第3話

|| 国道を進むトラック。

 蟹江技研を出て左折するとすぐ、五百メートルほどでJRの線路沿いを走る、その国道にぶつかるのだが、車列は早くも詰まっていた。

 沖野は「やっぱり」と思いながらも、渋滞を形成している車の群れを呪わずにはいられなかった。

 しばらくしたら慣れるかも……と思っていた淡い期待も、その時点で見事なまでに打ち砕かれていた。同じ密閉空間にいればいるほど、強い香水の匂いにクラクラしてくる。気持ちが悪くなるどころか、頭まで痛くなってきた。

 

 いっぽう、助手席の苦境になどまったく気付いていない蟹江は、沖野の思考を遮るように、独り言と質問の中間くらいの声音で言った。

「あれ、節子さんとこの食堂、閉まっちゃったんだ。ここもファミレスか何かになるのかね?」

 独り言だったとしても、立場上、無視するわけにはいかない。沖野は、最近同僚たちが語っていた噂話を口にした。

「いや、バイキングみたいですよ。ガッツ太郎っていう食べ放題の店ができるらしいです」

 ガッツ太郎。そこは、低賃金の労働者たちを温かく迎える貧乏人のパラダイス。店名の由来は、「たらふく肉を食うことでガッツが出るから」という説と、「財布に優しい価格設定で、ガッツガッツ食べることができるから」という説に二分されていたが、公式発表はないため判然としない。いずれにせよ、安さが売りの食べ放題の店であることは間違いなかった。

 しかし、食べ放題という言葉に弱そうな体型をしていながら、蟹江はガッツ太郎の出店に否定的のようだ。

「どこもかしこも、そんなんばっかで……」

 蟹江が、〝節子さんとこの食堂〟の閉店を嘆いているのは、そこで出される『豚しょうが焼きからあげ付き牛ハンバーグ添え定食』がお気に入りだったということもある。

 が、それ以上に、幼い頃から馴染んでいた街並みが消え、全国どこに行っても代わり映えしない画一的な景色になっていくのが、どうにもやるせないからだった。

 思えば、蟹江が住み続け、知り尽くしているこの町は、近年まで都会的な発展から取り残されたような、ノスタルジックな空気感を保ち続けていた。

 と言っても、決して寂れた場所というわけではない。

 三本の川が合流し、五キロメートルにも及ぶ穏やかな内湾を形成した要衝。沿岸は地方有数の工業地帯として発展してきた。

 外海へと続く湾の出口は、一九〇〇年代終盤から盛んに埋め立て工事が行われ、元々の地形よりもかなり外洋にせり出している。そんな拡張工事が長年続けられてきたのも、この町の発展の証と言える。

 言うなれば、かつてこの国を潤した、高度経済成長の申し子のような町である。

 海沿いの工業都市。潮風と錆びた鉄、油の臭いが染み込んだ下町の工場群。そんな情景が残る町を、古くからの住人は愛してやまなかったが、それでもやはり、押し寄せる時代の波にはあらがえなかった。


 納品先である波止工業までは、内陸部に切れ込むように広がった湾を回り込むようにいったん西へ迂回した後、湾の対岸を北東に向かうことになる。

 しかし、湾の北側の道との合流地点に至っても、渋滞の列が途切れる様子はなかった。むしろ、南側を走っていたときよりも、さらに進みが遅いように思える。

 久しぶりに大型で爆走するイメージでいた蟹江は、次第にいら立ち、カーナビが盛んにお勧めしてくる湾沿いの道に見切りをつけると、ハンドルを左に切った。

「かっ飛ばすよ!」

 沖野は一瞬、「え?」と思ったが、すぐに蟹江の意図を察した。

 JRの線路に沿うように走る国道は、確かに波止工業に向かうには最短コースである。しかし、渋滞と距離の兼ね合いを考えると、蟹江が選択したように、いったん北進し、海に突き当たったところで東に進路を取った方が、到着は早いに違いない。

 蟹江の狙いはまんまと的中した。

 町の中心部から離れた途端、嘘のように渋滞の車列は消え、視界が一気に広がった。目の前には、真っ直ぐ延びるアスファルトがあるだけだ。

 蟹江は、フンっと鼻を鳴らすと、アクセルをググッと踏み込んだ。

 トラックが急加速し、沖野は背もたれに体を押しつけられた。いくら「かっ飛ばす」と言ったって、限度というものがあるでしょ! と思ったが、不思議と恐い感じはしなかった。自らドライバーを買って出ただけあって、蟹江の運転はなかなか堂に入っている。

 沖野は、検問とかありませんように……と祈りつつも、心地良いスピードに身を委ねることにした。

 海沿いの道に出ると、車の数はさらに減り、開放感は格段に高まった。トラックは、潮風を切ってグングン進んでいく。

 助手席の窓から、後ろへ後ろへと飛びすさっていく景色に目を向ける沖野。

 海は朝日に照らされてきらめいている。窓越しに見ても、絵になる光景だ。

 沖野がさらに視線を遠方に移すと、はるか沖合にうっすらと島影が見えた。

 龍眼島である。

 本土から沖合に三キロメートル。大海原にポツンと浮かぶ孤島。東西に長く、島のシルエットはピーナッツ型で、面積は約十五平方キロ。島の西側は切り立った崖になっており、標高二百メートルの森林地帯を有している。

 人口は、およそ三百人。そのほとんどが漁業に従事し、儲かっているというほどではなかったが、島民たちはそれなりの暮らしを送っていた。

 観光業も申し訳程度にやっていて、島内には民宿もチラホラ見られる。が、夏の海水浴以外にこれといった観光スポットはないため、オフシーズンには閑古鳥が鳴く。良く言えば結束力のある、悪く言えば排他的な、島民たちの気質が、田舎での気さくな触れ合いを期待してくる観光客たちの足を遠ざけていた。

 そんな島の暮らしが一変したのが、約一年前の六月終わり。島西部の森林地帯から、突如として火山性の有毒ガスが流れ出し、集落まで迫ってきた。

 当初、自治体は、すぐに収まるものと見て、島民たちに島の機能が集中した東側の港付近に避難するよう指示を出した。ところが、ガスは風に乗って島全体を覆い、島内に安全な場所がなくなってしまった。少なくとも、日常生活を送れるような状態ではなかった。

 結局、自治体はガス発生から三日後、全島避難を勧告した。

 それ以来、十一か月もの間、龍眼島は無人状態になっている。自治体の調査によると、人がいないのをいいことにイノシシなどの野生動物がばっこし、島民の生活区域を荒らしているという。

 沖野の新しい仕事は、その害獣を駆除することだった。島民が島に戻ったとき、すみやかに元の生活に戻れるよう、インフラを守るのが目的である。

 なお、今、向かっている波止工業は、社名に〝工業〟と入っているものの、主な業務は害獣駆除。沖野は、トラックの荷台に積まれた〝新商品〟を手土産に、その会社に出向するのだ。

 重機メーカーから害獣駆除会社への出向。社会通念上、そんな人事交流があり得るのか? と問われれば、確かに特殊なケースではある。しかし、理にはかなっていた。

 沖野が開発を任された商品は、世に出回ったことがない、まっさらな新型。害獣駆除に特化した重機という、前代未聞の代物である。操作説明書を付けて、「はい、どうぞ」というわけにはいかない。

 そこで、マシンのすべてを知り尽くした開発者である沖野に、白羽の矢が立ったのだ。要は、新型重機のパイロット、およびインストラクターとして出向するのである。


 海沿いの道をゆくトラック。

 渋滞回避作戦は見事に的中し、快適に走行している。

 やがて車は、岸壁をショートカットする鉄橋に差し掛かった。海側に遮るものがないため、数キロ先の埋め立て地まで見通せる。

 その突端に、ポツンと建った倉庫のような正方形の建物が見える。

 それこそが、今、二人が目指している波止工業の社屋だった。

 遠目では、はっきり見えないが、打ち合わせなどで何度か訪れたことがある沖野は、そのうらぶれた外観を思い出し、小さなため息をついた。

 社屋と言えば聞こえはいいが、実際は倉庫のようなガレージの上に、無理やり事務所を設えた、古い町工場チックなプレハブ二階建て……とでも表現すれば想像しやすいだろうか。

 事務所に上がる外階段は、革靴で踏むたびにカンカンカンと音がする鉄製。年中潮風にさらされているせいで焦げ茶色にさび付き、いつ底が抜けてもおかしくない状態まで劣化している。よって沖野は、「蟹江社長と一緒に上るのは、デンジャー過ぎる」と密かに警戒しているのだった。

 ただでさえ貧乏臭さ満載の社屋なのだが、事務所の上に掲げられた社名の看板が、さらにその貧相さを際立たせていた。ペンキで書かれた『波止工業』の文字は一部が消えかけ、『波上工業』、あるいは『皮止工業』にも見える。

 従業員は、現在五名。沖野を加えて六名になると聞いている。

 お世辞にも、出向したくなる会社とは言えない、典型的な零細企業である。

 その社屋を改めて客観視した沖野の口から、思わず本音が漏れる。

「うわ~、ダッサ」

 それが聞こえた蟹江が、「何が?」と反応してしまったので、沖野は半分独り言として言ったその言葉を、引っ込めることができなくなってしまった。やむなく、今向かっている出向先の社名を口にする。

「波止工業ですよ」

「バカ。お客のことそんな風に言うもんじゃないよ。それに、害獣駆除会社なんだから、派手にするこたぁないだろ?」

 もっともである。もっともではあるが、沖野は納得がいかなかった。

「いや、そういう時代は、もう終わりじゃないかって」

「そうかね」

 つれない蟹江の反応にめげる様子もなく、沖野は青年の主張を続ける。

「そうですよ。ほら、スウェーデンとかフランスって、公共施設や建築車両だってオシャレじゃないですか。地のデザインが良いって言うのかなぁ……。日本も基本ベースを、もっとクールにした方がいいんですよ」

 そこまで一気にまくし立てると、荷台を親指で指し示し、したり顔でのたまった。

「せっかく、この最新機器を導入するんですから、この際、波止工業も変わった方がいいと思うんです」

 そこでようやく話の着地点が見えた蟹江が、沖野に問う。

「あんた、何か企んでいるのかい?」

 沖野は、膝に乗せていたブリーフケースを意味深にポンっと叩くと、不敵な笑みを浮かべた。

 そんな沖野の様子を横目に見た蟹江が、やれやれといった様子でため息交じりに諭す。

「アンタが優秀なのは認めてるよ。だから、その若さで開発任せたんだから。でもね、あんまり調子に乗るんじゃないよ。まだまだ社会人としては青二才のヒヨッコなんだからさ」

 蟹江の言葉は、年長者の苦言というより、やんちゃな息子に教えを説く母親のお説教のようなものだった。が、それを素直に聞くような沖野ではなかった。企みがうまくいった想像でもしているのか、一人でニヤついている。


 蟹江は、波止工業の社長・田島から新型機械の発注を受けた際、操縦者も同時に貸し出してほしいという依頼を受けた。蟹江技研にしてみれば、波止工業レベルの零細企業に、本来そこまでサービスする必要はなかった。確かに、顧客のひとつではあるが、年に何機も商品を買ってくれるような太客ではないし、害獣駆除という仕事を考えても、今後急成長を見込めるような企業でもない。

 ではなぜ、蟹江が目を掛けている若手有望株の沖野を、波止に送り込もうと決めたのか。それは、開発者である沖野が、これから納品する新製品を知り尽くしているからというのはもちろんある。

 しかし、それ以上に蟹江が期待しているのは、新製品の性能や使い勝手を、開発者自らが実地で感じ取ることで、今後に役立つノウハウを蓄積することだった。今の段階で口外することは決してできないが、蟹江の頭の中には、害獣駆除に留まらない活用方法もチラついていた。

 すなわち、沖野の出向を、蟹江技研が中堅企業の烙印を振り払う試金石と考えているのだ。

 また、沖野のポジティブで物怖じしない性格なら、出向先にもすぐ馴染むだろうというのも理由のひとつだった。ある種の技術者集団である蟹江技研の社員の中には、気難しい職人気質の者も少なくない。それを波止工業のような小さなコミュニティーに投入しては、余計なトラブルを起こしかねない。クレームの管理もまた、社長業の一環である。


 波止工業。

 資本金一千万円。社員数五名の零細企業。

 現在、害獣駆除会社を標榜しているが、数年前までは社名に見合った業務を行っていた。元々は、龍眼島で住宅設備の整備を請け負う建設会社だったのだ。

 会社にとって、今の環境は仮住まい。使われていなかった倉庫をプチリニュアルし、半ば強引に社屋として使っているのである。

 問題が片付き、島に戻れる状況になったら、波止も元の建設会社に戻る。社長の田島は、そんなビジョンを描いていた。が、それを実現する道のりが、決して平坦でないことも分かっていた。

 社屋の正面は、北向きで海に面している。周囲は、コンクリートが敷き詰められ、護岸された港。埋め立て地特有の、どこか無機質な空気が漂っている。

 その無駄に広々とスペースに、大型トラックが車体を揺らしながら走り込んできた。

 蟹江は、ブレーキを掛けると、車体が完全に止まりきる前に、これ見よがしにクラクションを鳴らした。

 ファーンという音が、空疎な港湾にこだまする。

 ほどなくして、社屋に向かって右手に設えられた鉄製の階段から、数人の人影が降りてきた。

 先頭を切って姿を見せたのは、波止工業・代表取締役社長の田島である。

 ネクタイ、ワイシャツにスラックスと、社会人らしいアイテムは身につけているものの、上に作業着チックなブルゾンを着込んでいるため、到底、社長には見えない。

 後ろ髪には寝癖が残り、手入れが行き届いているとは思えない無精髭も、社長らしからぬ空気感を醸し出している。

 それでも、憎めない大人の色気と、母性本能をくすぐる可愛らしさを感じさせるのは、生来備わった田島自身の人間的魅力によるところだろう。

 ただ、四十二歳という働き盛りの年齢にして、どこか哀愁を感じさせるのは、これまでの歩みに、ひとかたならぬ苦労があったからにほかならない。

 元々、田島は日本を代表する総合化学メーカー・塩田化学の環境インフラ部で業務推進課の課長を務めていた。その部署が行っていたのは、従来の方法とはまったく異なる画期的な技術による海水淡水化プラントの開発だった。今後、ますます需要が高まると見られる、世界的な水ビジネス市場のシェア拡大を見越しての事業である。

 田島は、その責任者として、閉鎖的な龍眼島の住民と辛抱強く折衝を重ね、交渉開始から一年後にようやく施設の建設許可を取り付けた。

 それから四年後、海水淡水化プラントの一号機が完成すると、島の水道環境に劇的な変化がもたらされた。

 というのも、島には三百人もの住民がいるにもかかわらず、比較的平坦な地形ゆえに表流水が乏しく、生活用水はほぼすべて井戸から汲み上げる地下水に頼っていた。そのため、慢性的な水不足に悩まされていたのだ。

 当初、島民は、〝化学会社の工場が建てられる〟という表面上の見え方から環境破壊を危惧し、建設に反対する者が少なくなかった。しかし、結果として海水淡水化プラントの実験成功は、島にとって福音となった。

 また、そのころになると、島民が田島に向ける視線も、懐疑的なものから、信頼できる仲間に向けられるものへと変わっていた。田島自身、プライベートを捨て、全力を注いできた事業に、一応の決着が着けられたこともあって、龍眼島に並々ならない愛着を感じるようになっていた。

 ところが、そんな喜びもつかの間、思い掛けない事態が島を襲った。毒性を帯びた火山性ガスの流出である。それを受け、島民はもとより、活動拠点を島に置いていた田島をはじめとする塩田化学のメンバーも、島からの撤退を余儀なくされた。

 その後、田島は塩田化学を退社することになる。と言っても、撤退の責任を取らされてのことではない。プラントの計画は、社内的にも社外的にも、あくまでも成功。計画自体に問題は無かった、と今でも位置付けられている。

 田島の退社は、自主的なものだった。深い思い入れを抱くようになっていた龍眼島が、このまま〝壊れていく〟という現実から、目を背けてはいられなかったのだ。

 行動を開始した田島が、最初に手を着けたのは、波止工業の買収だった。自身の退職金と貯金をつぎ込み、資本金一千万円のうち六百万円を用立てて、休業状態に陥っていた波止の〝看板〟を買い取ったのだ。残りの四割は、蟹江技研と塩田化学が二割ずつ出資している。

 そうした経緯で、田島が害獣駆除会社として生まれた変わった新生波止工業の社長になったのが、九か月前の話である。


 蟹江も田島に好印象を抱いている人間の一人。歩み寄ってくる姿を確認すると、トラックを降り、あいさつの言葉を口にした。

「どうも、田島ちゃん!」

  続いて、蟹江より先に降り、トラックの横で待機していた沖野が、「おはようございます」と頭を下げた。

 二人のあいさつに応じようと、近づきながら頭を下げかけた田島だったが、ふとあることに気づいて、パッと顔を上げた。

「蟹江社長が運転ですか?」

「そりゃ、お得意様への納品だからね」

 蟹江が、フフンと鼻を鳴らして軽口を叩く。しかし、空気が読めない沖野が、すぐにサプライズのカラクリを暴露してしまった。

「いや、運転する予定だった阿藤が、インフルになっちゃって」

 蟹江は、キッと沖野の方に振り向くと、顔を指さしながら叱責した。

「バカ! アンタ、ホントのこと言うんじゃないの。こういうときは、お客さんの気分を良くさせてナンボなんだから。そういうトコ分かんないとダメよ!」

 肝心のお客さんの前で、そんなことを言う方もどうかしていると思うが、田島たちは、それもまた蟹江らしいジョークだと分かっていた。

「すいません」と頭をかく沖野のリアクションもあって、一同に笑いが起き、場は一気に和んだ。

 その穏やかな空気に背中を押されるように、控えめに田島の後ろに立っていた事務服姿の若い女性が、蟹江に向けて感嘆の声を発した。

「蟹江社長、大型も運転できるんですね!」

 人懐っこい笑顔で蟹江に問い掛けたのは、白金みゆき。

 二十五歳という若さながら、ふんわりとした母性を感じさせる癒やし系。小柄なせいもあって、美人と言うより、愛くるしい小動物タイプだ。

 そのいっぽう、ボディーラインはふくよかで、格子柄の事務服の胸回りは、隠しようもなくたおやかに膨らんでいる。

 みゆきは元々、塩田化学の傘下にあった資源リサイクル会社・株式会社シオタサイセイの派遣社員だったのだが、グループ再編にともなうリストラにより、派遣先の移籍を余儀なくされた。

 しばらくは、新たな職場であるリース会社に通っていたのだが、会社勤めはあくまで腰掛け……と考えていたみゆきにとって、遠距離通勤は苦痛でしかなく、程なくして転職を決意。そのタイミングで、新生波止から引き抜きの打診があり、晴れて正社員になったのだった。

 ただ、正社員になったからといって、彼女のスタンスに変化はない。流れに身を任せていれば、そのうち何か良いことある。それがみゆきの人生におけるモットーである。

 ただ、ユルさゆえの屈託のなさは、みゆきの魅力でもある。取引先の社長に話し掛けるのにも、ほとんど躊躇がない。蟹江もフラットなタイプは嫌いじゃないようで、みゆきが放った素朴な疑問、運転の守備範囲について、フランクに答えた。

「タイヤが付いているのは、何でも運転できるよ。バイクもOK。そのかわり」

 蟹江はそこで言葉を区切り、トラックの荷台を指さした。

「こっちの方はからっきし」

 つまり、重機に関しては、守備範囲から完全に漏れているということだろう。ドライブ好きの蟹江が、なぜそうなのかは本人のみぞ知るところだが、その言葉を受けて、沖野は待ってましたとばかりに自分の胸を叩いた。

「こっちの操縦は、僕に任せてください!」

 波止工業の面々に自信ありげな視線をパーンさせる沖野。その過程でみゆきと目が合った。

「あ、初めましてですよね」

 これまで、油臭い男に囲まれて仕事をしてきた沖野は、職場に女性の姿があることに、ちょっぴりドギマギしながらあいさつの言葉を口にした。

 実のところ、打ち合わせで波止を訪れた際、お茶を出してもらったことがあるので、正確には初めましてではないのだが、そのときは軽く礼を言ったくらいで、面と向かってあいさつを交わすのは初めてだった。

「はい。お電話では何度かお話しさせていただきましたが」

 みゆきがそう言うと、沖野は、いつも電話に出る若い女性は、彼女だったのかと思い当たった。確か、女性社員はもう一人いると聞いているが、どうやら電話対応は、彼女が担当しているようだ。

「今日から御社でお世話になります。沖野鉄郎と申します。よろしくお願いいたします」

 いったん背筋を伸ばし、深々と頭を下げる沖野。みゆきは、その初々しい様子に微笑みながら、

「白金みゆきです。庶務やってます」と言うと、ペコリと頭を下げた。

 一連の流れを、両手を腰に当ててながめていた蟹江が、田島の方に視線を移すと、我が子を空手教室の師範に引き渡すような口調で言った。

「まだいろいろ青いところがあるから、鍛えてやってちょうだい」

 田島は、恐縮しながら言葉を返す。

「いや、こちらの方こそお世話になります。この新型があれば、業務もかなりはかどると思います」

 実際のところ、外部からの出向社員を抱えるのは、田島にとって初めての経験だった。

 蟹江が口にしたような〝鍛えてやる〟という言葉は当てはまらないように思えるが、将来有望な若者の成長を促せたらいい。田島は、新社員として迎えた沖野の育成について、そんなイメージを抱いていた。

 新たなボスの深い思慮など知る由もない沖野は、唐突に声を張り上げた。

「ええ、おっしゃる通りです!」

 その肯定の言葉は、田島が言った「業務がはかどる」を受けてのことのようで、沖野はダッとトラックの荷台に駆け寄ると、かぶせられていたシートの固定箇所を外しに掛かった。

 手慣れているところを見ると、この日のお披露目に向けて、密かに練習を繰り返していたのかもしれない。

 数秒の後、すべての留め具を外し終えた沖野は、改めてトラックの荷台の中央付近に立ち、テーブルクロス引きの要領で、一気にシートを剥ぎ取った。

 現れたのは、建設用の重機のように見える鉄の塊だった。

 塗られている色やゴツゴツした雰囲気は、シャベルカーのそれ。荷台に寝かされた状態のため、地上から全体像は把握できない。

 それでも、機体から発せられるただならぬ空気を察し、波止工業の面々は息を飲んだ。そんな一同の背後から、野太い声が聞こえてきた。

「これが新型かい?」

 口を開いたのは、それまで仁王立ちで事の成り行きを見守っていた大男だった。

 沖野は、初対面の男に向き直ると、ピョコンと頭を下げた。

「初めまして。沖野鉄郎です。お世話になります」

 社長の田島よりも年長に見える男性。行き掛かり上、みゆきよりも後にあいさつすることになってしまったが、本人はまったく気にしている様子がなく、

「武藤銀之助だ。よろしく」と言って、ニカっと笑った。

 年齢は、沖野が目算した通り、田島より一回り上の五十五歳。

 波止工業の社員にして、害獣駆除用重機のパイロットである。

 ただ、武藤はそんな年齢や肩書きなどどうでもよくなってしまうほど、ビジュアル的なインパクトが強かった。

 押しが強そうな太い眉と口の周りをグルリと覆う濃いひげ。頭部は基本、スキンヘッドなのだが、頭頂部になぜか、毛筆ほどの毛束が残っている。基本、実際の年より若く見えるが、髪やひげに白髪が交じったグレーの質感が、五十五歳という年齢を唯一感じさせている。

 一見、絵に描いたようなコワモテなのだが、その筆状ヘアと意外にもクリっとした目が、怖さを半減。むしろ、親しみやすい愛嬌さえ感じさせている。

 もうひとつ、特徴的なのが服装だった。白いTシャツにデニム地のサロペット。その裾はいかついブーツにインしている。

 ボディービルダーの多くは、自身の肉体をアピールするために、タンクトップを着がちというあるあるが厳然と存在しているが、筋トレが趣味というムキムキ筋肉バカの武藤が、この格好をしているのには、まったく違う理由があった。重機の操作をしやすい格好。理由はその一点である。

 パイロットである武藤とあいさつを交わし、ここが最適なタイミングと見たのか、沖野は得意気な様子で、自分が手掛けた機体の通り名を、声高らかに発表した。

「ブルバスター! 僕が開発を任された初めてのロボットです!」

 すっかり気分が高揚した沖野は、一同のリアクションを待たないまま、続けて機体の説明に入った。

「安全性を重視して、コックピットを完全密閉のチタン合金ごうきん耐圧たいあつこく、メインハッチは複合ふくごう積層せきそう装甲そうこうにしました!」

 それは、沖野が特にこだわり抜いた仕様だった。本来〝耐圧殻〟とは、潜水艦などに用いられる、水圧に耐えるための外殻構造なのだが、沖野はそれをロボットに応用した。

 また、複合積層構造については、字面からも分かるように、とにかく防御力が高いということ。物理攻撃を防ぐことに関しては、絶対的な自信を持っている。採算を完全に度外視した仕様になっているのだが、蟹江をはじめとする経営陣には、「必要不可欠な装備だ」と言って押し通した。

 アナログ体質の武藤が、そこで質問を挟む。

「どうやって外見るんだ?」

 沖野は、想定していた通りの質問を受け、待ってましたとばかりに答えた。

「ボディーに埋め込んだカメラの映像が、パイロットの周りのスクリーンに投影されます。AR技術も組み込んであるので、周囲の地形情報や照準の補助なんかもアシストしてくれます」

 武藤は、「ふ~ん」と相槌を打ったものの、半分くらいは分かっていなかった。

「まあ、難しい説明はいいや。重機なんてのは、気合いと根性さえありゃ操縦できるんだから」

 思い掛けない言葉に、沖野が「へ?」と拍子抜けの声を漏らす。

 ただ、一同の理解が追いついていないことだけは分かった。仕切り直しが必要だと察した沖野は、気持ちを切り替えて行動を起こす。

「詳しいことは追々お教えしますが、まずは動かしてみます!」

 そう言うと、つなぎ状になった作業着のファスナーを降ろし、せみが脱皮するかのように、それをスポッと脱いだ。

 すると、プールの日の小学生が水着を家から着てきちゃったかのように、作業着の下に着込んでいたパイロットスーツがあらわになった。ウエットスーツのようにピタっと全身に密着している。

 ベースのカラーは白。プロテクターのような硬質な素材が、肩、胸、肘、太股、脛など体の要所を覆っている。また、脇腹、腕、ふくらはぎ、背中の各所には、筋電センサー(筋肉の動きによる電位の変化を捉える装置)と収縮する人工筋繊維が内蔵されており、着用者が行う動作の筋電信号を拾い、数倍にまで拡張する。二〇二〇年代に普及し、工場や介護施設などで活用されたパワードクロージング(着用者の動作を支援する衣服)の進化版である。これにより、全身を使うブルバスターの操縦をアシストするのだ。また、足元は金属製のブーツで、コックピットに乗り込んだ際、マシンと接続するためのフレームが見られる。

 もっとも特徴的なのは背面で、臀部から踵まで繋がった装置が、スーツと一体化した状態で設置されている。沖野は特に説明しなかったが、それは外骨格式の補助的なパワーアシスト装置であり、ウェアラブルチェア(着用できるイス。任意の姿勢で座った状態が保てる)としても機能する。

 また、その装置のやや上には、コックピットの背当てに接続し、パイロットを固定するためのジョイント用ホールが設けられている。

 スマートでスタイリッシュなデザインが、華奢な沖野さえ凜々しく見せている。が、そのクールな出で立ちに、一点だけ違和感を覚える箇所があった。その浮いた部分にいち早く気づいたみゆきが、反射的に声を上げた。

「あ、社名まで入れていただいている!」

 パイロットスーツの胸元には、『波止工業』と書かれたワッペンが貼られていた。作業着の胸元に社名が刺繍されているような、昭和的センスのワンポイントである。黒字の野太いフォントも異物感を増幅させていた。

 ファッションに関して無頓着な武藤でさえ、

「地味だな、こりゃ。スーツに合わんぜ」と眉をひそめている。

 そのリアクションを見た沖野は、我が意を得たりと身を乗り出した。最先端のクールなスーツに前時代的な社名ロゴ。その対比を際立たせることこそが、沖野の狙いだったのだ。

 勢いに乗じて、トラックの荷台に飛び乗った沖野は、選挙中の政治家のように、意気揚々と声を張り上げた。

「不肖、沖野鉄郎、ここにご提案申し上げます! 名付けて、波止工業、ブランディング計画!」

 壇上の沖野をあ然と見上げる一同。その呆れ気味の空気を察する様子もなく、沖野は登ったばかりのトラックからいそいそと降りると、かたわらに置いてあったブリーフケースから一束の書類を取り出し、田島に手渡した。

 表紙には、『波止工業 ブランディングのご提案』と書かれている。

 書類を受け取った田島は、少々面食らった様子で、「これは?」と問い掛けたが、沖野は期待に上気した笑顔を向けてくるばかり。とにかく中身をご覧くださいということだろう。

 田島が書類をパラパラとめくり始めると、ようやく沖野が書類の趣旨を口にした。

「ブルバスターの導入にともなって、御社のロゴも変えた方がよろしいんじゃないかと思うんです!」

 トラックの中で蟹江に話していた沖野の〝企み〟とは、このことだったらしい。企業ブランディングとは、要するに企業の独自性をデザインやメッセージで発信し、存在価値を高めていく試み。すなわち、企業そのものをブランド化する戦略である。

 沖野は、波止への出向が決まってから、この計画をぶち上げようと、虎視眈々と機会を狙っていた。

 害獣をロボットで駆除する。その業務内容を聞いたとき、沖野の頭に浮かんだのは、小さなころから愛してやまない、古き良きロボットアニメの数々だった。

 波止工業を、地球連邦軍やサンダーバードのように、ワクワクするような会社に変えてしまおうというのだ。

 その足掛かりとして沖野が目を付けたのが、社名ロゴの変更だった。

 しかし、田島はあまりにも唐突な提案に戸惑い、

「ロゴ?」と、間抜けなオウム返しをすることしかできなかった。

 波止のほかの社員たちも一様に戸惑いの表情を浮かべている。しかし、その中の一人が、いち早く沖野の提案に反応した。

「それは、その……、サービスでやっていただけるということで?」

 声の主は、波止工業の監査役・片岡金太郎だった。

 ブルバスターの打ち合わせの際、あいさつは済ませているので、みゆきや武藤と違い、沖野が名乗ることはなかったが、正直、今までそこにいたことを認識できないくらい気配を感じていなかった。

 しかし、金が絡んだ話になると、グッと前に出てきて存在感を放つのが、片岡の特長だった。

 ずんぐり体型の五十歳。トレードマークは、寂しくなった頭髪を一対九で固めた髪型に銀フレームの眼鏡。ネクタイ、ワイシャツに作業着チックなブルゾンというスタイルは田島と変わらないが、それらに汚れや皺が一切見られないのは、私生活がだらしない田島と大きく違っている。服装の整い具合が、よく言えば生真面目で几帳面な、悪く言えば堅物な、片岡の性格を物語っていた。

 ともあれ、沖野の提案について、経理担当の片岡が黙っていられなかったのは当然のことである。企業ブランディングを行うとなれば、看板の掛け替えやら何やらで、少なく見積もっても数十万は掛かる。お気楽な提案に、「はい、そうですか」と乗るわけにはいかない。

 片岡は、蟹江にチラっと視線を送ることでけん制した。

 それに気づいた蟹江が、ブンブンと首を横に振って否定する。蟹江にとっても寝耳に水の話。袖を引っ張ることで暴走を止めようとしたが、すっかりその気になっている沖野は、それにすら気づいていない様子で、片岡が発したサービスか否かの質問に答えた。

「いや、そういったデザインなどは、ウチではできません。知り合いがデザイン会社をやっているので、ご紹介ってことになるんですが……」

 実は、ご紹介も何も、企画書を作る段階で、その知り合いのデザイン会社がすでに一枚噛んでいた。しかし、それを今明かすといろいろ問題がありそうなので、言葉を濁したのだった。

 いずれにせよ、コストカッターの片岡が、簡単に首を縦に振るはずもない。顔の前でヒラヒラと手を振り、言下に否定した。

「ああ、無理無理。ウチは、そんな余裕ないから」

 いっぽう、田島には思うところがあるようで、頭ごなしに否定しようとする片岡に待ったを掛けた。

「いや、もう少し、詳しく聞かせてくれないか」

 役職や立場を問わず、どんな人間の意見にも耳を傾ける。それが、塩田化学に籍を置いていたころからの、田島の信条だった。

 これはいけるかもと手応えを感じた沖野が、「僕が今考えているプランは……」とたたみ掛けようとした瞬間、思わぬ邪魔が入った。

 社屋の方から、けたたましいサイレンの音が聞こえてきたのだ。

 ヴィーン! ヴィーン! ヴィーン!

 屋根に設置されたスピーカーが、耳障りな警告音を発する。

 それを聞いた途端、波止社員一同に緊張が走った。

「警報です!」というみゆきの声に弾かれるように、一同は社屋へと走り、外階段を駆け上がっていった。

 取り残された沖野と蟹江が、何事かと顔を見合わせる。が、そのままそこにいても仕方ないことを悟り、波止の面々に続いて、事務室へと向かった。

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