第4話
波止工業、二階。
社屋の外階段を上ってきた沖野が、ドアの前に到達した。その後には蟹江が続いている。
二階と言っても、一階のガレージ部分の天井が高いため、家屋やアパートのそれより、一・五倍くらい高い位置にある。その分、海側の窓からは沖合三キロメートルの龍眼島まで見渡せるというメリットがあったが、階段の上り下りに時間と労力を要するというデメリットもあった。
後者の洗礼を最大限に受けた蟹江は、フウフウと息を切らしている。沖野は階段を上っている最中、蟹江の重みで床が抜けるのではないか、留め具が外れて丸ごと横倒しになるんじゃないか、と気が気ではなかったが、ギシギシと軋みながらもどうにか持ちこたえてくれたようで、事なきを得た。
立て付けの悪いドアを開けると、奥には簡素な事務室が広がっていた。
入って左手には、事務机が二台。どちらも整理整頓が行き届いている。手前の机に、カラフルな文房具やUFOキャッチャーで取ったような小さなぬいぐるみなどが置かれているところを見ると、そこが庶務を担当しているというみゆきのデスクだろう。
奥の机には、魚の漢字がビッシリ書かれた湯飲みや昭和感漂う眼鏡ケース、さらには『波止工業四月収支』などと書かれた分厚いファイルが並んでいるので、片岡の席に違いない。
事務机は、見えている限りその二台。ということは、パイロットの武藤と、まだ沖野が顔を合わせていないもう一人の社員は、決まったデスクがないということのようだ。
事務室に入って正面奥には、四人座るといっぱいというシンプルな応接セットが置かれている。旧波止工業のおさがりだろうか、かなり年期が入っている。沖野や蟹江が打ち合わせに来ると、決まってここに案内されるので、一応勝手は知っている。
その奥にあるのが、社長である田島のデスクらしい。片付いたみゆきや片岡の机と違い、本や資料などがうず高く積まれ、いつ土砂崩れを起こしても不思議はない危険地帯になっている。身だしなみ同様、自身のことに関しては、かなりずぼらなことが分かる。
沖野たちは、社員のデスクと応接セットの間を抜けると、一同を追って奥の扉の前に足を進めた。
扉の上部には、『管制室』と書かれた白いプラスチック製のプレートが掲げられている。
打ち合わせで、波止の社屋を何度か訪れたことのある沖野だが、その部屋に入るのは初めてだった。管制室と書かれているくらいだから、言うなればそこが業務遂行の指示を送る〝前線基地〟ということだろう。
沖野の脳裏に、アニメで見た〝これぞ秘密基地!〟な近未来施設が浮かぶ。今日から自分の職場になる場所だ。いやが上にも期待は高まる。
しかし、ドアを開けた沖野の目に飛び込んできたのは、見事なまでに期待を裏切る光景だった。
「マジで?」
愕然とする沖野。
そこは、単なる作業場。例えるなら、災害時などに臨時で設置される市役所の防災センターのような空間だった。
部屋の中央には、作戦会議などで使うのだろうか、何も置かれていない広めの机が一台。その周囲に、パイプイスが五脚置かれている。
左手の窓側には、パソコン、無線機、映像モニターなどが並び、その一角だけは唯一〝管制室っぽい〟と言えば言えなくもないが、沖野が思い描いていた秘密基地感はまるで感じられなかった。
沖野の落胆は半端なかったが、今はとやかく言っても仕方ない。ロゴのリニュアルを押し通したら、こっちもいずれ変えていけばいい、と切り替えた。
田島をはじめとする波止一同は、窓際に置かれたモニターを食い入るように見詰めていた。上下二段、計六台並べられたモニターの縁には、それぞれ『港湾部』『住宅街』『中央道路』などと書かれた紙が貼られている。
映し出されているのはどうやら、龍眼島の各所に設置された、監視カメラの映像のようだ。
その中のひとつ、『森林地帯』と書かれた紙が貼られたモニターの映像が、地震が起きた際のお天気カメラのように、ブルブルと揺れ始めた。
一同に緊張が走り、モニターに視線が集まる。
と、次の瞬間、画像が大きく乱れ、木々を広角に映していた映像が突然、画面左から右に伸びる雑草のドアップの映像に変わってしまった。設置していたカメラが横倒しになったのだ。
さらに、グウォォォ~ッという獣のいななきのような音が聞こえてくると、モニターの映像は不意に砂嵐に変わってしまった。
「カメラ、つぶされたか……」
田島が苦々しい表情で舌打ちする。
腕組みしながらモニターを凝視していた武藤が、「ヤツか」と誰ともなく問い掛ける。田島がそれに答えた。
「おそらく、そうでしょうね」
すると今度は、公園と思われる開けた場所を映している映像に変化が見られた。奥の林の木が、ガサガサと揺れている。その揺れは、左から右に場所を移していた。
「東1fエリアから西9aエリアに移動しているな」
壁に貼られた地図とモニターを交互に見ながら、武藤が状況を見極めようとしている。
地図は、龍眼島の全景を描いたもので、地図上には東西南北、格子状に線が引かれている。出没地域を正確に把握するためだろう。東と西を結ぶ線にはアルファベットが、北と南を結ぶ線には数字が割り振られ、細かくブロック分けされている。記号の前に方角を付けているのは、直感的におおよその位置を捉えるために違いない。
「このままだと、住宅エリアに向かうぞ」
田島の表情がますます険しくなる。
森で暴れてくれている分には、それほど緊急性はない。しかし、住宅街に被害を及ぼす可能性があるとなれば話は別だ。
田島はモニターから視線を落とし、しばし考えた後、意を決したように振り返った。視線の先には、所在なげにモニターを眺めていた沖野がいた。
突然、田島に見据えられ、思わず姿勢を正す沖野。管制室に勝手に入ったことを怒られるのだろうか? いや、入るとき一応ノックはしたし。っていうか、俺だって今日からここの社員なわけだから、入っちゃダメってことはないだろう。
瞬時にそんなことを考えていると、田島が思ってもみない言葉を口にした。
「沖野君、頼めるか?」
沖野は、田島が何を言わんとしているのか、瞬時に飲み込めず、
「はい?」と間抜けな声を発した。
頼めるかって何を? このタイミングでお茶ってことはないよな。借金の申し入れってこともないだろうし、当然ながら「今から俺を一発殴ってくれ」なんて素っ頓狂なことでもないだろう。だとしたら、……何?
ばかばかしい空想を広げていた沖野を、田島が現実に引き戻した。
「ブルバスターで出動してくれ! 旧型のブルローバーは、島で動けなくなったままなんだ。今は、君しか頼れる人間がいない!」
苦み走った田島の表情から、それが苦渋の決断であることがうかがえる。入社初日の新人に、少なからず危険がともなう任務を与えるのは、いくら切羽詰まった状況とはいえ気が引けるのだろう。ましてや、ブルバスターは作りたてホヤホヤの新型だ。蟹江技研の技術は確かなものだが、初めての実戦投入で不具合が起きないとも限らない。
ちなみに、田島が〝旧型〟と評したブルローバーとは、これまで波止工業が主力機として使ってきた害獣駆除ロボットのこと。ロボットとはいえ、シャベルカーに毛が生えたような代物で、足回りはキャタピラ。アーム部分は一応、物を掴める仕様になっているが、操縦席は剥き出し状態で、建築用の重機とほとんど変わらない。唯一、違いがあるとすれば、肩口に付けられた機関砲くらいのものである。
そのブルローバーが、数日前、武藤が出動した際に故障。島に置き去りにせざるを得ず、今まで回収できずにいたのだった。
ただ、そのときの沖野は、ここに至る背景など、どうでもよくなっていた。これから世話になる会社のトップが、「君しか頼れる人間はいない」と言っている。こんなに晴れがましい言葉を掛けられたことはない!
思い返せば、この二十一年、これほどまで人に必要とされたことはなかった。幼稚園のお遊戯会では、浦島太郎でも、亀でも、亀をいじめていた村の子供たちでもなく、竜宮城付近でユラユラ揺れる〝海藻役〟を与えられた。中学時代の球技大会では、全員参加が原則であるにもかかわらず補欠に甘んじ、ベンチを温めるという屈辱を味わった。
それがどうだ。目の前の危機的状況を打破できるのは君しかいない、と一身に期待を集めているではないか。しかも、相棒となるのは、手塩に掛けて完成させた、我が子同然のマシンである。沖野にとって、興奮するなと言う方が、無理な相談だった。
完全に舞い上がった沖野は、上気した顔で田島の目を見詰め、
「はい! 行きます!」と声を張り上げた。
そう言うや否や、トラックに積んだままになっているブルバスター目掛けて駆け出す沖野。この後、デモンストレーションを披露する予定だったため、電源さえ入れれば、すぐにでも臨戦モードに持っていくことができる。
ところが、次の瞬間、片岡の鋭い声が沖野の行く手を遮った。
「ちょっと待った! まだ、手続きが済んでないよ!」
そのとき、沖野はすでに管制室の出入り口付近まで達していた。が、急ブレーキでたたらを踏み、勢い余ってドアに頭をぶつけてしまった。
痛みをこらえ、頭をさすりながら、「はい?」と片岡の方を振り返る。
声の主は、眼鏡の真ん中を人差し指でクイッと持ち上げながら言った。
「沖野君の雇用契約について、正式にはんこもらわないと」
それを聞いた蟹江が、左の手のひらに右の拳をポンっと打ちつける。
「そうだった! 途中で事故にでもあったら大変だわ」
気勢を削がれた沖野は、不満げな顔つきで口をとがらせた。
「俺、保険なら入ってますけど」
蟹江技研の社員に義務づけられている全国健康保険協会の健康保険。それと、任意で入っている生命保険。沖野は、合わせて月に三万円以上支払っていた。チャランポランなようでいて、そのへんは意外としっかりしている。
しかし、蟹江が心配しているのは、沖野のことではなかった。
「いや、ロボットの方よ。あれ、リースなんだからさ。買っちゃうと固定資産になって、税金が大変になるってんで、わざわざそういう契約にしたんだ。ねえ、片岡さん」
「ええ、まあ……そうです」
リース契約については、コストカッターの片岡が、蟹江技研側に提案したことである。蟹江の言う通り、買い取りとなると維持費だけでもばかにならず、零細企業である波止工業の経営は回っていかない。
本来であれば、波止工業が商品を発注したクライアントで、蟹江技研が受注業者。蟹江技研にとって波止は大切なお客様なのだが、このリース契約で大きな便宜を図っている分、微妙な力関係になっているのだった。
「受領書にはんこもらわないと。ほら、破損した場合の費用負担とか、どっちが持つか揉めたら嫌じゃない?」
蟹江はそう言うと、沖野に向かって、手のひらを差し出した。
「持ってきたでしょ、受領書」
「あ、はい。えっと……」
慌てて蟹江のもとに戻り、ブリーフケースを漁る沖野。ほどなくして、中からクリファイルに入れられた受領書を引っ張り出し、差し出されたままになっていた片岡の手に乗せた。
蟹江は、書類を受け取ると、それを一瞥し、恭しく片岡に手渡した。
「どうも」
事務的に受領書を受け取った片岡が、文面に視線を落としながら事務室に向かう。沖野と蟹江も、それに従った。
自分のデスクの引き出しから印鑑を取り出し、判を押す片岡。
「これでこっちは良しと。で、あとは雇用契約書ね」
そう言うと、事務室に戻ってきていたみゆきに声を掛けた。
「えっと、白金さん。沖野君の契約書、プリントアウトしてくれる?」
みゆきは、「はい」と頷き、自席のパソコンを立ち上げた。
片岡は、沖野と蟹江が事務室と管制室を繋ぐドアの前で突っ立ったままでいたことに気づき、応接コーナーを手で示しながら言った。
「今、出しますから。そっちの方にでも掛けていてください」
言われるがまま、ソファーに座る二人。蟹江が深々と腰掛けたのに対して、沖野が背筋を伸ばしたまま浅く腰掛けたのは、いまだ気がはやっている証拠だろう。
と、管制室のモニター前で、そのやり取りを聞いていた武藤が、しびれを切らしたように事務室の方に顔をのぞかせた。
「何のんびりしてんだ! ヤツが住宅地に迫ってるんだぞ!」
しかし、当の片岡はどこ吹く風で、手っ取り早く済ませる様子はない。
「いや、こういうことはきちんとしとかないと、後で問題になると厄介だから」
泰然自若の片岡に苛立ちを隠せない武藤が、乱暴な言葉をぶつける。
「そんなもん後回しだ! 緊急事態なんだぞ!」
それでも引き下がらない片岡は、
「このまま出動して、沖野君が怪我でもしたら、蟹江さんとウチのどっちが責任を取るっての?」と言って、武藤に鋭い視線を送った。
にらみ合う片岡と武藤。自分の契約のことで一触即発状態になっていることに少なからず申し訳なさを感じた沖野が、そこで割って入った。
「ブルバスターならすぐに動かせます! とりあえず、やらせてください!」
そう言うと、誰の了解も得ないまま、部屋を飛び出し掛ける。それを再び片岡が鋭い声で押し留めた。
「ダメだよ!」
しかし、すっかりやる気の沖野が食い下がる。
「いや、大丈夫ですよ! 僕、滅多に怪我しませんから!」
的外れな沖野の主張を聞いた蟹江が、「そういう問題じゃないでしょ」と思っていると、片岡もまったく同じことを思ったようで、そのままの言葉を発した。
「そういう問題じゃないんだよ。これは業務なんだから。仕事の一環なんだよ」
片岡と話してもらちが明かない。そう判断した武藤が、田島に援護を要請する。
「社長!」
モニター内の動きを注視したまま、背中で話を聞いていた田島は、そのままの姿勢で声を張り、隣の部屋のお堅いお目付役にやんわり指示を出した。
「片岡さん、後回しにしましょう!」
だが、片岡はすっかり意固地になっているようで、首を縦に振ろうとしなかった。武藤を押しのけるように管制室に半身を乗り出すと、田島の背中に問い掛けた。
「万が一、訴訟問題にでも発展したら、どうしよっての?」
その取って付けたような理由に田島が答える前に、沖野が反応した。
「訴訟なんかしませんよ!」
「君がしなくとも、そういうのは誰かがやるんだよ!」
もはや子どものけんかである。あるいは、やくざの言い掛かりか。
片岡は、一切の譲歩はしないという構えだ。
あきれ果てた沖野は、ふた周り以上年上の片岡に、皮肉を込めて言った。
「誰かって、どなたが?」
言外のニュアンスを感じ取った片岡が口ごもる。
「……君の家族やら、……御社の社長やら」
しかし、すぐに気を取り直し、一気にまくし立てた。
「そういうことが現実に起こるとね、義理人情とか、そういうの関係なくなって、身も蓋もない話になっていくんだ。田島さんも、そういうところもっと気にしないとダメでしょう。住宅地って言ったって、今は人が住んでないわけだし、緊急性は無いんだから」
それを聞いた武藤は瞬時にブチ切れ、「何を!」と胸ぐらを掴まんばかりの勢いで片岡に詰め寄った。
すると、いつの間にかモニターの前を離れていた田島が、二人の間に体を差し入れて武藤を制止。厳しい表情で、片岡に向き直った。
「片岡さん、それはちょっと違います。我々は、いつでも島民が帰れるように、島の環境を維持して守っていくことが仕事なんです。島民の住居が壊れかねない事態を、指をくわえて見ているわけにはいきません!」
飄々とした田島が、いつになく声を尖らせているのは、「緊急性は無い」という片岡の言い草に憤りを感じたからだろう。それでも冷静さを保っているのは、場の責任者という自覚があるせいかもしれない。
いっぽう、沖野と蟹江はすっかりあきれ顔だった。特に沖野は、〝新たな職場〟の一筋縄ではいかない人間関係を目の当たりにし、この会社、本当に大丈夫? と早くも心配になっていた。
そんなピリついた空気の中、どこかほんわかムードをはらんだ場違いな声が聞こえてきた。
「すいませ~ん!」
一同が声の方向に目をやると、自席でパソコンを操作していたみゆきが、困ったような表情を浮かべていた。
「どした?」と田島が理由を問うと、みゆきは心底申し訳なさそうな声で返した。
「プリント……できません」
「はぁ?」
片岡が不測の事態に間抜けな声を上げる。
みゆきは、すっかり責任を感じているようで、困り顔のまま壁際に据え置かれたプリンターに駆け寄ると、側面のカバーを開けて中を確認し始めた。
「もう! 何でこういうときに限って壊れちゃうの!」
いつもニコニコ笑顔で、滅多にテンパった様子など見せないみゆきが、このときばかりはいら立ちを隠せないでいる。
これはしらばく掛かりそうだと察した田島は、ポカンと口を開けて情勢を見守っていた沖野に声を掛けた。
「もういいよ。沖野君、行っちゃって!」
それを聞いた沖野は、弾かれたように立ち上がり、出口に向かった。が、またもや片岡の声に制止された。
「だから、だめですって! 白金君、直んないの!?」
もはや半泣きのみゆき。指先にインクを付着させ、その手で触ってしまった右頬にも黒い筋をつけたドジっ娘スタイルで、悲痛な声を上げる。
「駄目です。トナーがもう無いみたいで」
どうにか原因は分かったものの、物理的に即時の修復は不可能。業者を呼んで、粉を補給してもらうしかない。沖野は、この時代にトナーって! とツッコミを入れたくて仕方なかったが、すんでのところで思い留まった。これ以上、無駄な会話で時間を浪費したくない。
片岡は、場の空気などお構いなしに、みゆきに叱責の言葉をぶつけた。
「何で予備を用意しとかないの?」
庶務として、事務機器の管理は一応、みゆきの担当になっている。しかし、「ウチの会社にデッドストックなど抱えている余裕はない。事務用品の買い足しは無くなってからで十分」と言っていたのは、誰あろう片岡自身である。
それでもみゆきは、「すみません……」と声にならない声でつぶやき、完全に小さくなってしまった。
ソファーに深く腰を下ろしたまま、事の成り行きを静観していた蟹江だったが、さすがにしびれを切らした様子で、声を荒らげた。
「もういい加減にしてよ! 手書きでも何でもいいじゃない!」
片岡は、一瞬キョトンとした後、蟹江の提案が的を射ていることに気づき、
「そりゃ、そうだ」と言って自席に向かった。
隣の席のみゆきのパソコン画面には、問題の契約書が表示されたままになっている。片岡は、それをのぞき込みながら、A4のコピー用紙に契約書を書き写していく。
一同は、イライラしながらも、その作業が終わるのを待つしかなかった。
いっぽう武藤は、片岡との一触即発のやり取りの後、急にばからしくなって管制室に戻っていた。壊されて砂嵐状態のものを除き、生きている五つのモニターに次々と視線を走らせている。
その背中に、田島が問い掛けた。
「ヤツの動きは?」
武藤は、モニターの方を向いたまま、「まだ分からん」とぶっきらぼうに答えた。
そのころ、事務室では、片岡の模写作業が、最終段階を迎えようとしていた。
書面には、『基本給』『諸手当』『給与支払日』などの項目が、細かく記載されている。神経質なまでに真っ直ぐ並んだ文字が、片岡らしい。
ちなみに、その契約書によると、沖野の給料は波止サイドが支払うことになっているようだ。社会経験の浅い沖野には、本来の在籍先である蟹江技研が払うのが一般的なのか、出向先の会社である波止工業が払うのが筋なのか、まったく分かっていなかった。が、正直、そのへんはどうでもよかった。
食べるのに困らない程度の給料がもらえれば問題ない、というのが沖野のスタンスである。実際、金が掛かる趣味があるわけでも、事あるごとにプレゼントを求めるキャバ嬢ライクな彼女がいるわけでもない。やりがいのある仕事をやらせてもらえるか否かが、沖野にとって重要だった。
ゆえに、先程から騒動の火種になっている契約書など、最初からどうでも良かった。ただ、ここにきてようやく、その不毛なやり取りも終息のときを迎えようとしていた。
「問題なければ、ここにはんこちょうだい」
沖野は、片岡から手渡された書類に一瞬視線を落としたものの、ろくに目を通さないまま、「サインじゃだめですか?」と顔を上げた。
ところが、そこでも片岡が堅物ぶりを発揮する。
「だめだよ、印鑑じゃなきゃ」
そう言って、契約完了というゴールの前に、再び立ち塞がった。
来日した外国人ビジネスマンは、最初に、日本に根付き続けているはんこ文化に驚かされるというが、およそ意味があるとは思えないその前時代的な〝儀式〟は、いまだ日本のビジネス界に隠然として残っていた。
日本人であっても、若い沖野などは、なぜ誰でも作れて誰でも押せる単なる事務用品が、信用の証になり得るのか、さっぱり理解できなかった。それでも、決まりとあれば従うよりほかない。
そこで沖野は、自分が犯していた決定的なミスに気付くことになる。
社会人になって早々、安い三文判を買ったのだが、蟹江技研で最後の給与明細を受け取った際、事務に預けっぱなしにしてしまったのだ。
「どうしよう、持ってきてないや……」
ここに来て、また振り出しか? 断じて譲らんという顔で腕を組み、仁王立ち状態の片岡を除き、全員が青ざめる。この場面を漫画やアニメで切り取ったら、それぞれの顔半分に、何本もの黒い縦線が入っていることだろう。チーンというSEすら入っているかもしれない。
そんな絶体絶命の窮地を救ったのは、プリンターの件で小さくなっていたみゆきだった。
「あります!」
その声は、十数年前にマスコミをにぎわせた、ある女性科学者の「ほにゃらら細胞はあります!」の言い方に極めて似ていたが、それを指摘する者はいなかった。
沖野は最初、みゆきが何を言い出したか分からず、「え?」と疑問の声を漏らした。だが、次に彼女が口にした言葉で合点がいった。
「沖野さん、今日から出社だから、買っておきました」
すなわち、こんなこともあろうかと、『沖野』と掘られた印鑑を、前もって用意してくれていたということだ。
みゆきは、デスクの引き出しから真新しい印鑑を取り出すと、タタッと応接セットに駆け寄り、沖野にそれを手渡した。
「すいません! ありがとうございます!」
沖野は、四つ年上の出来るお姉さんに感謝しながら印鑑を受け取り、再び書類に視線を落とした。
押すべき場所は計五箇所。押しつけるだけでインクが出てくるタイプなので、朱肉を用意する必要もなく、時間はほとんど掛からない。
が、たいそうなパイロットスーツを着込んだ男が、覆い被さるように書類をのぞき込み、チマチマとはんこをついている光景は何とも滑稽である。その場にいた誰もが、言いようのない間抜けな絵面に脱力していたが、決して茶々を入れようとは思わなかった。これ以上、時間を空費するわけにはいかない。
なお、間抜けな姿の張本人である沖野は、そんな客観的な視線になど気付くはずもなく、目の前の作業に没頭していた。
といっても、相変わらず、書類の文面に目を通す様子はない。当然、『特記事項』と書かれた細かい項目など、読み込むはずがなかった。
そこには、『害獣についての詳細は、社外に口外しないこと』という一文が入れられていたのだが、沖野が、そんな守秘義務が設けられていると知るのは、しばらく後になってからである。
ともあれ、お膳立てはようやく整った。
沖野は、勢いよく立ち上がると、初の晴れ舞台に向かう旨を高らかに宣言した。
「では、出動します!」
事務手続き完了の気配を察して、管制室のモニター前から事務室に戻ってきていた田島が、「頼む」と大きく頷く。
続いて田島は、モニターに視線をやりながら、事務室と管制室の境目にたたずんでいた武藤に目を向けると、鋭く指示を発した。
「武藤さんは、船の方をお願いします」
それすなわち、操船してブルバスターを島まで運べということである。みなまで言わずとも、二人の間にはあうんの呼吸が成立していた。
武藤は、「分かった」と短く答えると、沖野に目を向け「行くぞ!」と促した。
外に繋がるドアに小走りで向かう二人。武藤は、その道中、手にしていたヘッドセットを沖野に放ってよこした。それは、現場作業員同士、および現場作業員と管制室を繋ぐ無線通信機器。三キロメートル離れた龍眼島からでもクリアな音声が届く優れものである。
契約書のゴタゴタで、一時は気勢を削がれていた沖野だったが、いよいよという機運が高まり、自分の中のやる気スイッチが再びオンになるのを感じていた。
が、そのとき、前を行く武藤に異変が起きた。
「ぬあ~~!!」
叫び声を上げながら突然立ち止まると、なぜかカレンダーに目を向ける。
今度は何事かと田島が尋ねた。
「どした?」
「忘れてたああぁぁ~!」
武藤はそう言って天を仰ぐと、頭を抱えてその場に膝から崩れ落ちてしまった。
状況が飲み込めない田島が、重ねて尋ねる。
「何を?」
旧時代の人気ゲーム『ファイナルファンタジー』の瀕死状態のように、ガックリと片膝をついていた武藤が、悔しそうに言う。
「船舶免許の更新、昨日までだった!」
「嘘でしょ! マジですか!?」
常に冷静な田島も、思わず目を見開く。
片岡も事態の深刻さを察し、眉をひそめて言った。
「船が出せなきゃ、出動できませんよ!」
そのやり取りを聞いた蟹江が、事もなげに口を挟む。
「そんなもん、今日くらい無免許でいいでしょうよ」
しかし、生真面目な片岡が、そのアウトローなアイデアを、「駄目ですよ!」と即座に否定した。これまで散々、規則規則で押し通してきた片岡が、大前提である法令遵守精神を曲げるはずもない。
ここに来て、再びちゃぶ台がひっくり返された。しかも、そのスケールは最大級。ちょっとやそっとでは、元に戻せそうにない。
いったい、いつになったら出動できるのだろうか。
沖野は、いい加減うんざりし、ため息をつきながらソファーに座り込んでしまった。背もたれに頭を預け、天井を振り仰いだまま、誰にともなく問い掛ける。
「すいませ~ん。船って、他に誰か操縦できる人いないんですか~?」
諸先輩方を前にした新入社員にあるまじき態度だが、今はそれをとがめる者はいなかった。田島はしばし黙考すると、ポケットにしまっていた携帯電話を取り出し、短縮番号をプッシュした。
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