小話

可愛いねずみちゃん(キャサリン)



 その夜、彼がその酒場に行ったのは本当に偶々だった。


 普段は明るく快活な彼が酒場に向かう、それ自体が滅多にないことなのだ。

 明るく快活な人柄なら仕事終わりや休日に友人と酒を飲み交し、楽しい雑談で盛り上がりそうなものだが彼は違った。酒が楽しい物だと、彼は一度も感じた事はない。

 

 自分をひた隠し、低く落ち着いた物言いで仲間と会話をし。

 全く共感できもしない下世話な話しに笑みを貼り付け。 

 己の身体に気軽に、気遣いもなく乱雑に触れてくる仲間に無反応を強いられる。


 そんな酒ばかり経験してきたが故に酒場から足は遠退き、いざ向いた所で何かを無理やり押し流す様な酒の飲み方しか覚えられなかった。


 その彼が酒場に足を向ける。理由など聞かなくても、どうせ碌な事じゃない。


 例えば、より良い仕事道具を求めて馴染みの店を訪ねるも店員である妙齢の娘に好意の眼差しを向けられた、や。

 例えば、気に入った服を見つけて店に入った瞬間訝しげな視線が一斉に寄せられた、など。


 それとも、例えば、昔の仕事仲間を故郷から遠く離れたこの国で見かけたこと、か。



 彼は重い足取りで暗い夜道を歩き、楽しげな喧騒が漏れ出ている扉を開く。暗い顔をした彼とは裏腹に酒場の明かりは彼の持つ金の髪を照らし、きらきらと美しく反射させた。


 扉の直ぐ近くにあるカウンターから顔見知りの店主に強い酒を注文する。普段は気さくで軽口を叩く店主も彼の顔色を察してか特に口を開く事もなく注文の品を渡した。

 店主の気遣いに彼は目礼で返すと、グラスを勢いよく呷る。こんな辛気臭い顔をしてホームに帰れば心優しい友人達に心配をかけてしまう、ただその一心で酒を喉に押し流す。


 このえも言われぬ感情も酒と一緒に流れてしまえ、と。

 


 そのまま扉の横壁に背を預けて数杯の酒を空にした頃、突然荒々しく扉が開かれた。大きく乱暴な音が店内に響き、全ての客が視線をその粗相者に向ける。彼も例に漏れず、目だけでその来客者を流し見た。


 一斉に突き刺す様な視線を向けられた粗相者はまだ若い女性のようで、この酒場が予想と違った場だったのかきょとんとした顔のまま固まっていた。


「可愛いねずみちゃんがどうしたの? 道に迷ったのかしら?」


 沈黙を破ったのは店主だった。お得意の軽口が効いたのかその女性の顔がゆっくり店主に向くと、怯えた目とか細く震えた声で一言、乞う。


 助けて下さい

  

 彼女がそう口にした瞬間、口を開けたままの扉の向こうに広がる闇から薄汚れた手が伸び、彼女の細い腕を掴んでまた闇に引き込もうとする。

 闇に飲まれていく彼女の動作がやけにゆっくりと映り、怯えた瞳と彼の瞳が交じった。


 瞬間、それは無意識だった。


 一部始終を傍観している立場にいた彼は、気付いたら薄汚い手を掴み、捻り上げ、あまつさえ声を発していた。


「うちの子になんか用?」


 薄汚い男の腕を捻り上げてる力を一気に強め、そしてあっさり手を離す。男は崩れ落ち痛みに呻くが、分が悪いと即判断したのか程度の低い実にお似合いの捨て台詞を吐いて扉の闇に戻って行った。


 彼が自分のいった言葉に信じられないと顔に出さず呆然としていると、無意識の状態ではあったが結果的に助けた彼女が声をかけてくる。まだ震えが収まらず、立っているのもやっとな状態にも拘らず彼に感謝の礼を述べ、気丈に振る舞うと次は店主と他の客に騒がした詫びを言い、店主に迷った旨を伝え道を聞きはじめた。


 道に迷ったんだろう。だが、彼女はもう後戻り出来ない道に迷い込んでしまった。


 彼女がいくら店主に道を聞いても、それは彼女の帰り道に繋がらない。

 自分達とは違う上等な仕立ての衣服。材質が違う服装品。周辺では見ない顔立ち。違和感だらけなのに流暢な言葉。それだけで彼女がどういう境遇になったのか察するに余りある。


 迷い人は決まって自分達の世界より高度で平和な世界からやってくる。


 現に彼女は疑う事もせずに店主から奢りだと言われ自白を促す飲み物に口を付けている。店主に問われるままペラペラと答えている彼女に店内にいる客全ての同情が集まっていた。


 事実を知り絶望に染まった顔色の彼女に皆が次々と労わりの一言と一緒に酒を差し出す。はじめは困惑している様子だった彼女も次第に酒が回り、自棄になったのか自分から進んで浴びる様に酒を呷りだした。


 彼はそんな彼女から目が離せないでいた。今にも酔い潰れてカウンターに突っ伏してしまいそうな彼女を眺め、あまり得意ではない思考を巡らせる。

 しかし考えども、なぜだが分からない。どうしてだか彼女が気になって仕方ない。そんな自分でも分からない気持ちにうんざりしてきた。


 そしてついに彼女がカウンターにダラしなく酔い潰れた。店主がやれやれ世話が焼けると言わんばかりに首を振り、彼女を奥で休ませる為だろうか店主がカウンターから出ようとするより早く、彼は眠る彼女の傍に立つ。また無意識の行動だった。考えるだけ無駄だと、彼は思考を放棄する事に決めた。


「なに、あんたが面倒みんのかい。キャサリン」


 彼の行動に意外だと言わんばかりに店主が問えば、キャサリンと呼ばれた彼がどこか吹き切れた甘い笑顔で口を開く。


「うちの子って言っちゃったからね」


 恐る恐るそっと壊れ物を扱う様に彼女に触れる。そのまま慎重に抱き上げ自身の腕の中に収めると、彼女はとても柔らかく温かかった。不思議な事に自分の身体は冷えていないのに、どこか優しく温められる心地がする。

 

 説明できない不思議な気持ちは相変わらずだが、ホームに帰った時のいつも頼れる友人達の驚いた顔を想像してキャサリンは自然と笑顔を溢し、扉に向かう。


 闇が広がる扉を跨ぐその足取りは、来た時とは反対にとても軽やかだった。








_____


 キャサリンは後にそれを母性の目覚めと判断したとかしないとか。

 まだジェラルドが強い時期におちびと出会ったキャサリン視点でした。もしキャサリンが酒場に来なければ店主に面倒見て貰えてたのでカマバーで働く未来もあったかもしれません。

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