第5話
木造二階建てアパート。
築三十年。良く言えばクラシカルな、悪く言えば古びた、昔ながらの集合住宅。唯一の〝売り〟は、バスとトイレが別になっている間取りである。格安の家賃を考えれば、居住者としてはそれだけでも御の字だろう。
その二階。東の角部屋から、水が流れる音が聞こえている。
音の出所はバスルーム。若い女性がシャワーを浴びている。
モデルのようにスラリと伸びた四肢を、透明な水が滑り落ちていく。水分を含んだショートボブの髪はツヤツヤと輝き、一見クールに見える整った顔立ちをさらに際立たせている。
と、洗面台に置いてあったスマホが、ブーンという震動と共に着信音を発した。
丁度、体を洗い終えた女性が、バスタオルを巻いてバスルームを出る。
まだ濡れている髪をスッとかき上げると、落ち着いた様子で電話を取った。
受話器から聞こえてきたのは、一時間前まで同じ職場にいた男の声だった。
「すまん、二階堂君。夜勤明けのところ。……寝てた?」
二階堂アル美。二十三歳。波止工業社員。
切れ長の目と引き締まった口元が、凜とした意志の強さを感じさせる。そのいっぽう、伏せ気味の視線は目の前の光景とは別の何かを見透かしているかにも思え、感情が消えたような表情はどこか影を帯びている。
アル美は、洗面台の前に立ったまま、田島の問い掛けに答えた。
「いえ、さっき家ついたトコなんで。何か?」
普通であれば、退社直後の社長からの直電など、迷惑以外の何物でもない。しかし、アル美はまったく感情の起伏を見せなかった。
「緊急事態なんだ……」
いつもは穏やかな田島の声に、切迫した空気が感じられる。それでもアル美は、慌てるでもなく、あくまで冷静に応じた。
「出動、ですか?」
アル美の必要最低限の言葉に、田島も短く「ああ」と答える。
これまでも、こうした緊急要請が何度かあった。
ブルローバーのメインパイロットは、重機操縦に関して一日の長がある武藤が担っているが、技術ではアル美も負けていない。むしろ反射神経や刻一刻と変わる現場の適応能力は、アル美の方が一枚上手と言っても良かった。
そのことは、武藤自身、薄々気づいているのだが、〝危険な仕事は男がやるもの〟という古臭い侠気や、自身の年齢的な衰えを認めたくないというプライドが〝後進に道を譲る〟という決断を鈍らせていた。
いずれにせよ、アル美に緊急出動要請が掛かるときは、武藤と連絡が取れない、あるいは遠方にいてすぐには現場に向かえないといった場合が多い。その際は、アル美が出動することになる。
ただ、この日はちょっと勝手が違っていた。田島が経緯の説明に入る。
「例の新型ロボットが来て、今、蟹江技研さんとこの沖野君が出動準備してるんだが……」
電話越しにも、田島が何やら口ごもっているのが分かった。一瞬の間の後、別の男の声が聞こえてきた。
「すまん、アル美! 俺、船舶免許の更新、忘れてたんだ!」
それが、武藤の声だと分かると、すぐさま言わんとしていることを察した。つまり、龍眼島まで機体を運ぶ操船の要請。みなまで聞かずとも相手の意図を察する機転を備えているのも、アル美の優れた能力のひとつだった。
電話を切ってから二分四十五秒後。アパートの廊下。
木製のドアが勢いよく開き、中からアル美が飛び出してきた。
スポーツウェアに着替えはているが、髪はまだ半乾き。しかし、本人はそんなこと気にする素振りも見せず、住民共用の外階段を駆け下りていく。
最後、残りの四段を一気に飛び降りると、アパートの庭の一角、ブロック塀の内側に停めてあった自転車にヒラリとまたがった。
それは、奮発して買った通勤用の愛車。スポーツタイプの軽量型で、トップスピードは四十キロ以上。勤務先の波止工業までは、信号にさえ捕まらなければ、十分と掛からない。
アル美は、無造作に髪をかき上げると、「よし!」というつぶやきと共に、力強くペダルをこぎ出した。
片側一車線の国道。その路側帯。
風を切ってグングン進むアル美。
アパート周辺こそ、ちょっとした住宅街になっているが、二分も走らないうちに、景色は海沿いの工場地帯に変わった。
最寄り駅からの距離は三キロメートル弱。時折、大型トラックが猛スピードで追い抜いていくが、歩いている人影はまばらだ。
アル美は、埋め立て地ならではの、この空疎な雰囲気が嫌いではなかった。整然としているよう見えて、どこか荒涼とした空気感がある。その光景が、自分の今の心境と、重なる部分があると感じているからかもしれない。
元々、アル美は龍眼島の住民だった。中学時代までは、島にひとつしかない学校に通っていた。高校は島になかったため、船とバスを乗り継いで本土まで通学していた。ゆえに、アル美にとって、龍眼島が〝マイホーム〟。波止工業のある、この地域一帯が〝ホーム〟という位置づけだった。
島を離れたのは、五年前。大学進学を機に大阪で一人暮らしを始めた。専攻は、機械工学。華やかな学生生活とは言えなかったが、それなりに充実した日々だった。しかし、卒業を半年後に控えた時期に起きた、ある事件をきっかけに、この地域に戻ってきた。
自転車はやがて、運河を渡る橋に差し掛かった。海の匂いが、一段と強くなる。
アル美は、ここから見える光景が好きだった。橋がある場所は、やや高台になっているため、海側に広がる奥の埋め立て地を見下ろすことができる。
工場や倉庫の鈍色の屋根。コンクリートで護岸された港。そこに停泊する何艘かの漁船。そして、遠くに見える龍眼島。この景色を見ると、自分の町に帰ってきたという実感がわいてくる。
しかし、今は郷愁に浸っている場合ではなかった。橋を渡り切り、海へと続く下り坂に差し掛かったアル美は、さらにスピードを上げた。
自転車を走らせ始めて七分後、前方に波止工業の社屋が見えてきた。このままいけば、アパートを出てから八分以内に到着することができる。正確に計測したことはないが、おそらくそれは、これまでの最速タイムだった。
アル美は、ラストスパートとばかりに、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。
アル美がアパートを出発したころ、波止工業も慌ただしくなっていた。
社屋二階の出入り口から、沖野と武藤が飛び出し、階段を駆け下りていく。
「とりあえず、立ち上げの準備しときます!」
沖野は停めっぱなしになっていたトラックに駈け寄りながら振り返り、海側に向かって走る武藤に声を掛けた。それを受け、武藤も声を張る。
「あの艀(はしけ)に乗れ。前の小型船で引っ張るから!」
武藤が指さす方向に目をやると、モーターボートを一回り大きくしたような小型船が、桟橋に横付けされているのが見えた。
沖野は、「はい!」と答えると、勢いよくトラックの荷台に飛び乗った。
桟橋と言っても、それは地図に表記されるようなたいそうなものではない。波止工業の前は、大型トラックが行き来できるくらい開けた更地になっているのだが、社屋を背にして右手には、やや護岸から出っ張った箇所がある。それが、運搬船の発着用として利用している波止工業専用の桟橋だった。
荷台に横たえられたブルバスター。
沖野が、その胴体部分にある小さな取っ手をスライドさせ、中のボタンを押した。
すると、ハッチ部分がガシャンと縦に開き、コックピットがあらわになった。
仰向けの体勢になった沖野が、その空間に体を滑り込ませる。
手元のボタンを押すと、ヴィーンというモーター音と共にハッチが閉じられた。
薄暗い機内。周囲には、非常灯のような、わずかな光だけが灯っている。
沖野は、それを頼りに、コックピットの背もたれ下部のジョイント部と、パイロットスーツの腰の部分に開いたプラグを接続した。
カチリという小気味良い音が聞こえ、電源供給を受けて命を吹き込まれたパイロットスーツ各所が、一斉にブゥンと発光する。
「キターッ!」
思わず雄叫びを上げる沖野。
ひと息つく暇もなく、沖野は目の前に浮き上がったパネル状のARディスプレーに並んだアイコンを、矢継ぎ早に操作し始めた。猛スピードで、タッチ、フリック、スワイプ、ピンチなどの操作をしていくため、端から見ると、適当に目についた箇所をいじっているようにしか思えない。が、その迅速な操作は、マシンの開発中、何度となく繰り返すことで培った、沖野の特殊技能だった。
波止のパイロットに操作方法をレクチャーする際、まずはこの機体の立ち上げ作業から覚えてもらわなければならない。スクランブル発進となれば、要していい時間は、どんなに長くても二十秒。まずは、そのトレーニングから始めようと沖野は考えていた。
ちなみに、このとき沖野が立ち上げに費やした時間は十三秒フラットだった。
ひと通りの操作を終えると、ウィーンという電子音と共に、インターフェイスが立ち上がった。その数秒のタイムラグを利用して、沖野は左手に持ったままになっていた、ヘッドセットを装着した。
わざわざレトロなものばかり収集しているんじゃないかと思えるほど、旧時代的なアイテムばかりが揃った波止工業の各種機器だが、このヘッドセットだけスマートなものに見える。
それもそのはず、このヘッドセットは、沖野がブルバスター開発のかたわら、一足先に納品していたものだった。セットアップの服のようにパイロットスーツに馴染むのも、沖野自身が意匠を凝らしてデザインしたためである。
インターフェイスがウォーミングアップを終えると、空中に浮かんだようなARディスプレーに、各種の情報が表示された。
それと同時に、外部の映像がスクリーンに映し出される。いや、映像が映し出されたというより、パイロットの感覚としては、機体が透けて外の景色が見えるようになったという方がしっくりくるかもしれない。
浅い眠りから目覚め、パイロットの指示を待つばかりのブルバスター。
そのとき、沖野は興奮の絶頂にいた。
幼いころ、心を虜にした数々のロボットアニメ。その世界に自分がいる! 十数年の時を経て、自分は主人公になったのだ!
もちろん、感慨にふけっていていい状況ではないのだが、沖野は高揚感に浸らずにはいられなかった。夢がかなった瞬間。この感動は一生忘れないだろう。
などと取り留めのない思考をめぐらせていた沖野だったが、そこで、そうだ! と思い出す。この日のために用意していたものがあったんだっけ。
コックピット右手の収納庫から、分厚い冊子を取り出す沖野。それは、ブルバスターの操作説明書。マシンを知り尽くしている沖野が、今さらそんなものを見る必要はないのだが、別の意味でそれはマストアイテムだった。
沖野が最初にハマり、今でももっとも愛してやまないロボットアニメ『機動戦士ガンダム』。五十年以上前にテレビで放映されたその作品で、主人公は無謀にも説明書片手に新型ロボットに乗り込み、目前に迫っていた敵と対峙した。
沖野は、そのシーンを見たときの興奮を、今でも鮮明に覚えている。
そのシーンを、どうしても再現したい!
沖野は、説明書を慌ただしくめくり、「コイツ、動くぞ」などと言いながら、わざわざ機体のアナログな箇所を操作した。
ただし、一応めくってはいる感じは出しているが、端から説明書など見ていない。沖野にとっては、説明書をめくること自体に意義があるのだ。
マシン内部で、そんな〝余計な儀式〟が行われていることなど知る由もない田島、みゆき、片岡、そして蟹江。四人は社屋から出て、トラックを遠巻きに見守っていた。
と、荷台の上に横たわっていたロボットが、片足を地面に降ろし、器用にその場で立ち上がった。降りたのは、社屋側。これから桟橋に向かうのだから、トラックの逆サイドに降りた方が早いのだが、四人のギャラリーに気づいた沖野が、わざわざ進むべき方向とは逆に降りたのだった。
沖野が初陣にともなうハイテンションから、あれやこれやと無駄なことばかりしているとは知らず、地上に降り立ったブルバスターの堂々たる姿に、「おおっ!」という感嘆の声を上げる一同。
田島は期待に満ちた表情で目を輝かせ、みゆきは興奮した様子で口を『O』の字に開き、蟹江は満足げに頷いている。普段ほとんど感情を表に出さない片岡でさえ、鼻の穴を大きく広げていた。
沖野は、四者四様のナイスリアクションを確認すると、してやったりという笑みを浮かべ、次の作業に移ることにした。各種計器類の確認である。
計器と言っても、車のタコメーターのように、物理的にそこにあるものではなく、ARディスプレーに映像として表示されたもの。沖野はそれを見渡して一瞬でチェックを終えると、「よし、異常なし」とつぶやいた。
これでようやく発進。と思いきや、沖野が次に行ったのは録画機器のセットだった。
説明書が収まっていた収納庫から、自身のスマホを引っ張り出すと、自撮り棒に取り付け、その末端を背もたれの窪みに固定。視界の邪魔にならないようにスマホ本体の位置を調整すると、動画モードの録画ボタンをタップした。
さらに、収納庫から小型カメラを取り出し、それもRECにセットして、自撮り棒同様、背もたれの窪みに取り付ける。
この動画をSNSにアップすれば、かなりの「いいね!」が獲得できるに違いない。沖野の口から、クフフフという笑いが漏れる。
「え~、沖野鉄郎、これから害獣駆除に出動します!」
沖野は、ササッと髪型を整えた後、自撮りのスマホに向かって、売れない底辺ユーチューバーのような、あいさつの言葉を吹き込んだ。
そうこうするうち、機体の外から田島の声が聞こえてきた。
「沖野君! くれぐれも気をつけてくれ。……って、聞こえてんのか?」
ARディスプレーをタッチし、スピーカーを外部モードに切り替えた沖野が答える。
「ええ、聞こえてますよ! ハッチを閉じても、外の音は拾ってるんで」
視覚ばかりか、聴覚も生身で外にいるのとほとんど変わらない。沖野自慢の機能である。
桟橋を進むブルバスター。
初夏の太陽に照らされ、オレンジのボディーが鮮やかにきらめいている。
一歩踏み出すたび、ドウィーン、ドウィーンという機械音が響く。
その姿を目で追っていた田島は、ブルバスターの先進性に改めて驚嘆していた。というのも、動き出す前は、コンクリートの護岸とマシンの足がこすれ合い、ガリガリとかゴツンゴツンといった、耳障りな音がするものと思っていた。が、実際はドウィーンである。
歩く動作自体も、実に滑らかだ。前身機のブルローバーは、キャタピラの足回りはもちろん、腕部の動きもカクカクした印象を受ける機械的なものだった。それが、目の前のブルバスターはどうだ。人間並み……とは言わないが、それに近しいと感じるほど、スムーズに動作している。
「現場での行動は、武藤さんと二階堂さんの指示に従ってくれ」
田島の指令に、「了解です」と応じる沖野。続けて、
「最速で退治します!」と、前のめりな意気込みを口にした。
入社以来、沖野を見守り、気分屋の性格も把握している蟹江が釘を刺す。
「あんまり調子づくんじゃないよ!」
それでも、沖野は元上司の苦言を気にも留めない様子で、「はいはい」といなすような返事を返した。
艀が横付けされた桟橋の突端に到達したブルバスターwith沖野。
機体の足を上げ、乗り移ろうとしたとき、波止社屋前の広場に、アル美の自転車が滑り込んできた。
小型船のそばで、社屋の方を向いていた武藤が、いち早くそれに気づき、声を掛ける。
「アル美! すまねぇ!」
アル美は、軽く頷いて答えると、田島たちのそばで自転車を降りた。
田島は、もみあげを掻きながら、心底済まなそうな顔で言う。元々、困ったような眉毛の形をしているので、いつも済まなそうといえば済まなそうなのだが、そのときはいつにも増して済まなそうだった。
「二階堂さん、悪いな。交代したばっかりだったのに」
アル美は、無表情まま、抑揚のない声で、「いえ……」とだけ言った。
と、再び桟橋の方から、武藤の声が聞こえてきた。
「島の北西部から出やがった。多分、この前俺が取り逃がしたヤツだ」
それがよほど悔しかったのだろう。武藤は苦々しい表情を浮かべている。
そのとき、アル美の視線は、艀への移動を終えたブルバスターに釘付けになっていた。
「あれが新型?」
かたわらにいた田島が応じる。
「うむ。操縦席(キャブ)は完全密閉式で外気から完全に隔絶されるから、火山性ガスも防護できる」
これまで、主力機だったブルローバーは、重機の操縦席のように、パイロットがほぼ剥き出し状態だった。ゆえに、ヘルメットの着用はマスト。また、毒ガスに関しては、口元を覆うタイプのガスマスクを装着することで対応していた。結果、視界は制限され、異物感も強いため、その重装備はパイロットにとってストレス以外の何物でもなかった。それが無くなるだけでも大きい。
乗り移り作業に忙殺されていた沖野が、そこでようやくアル美の到着に気づき、コックピットの中から声を掛けた。
「ああ! どうも、沖野です! 初めまして!」
初出動の高揚感に包まれ、テンションが高いままの沖野。これから戦地に向かう緊迫した状況下ではあるが、どうしても声が弾んでしまう。
ハイな沖野とは対照的に、アル美は無表情のまま、「よろしく」とだけ言った。
その、あまりにもぶっきらぼうな態度に面食らい、どんな女なんだと、マシンのズーム機能でアル美に寄る沖野。
すると、その華奢な体型に、再び面食らった。
もう一人のパイロットである武藤と先に顔を合わせていたこともあって、沖野は勝手にイカツイ女性を想像していた。相撲部や柔道重量級にいそうなドッシリ女子を想像していたわけではないが、円盤投げ、あるいはウエイトリフティング女子くらいのたくましさを持った人なんだろうとは思っていた。
しかし、現れたのは、害獣退治に勤しんできたハンターとは思えない、スラリとした若い女性だった。年齢は、同世代か、少し年上くらいだろうか。
「じゃ、急いでくれ。ヤツが住宅街の方に向かっているんだ」
アル美は、田島の指示に小さく頷くと、小型船に向かって駆け出した。
船に乗り込むや否や、慣れた手つきでエンジンを始動させるアル美。ドゥルン、ドゥルルンというエンジン音が聞こえ、船が小刻みに震動する。
武藤は、船をもやっていたロープを桟橋の杭から外すと、自身も乗り込んだ。
それを確認したアル美が、すぐさま船を発進させる。
スルリと桟橋を離れる小型船。しばらく進むと、船尾にくくられたロープがピンと張り、艀をけん引し始めた。
バランスを取るためだろう。ブルバスターは艀の中央で、片膝立ちになっている。多少の波はあるものの、龍眼島までの運搬に問題はなさそうだ。
田島たち居残り組は、それを期待と不安が入り交じった表情で見送った。
海。小型船が艀をえい航している。
風が弱いせいだろうか。外洋で出ても、波はそれほどうねっていない。
運転席にはアル美。航行速度を調整する手元のレバーを、最大出力まで倒している。波止所有の小型船は、元々、えい航用に作られたものではなく、単なる漁船である。艀そのものの重量に加え、鉄の塊に近いロボットも背負っているため、エンジンは悲鳴を上げる寸前だ。
それでも、波止工業のある本土の桟橋から、龍眼島の港まで十分。約三キロメートルの道のりは、何とか持ちこたえてくれそうだった。
アル美の視線の先には、龍眼島の島影。距離が近づくにつれ、そのシルエットが次第にはっきりしてくる。
横から見ると、人間の鼻のような形をしており、西に向けてこんもりと盛り上がっている。最高標高は、二百十二メートル。
真上から見るとピーナッツのような形で、東西に長く、南北に短い。面積は、九・六八平方キロメートルだ。
唯一の港が南端にあり、商店や郵便局など島の主要施設は、その周辺に集中している。また、集落は港から北西に続くメーンストリート沿いに点在。島の東側には、ほかの集落もあるにはあるが、ほとんどが四、五軒の民家が固まった程度の小規模なもので、島の中心はあくまで港周辺と中央通りである。
島の西側は、森林地帯で占められており、島民でさえ滅多に足を踏み入れない、ある種の禁足地だった。また、海に面した西端は、切り立った崖になっていて、船で接近することさえ難しい。
森林地帯の中心には、直径五十メートルほどの円形の湖があり、島自体の形も相まって、それが龍の眼に見えることから、龍眼島という島名が付けられたと言い伝えられている。ただ、いつ、誰がそう呼び始めたのか、島の古い文献にも詳しい記述はないため、実際のところ島名の由来ははっきりしていない。
艀の上。ブルバスターの周囲を、潮風がすり抜けていく。
龍眼島のシルエットは、コックピットの沖野にも見えていた。視界の中で、どんどん大きくなっていく島影。その光景を見詰めながら、沖野の脳裏には、コックピットを密閉型にしたいきさつがよみがえっていた。
そもそも、龍眼島の島民が全員避難しなくてはならなくなったのは、島の西側から火山性ガスが発生し、風向き次第で、東側の集落にもそれが流れ込んできたからだと聞いている。
つまり、島に上陸するといことは、ガスの発生源に自ら足を踏み入れるということである。現場での作業は、常に危険と隣り合わせになる。
そのため、ブルバスターの設計を詰める際、「パイロットの安全を確保するために、操縦席を密閉型にしてほしい」と田島から要望があった。
沖野は、それをくんでマシンを設計し、機密性には絶対の自信を持っている。それでも、致死性のガスという〝見えざる脅威〟に、恐怖心を抱いていないと言えば嘘になる。
ただ、今は、自分が手塩に掛けたロボットで、人間に仇なす敵を退治できることに気持ちが高まり、興奮が恐怖心を大きく上回っていた。
沖野が蟹江技研に入社したのは三年前。当初与えられたのは、建設用重機の開発補助というポジションだった。しかし、勉強と失敗を繰り返す日々の中にあっても、「いつかは軍隊に納品できるような、バトル系のロボット開発に携わりたい」という夢を捨てていなかった。
沖野自身、まさかこんなにも早く、その開発を任され、しかも操縦できる機会を与えてもらえるとは思ってもみなかった。考えてみれば、とんでもないシンデレラストーリーである。サラリーマンになった同級生たちが、やりたい仕事に就けず、SNSなどで愚痴っているのを思い出し、「自分は何て恵まれているんだろう」と改めて思う。
だからこそ、失敗するわけにはいかない。沖野は、目前に迫ってきた決戦の地を見詰めながら、コックピットの中で一人、決意を新たにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます