴ってスタン! と金髪の前に降り立ち、いきなり手でレンズを覆った。

 夢中でファインダーをのぞいていた金髪は、一瞬何が起きたか分からず、「へ?」と間抜けな声を漏らした。しかし、目の前のアル美が、ただならぬ空気を発していることを察すると、その迫力に気圧されて固まった。

 アル美は、相変わらず無表情だったが、動作はいつになく荒々しく、金髪のデジカメをひったくるように手に取ると、メモリーカードを本体から取り出した。

 あっけに取られたまま、動けない一同。アル美は、それを尻目に、無言のまま出入り口の方に歩いて行く。

 かろうじて金縛りが解けた沖野が、

「ちょっ……、アル美さん」と声を絞り出したが、アル美はそれも無視。

 手にしていたメモリーカードを、開け放ったドアから、遠くへ放り投げてしまった。

 カサリという小さな音だけを残して、倉庫前の茂みに消えるメモリー。

 ようやく我に返った金髪が、「ええっ!?」と驚きの声を上げる。

 沖野は、そこでようやく説明不足だったことに気づき、しどろもどろになりながらも、事の経緯を伝えた。

「いや、あの、これはですね、波止ブランド化計画の一環でして、ホームページに載せる用の写真撮影なんです。ブルバスターのすごさとか格好良さとか、たくさんの人に知ってもらいたいじゃないですか」

 それを聞いたアル美は、沖野をキッとにらみ付けると、ブルバスターを顎で示し、一気にまくし立てた。

「あんなモノは、訓練すれば誰でも乗れるし、そもそもたいした機械じゃない。アンタ、何か勘違いしてんじゃないの?」

 いつも無表情のアル美が、感情を剥き出しにしていることに戸惑いを隠せない沖野。しかも、激している理由がさっぱり分からない。

 その疑問を、「はい?」という無意味な言葉で表現したものの、それがさらに火に油を注ぐ結果になってしまう。

 アル美は、ツカツカと沖野に歩み寄ると、目と目の間に人差し指を突きつけ、語気鋭く言った。

「私たちの仕事は、アンタが考えているようなお遊びじゃない! ゲームなんかと一緒にしないで!」

 とてつもない剣幕に、返す言葉も出ず、再び固まってしまう沖野。足早に出口の方に向かうアル美を、目で追うことしかできなかった。

 と、丁度そこに、武藤が帰ってきた。大雑把を絵に描いたような男が、瞬時に場の空気を悟れるはずもなく、ドアをくぐりながらヘラっと話し始めた。

「いや~、参ったぜ。講習が三時間もありやがってよ」

 武藤と入れ違いで、倉庫を後にするアル美。

 そこでようやく異変に気付いた武藤が、キョトンとしながら沖野に問い掛けた。

「あれ? 何かあったの?」

 倉庫内に目を向ければ、見慣れない顔が二つ。〝どういう状況?〟と、ますます混乱する武藤。

 沖野たち三人は、予期せぬ嵐に、呆然と立ちつくすばかりだった。


 その夜、事務室の応接コーナーに、肩を落とした沖野が、ポツンと座っていた。

 田島をはじめ事務職の社員たちは帰ってしまっているようで、沖野がいるソファ周辺の電灯以外はすべて落とされている。

 倉庫でアル美の後ろ姿を、口を開けたまま見送ってから数十秒後、ようやく我に返った沖野は、どうにかその場を取り繕い、ホリウチたちをいったん帰らせた。

 しかし、モヤモヤは晴れるはずもなく、アル美を怒らせてしまったという事実だけが重く心にのしかかっていた。

 薄暗い事務室にはもう一人、武藤の姿もあった。部屋の隅に設けられた給湯コーナーで、自分のマグカップにコーヒーを注いでいる。

 武藤はそれをすすりながら、沖野の前にドカッと腰を降ろした。

「へえ、写真をねぇ」

 あの後、沖野からおおよその事情は聞いた。その上で、武藤は写真撮影のくだりが騒動の引き金になったことを察したのだった。しかし、沖野はいまだ合点がいっていない様子で首をひねっている。

「アル美さん、何であんなに怒ったのか、全然分からなくて……」

 武藤は、鼻からフーッと息を吐き出して言う。

「そりゃ、お前が調子に乗りすぎてたからだろうよ」

 それを聞いた沖野は、冤罪だとばかりに訴えた。

「僕はただ、壊れた家の前で撮影したらどうかって提案しただけですよ!」

 しかし、武藤はすげなく返す。

「それがバカだってんだよ」

 間抜け扱いされたのがよほど心外だったのか、沖野は目を剥いて反論した。

「そんな! 僕は会社のためを思って……。せっかくホームページを作るんだから、見栄えのするブルバスターの写真、入れた方が絶対いいじゃないですか!」

 それまで、若者を諭す年長者のゆとりを見せていた武藤だったが、その表情がスッと真顔に変わり、沖野の目を真正面から見据えて、「あのな……」と切り出した。

 武藤の雰囲気が変わったことを察した沖野が、「はい」と姿勢を正した。

「ゴジラってあるだろ。俺はあの映画、見られないんだ。いや、昔は楽しんで見てたぜ。正しく言うと、見られなくなっちまったんだ」

 沖野は、唐突に何を話し始めたのかと戸惑ったが、小さく頷いて話の先を促した。

「あれ、建物を次々に破壊していくだろ? あの瓦礫の下では、実は人がたくさん死んでいるんじゃないか……なんて考えると、いたたまれなくてな」

 話はそれで終わりらしかった。武藤はソファから立ち上がると、窓の方に歩いていってしまった。

 アル美が怒った理由と、武藤がゴジラ映画を見られなくなったという話。いったい、それがどう繋がるというのか。沖野はますます混乱する。

 ソファから立ち上がり、海側の窓に足を向けた武藤。その視線の先には、龍眼島の黒い島影が浮かんでいる。月光に照らされた島は、どこか神々しく、どこか禍々しくも見える。

 しばしの静寂の後、武藤がポツリと語った。

「ガスと巨獣に追われて、避難生活を続けている島民が実際にいる。これは映画でもアニメでもねぇ。現実なんだよ……」

 それを聞いた沖野が、ギクリと肩をこわばらせた。

 武藤は、沖野の方を振り返って問い掛けた。

「この前見せた襲撃事件の報告書、お前はどう思った?」

 改めて問われ、言葉に詰まる沖野。正直なところ、現実感はなかった。どこか遠い国で起きた惨事を、ニュース映像で見たような。

 沖野が返答に窮しているのを感じ、武藤は答えを待たずに言葉を続けた。

「世の中のほとんどの人間にとっては他人事だけどな、俺たちにとっては……、龍眼島の島民にとっては、身近な人間の死は現実だ。それを部外者に理解してもらいたいってわけでもねぇけどな」

 そう言うと、武藤は再び窓の外に目を向けた。

 武藤とアル美が、元島民であることは沖野も聞いている。その〝当事者たち〟からすれば、何と自分の言動が薄っぺらく、無責任なものだったか。

 沖野は、今更ながら、倒壊した家の前で撮影しようなどと軽々しく提案したことを後悔した。


 宿直の武藤を残し、事務室を後にした沖野。

 宵闇に沈む工場街を、トボトボと歩いている。

 一人暮らしのアパートまで、バスを使って二十分。普段は不便を感じない立地だったが、この日ばかりは足取りが重かった。仕事の疲れはもちろんあるが、それよりも沖野の肩にズンとのし掛かっているのは、怒りをあらわにしたアル美の表情だった。

 確かに自分は、波止への出向が決まって以来、ブルバスターを駆って、SFアニメの主人公のように活躍することばかり考えていた。

 ただし、ヒーローが活躍するということは、その背景に〝何らかの被害を受けた人が存在する〟ということである。ヒーローというのは必ず、悪役がひと暴れした後に登場するのだ。

 物語であれば、それら被害者は、〝名も知らぬ誰か〟に過ぎないが、武藤が言うように、これは現実である。たくさんいる被害者の一人に過ぎなかったとしても、そこには、その人の人生も、その人の家族も、その人が積み上げてきたあらゆるものが存在する。

 自分は、そうした人たちがいることを、少しでも考えたことがあっただろうか。アル美や武藤のような人たちがたくさんいて、今も苦しんでいることを。

 沖野の口から、深いため息が漏れる。

 ゲームなんかと一緒にするな……か。グウの音も出ないほど、その通りだ。

 ただ、それと同時によみがえってきたアル美の言葉が、沖野に別の感情を生じさせる。

「あんなモノは、訓練すれば誰でも乗れるし、そもそもたいした機械じゃない」

 アル美は、あの時、そう言っていた。あまりにも衝撃的だったので、おそらく一言一句、違わずに覚えている。

 歩きながら頭の中で何度もそのフレーズを反すうするうち、モヤモヤと心に広がってくる感情があった。

 あんなモノって言ったよな。ブルバスターを、あんなモノって。

 もちろん、軽々しい気持ちで、島の廃墟を撮影スポットに利用しようなどと言った自分に非があることは分かっている。しかし、その批判のすべては、自分にのみ向けられるべきものだ。犯罪者の息子に咎(とが)がないように、自分の配慮のなさとは無関係のブルバスターに、あんなモノとけなされる理由はない。

 そこから、沖野の思考は、どんどん内向きに進んでいった。

 思い返せば、自分は昔からそうだった。何かあったとき、すぐ言い返せないくせに、後でそれをウジウジと思い出して、何で何も言い返せなかったんだろうと後悔する。腹が立つ。そんなことばかりを繰り返してきた。

 あのときもそうだ。中学生のころ、自分はどの部活にも属さない、いわゆる帰宅部だった。同級生のほとんどが着替えや準備で各部室に散る中、自分だけはいそいそと帰り支度を始めた。たまに居残ることがあっても、それは当時、学校で決まりになっていた校外清掃ボランティアの当番が回ってくる十日に一度だけ。ある日、バスケ部のヤツが、「代わりにやっといて」と言ってきたことがあった。「帰宅部なんて、どうせ暇だろ」というのが、そいつの言い分だ。その時は、冗談として受け流したけれど、家に帰ってから、だんだん腹が立ってきた。帰宅部が暇というのは、偏見だ。自分の場合、むしろ放課後こそが忙しい。ロボットに関する本は新しいものがどんどん出るし、小遣いを貯めて買った電子部品でオリジナルロボットを創作する実戦練習も欠かせない。たまたま自分が通っていた中学には〝ロボット部〟が無かっただけで、放課後の充実度という意味では、チンタラやっていたなんちゃって運動部の連中より、はるかに上だったと思う。ヘラヘラとつまらない冗談を言ってきたバスケ部のアイツより、よっぽど。でも、後になってどんなに腹が立っても、言い返すことができなかった。そんな自分にまた、腹が立った。

 沖野は、よみがえってきた怒りで気持ちがたかぶっていたせいか、いつの間にか早足になっていた。気付けば、いつもの三分の二くらいの時間で、バス停のある海沿いの道に出ていた。

 意識した途端、ザザンという穏やかな波の音が、沖野の耳に聞こえてきた。

 と、沖野が歩いている道路と直角に接した防波堤の先端に、常夜灯に照らされた一人の人影がたたずんでいるのが目に入った。

 ロボット関係の細かい作業ばかりしていた割に、沖野は視力がいい。防波堤の先端までの距離はおよそ百メートル。遠目で、しかも後ろ姿ではあった、その人影が、アル美であることが分かった。

 視線の先をたどると、アル美は、月明かりに照らされた龍眼島の黒い島影に目をやっているようだ。

 島を見て、何を思っているのか。

 もしかして、泣いてる? いや、それでは困る。

 最初にひどい事を言ったのはこっちだ。女の子を傷つけて、泣かせたとなれば寝覚めが悪い。それ以上に、わき上がってきた怒りの持っていき場に困ってしまう。泣いているとなれば、一言モノ申すどころか、こちらが平謝りしなければならなくなってしまうではないか。

 などと不毛な思考を巡らせているうち、膝を抱えて座っていたアル美が、不意に立ち上がるのが見えた。そして、そばに止めていた自転車を押し、防波堤から道の方に戻ってくる。

 げげっ、マズい! このままのペースで歩いていくと、ちょうど、防波堤と道が交わるところで、鉢合わせになってしまう!

 とっさに、踵を返して、その場から逃げようとも考えたが、ここで逃げるようでは、何も言い返せなかった中学時代と同じだ。そう思い直し、半ば男の意地でペースを保って歩いていると、三十メートルほどの距離になったところで、アル美もこちらに気付いたのが分かった。

 反射的に会釈してしまう沖野。

 その途端、今は会釈じゃないだろ! という自己嫌悪に襲われる。

 しかし、近づいてきたアル美は、相変わらずの無表情。沖野など、まるでそこに存在しないかのように、目も合わさずに真横を通り過ぎていく。

 沖野は、そこまでされてようやく踏ん切りがついた。何か一言でも言ってやらなければ、いくら何でも気が済まない。

 ただ、意気込んだものの、肝心の言葉が出て来なかった。

「あの……、あのですね!」

 それでも、ガン無視していたアル美の足を止める効果はあった。振り返りこそしなかったが、呼び止めた相手が何を言うか、聞いていることだけは分かる。沖野は、そのわずかな気配に勇気づけられ、絞り出すように声を発した。

「倉庫での話、配慮が足りなかったこと、謝ります。すみませんでした」

 後ろを向いたままなので、アル美には見えていないはずだが、それでも沖野は深々と頭を下げた。

 しかし、アル美は真っ直ぐ前を向いたまま、それを無視し、ボソリとつぶやいた。

「ゲームなら、家でやってくれる?」

 その言い方に、さすがにカチンときた沖野が言い返す。

「僕は、ゲーム感覚でブルバスターを作ったわけじゃない! あのロボットには、僕のすべてが込められています。たくさんの時間と労力を掛けた……なんて無粋なことを言いたいんじゃない。全身全霊で向き合った結果が……、僕にとってのすべてが、ブルバスターなんです!」

 そう話すうち、自分で自分の言葉に酔い、ギアが上がっていく沖野。たがが外れたように言葉があふれ、止まらなくなる。

「使う人が安全に、効率良く、駆除を行えるようにベストを尽くしたつもりです。そりゃあ、島の人たちと比べたら、僕の思いなんて軽く見えるかも知れません。でも、当事者じゃないから、事を簡単に考えているなんて思われるのは心外です! 僕だって、相当な覚悟を持って、波止に来たんですから!」

 一気に感情を爆発させた沖野。

 しかし、アル美は、沖野渾身の言葉にも、まったくの無反応だった。一応、立ち止まったままではいたものの、沖野がすべてを吐き出したことが分かると、何も言わず、そのまま再び自転車を押して歩き出してしまった。

 それを見た沖野が、沸騰する。

「ちょっと、待ってくださいよ! 何なんですか、その態度! 僕、さっき頭を下げて謝りましたよね? 少なくとも、それに対しては何かあるでしょう。いつもそうなんですか? 返事もしないで。人として間違っていると思いませんか!」

 そう言った瞬間、後悔が押し寄せてきた。

 いくら何でも言い過ぎだ! 人としての教えを説くなんて、オレは一体、何様のつもりなんだ。こんなこと、言いたかったわけじゃないのに……。

 結局、アル美は一度も振り返らないまま、足早に立ち去ってしまった。

 その後ろ姿を目で追うしかない沖野。それが見えなくなると、一人取り残された沖野は、ますます自責の念に駆られ、そのまま地面にへたり込んでしまった。

 海と道とを隔てるコンクリートの壁にもたれ、夜空を見上げる。さっきまで星々が瞬いていたはずの空が、今はどんよりと曇って星ひとつ見えなくなっていた。


 朝。土砂降りの雨。

 護岸を削らんばかりの大きな雨粒が、港町に降り注いでいる。

 その一角、埋め立て地の北の端に位置する、波止工業の事務室に沖野はいた。

 アル美との邂逅の後、眠れない夜を過ごした沖野は、心のザワつきを持て余し、朝一で出社してきたのだった。

 コーヒーメーカーの電源を入れ、所定の開口部に豆を注ぎ込む。やがて機械が、コポコポと音を発し始めたが、それがまったく聞こえないほど、雨脚が強かった。

 先ほどから、安普請の天井を、下手なミュージシャンがドラムでも叩いているかのように、雨が打っている。同時に、強い風が吹きつけているため、窓もガタガタと耳障りな音を建てていた。

 ただ、それらを上回る騒音が、部屋の内部で発生していた。

 グァー、グゴゴゴゴー。ガッ、ガルル、グガ、グルルルル。

 巨獣のいななきではない。武藤のイビキである。

 ソファに横たわる、宿直担当者の無様な寝姿に、沖野が冷ややかな視線を送る。

 この騒音の洪水の中で、よくこんなに気持ち良さそうに眠れるな……。っていうか、こんな有り様じゃ、警報が鳴っても気付かないんじゃないか?

 そんな心配をしていると、それまで部屋になかった音が、沖野の耳に届いた。

 外の鉄階段を上ってくる足音だ。

 いつも朝イチに出社してくるみゆきに違いない。派遣社員だったころからの習慣なのか、みゆきは決まって始業時間の十分前に来て制服に着替え、机の上を拭くのが日課になっていた。

 毎日、時間ギリギリに駆け込んで来るオレが先にいたら、不自然に思うかも。もし理由を聞かれたら、答えに困る。アル美とひと悶着あったなんて、ましてや言い過ぎたことを後悔して眠れなかったから、つい早めに来ちゃった……なんて言いたくない!

 沖野は、内心の動揺を悟られないよう、務めて明るい表情を作ることにした。みゆきが入ってきたら、笑顔を浮かべ、「おはようございま~す!」と元気に言うのだ。

 ほどなくして足音がやみ、ガチャリとドアが開かれた。

 やや引きつった笑顔を浮かべた沖野が、あいさつ冒頭の〝お〟の口の形を作りながら、出入り口に顔を向ける。

 が、入ってきた人物を見て、その不自然な顔のまま固まってしまった。

 そこにいたのは、アル美だった。

 しかも、全身ずぶ濡れで、着ているツナギは、これでもかというくらい泥まみれになっている。

「アル美……さん!?」 

 茫然自失の沖野は、かろうじて目の前の人物の名前を口にした。が、驚きのあまり二の句が継げなかった。

 いっぽう、アル美は、沖野が部屋にいたことに、さして驚いた様子もなく、無表情のまま、ツカツカとコーヒーメーカー前の沖野に歩み寄ってきた。

 ひっぱたかれる!? いや、まさか、いくら何でもそんなことはしないだろう。ここ、職場だし。でも、腹パンくらいならあるかも?

 沖野がビビって、さらに身を固くしていると、アル美は沖野と目を合わせないまま一メートル離れて横に並び、コーヒーメーカーが置かれているテーブルに、カチリと何かを乗せた。

 沖野が、置かれたモノに目を向けると、それはメモリーカードだった。

「へ?」

 意味が分からず、間抜けな声を漏らす沖野。

 アル美は、やはり沖野の方には目を向けず、うつむいたままボソリと言った。

「側溝の中に落ちてた」

 いまだに状況が飲み込めない沖野は、戸惑うばかりで、言葉が出て来ない。

「え? それは、その……」

 下に向けていた視線を窓の方に動かしたアル美が、外を見ながら言う。

「雨が降ってきたから、もう流されちゃったかと思ったけど、底に溜まった泥の中にあった」

 そこまで聞いて、ようやく沖野にも合点がいった。そのメモリーカードは、前日アル美が、カメラマンから取り上げたものだ。……ってことは?

「アル美さん、ずっと探してたんですか」

 それには答えず、アル美は更衣室の方に行ってしまった。十数秒後、自分のロッカーから取り出したと思われるタオルを手に、事務室に戻ってきたアル美。無造作に濡れた髪を拭いている。

 沖野は、その姿にドキッとして、思わず目をそらした。すると、だらしない寝姿をさらしている武藤が視界に入った。電車の走行音のように、いつの間にか気にならなくなっていたいびきだが、改めて武藤を目にすると、騒音として認識される。

 のんきなもんだな……。

 もちろん、昨晩、会社を出てからの沖野とアル美の衝突など知るはずのない武藤が、太平楽な姿を見せているのは無理もない。ただ、沖野は、自分の中にグルグルと渦巻いていた葛藤が、急に大事の前の小事のように思えてきた。

 人の悩みなんてちっぽけなもの。

 昨晩からの緊張状態は不意に解け、沖野の口元に自然と小さな笑みがこぼれた。


 武藤が目を覚ましたのは、始業時間の九時を回ってからだった。

「んあ? 何だよ、雨降ってんじゃねぇか」と今更なことを言っている。

 みゆきと片岡はすでに出社し、自分のデスクで事務仕事を始めていた。

 ただ、事務室にアル美の姿はなかった。着替えを済ませた後、外階段を降りていってしまった。しばらくすると、下の倉庫からブルバスターの稼働音が聞こえてきたので、この日も朝から屋内で操縦訓練を始めたようだ。

 会社にとっては当たり前の日常。昨日から今朝に掛けて、沖野とアル美にどんなやり取りがあったか、誰も気付いていないだろう。

 いっぽう、沖野は、応接用のソファでノートパソコンの画面に見入っていた。

 USBポートには、先ほど、アル美から受け取ったメモリーカードが差し込まれている。

 雨に濡れた上、泥に埋まっていたという話だ。データが壊れているかも知れない。

 沖野は、恐る恐る問題の写真が保存されていると思われる、フォルダを開いた。

 すると、ブルバスターを捉えた写真のサムネイルが、パッと展開された。

 ひと安心して、ふうっと一息つく沖野。

 そのまま、写真や動画の整理作業に入ることにした。

 公式サイトに使えそうな写真をピックアップして、デスクトップに作ったフォルダに移し替えていく。

 写真で見ても、カッコイイぜ、ブルバスター!

 マウスを操作しながら、一人、親バカな表情を浮かべる沖野。これもいいな、いや、こっちの方がいいか……と、ためつすがめつしながら作業を進めていく。

 そうこうするうち、写真は、アル美が写り込んだパートに差し掛かった。沖野は、整理を始める前から、〝それらの写真は残らず削除する〟と心に決めていた。が、パイロットスーツ姿のアル美を見て、思わず手が止まった。

 写真の中には、自分が撮られていることに気づき、キッとレンズをにらみ、図らずもカメラ目線になっているものもあった。そのクールな表情と、ボディーラインが際立ったスーツに、人知れずドキドキする沖野。

 ちょっと、拡大して見てみようか……。いや、そんな変態行為を、後ろで仕事中のみゆきにでも見とがめられたら、言い訳がつかない。いやいや、その前に、倫理上、問題があるだろ!

 沖野は、胸中の葛藤を振り切るように、アル美が写った写真を、サムネイル上でまとめて指定すると、断腸の思いでデリートボタンをプッシュした。

 そこでようやく平常心を取り戻し、我が身を省みる沖野。

 いったい、何を考えているんだ、オレは!

 昨日の晩、つい十数時間前まで、いら立ちの感情を向けていた相手の写真を、消すか消さないか、拡大するかしないかで、これ以上ないくらい逡巡するなんて。

 自分の中に、何とも言えない感情が芽生えていることを感じる沖野。それを振り払うように、ブルブルと首を振ると、再びパソコンの画面に集中した。

 メールソフトを開くと、ホリウチの事務所のアドレスを指定し、ピックアップした写真を収めたフォルダを添付する。

 送信ボタンをクリックし、これにて作業終了。メールには、昨日の件について、謝罪の言葉も添えておいた。カラっとした性格のホリウチだ、根に持つようなことはないだろう。

 ただ、沖野には、わずかばかり後悔の気持ちが残っていた。

 と言っても、アル美にちゃんと謝罪していないとか、メモリーを見つけてくれた礼を言っていないとか、そういうことではない。

 なぜ、自分のスマホに〝良さげな写真〟を転送しなかったのか、である。倫理の神様も、一枚くらいなら許してくれたんじゃないか?

 沖野は、ひどく不純な後悔の念を抱えながら、静かにノートパソコンを閉じた。


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