第2話
沖野が今日限りとなる職場を眺め、感慨にふけっていると、気付けば時計の針は七時五十分を指していた。
そろそろ運転手が来るころだろうと、ぼんやり考えていると、格納庫へと続く通りから高級車特有の低いエンジン音が近づいてきた。
そういえば……と、沖野の脳裏にある人物が思い浮かぶ。運転手のほかに、「商品の晴れの門出を見送りたい」と言っていた人物が一人いた。エンジン音は、その人物の愛車のものに間違いなかった。
沖野が、出迎えるために格納庫の入口付近に移動すると、予想した通り、ピンクのベンツが目の前に滑り込んできた。
車はいったん格納庫の前を通り過ぎ、奥のスペースでタイヤを軋ませながらUターン。沖野の前でつんのめるように急停車した。それでも、嫌なブレーキ音がしなかったことに、「さすがは高級車」と沖野が妙な感心をしていると、車体が完全に止まるか否かのタイミングで慌ただしくドアが開き、中から一人の女性が降りてきた。
蟹江技研の代表取締役社長・蟹江のぶ代である。
「社長、おはようござい……」
上司の姿を見て、あいさつの言葉を口にしかけた沖野だったが、言い終わらないうちに、それが相手の耳に届かないことを悟った。
さっきまでハンドルを握っていたはずなのに、車から出てきたときには、既にスマホを耳に当てて誰かと話している。
相変わらずのせっかちぶりに、やれやれという表情を浮かべる沖野。社長を無視して庫内に戻るわけにもいかず、その場で電話が終わるのを待つことにした。
蟹江技研に入社以来、まったく女っ気のない沖野だったが、〝一部の例外〟が、社長である蟹江の存在だった。
トレードマークはピンク。愛車のベンツをはじめ、着ているスーツからハイヒールまで、ピンクを基調としたハイブランドのファッションで全身を固めている。手にしたスマホもピンクで、それを覆っている革のケースまでピンク。ストラップだけは、ゴテっとしたゴールドの貴金属だが、それがいわゆる〝差し色〟ということだろうか。
本人いわく、「男だらけのむさ苦しい職場なんだから、華が必要でしょ?」との意図らしいが、社員の中で蟹江を〝華〟だと思っている者は誰一人としていなかった。中には、「色彩の暴力だ!」と影で揶揄する者までいる。
というのも、でっぷりとした蟹江のフォルムに、派手なピンク色が似合っているとは、お世辞にも言えないからである。悪い意味でムッチリとした二の腕、ハムのようにパンパンに張ったふくらはぎ、胸より前にポヨンと突き出たお腹。
それをタイトなピンクスーツで包んでいるのだから無理はない。いや、元々はゆったりしたサカゼン的なサイズ感のスーツなのだが、蟹江が装着することにより、ピチピチなタイトスーツに様変わりしてしまっているのである。
派手な外見は服だけに留まらず、ヘアスタイルは銀座のママを思わせるソフトリーゼント。眼鏡は、首に提げられるようになった派手なチェーンが付いており、フレームには五十六歳という年齢に見合わないキラキラした装飾が施されている。
また、眼鏡の奥の目は、付けまつげでパッチリ。唇は赤のグロスでテッカテカ。さらに、イヤリング、ネックレス、指輪と、いたるところが自己主張の激しい装飾品でジャラジャラ。とにかく、見た目に関して、ツッコミどころが大渋滞を引き起こしているのだ。
それでも、社員から嫌われていない……というより、むしろ慕われ、頼りにされているのは、気風の良い本人の人柄によるところが大きかった。
蟹江技研は、従業員九十名の中堅重機メーカー。次世代型建設用ロボットの製造をはじめ、工業用、農業用を問わない各種重機の製造を主な生業にしている。
一昔前まで、建築用の重機といえば、シャベルカーやブルドーザーが主役だったが、二〇二〇年代に入ると、多層化外骨格(マルチエクソスケルトン)システムを採用した次世代型が登場。二〇××年現在、そのタイプが一般的に普及し、蟹江技研でも次世代型重機の開発・製造が、大きなウエイトを占めるようになっていた。
その礎を築いたのが、蟹江の父である先代の社長だった。昭和という言葉がしっくりくるたたき上げの人物で、小さな町工場に過ぎなかった蟹江技研を、百人近い従業員を抱える中堅企業にまで成長させた功労者だ。
先代亡き後、会社を引き継いだのが一人娘である蟹江のぶ代だった。技術的なことはサッパリだが、父親譲りの豪胆な性格で、経営と交渉術に長けている。
ただ、小さな町工場という規模をとうに脱していたこともあり、世襲制の交代劇に批判的な声がなかったわけではない。が、彼女には、その声を打ち消すほどの勢いとバイタリティーがあった。先代の強烈なリーダーシップあっての蟹江技研だったため、一時は空中分解しかねない危機的な状況に陥ったが、現社長の蟹江が先代に劣らない指導力を発揮し、職人気質の従業員たちをまとめ上げたのだ。
今では、社長業も板に付き、ベテラン社員たちを中心として、社内は「先代の築いた会社を守っていこう!」という、やる気と覚悟に満ち満ちている。
また、沖野にとって蟹江は、社会人としての恩人でもある。
蟹江技研には、高卒で入社した者も少なからずいる。ただ、その場合、職人たちの見習いとして工場に入るか、庶務などの簡単な事務作業からキャリアをスタートさせるのが慣例である。
にもかかわらず、沖野がルーキーイヤーから開発部に配属されたのは、入社試験の段階で、その才能を見抜いていた蟹江の後押しがあったからに他ならない。今回、納入される〝新商品〟の開発リーダーに沖野を指名したのも、他ならぬ蟹江のぶ代自身であった。
両手を腰に当て、電話が終わるのを待つ沖野。
車を挟んだ反対側では、スマホを耳に当てた蟹江が、せわしなくその場を行ったり来たりしている。
蟹江が動き回るたび、ハイヒールの音が朝の澄んだ空気に反響した。本来ならコツコツか、カッカッあたりが、妥当な擬音だが、沖野の耳には、ドスドス、またはガツガツという音として届いていた。格納庫の扉が開け放たれているため、広い空間に反射して、重低音がより大きく聞こえるせいかもしれない。
いずれにせよ、その音はハイヒールの悲鳴、あるいは断末魔だ。実際、蟹江のヒールはよく折れる。ただ、本人にそれを気にしている様子はなく、車に積んである予備にシレっと履き替え、何事もなかったかのようにふるまうのが常だった。
ゆるキャラ的フォルムが放つドスドス音に耳を傾け続けることが、いい加減嫌になってきた沖野が、格納庫に戻ろうと踵を返し掛けたとき、不意に蟹江が振り向き、声を掛けてきた。
「ねえ、ちょっと出発遅らせられない?」
手には相変わらずスマホが握られていたが、相手との通話は切られていないようで、丸々っとした手が通話口を塞いでいる。
「えっ? ……どういうことですか?」
突然、話を振られ、戸惑いを隠せない沖野。
入社してから三年たつが、蟹江のせっかちな会話には、いまだについていけないところがあった。いつでも本題から入り、相手に即答を求める。それが蟹江の性格なのだ。
ゆえに、質問に質問で返した沖野に、少々いら立った様子の蟹江。沖野に言うでもなく、「知らならいいどさ……」とつぶやくと、通話口を塞いでいた手を外し、再びスマホに向かって声を発した。
「え? ……うん、……うん。あ、そうなの? そりゃ、いいさ。むしろ、こっちに来ないでちょうだいよ。うつされたら困っちゃうからさ。うん。じゃ、お大事に」
そう言うと、蟹江はスマホの画面をトンと弾き、通話を切断した。
改めて沖野に向き直り、車を迂回して近づきながら状況を説明する。
「阿藤さん、今日来られないんだとさ。インフルにかかっちゃったって」
阿藤とは、今日の運搬を担当する大型運転免許を持つドライバーだ。
沖野も、阿藤の存在をあてにしていた一人で、突然の欠勤申告に戸惑いを隠せない。
「え? マジですか? 昨日はあんなに元気だったのに。どうしましょう……」
判断は、蟹江に委ねるしかなかった。
「だから、遅らせられないの?」
腕を組みながら沖野の目の前に移動してきた蟹江が、最初に口にしたのと同じ言葉を繰り返した。
その瞬間、風下に立った沖野の鼻孔を、強烈な香水の匂いが襲った。
実のところ、蟹江が通話を終えるのを待っている間中、もっと言えば、蟹江が車を降りた途端、香水の匂いは沖野に届きすぎるくらい届いていた。毎日のように、郵便ポストに入れられている、ピザや水道トラブルの広告と同じように、うっとうしいくらい届いていた。
それでも距離があった分、我慢できないほどではなかったのだが、こうして間近で相対してみると、いつも以上に匂いがキツいことが分かった。
が、今の沖野にとって、スメハラよりも納期遅れの方が一大事。会社員の顔に戻って上司に訴えた。
「いや、無理ですって!」
部下の焦りなどどこ吹く風。蟹江が平然と言い放つ。
「無理なことないでしょうに。日にちをずらせって言ってんじゃなんだから。午前中にほうぼう当たれば、運転手くらい見つかるでしょ?」
確かにそうかも知れないが、沖野の不満は収まらない。
「やっと迎えたお披露目の日なんですよ! 朝一に届けないと意味が」
沖野がしゃべり終える前に、蟹江がうちゃりを放つ。
「細かい! あんた若いのに細かいねえ、ずいぶん。今日中って言ったら、今日の夕方までってことでしょうが」
さっぱり事情が分かっていない上司に、お気楽タイプの沖野もいら立ちを隠せなくなってくる。
「それじゃ困るんです! 先方の田島社長には、朝十時に届けますって約束しちゃったんですから!」
切羽詰まった様子の沖野に対して、蟹江は相変わらずのれんに腕押しで、間が抜けた返事を返す。
「あらま」
蟹江に言うつもりはなかったが、状況が状況だけに、沖野は今に至る経緯をまくし立てた。
「今朝の出荷に間に合うように、整備やソフト開発の皆さんに頭下げて、他の仕事押しのけてやってもらったんですから。これじゃ、先方だけじゃなく、社内にも顔向けできませんよ!」
実際、整備担当の社員やソフト開発のスタッフが作業を終えたのは、深夜二時。沖野は、それからさらに一時間、最終点検に勤しんだのだが、この際、自分のことなどどうでもいい。結局、トラックが出発したのは夕方でした、なんてことでは申し訳が立たない。じゃあ、終電を逃してまで残業せずとも、朝一で作業すれば済む話だったじゃないか、ということになってしまう。
しかも、納期の遅延は、これから自分が出向先としてお世話になるクライアントとの信頼関係にもかかわってくる。
そんな沖野の悲痛な訴えにも動じる様子はなく、蟹江はピント外れなことを口にした。
「阿藤さん、何で予防接種受けなかったのかね」
「知りませんよ。とにかく、何とか運転手を段取らないと……」
沖野は、頭をフル回転させて、大型免許取得者の知り合いを探し始めた。
確か、母方の死んだ爺さんが持っていたはず……って、死んでんじゃん! むしろ、出てこられても困るよ! 存命の知り合いでいくと、……そうだ! 北海道で牧畜をやっている叔父さんが、飼料を運ぶのに必要だとか言って、去年大型免許取ったんだっけ。今から電話で呼んで……って、北海道から何時間掛かるんだよ! だったら、高校時代の同級生はどうだ? そういえば長井が、運送会社に就職が決まったとか言っていたはず。よし、ヤツだ! 今すぐ連絡を……って、連絡先知らねぇ! よく考えてみたら、アイツとそんなに友達じゃなかった。アイツ、バスケ部で、俺らオタクのことバカにしてたからな。なんて、今はそんなこと、どうでもいい! どうする? どうしたらいい、俺?
沖野が不毛な自問自答を繰り返していたのが、約三秒。それを尻目に一人、思案顔だった蟹江が、おもむろに口を開いた。
「しょうがないね。そういうことなら……やるっきゃないか」
「はい?」と、間抜けな声で答える沖野。
対して蟹江の目には、これまで沖野が目にしたことのない、たぎる炎が宿っていた。
「やるっきゃないって言ってんの! ねえ、サンダル持ってきて!」
いまだに状況が理解できない沖野は、さっきよりもさらに間抜けな「は?」という声を絞り出すのが精一杯だった。
蟹江は、シャキッとしない沖野に発破を掛けるように、鋭く言った。
「急いでいるんでしょ! 事務所からあたしのサンダル持ってきてちょうだい!」
「サンダル、ですか?」
足元を開放してリラックスしてる場合じゃないでしょ?
ここに至ってもまだ、沖野には蟹江が何をしようとしているのか、ピンときていなかった。それでも、次に聞こえてきた言葉で、ようやく意図を理解した。
「あたしがやるよ。運転」
社長がトラックを運転? やる気と責任感があるのは分かる。が、意気込みだけで解決できる問題ではない。法令遵守が蟹江技研のモットーではなかったか。
沖野がもっともな疑問を口にした。
「社長、大型持ってるんですか?」
無論、沖野が聞いたのは、大型免許を所持しているか否かだ。無免許で運転しているところを警察に見つかれば、納品どころではなくなる。そういえば、今の法律だと同乗者までペナルティーが課せられるんじゃなかったっけ?
沖野の不安をよそに、すっかりやる気の蟹江が、スーツの袖をまくり上げながら気風良く答えた。
「あったり前よ!」
そう言われたら社長を信じるしかない。蟹江が、勢いだけでハッタリをかましてくるような人間ではないことも、沖野は知っていた。
指示されたとおり、〝あたしのサンダル〟を持ってくるべく、全速力で格納庫を飛び出す。
目指すは、格納庫とは別棟になっている事務所。問題のサンダルは確か、入ってすぐの下駄箱の一角に収まっていたはずだ。
派手に着飾った外見とは裏腹に、経営者としての蟹江は慎重なタイプである。本人が大型免許を持っていると言えば、その言葉に嘘偽りはない。むしろ、運転にもそれなりの自信があるはず、と沖野は見ていた。もちろん、サンダルと言っても、道交法に違反しないしっかりしたものだろう。ドライビングサンダルと呼ばれる類いのものに違いない。
思ったとおり、蟹江のサンダルは下駄箱で見つかった。鮮やかなピンクが、黒や茶色といった地味色揃いの安全靴(底や爪先が鋼板で補強された作業員御用達のシューズ)の中で一際目立っている。
沖野は、それを手に取ると、すぐに踵を返し、格納庫前で待つ蟹江のもとに駆け出した。と同時に思う。
社長、意外と足、小せぇ!
沖野自身、蟹江の足のサイズなど、心底どうでもいい話だったが、思い浮かんでしまったものは仕方ない。
スペシャルわがままボディーの蟹江だけに、下手したら二十七センチ、いや、何なら二十八センチくらいあるんじゃないかと勝手に予想していた。それだけに、走りながらチラリと確認した靴底に、二十三センチの表示を見つけたときは、正直面食らった。
あの重量を、こんな小さな面積で支えているのか!?
沖野は想像の中で、ゆで卵に爪楊枝二本を刺した形状を思い浮かべ、走りながら思わず吹き出してしまった。
ハンプティ・ダンプティじゃないんだから!
そんな失礼極まりない想像をしているとは露知らず、格納庫前で待っていた蟹江は、満面の笑みで駆け寄ってくる沖野を見て、満足げに頷いた。
蟹江には、沖野がよく懐いた飼いイヌのように見えているのだが、互いの胸の内は知らぬが仏だろう。
戻って来た沖野が、「どうぞ」とばかりに蟹江の足元にサンダルを並べる。蟹江は、沖野の肩を支えにハイヒールを脱ぎ、それに履き替えた。
沖野は、その様子に再びハンプティ・ダンプティを重ね、吹き出しかけたが、とっさに自分で自分の太股をつねり、痛みで笑いをかき消した。
沖野の顔がキリリと引き締まったのを見て、蟹江は蟹江で〝困難な仕事に向かう男の顔になった〟と、勝手に誤解していた。
ともあれ、二人がやることはただひとつ。
クライアントに伝えてある納品時間の十時までに、商品を届けることだ。
格納庫に停めてあった大型トラックの運転席に乗り込む蟹江。沖野は、慌てて壁際に置いておいたブリーフケースを取ってくると、助手席に飛び乗った。
が、その途端、天を仰ぎたい気持ちになる。密閉空間に並んだことで、蟹江の香水の匂いが、さらにキツくなったのだ。
納品先まで、通常ならばおよそ二十分の距離。しかし、今は八時を少し回ったところ。朝の渋滞に巻き込まれるのは避けようがない。
うまくいけば三十分。運が悪ければ四十分くらいかかってしまうかもしれない。
いずれにせよ、この香水地獄に、少なくとも三十分以上は耐えなければならないことは確定していた。
おまけに、季節は春終盤。梅雨を前に気温が急上昇してくる時期だ。窓を開けることはかなわないだろう。その証拠に、蟹江はエンジンを掛けるや否や、クーラーのスイッチを入れている。しかも、冷房効率を重視してか、ご丁寧にも内気循環のボタンをポチっていた。
沖野の絶望的な気持ちなど知る由もなく、蟹江はアクセルを踏み込んだ。
一瞬、身震いするようにブルルンと車体が震え、トラックが前進。大型車ならではの重厚なエンジン音を轟かせながら、格納庫を出発した。
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