第11話

『龍眼島 獣襲撃事件 報告書』

 二0××年六月二十日、早朝。

 波止工業の期間労働者である男性Aが、当時担当していた島北西部の工事現場に自転車で出勤。しかし、家の玄関に昼食用の弁当を忘れてきたことに気付き、島の中央北部にある自宅の妻に電話を掛けた。すぐに妻は出たものの、家の中で不審な物音が聞こえたということで、電話を繋いだまま様子を見に行く。その直後、男性Aは電話越しに激しい物音と妻の悲鳴を聞く。また、妻が小学生の息子の名を必死に呼ぶ声も聞こえたという。

 男性Aは、警察に通報するとともに、自らも自転車で自宅に向かった。その道中、島の南東部にある勤務先、波止工業にも連絡を入れた。事の経緯を説明し、救援に向かってもらえるよう要請したという。警察に通報しただけでなく、会社にも連絡したのは、通報してすぐに警察が動いてくれる保証がなかったことと、自転車の自分よりも会社から車を飛ばした方が早く家に行き着くと考えたからと思われる。

 しかし、結果として男性Aの方が一足早く自宅に到着。家の中に足を踏み入れると、壁には引っ掻いたような傷が複数あり、部屋一面に家具などの破片が散乱していた。クマなどの害獣に襲撃されたと直感した男性Aは、部屋にあった物干し竿を手に屋内を捜索。妻と小学生の息子の遺体を発見する。その直後、男性Aも襲われ、絶命。

 数分後、要請を受けた波止工業の社長以下、五名の社員が現場に到着。屋内に踏み込むも次々に襲われ、抵抗する間もなく五人全員が命を落とす。

 以上の経緯は、私用のため本土に帰省していた波止工業社員の男性Bの証言によって判明した事実である。男性Bがこのように詳細な経緯を知り得たのは、波止工業の社員たちが、男性Aの自宅に向かう車の中で、たまたま帰省中の社員と連絡を取り、それまでのいきさつを説明したためだという。

 ここからの報告は、その後に発表された警察の説明を加味したものである。

 通報を受けた警察は、島南東部にある派出所から、警察官二名を現場に派遣。通報から三十五分後に現場に到着したと説明されていることから、波止社員五名から十五分ほど遅れての到着だったと推測される。

 警察官は、家の中で男性六名、女性一名、子ども一名の計八名の遺体を発見。いずれも獣に襲われたように、激しく損傷していたという。

 大量殺人事件の発生を受け、警察は周囲の住宅を捜索。結果、島西部の森林地帯に隣接した木造平屋の家屋から、おびただしい量の血痕と切断された小指を発見。それは、その家で一人暮らしをしていた年配の女性のものであることが判明。八名を殺害したのと同じ獣に襲われたものと結論づけられた。また、その後の捜査で年配の女性が襲撃されたのは、八名が襲われるより前だったことも判明。これにより、犠牲者の合計は九名となった。

 警察は、現場の状況などから、クマによる獣害と認識。事件発生から二日後の六月二十二日、本土の猟友会にも参加を要請し、大規模な捜索活動が行われた。

 捜索は三日に渡って行われたが、襲撃を行ったと見られる問題の個体を発見できないまま、捜索は打ち切られた。


 報告書を読み終えた沖野は顔を上げ、はす向かいのソファに腕組みをして座っている武藤を見た。その視線に応じるように、武藤が口を開く。

「そういうことだ。自治体も警察も、〝犯人はクマ〟って認識を変えてねぇ」

 報告書に書かれていた経緯に衝撃を受けていたせいもあり、沖野は思わず立ち上がって訴えた。

「そんな! アレは……、あのとてつもなくデカい生き物は、どう考えてもクマなんて生易しいもんじゃないでしょう!」

 武藤は、いきり立つ沖野の目をしばし見詰めたが、すぐに窓の方に視線をそらして言った。

「たかが害獣に、自衛隊なんぞ出てくる訳がないだろう。俺たちがやんなきゃならねぇってことだ」

 沖野は、警察や自治体の判断にまったく納得いっていなかったが、こんな一大事をスルーしていた我が身を省みて、現実を受け入れざるを得なかった。力無くソファに腰を落としながらつぶやく。

「知りませんでした……」

 その言葉は、半分本当であり、半分嘘でもあった。獣による市民襲撃のニュースは、新聞やテレビでも取り上げられ、世間の耳目を集めていた。沖野は本土に住んでいたが、それでも近くの島で起きた大事件である。耳に入っていないはずはない。

 しかし、当時の沖野は、入社二年目にして、ようやく責任ある仕事を任され、それにかかりきりになっていた。新聞やテレビなどほとんど見ず、たまたま目に入ったとしても、完全に受け流していたのだ。

 そんな沖野の個人的な事情はさておき、国民のほとんどが、九人の犠牲者を出した凄惨な事件を簡単に忘れるものだろうか。その答えのヒントは、武藤の次の言葉に含まれていた。

「島はその後、すぐに火山性ガスが発生して、全島民が避難することになっちまったからな。そっちの方がニュースとしてデカくなって、襲撃の方はすっかり報道されなくなっちまった」

 武藤が言うように、全島避難のニュースは、新聞や報道番組だけでなく、ワイドショーなどでも連日報告された。そうした状況下で、襲撃事件の報道が一気に下火になったのは、当然とも言えた。

 そんな国民の動向は、過去の出来事を紐解いても散見される。

 例えば、二〇十六年五月から六月に秋田県鹿角市で起きた『十和利山熊襲撃事件』。四人の犠牲者と三人の重症者を出した、平成最悪の獣害事件である。しかしながら、国民の多くが、程なくして事件への興味を失ってしまった。それが良いとか悪いとかの問題ではなく、事件の報道、あるいは国民の関心事とは、往々にしてそういうものなのかも知れない。ニュースと記憶は、常に上書きされていくのだ。

 事務室の窓から外を見る沖野。 遠くにうっすらと龍眼島のシルエットが浮かんでいる。地元住民として、その光景は、これまで何度も目にしてきた。しかし、今はそれが少し違ったものとして目に映っていた。

 沖野は、黒く霞む島に、言いようのない不気味さを感じ始めていた。


 国道沿いのファミレス。

 夕食にはまだ少し早い時間のせいか、店内には空席が目立つ。

 店内の一番奥まった窓際の席に、向かい合って座っている中年男性が二人。

 田島と片岡である。

 片岡は、セルフサービスで持ってきた、ドリンクバーのコーヒーに、砂糖をたっぷり入れながら切り出した。

「いやね、こういうことは社員のみんなに聞こえたらまずいかと思って。こんなところで悪いんだけど」

 田島は、同じくドリンクバーから持ってきたコーヒーを、スプーンでかき回しながら、話の先を促した。

「いや、気にしないでください。それで、何ですか? 話って」

 田島はブラックなので、かき回す必要はないのだが、片岡とファミレスで差し向かいという状況自体が落ち着かないのか、余計な動作をしばらく続けていた。

 片岡は、そんな田島の胸中を知ってか知らずか、ホットコーヒーをズルズル~っと音を立てながらすすると、もったいぶった手つきでノートパソコンを開いた。

「つまりこういうことなんだけど……」

 と言いながら、画面を田島の方に向け、いきなり核心から話し始めた。

「ブルバスターをフル充電するのに必要な電気代が、ざっとこれぐらい」

 ノートパソコンの画面には、波止工業の経費一覧がまとめられたエクセルが表示されている。片岡は、表の上の方にある項目を指で示していた。

 体をぐっと乗り出し、示された箇所をのぞき込む田島。そこには、ブルバスターを一回充電するのに掛かる一円単位のコストが書かれていた。

 田島がそれを確認したのを見計らい、片岡が講釈を続ける。

「ブルバスターが電気駆動だってこと、すっかり忘れててね。充電のことまで頭が回らなかったんだ」

 つまり、片岡が事前に計算していた以外の経費が掛かるという話である。

 ブルローバーの動力はガソリンで、連続可動時間は満タンで四十分。超が付くほどの燃費の悪さを誇っており、片岡はかねてから経費の捻出に頭を悩ませていた。

 いっぽう、ブルバスターの可動時間は、フル充電で六十分。劇的に活動時間が延びた訳ではないが、経費的には少なからず切り詰めることができる。

 片岡は、そんな皮算用をしていたのだが、沖野から渡されたブルバスターの説明書に書かれた〝充電に必要な電力量〟の項目を見て目を丸くした。電気自動車の一回の充電料金が数百円であることから、片岡は勝手に〝その程度のもの〟と考えていたのだが、実際の金額は、その想定を数倍上回るものだった。

 しかも、である。相手は、神出鬼没の巨獣。いつでも出動できるように、常にスクランブル態勢を整えておかなければならない。巨獣が出ました。じゃあ、充電を始めましょう……というわけにはいかないのだ。

 つまり、常に充電満タン状態でスタンバイしていなければならないということ。ガソリン機のブルローバーであれば、補給さえしておけばそのまま放っておいても問題ない。しかし、ブルバスターの場合、充電ひとつ取っても、決して安くないランニングコストが掛かり続けることになるのだ。

 状況を理解した田島は、ふうーっと大きなため息をついた。

 でも、まあ、いずれにせよ、駆除業務に直接かかわる費用をケチるわけにはいかない。ここは片岡に頑張ってもらって、他の部分から補填してもらうしかない。

 そう切り替えた田島だったが、片岡の話には、まだ続きがあった。

「それと、壊れたブルローバーの回収費用が、予想以上に掛かって……。修理代は予算に入れてあったんだけど、故障の原因はプラグじゃなくて、エンジンの方だったらしいんだ。蟹江さんの工場に持ち込まないと直らないんだって。それで、島から運び出すのに、運搬用の特殊回収車を手配したから、そのレンタル代で二万五千円。その回収車を運ぶトラックがいるって言うんで、三万円。プラス作業員二名で四万円。しめて、九万五千円。」

 田島は絶句せざるを得なかった。片岡は、追い打ちを掛けるように、絶望的な言葉を口にした。

「このままだと、来月は乗り越えられんよ」

 ソファの背もたれに頭を預け、天井を仰ぐ田島。これまでも自転車操業でやってきた会社だが、ここにきていよいよ危険水域到達か……。田島は、いったん思考をリセットさせようと目を閉じかけたが、片岡はそれさえ許してくれなかった。

「実は、話の本題はこれからなんだ」

 まさかの宣告に驚いた田島は、ガバッと身を起こして素っ頓狂な声を上げた。

「まだあるんですか!?」

 片岡は、人差し指でズレ落ちかけた眼鏡をクイッと上げると、怪談話のナレーションのように、芝居がかった重々しいトーンで言った。

「ブルバスターを島に運ぶための船なんだが」

 その雰囲気に当てられたのか、ゴクッと唾を飲み込んで問い返す田島。

「船が、どうしました?」

 片岡は、ズイと体を乗り出して、この日の〝話の本題〟を告げる。

「今後、使えなくなりそうなんだ」

 驚きに目を見開いた田島が、言葉に詰まる。

「えっ!? 使えないって……」

 片岡は、そこで再び音を立てながらコーヒーをすすり、一拍置いてから詳しい事情を説明した。

「あの船は、タコ漁師の成瀬さんの好意で使わせてもらっていただろう? ところが、さっき突然電話があって、船を返してくれって」

 ああ、そうか、ついに来たか。と、田島は、テーブルに両肘をついて頭を抱える。ただ、それは想定していた事態ではある。田島は、そのままの姿勢で、片岡に話の先を促した。

「やっぱり、タダってのに無理があったか……。で、いくら欲しいと言ってるんです?」

 ところが、片岡の答えは、田島が想定していたものとは大きく違っていた。

「いや、お金の問題じゃないんだよ。どんなに金を積まれても、ウチに船は貸せないって……」

 意外な答えにビックリし、ついていた肘をズルっと滑らせる田島。顔を上げたところで目に入った片岡の深刻そうな表情から、それが冗談じゃないことだけは分かった。

「さしあたり今月いっぱいまで、レンタル期間を引き延ばしてもらえたんだが……」

 ああ、それなら安心ですね……となるはずがない。田島は、貸し出し主の温和な顔を思い浮かべながら、真意を問いただした。

「あの成瀬さんが、ですか? あんなにウチに親切にしてくれたじゃないですか!」

 片岡に強く当たるのはお門違いだったが、田島は不測の事態に語気を強めずにはいられなかった。ただ、片岡も片岡で思うところがあるのか、目の前のコーヒーカップに視線を落とし、ボソボソとつぶやく。

「そうなんだよ。つい先日だって、獲れたタコなんかお裾分けしてくれたりして。でも、何だか急に態度が変わっちゃって……」

 窓の外の景色に目をやりながら、首をひねる田島。

「何か失礼なことでもしたかな?」

 田島の中には、思い当たることがないではなかった。

 宿直が終わった後、船に日本酒を持ち込んで、一人でクルージング気分の酒盛りをしたことが気に食わなかったのか? それとも、船に置きっぱなしになっているタコ壺を、ワインクーラー代わりに使ったのがバレたのか?

 いや、いずれにしろ、豪快な海の男が、その程度のことでへそを曲げるとは思えない。田島が貸し出し打ち切りの理由を考えあぐねていると、片岡が意外なことを口にした。

「私も気になって、ほうぼうに当たっていろいろ調べてみたんだけど、どうやら、このあたりの建設組合が関係しているみたいなんだ」

 田島は、思ってもみないキーワードが飛び出したことに「えっ!?」と驚き、眉をひそめて問い返した。

「どういうことですか?」

 片岡は、ソファに背中を預けると、腕組みして話を続けた。

「波止工業は、もともと龍眼島の建設会社だったでしょ」

 言わずもがなの説明だったが、田島はそれが、今から片岡が説明する事の経緯の背景になる事情だと察し、相槌を打った。

「ええ、島には住めなくなったんで、対岸のこっちに社屋を移したんです」

 田島の脳裏に、波止工業と龍眼島、そして自身の身の置きどころについて、今に至る事の経緯がよみがえる。

 そもそも波止工業は、龍眼島に社屋を構える建設会社だった。といっても、主な業務は、住宅設備の設置や建物の修繕という零細企業。社員数は、社長も含めて六人という小所帯だった。それでも、島には建築会社が波止一社しかなかったため、島民たちから頼られ、重宝されていた。

 会社として転機になったのが、日本を代表する総合化学メーカー・塩田化学から発注を受けた、海水淡水化プラント実験施設の建設計画。それまでも、護岸工事や道路の舗装など、島のインフラ整備にも携わってはいたが、そこまでスケールの大きい計画を任されるのは会社として初めての経験だった。

 社長以下、社員たちは一様に張り切り、期間従業員を雇うなど、全社を挙げて実験施設の建築に邁進する。予定地は、島の最西端。島の南側を横断する海沿いの道を突き当たりまで進んだ、一番の島外れだった。

 建設開始から四年後、施設は無事に完成。塩田化学は計画通り、海水の淡水化に成功し、それから約二年後には、島の生活用水の二十パーセントをまかなうまでになっていた。

 しかし、今から一年前、『龍眼島 獣襲撃事件 報告書』にもあった通り、ほぼすべての社員が非業の死を遂げてしまう。さらにその後、火山性ガスによる全島避難を余儀なくされたことで、波止工業は会社としての機能を失った。

 いっぽう、実験施設の建設に先立って、島民との折衝に当たっていたのが、当時塩田化学の環境インフラ部で課長を務めていた田島だった。交渉から建設、そして施設の稼働まで、六年にわたって計画のすべてにかかわっていた田島は、島に並々ならない愛着を持つようになっていた。

 巨獣とガスの問題は、そんな中で起きた異変。田島は、島に平穏な暮らしを取り戻すために一大決心をし、看板だけの抜け殻になっていた波止工業を買い取り、害獣駆除会社として生まれ変わらせたのだった。

 ちなみに、波止工業のクライアントにあたるのは、塩田化学と龍眼島を所有する自治体。寄付など細かい額を除き、塩田九割、自治体一割の割合で、年間一億円の運営費が負担されている。自治体から出される費用は、龍眼島の害獣駆除費という名目で、当然ながら波止の運営には、税金の一部が投入されていることになる。

 なお、塩田化学が多額の費用を投じているのは、〝完成させた淡水化プラントを正常運転に戻す〟という目的。そのほか、交渉役を買って出た片岡が、何やら説得の材料を持ち出したらしいのだが、経理に関しては任せているので、田島も詳しくは聞いていなかった。

 そんな一連の経緯を反すうし、自身の思考の中に落ちていた田島を、片岡の声が呼び戻した。

「どうも、それを快く思っていない連中がいるらしいんだ」

 片岡は、腕を組んだまま、苦々しい表情を浮かべている。今言った〝それ〟とは、波止が本土に社屋を移した一件についてである。しかし、田島は、片岡が口にした〝連中〟とやらにピンとこず、「は?」と間抜けな問いを発した。

「ここんところ、市は財政難で不況が続いている。このあたりの中小建設会社は、少ない公共事業を奪い合っている状況だ」

 波止工業も、一応は元建設会社。改めて片岡から説明を受けなくても、田島も社長としてそれくらいのことは把握している。だからこそ、腑に落ちなかった。

「それが、ウチとどう関係あるっていうんですか?」

 片岡は、背もたれから身を起こし、秘密の話を打ち明けるように、声のトーンを落としてヒソヒソ声で言った。

「ウチの親会社……」

 田島も、ただならぬ気配を察し、身を乗り出して合の手を挟む。

「塩田化学ですか」

 片岡がひとつ頷き、話を続けた。

「塩田と言えば大企業だ。そのコネでウチが、島の復興事業を独占しているって噂が立ってるんだ。いや、あれは噂というレベルじゃない。もはや連中の間では、既成事実として語られている。それをやっかんでるって話なんだよ」

 田島は、衝撃の事実に、再び天井を仰いだ。自分があずかり知らないところで、まさかそんなことになっていたとは……。

 確かに、波止は塩田化学から出資を受け、出資金や運営資金を受け取り、自治体からも活動費を得ている。ただ、それはあくまで害獣駆除会社としての運営資金だ。もはや建設会社としての機能を失っている波止が、復興事業を独占しているなんて話は、いくら何でもナンセンス過ぎる。

 しかし、その建設業者たちの反発と、漁船の貸し出し中止がどう結びつくのか。田島は相変わらず合点がいかず、片岡に視線を送ることで話の先を促した。

「波止には船を貸すな。貸したヤツはただじゃおかないって、建設関係の組合員が、この辺の漁師に圧力を掛けているらしいんだ」

 田島は、それを聞いてようやくピンときた。波止工業のある地域は、それなりに発展しているとはいえ、古くからのしがらみはいま色濃く残っている。その中でも、昔から地域のインフラにかかわってきた建設業界の影響力は、軽視できないものがある。その地域的圧力に対抗するなど、いち漁師にできるはずもないだろう。

 タコ壺漁師の成瀬が、なぜ突然手のひらを返したのか、田島はそのカラクリがようやく分かった。

 いずれにせよ、経費の問題以上に、喫緊の課題であることは間違いなかった。片岡も認識は同じようで、問題の核心を口にした。

「ブルバスターは、一回の出動で充電を使い切ってしまう。島は電気も復旧してないでしょ。だから、いちいちこっちに戻らなきゃならない。船がなきゃ、何にもできないのが現状だ。こりゃ、もう、お手上げだよ」

 フル充電で六十分。片岡の言う通り、出動と帰還を繰り返さなければならないことは間違いない。その運搬に必要不可欠な船がないとなると、もはや波止は、開店休業状態と言っても過言ではない。

 田島は、この日何度目かの深いため息をついた。


夜の帳が下りた住宅街。

 波止工業から車で十分のひなびたマンションが、田島の住処だった。

 社長の邸宅にしては、いくら何でも質素過ぎる佇まいである。エレベーターもガタガタと震動が激しい年代物。田島は、その頼りない小箱に乗り込むと、『4』と書かれたボタンを押した。

 マンション……というより、団地と言った方がしっくりくるような廊下。コンビニ袋を提げて進む田島の表情からは、疲れた様子が見て取れる。

 四十五歳という実年齢よりは若く見られがちな田島だが、それはあくまで仕事中の顔。こうして家に帰ってくると、どっと老け込んでしまうのは、田島自身も自覚していた。と同時に、それでも構わないと思っていた。

 うつむいたまま鍵を開け、小さな玄関で靴を脱ぐ。

 いつものように手探りで電灯のスイッチを入れる。と、部屋に明りがともるや否や、柔らかい何かが足元に飛びついてきた。

「花子……ただいま」

 田島は、唯一の同居人であるフレンチブルドックに帰宅を報告した。

 フランス原産の中型犬で、成犬でも体重は十キログラム前後。落ち着いた性格と無駄吠えの少なさが特徴とされる、フレンドリーな性格の犬種である。

 花子は名前の通りメス犬だが、ギョロっとした目と、常に口からはみ出した舌が特徴で、可愛いというより、ブサカワのカテゴリーに入るタイプだ。チャームポイントは、額に浮かんだハートマーク。目の周りから後頭部までを覆っている黒い毛と、口の周りから額まで続いている白い毛が、コントラストを為しており、額部分の境界線が、見事なハートマークになっているのだ。

 しかし、どんなに花子に愛嬌が備わっていようとも、中年男がコンビニ袋片手に一人で帰宅し、ペットにただいまのあいさつをするというのは、端から見れば相当わびしい光景である。

 だが、それでも今の田島にとって花子は大きな癒やしになっていた。疲れていた表情がパッと明るくなり、片手で花子を抱き上げると、よしよしと体をなで回す。

 リビングに入ると、手にしていた鞄とコンビニ袋をテーブルの上に放り、抱えていた花子をそっと床に戻した。

 部屋には、ほとんど何も置かれていなかった。ソファセットとパソコンデスク、それと小物を収納するチェストがあるくらいで、調度品は皆無。唯一、チェストの上に写真立てが置かれているが、それは現在裏返しに伏せられている。

 リビングのほかは、申し訳程度に設けられたキッチンスペースとトイレ、風呂。あとは文字通り寝具しか置いていないベッドルームがあるだけだ。

 田島は、上着と靴下を脱ぐと、無造作にソファの上に放り投げた。その足元では、相変わらず花子が遊んでほしそうにじゃれついている。

「ちょっ、待て、おい……」

 そう言いながらも、田島は楽しそうで、引き出しから花子お気に入りのゴムボールを取り出す。これを投げてやれば尻尾を振って追いかけ、器用に口で咥えて田島のもとに駆け戻ってくる。この遊びのどこが楽しいのかは分からないが、とにかく花子はこれが大好きで、何度となくボールを咥えては戻し、咥えては戻しを繰り返すのが帰宅後の日課だった。

 この日も、ある意味不毛な反復運動を繰り返していた一人と一匹だったが、田島がボールを転がそうと屈んだ拍子に尻がチェストにぶつかり、伏せてあった写真立てがフローリングの床に落ちてしまった。

 ガチャン!

 衝撃で表面のガラスにヒビが入ったが、破片が散乱しなかったのはラッキーだった。田島は、花子が怪我でもしたら大変とばかりに、すぐ片付けようとしゃがみかけたが、床でバウンドして表向きになった写真が目に入ると動きを止めた。

 そこに写っていたのは、田島よりやや年下、三十代後半と見られる女性と、小学校に入るか入らないかくらいの幼い女の子だった。

 花子との楽しい時間から一転、途端に沈んだ表情になる田島。写真に写った二人は、ずっと前に出て行ったきりで、部屋にはいない。

 ふと気付くと、花子が慰めるような目で、田島の顔を見上げていた。

 泣き笑いの表情で、花子の頭をなでる田島。ヒビの入った写真立てを拾い上げると、再び伏せた状態でチェストの上に戻した。

 ここ最近、何もかもがうまくいっていなかった。出て行った妻と娘が戻ってくる見込みはなかったし、仕事面ではあらぬ誤解を受けている。

 そもそも、波止が害獣駆除会社に生まれ変わったこと自体、浸透していないのではないか……!? まったく、気が滅入ることばかりだ。

 一息つこうとソファに足を向けた田島は、テーブルの上に置いた鞄が、いつの間にか横倒しになっていることに気づいた。中から、書類の一部が飛び出している。

 何の気なしに、それを手に取る。と、沈んでいた表情がみるみるうちに生気を取り戻し、天恵を得たように変わった。

「これだ!」


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