第10話

 シオタバイオのロビー。

 来客用のソファすらない殺風景な場所に、小さな受付台が設置され、その上に内線電話だけがポツンと置かれている。自分で訪問先に内線を掛け、担当者を呼び出すシステムらしい。

 武藤は、受話器を持ち上げると、内線番号一覧を見ながら三ケタの番号をプッシュした。しかし、相手がなかなか出ないのか、受話器を耳に当てたままの姿勢で、動きを止めている。沖野は、所在なげに、武藤のそばに控えている。

 たっぷり三十秒は待たされただろうか、ようやく先方が呼び出しに応じたようで、武藤が受話器に声を吹き込んだ。

「あ、どうも、お世話になっております。波止の武藤です。……あ、はい」

 沖野は内心、武藤のそんな応対を意外に感じていた。

 どんな相手にも物怖じしない豪胆な性格が、目の前の先輩社員の持ち味だろう……と勝手に想像していたのだが、取引先の相手には、それなりに丁寧な態度で接するようだ。

 正直、社長である田島にさえ、ろくに敬語を使わない武藤だけに、社外の人間にも、よく言えばフレンドリーな、悪く言えば横柄な態度で臨むものだとばかり思っていた。しかし、実際は、「お世話になっております」である。

 常識ある社会人なら当然と言えば当然なのだが、沖野にしてみれば、どこか拍子抜けなところもあった。アニメの中では、豪快キャラはあくまで豪快キャラ。このシーンだったら、「よう! 俺だけど」くらいのことは言ってほしかった。

 とはいえ、これは現実。夢見がちな沖野であっても、キャラだけでは押し通せないリアルがあることも知っている。自分もまたしかり。沖野は、先方に失礼のないように、受付奥の磨かれた壁に映った自分の姿を見ながら居住まいを正した。

 いっぽう、武藤は担当者が出てくるのを待つ間、大きなため息を連発していた。よほどそりが合わないのだろう。嫌なお役目から一刻も早く解放されたいという思いが、全身からあふれ出ている。

 しばらく待たされた後、担当者と見られる男性が、階段を降りてきた。

 ゴルフでもやっているのか、あるいは肝臓が悪いのか、浅黒い肌をした中年だった。年齢は武藤と同じ五十代半ばといったところだろうか。ズングリした体型を見ると、自分には甘そうだが、そのいっぽう、顔に浮かんだ険から察するに、他人には厳しいタイプのようだ。

 沖野は、見るからに一癖ありそうな男の姿を見るなり、「これが噂の猪俣部長か」と理解した。初対面ながら、確かに良い印象は持てない。

 それでも、武藤はいつものことと割り切っているのか、社会人としての使命をまっとうするべく、謝罪の言葉を口にした。

「遅くなってすみません。明日になるよりは、と思いまして」

 そう言うと、大きい体をすぼめるように頭を下げた。半歩後ろに控えていた沖野も、それにならってペコリとおじぎをする。

 ところが、当の猪俣は、まるであいさつなど目に入らなかったかのように、階段を降りきった場所で、両手に腰を当てたまま、黙って突っ立っている。

 武藤は危うく舌打ちをしそうになったが、すんでのところでそれをこらえ、あらかじめ手元に用意していた書類を差し出した。書面の上部には、『受け取り確認書』の文字が見える。

「じゃ、コレにはんこください」

 今度もまた武藤の言葉には応じず、猪俣はロビーの時計に視線を向けた。その動作には、芝居がかったわざとらしさが垣間見える。

 時刻は、四時五十五分。ここまでの道中、飛ばしてきた甲斐があって、タイムリミットは文句なしにクリアしている。が、猪俣の顔には、「もう終業間際だろ」と言わんばかりの表情があからさまに浮かんでいた。

 ただ、ここで嫌味を言うのも、逆に無駄な労力と思ったのか、猪俣は面倒臭いという意思表示は態度だけに留め、武藤から受け取った書類に、ポケットから取り出したシャチハタを押しつけた。内容に一切目を通していないところを見ると、どうやらその作業はすっかりルーティンになっているらしい。

 ともあれ、武藤はその一瞬の間を利用して、猪俣に問い掛けた。

「今回のは、今までよりかなり大きいんですよ。出るたびにデカくなってましてね。……その後、どうです? ヤツらについて、何か分かったことないですか?」

 おずおずと、という表現がしっくりきそうな、へりくだった聞き方だったが、猪俣はわずかに眉を動かしただけで答えようとしなかった。

 だが、武藤にしてみれば、巨獣に関する情報は文字通り死活問題。手ぶらで帰るわけにはいかないとばかりに食い下がる。

「ほんのちょっとでも手掛かりが掴めればいいんですが。例えば、爬虫類なのか、ほ乳類の一種なのか……とか。あと、あそこまでデカくなるのに、いったい何を食ってるのかとか……。オタクでは解剖もしてくれてるんですよね? 胃袋の中とか開けてみて、何か分かったことって……」

 しかし、その慇懃な聞き方が逆に癪に障ったのか、猪俣はけんもほろろに返す。

「そりゃ、こっちだっていろいろ調べてるよ。サボってるわけじゃないんだから」

 そんなことは分かっている。が、ここで猪俣にへそを曲げられても損なだけだ。武藤は、いら立ちを必死に隠しながら、「そういうつもりで言ってるんじゃ……」と、フォローに回った。

 それでも、いったんスイッチの入った猪俣の嫌味は止まらなかった。

「少ない研究員のシフトをなるべく割いて、いろいろと融通利かせてやってるんだ」

 恩着せがましい言い方にカチンと来た武藤だったが、ここでキレたら元も子もない。自分を押し殺して、自社の立場を説明する。

「いや、ウチとしてはですね……」

 ところが、猪俣はその説明すら遮って、波止側の不備を主張した。

「だいたいね、運んでくるのが死骸ばっかりじゃ、話にならないんだよ!」

 一連のやりとりを、ただ傍観していることしかできなかった沖野だが、猪俣のその発言を受けて、初めて口を挟んだ。

「えっと・・・・・・、そうおっしゃるってことは、死骸じゃなきゃいいってことですよね?」

 猪俣は、そこで初めて存在に気付いたかのように、沖野の方に目を向けた。

「ん? 誰、キミ?」

 武藤もようやく紹介がまだだったことに気付き、新入社員を手で示しながら言う。

「あ、コイツは今日からウチに入った……」

 という武藤の言葉を受け、再度ペコリと頭を下げた沖野は、若者らしいハキハキした声で名乗った。

「沖野と申します!」

 猪俣は、沖野の顔を一瞥したものの、興味なさげにすぐ視線を外し、明後日の方向を見ながら、はんこを押した書類を武藤に突き返した。

 そして、沖野のあいさつには何らリアクションしないまま、きびすを返して元来た階段を上り始める。

 沖野は、そのトゲトゲしい態度に気後れすることなく、猪俣の背中に声を投げ掛けた。

「怪獣の生体を手に入れればいいんですよね?」

 すでに階段の中程まで歩を進めていた猪俣だったが、ひるんだ様子もなく真っすぐな問いを発した新人の言葉に足を止めた。

 沖野は、それを好機と捉え、さらにたたみ掛ける。

「生け捕りにして生体を連れて来れば、正体が分かるって解釈でいいんですね!」

 その勢いに押された……というわけでもないだろうが、猪俣はそこでようやく振り返り、沖野と武藤の間あたりに視線をさまよわせながら答えた。

「いや、まぁ……。そりゃ、死骸よりは、いろいろ分かることも多くなると思うよ。でも、生きたまま捕まえてくるなんて、できっこないでしょ。オタクらじゃ」

 シオタバイオとしても、波止工業がどんな方法で巨獣に対処しているか、ある程度は把握している。麻酔銃で眠らせたり、罠を仕掛けて檻に入れるなんて平和的な手法でないことは、先刻承知である。

 だからこその不可能宣言。売り言葉に買い言葉。いつも皮肉な物言いの猪俣にしては珍しい〝ストレートなあざけり〟だった。

 いっぽう、沖野はとっさに、「できます!」と言ってしまいそうになったが、ブルバスターの今の装備で、本当にそれが可能か、安請け合いできない不安が頭をよぎって答えるのを躊躇してしまった。

 その一瞬のタイムラグの間に、間の抜けた音楽が聞こえてきた。

 キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン♪

 終業を知らせるチャイムの音である。

 猪俣は、今度こそお役御免といった様子で、そそくさと姿を消してしまった。

 沖野はそれを再び呼び止めようとしたが、どうせ満足な答えなど返ってこないだろうと思い直し、階段に向けて上げかけた右手を力なく落とした。

 それを横目に見た武藤は、やれやれという表情を浮かべながら、この日一番大きなため息をはき出した。


夕日に染まった国道。

 荷台を空にしたトラックが、来たときとは逆向きに走っていく。

 運転席には武藤。憤まんやるかたない様子で、助手席の沖野に愚痴をこぼす。

「相変わらず、感じわりぃな、アイツ。今まで倒してきた巨獣は六体。それを全部、あそこに持ち込んでるってのに、いまだに手掛かりひとつ掴めていやしねぇんだ。だいたいアイツら、最初から仕事をする気なんてないんじゃねえか?」

 沖野は、その愚痴には答えず、朝から考えていたことを口にした。

「これ、本来だったら、自衛隊が出てきてもおかしくないケースじゃないですか?」

 武藤は、沖野からでた言葉に引っ掛かり、そのまま返す。

「自衛隊?」

 沖野は、そうですとばかりに頷いて続けた。

「だって、あれエイリアンだったらどうするんです? 国防レベルの案件ですよ。いや、ひょっとしたら地球防衛軍レベルかも」

 沖野が傾倒するアニメの世界において、謎の生命体とバトルを繰り広げる集団といえば、相応の戦力を有した国家的組織と相場が決まっている。現実問題として、今の日本における該当の集団をあげるとするならば、それは自衛隊ということになる。……と、沖野は考えたのだ。

 今朝、実際に巨獣と対峙していたときは、そんなことを考える余裕はなかったが、冷静になってみると、いち民間企業のいち社員が、八六メートルはあろうかという凶暴な生物と戦うなんて、普通ではない。地元猟友会に任せておけばいい、クマやイノシシとはレベルが違うのだ。

 ましてや、相手は生態すら分かっていない未知の生物。武藤の言葉が正しいとすれば、いまだ爬虫類か哺乳類かすら分かっていないということだ。

 沖野が、国防レベルの案件ではないかと危惧するのも無理はなかった。

 しかし、武藤はピンときていないようで、言下に沖野の考えを否定した。

「そんなことあるわけないだろ。巨獣は島の森から出てきたんだぞ」

 巨獣がエイリアン、すなわち地球外生命体だった場合、確かにいち企業に、ましてや波止工業のような零細企業に対処できる問題ではない。

 しかし、巨獣はあくまで森で生まれた突然変異の害獣。それが、武藤の言い分であり、波止工業の会社としての見解だった。

 ただ、仮にそうだったとしても、あそこまで大きい生物の出現を、国や政府が看過するものだろうか? 疑問を解消できない沖野は、とりあえずエイリアン説だけでも押し通そうと、いつか見た古い映画のタイトルをあげた。

「いや、地球の地面から、宇宙の生命体が出てくるってパターンもありますよ。スピルバーグ版の『宇宙戦争』とか、『パシフィックリム』とか」

 世代的には、武藤の方が馴染みのあるオールドムービーだったが、それはそれ。聞き分けのない後輩を諭すように言った。

「あのな、これは映画でもないし、アニメでもないんだぞ。だいたい、あの巨獣ってのは、ゴジラみたいに火を噴いたりしなかっただろ?」

 そう指摘された沖野は、変なスイッチが入ってしまったようで、議論からズレた部分に反論した。

「ゴジラが吐くのは火じゃなくて放射熱線です! 体内にある放射能エネルギーをスパークさせて、口から発射していると言われています。ちなみに、僕が今言った放射熱線というのは、あくまでファンの間で浸透している俗称で、正確なところでは……」

 ゴジラ講義がまだまだ続きそうだと察した武藤は、大声で沖野の言葉を遮った。

「そんなもん、どうだっていいんだよ!」

 コワモテ先輩社員の怒声で我に返った沖野。はて、自分は何について議論していたんだっけ? と記憶をたどった。ああ、そうそう、巨獣がエイリアンか否か。でも……と、沖野は改めて思う。武藤は単純に、巨獣を〝大きな害獣〟と捉えているようだ。しかし、その背後には、自分がまだ知らされていない、何らかの事情があるのかもしれない。沖野は、その可能性に思い至って、背筋を凍らせた。

 何らかの事情とは、巨大企業の陰謀であったり、事態を嗅ぎつけた第三国の情報操作であったり……。

 だとしたら、今この時点で深掘りするのは得策ではない。知り過ぎた登場人物が、死亡フラグをビンビンに立てながら抹殺されるのは、映画やアニメのシビアなお約束である。自分がそんな役回りを演じさせられるのはご免だ。

 沖野は、頭脳をフル回転させて、その少々ピント外れの結論を導き出した。

 そして、ありえないほどのスピードで気持ちを切り替え、目下の目標として、脳天気なプランを発表した。

「とにかく、猪俣さんをギャフンと言わせるためにも、生け捕り頑張りましょうよ!」

 地球防衛軍うんぬんの話から、猪俣をギャフンと言わせるという話への移行は、スケールダウンもいいところだったが、沖野に悪びれる様子はなかった。むしろ、生け捕りという新たな目標ができて、意気揚々としているようにも見える。

 その勢いのまま、不謹慎な冗談まで口にした。

「よ~し、生け捕りかぁ~! 燃えるなぁ! でも、もし巨獣がエイリアンだとしたら、人とか食べてたりして。まさか、いきなりパックリ、なんてないでしょうねえ?」

 雑誌のインタビューであれば、(笑)でも付きそうな、軽い口調のジョークだったが、それを聞いた武藤は息を飲み、顔を硬直させた。

 沖野は、突然空気がピリついたことを察し、恐る恐る武藤の顔に視線を向けた。そこには、眉間に皺を寄せ、怒っているような、あるいは悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべている武藤の姿があった。

 軽い冗談のつもりが、何やらヤバい地雷を踏んでしまったような雰囲気。沖野は、事態が飲み込めず、助けを求めるように、真横にいる先輩社員の名前を口にした。

「武藤さん……!?」

 問い掛けに沈黙する武藤。しばしの間の後、ボソリと口を開いた。

「……あるよ」

 沖野が大きく目を見開き、声を詰まらせる。

「えっ、それって……」

 武藤は、五十メートルほど前方を走る車に視線を向けていたが、それよりもはるかに遠くを見ているような目で言った。

「一年前だ。犠牲者が出てる」

 自分が冗談半分で言ったことが、現実に起きていた? 武藤の雰囲気から、それが決して冗談ではないことが分かる。

 改めて武藤の方に体を向け、顔をのぞきこむように問い掛ける沖野。

「何があったんです?」

 武藤は、チラリと助手席に視線を送ったものの、すぐに前に向き直り、口を真一文字に結んだまま黙り込んでしまった。


 街を赤く染めていた夕日は地平線に姿を消し、工業地帯が幻想的な光を帯びている。マジックアワーは、うらぶれた海沿いの古い街並みさえ美しく見せた。

 波止工業の社屋。その前に、荷台が空になったトラックが静かに止まった。

 シオタバイオに向かっている間は、とてつもなく荒々しかった武藤の運転だが、それはやはり制限時間があったからだったのか、帰路では乱暴ドライビングはなりを潜め、法令遵守の模範的安全運転がなされた。

 沖野は、窓に頭を打ちつけずに済み、おおいに安堵したのだが、武藤がすっかり大人しくなってしまったのは誤算だった。馴染みの浅い先輩社員と車内で二人、お互い黙り込んでいる時間ほど気まずいものはない。

 武藤も同じように感じていたのか、エンジンキーを引き抜くと、トラックのドアをロックし、そそくさと事務室に繋がる外階段に向けて歩き出した。

 一足先に助手席から降りていた沖野は、武藤の背中に「お疲れ様です」という運転を労う言葉を掛けた。武藤は、右手を軽く挙げてそれに応じたものの、振り返ることなく行ってしまった。

 沖野は、車移動で凝り固まった体をほぐすように、う~んと伸びをすると、すぐに気持ちを切り替え、小走りで武藤の後を追った。


 事務室の扉を開けると、中ではみゆきが一人、書類の整理をしていた。

 その姿を見た武藤が問い掛ける。

「あれ? みゆき、一人?」

 みゆきは、机から顔を上げ、外回りの男たちを迎えた。

「あ、おかえりなさい」

 武藤に続いて事務室に戻った沖野は、帰社のあいさつを口にする。

「ただいま、です」

 沖野は、イマドキの若者っぽい、軽薄な言い回しのあいさつを口にしながら、頭では別のことを考えていた。

 武藤さん、白金さんのこと、下の名前で呼ぶんだ……。

 そういえば、と思い出す。巨獣が島に出てから慌ただしかったので、特に意識していなかったものの、確か武藤さんは、二階堂さんのことも、「アル美」と下の名前で呼んでいた気がする。

 さすがは、豪快キャラポジション。

「社長と片岡さん、ちょっと外で打ち合わせしてくる、って出ちゃったんです」

 武藤は、「何でわざわざ外に?」と言ったものの、さして気にする様子もなく、改めてみゆきの残業を気遣った。

「わりぃな。俺たち帰ってくるまで、待ってくれてたんだろ? もう終業時間、過ぎてるもんな」

 みゆきは、てへっ……とばかりに、冗談めかして言った。

「待ってました~」

 それが嫌味に聞こえないのは、生来備わった愛嬌の賜物だろう。コワモテの武藤でさえ、自然と言葉が柔らかくなる。

「今日、俺が宿直だから。もう帰って大丈夫だよ」

 みゆきもみゆきで、自分のポジションを分かっているのか、

「すみません。ありがとうございます!」と言うと、いそいそと帰り支度を始めた。

 その作業のかたわら、沖野に声を掛ける。

「沖野くんも初日から残業じゃ、たまんないよね」

 行き掛かり上、帰社したものの、事務所に自分の席があるわけではなく、手持ちぶさただった沖野は、思い掛けず先輩女性社員に気遣われ、ドギマギしながら答えた。

「い、いえ、大丈夫です。蟹江の方じゃ、残業なんてザラでしたから」

 持ち帰ってきた書類を、棚のファイル入れていた武藤が、みゆきに向かって冗談交じりに釘を刺す。

「おいおい、あんまり新人を甘やかすなよ」

 帰り支度を整えたみゆきが、プウっと頬を膨らませながら反論した。

「甘やかしているわけじゃありませんよ。残業代に響くから、なるべく早く帰すようにって言われているんです」

 えっ!? さっきの優しげな言葉って、そういうドライな理由? 沖野の胸にともったわずかな温もりが、一気に冷却される。

 武藤の口からは、「また片岡のおっさんか。ふうぅ~」とため息が漏れた。

 それぞれの理由から、どっと疲労度を増した二人の男を残し、通勤用のブランドバッグを抱えて出口へ向かうみゆき。

「それじゃ、お先に失礼しま~す」

 明るくそう言うと、所在なげにドアの近くに立っていた沖野に微笑みかけ、「ほどほどにね」と、最後にハートマークでも付きそうな言葉を添えた。

 その一言で、だだ下がりだったテンションを、何とか平常運転くらいまで持ち直した沖野。そんなバカっぽい単純さが、沖野の取り柄でもあった。

 みゆきが帰り、事務室には武藤と沖野だけ。夜の工業地帯はことのほか静かだ。開け放たれた窓から、ザザーという潮騒だけが聞こえてくる。

 ふと壁に貼られた表に目をやった沖野は、それが宿直当番を示す、勤務表であることに気付く。この日は、言っていた通り、武藤が当番であることが示されている。

 わざわざ泊まりの当番を置いている理由は、説明されなくても分かる。巨獣はいつ現れるか分からない。島に設置したセンサーが反応したら、直ちに現場に駆けつけて、被害を最小限に食い止めるのだ。

 表には、武藤、田島、アル美の名前がある。今後はここに、沖野の名前も加わることになる。


 みゆきが出ていって数分後、応接用のソファでくつろいでいた武藤が、おもむろに立ち上がり、壁際にある書類棚に足を向けた。

 ガラス張りの扉を横にスライドさせ、中から一冊のファイルをつまみ出す。

 その背表紙には、『龍眼島 記録』と書かれている。

 武藤は、そのファイルを開くと、数ページめくって手を止め、一枚の書類を抜き出した。

 窓から外を眺めるともなしに眺めていた沖野は、武藤がファイルを手にしたのを見て、応接セットの方に移動する。

「ここに書いてある」と言って、抜き出した書類を沖野に手渡す武藤。

 書類の上部には、『龍眼島 獣襲撃事件 報告書』の文字。

 沖野は、応接用のソファに腰を降ろし、それを読み始めた。


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