黄金藍薄緑深紅紫と黒

 空はすっかり暗くなり、住宅街である南区に建つ家からは各々夕飯だろう食欲を誘う良い香りが漂う。

 南区の中で上級請負人のホームという一際異彩を放つ肩書を持つ彼らの住居も例外なく室内は明かりが灯り、皆で賑やかに食事をするリビングは夕食の匂いを漂わせている。

 皆で美味しい食事を楽しみ話に花が咲く、一日の終わりに相応しい穏やかな夜の始まりを思わせていた。


 外から見れば、の話しではあるが。



 そんな誰にでも平等に訪れる薄暗い夜の大通りを、闇の中でも鮮やかさを隠せない紅の髪色を持つ男が不機嫌さを隠さず歩みを進めていた。あんまりのプンプン具合に表情は凍るように冷たい無表情で、苛立つ感情を隠す気もないのか自身の周りには呼応する様に魔力まで漏れ出ている。魔力放出は危険行為なのでいつ警備隊に通報されてもおかしくない事態である。おまわりさん、こいつです。

 しかし触らぬ棘に毒はなし、とこの世界では有名な言葉がある通り、運悪くプンプンさんに遭遇し通り過ぎていった至って善良な人々はこの「俺は最高に機嫌が悪いぜ」と顔と魔力で示す魔術師を見なかったことにした。顔面の良さと魔力放出で魔術師とバレバレである。いいかい、我々は何も見なかった。


 辺り構わず迷惑な上、危険な行為をする男は見飽きるほど幾度も足を運んだ依頼仲介所の前で歩みを止め、迷わず扉を開いた。

 八つ当たりする様に力強く開いた扉に見向きもせず一直線に依頼仲介所内にある休憩スペースに足を向ければ、離れていても存在を主張する鮮やかな紫の髪を纏う男がこちらに気付いたのか気安く手を上げ呼ぶ。


「珍しいな、アンジェリカも飲みに来たのかい?」


 明らかに一杯引っかけにきましたという雰囲気ではない紅の髪をした男アンジェリカの極悪なプンプンさを物語る顔を見てなお、嘯く紫の男にアンジェリカはそんな訳あるかと口を開こうとして別方向から上がった声に遮られた。

 

「あぁあ~、アンジェリカだあ。めっずらしいねえ、んんん~もしかして初め、てえぇ?」


 紫の男とアンジェリカ、その間に挟まれるようカウンターに突っ伏した体勢で顔だけを向けた完全に酔っぱらってますと分かる、目が据わり呂律がおかしい女性が陽気に話しかけてくる。尚も「酒はいいぞ酒はぁ、美味いし楽しいし美味いんだよおお」と喋るが、話しかけられている当のアンジェリカは女性を冷めた目で一瞥するとまた視線を紫の男に戻す。


「キャサリンが煩いんだけど」

「やだ! 帰らないもん!!」


 紫の男に向けて放ったアンジェリカの言葉に、女性は被せる勢いで声を荒げた。アンジェリカの燃えるような髪の隙間から見えるこめかみに何かが薄っすらと浮き上がる。それに伴うように周囲に放つアンジェリカの魔力が濃度を重くした。さすがに拙いかなと少しだけ感じた紫の男は仲裁に入ることにする。


「まあ、まずは一杯飲め」


 そう言うや否や、アンジェリカの魔力放出を受けて逃げ腰になっている店員さんに「これに一番キツイ酒と俺達におかわり」と頼んだ。顔を青褪めさせながらも返事をして去る店員を視界に収めていたアンジェリカは鼻を鳴らして憤りを少し逃すと、腕で顔を覆うように突っ伏し涙声でキャサリンと連呼している女性の隣に腰を下ろす。

 そんな隣の女をアンジェリカは酷く冷たい目で見ると、いきなり女性の後頭部を掌で叩くという暴挙に出た。軽い音を立てた突然のそれに女性は「いたいぃぃ」とあまり痛くなさそうに喚く。安心して下さい、アンジェリカは手加減に慣れています。ある意味プロフェッショナルです。数々のアイアンクローは伊達じゃあない。


 女性に手を上げる、決して褒められる行為ではないが紫の男も叩かれた女性も咎めなかった。それが許される仲なのだ。

 またひたすらキャサリンと濡れた声で元気に呟く女性を見て少しだけ胸の内が軽くなったアンジェリカは、恐る恐る酒の入ったショートグラスを置く店員には目も向けず掴むと一息に飲み干した。紫の男が「いい飲みっぷりだな」と喉で笑う音が耳に入る。

 仕方ないだろう、なみなみと注がれた黄金色の酒は嫌でもここに来る原因となった人物を思い出させたのだから。


「マチルダ」


 アンジェリカは紫の男マチルダの名を呼ぶと自分が飲み干したグラスを顎で指す。おかわりの要求だ。今は見たくない色だが、喉を焼くように通り広がる強い酒精と深い味わいは気に入ったらしい。言われたマチルダは愉し気に口角を上げ、アンジェリカの代わりに店員におかわりを伝えた。


 




 ここにアンジェリカが来た理由。その原因は安定のキャサリンだった。


 突っ伏し泣き濡れる女性おちびがホームを飛び出し、後を追うように続けてマチルダまで出て行ってからは最悪だったとアンジェリカは内心で愚痴る。

 キャサリンとカトリーナは中々泣きやまず、バーバラは悲し気にただ黙って泣き続ける二人の背を擦るだけ。そこに取り残されたアンジェリカの心情はどれ程のものだろう。出来れば自分もマチルダの後に続きたかったがキャサリン達が、もっと断定して言えばキャサリンがどんな行動に出るか分からず目を離すわけにはいかないと真面目な考えがそもそも地獄の始まりだった。


 勿論アンジェリカもおちびの宣言に少なからず衝撃を受けている。おちびの言葉の意味を理解した瞬間感じた得も言われぬ不快感をアンジェリカは咄嗟に抑え込んで腹の奥底に沈めた。深く考えるべきではない、と本能的に察知したからだ。


 キャサリンやカトリーナがようやっと涙を止め、傍観者に徹していたアンジェリカにキャサリンが濡れたしゃがれ声でかけた言葉は「おちびちゃん何処にいるの?」である。そこからが真の地獄だった。何処にいるの問答再びである。


 アンジェリカが素直に北区、と大雑把に言えば「北区の何処ぉ!?」ともっと詳しくと詳細を探らせられる。王都の地図まで持ってくる執念さだ。実を言えば魔力探知は苦手の部類に入るので、こういった細かい魔力操作が得意なマチルダを逆恨みする思いをアンジェリカは強くさせた。よし、帰ってきたら蹴ろう。その考えに至るところが実に脳筋である。魔術師なのに。

 嫌々といった口調でアンジェリカが「ここ」と地図のその場を指差せばキャサリンが「そこ今度一緒に行こうねってキャサリン言ってた場所なのにいぃぃ」と叫びながら泣いた。また泣くのか。


「噴水があってえ人が少ないがら、っだ、から、ゆっぐりできるねえっで、い゛、っだのにぃぃぃ」


 大号泣にまで発展してアンジェリカは人目を気にすることなく頭を片手で抱えた。大丈夫、ここには仲間しかいないし、他の二人もアンジェリカを気に掛ける程の余裕はない。

 キャサリンが「ひどりでいぐなんでえぇぇ」という言葉で一人で危ないと心配してるのかと思い、少しでも安心して、且つあわよくば泣き止んで欲しくて「マチルダも一緒よ」と伝えればキャサリンが余計泣いた。アンジェリカの痛恨の判断ミスである。何か言って、いや叫んでいたが最早聞き取れなかった。言葉というより雄叫びといっていい。


 バーバラが脱衣所から大判のタオルを何度か持ってきたりする中、アンジェリカの表情は完全に据わっていた。リビングにはぐすぐすと鼻を啜る音とタオルで鼻をかむ豪快な音が響く中、合間合間にキャサリンの「まだ広場?」と問う声と、アンジェリカの「同じ」と返す声がだけが行き来する。

 以前バーバラ達と出掛けて帰りが遅くなった時と全く同じやり取りだが違いが一つだけある。キャサリンが問う間隔が滅茶苦茶早いのである。10分も経っていない応答に流石のアンジェリカもキレている。だがキャサリンは気にしない。いや、気付いてない。ある意味キャサリンが怖い。


 そんな中、おちびとマチルダが広場から移動しはじめた時、アンジェリカは伝えるべきか一瞬迷った。だがすぐにキャサリンはおちびが何処に行ったって泣くだろう、という結論に達して「移動してる」と素直に話した。話して秒で後悔した。

 今度は「何処を歩いてるの」とまだ目的地が定まらない二人の位置を逐一報告させられた。ただでさえ不得手な事を先程から幾度も繰り返してアンジェリカも爆発しそうだ。物理的に、というか魔術的に。アンジェリカの魔力に慣れている仲間だからいいものの今現在リビングはかなりの魔力濃度である。いつでも大規模魔術陣を生成できるレベルだ。というかご近所さんが密接してなくてよかった。密に住居が建っていたら絶対に影響がでているだろう。


 少し持ち直したカトリーナがコフ茶をアンジェリカに差し出したり、バーバラが困った顔で圧力をかけたりと何とかアンジェリカのプンプン爆発を抑えおちび達の移動タイムを凌ぎ、アンジェリカが「依頼仲介所」と心底吐き捨てて言えばキャサリンが悲鳴を上げた。曰く「おちびちゃんが何処かに行っちゃう!」だそうだ。

 アンジェリカだけでなくバーバラとカトリーナも、どうしてキャサリンがその考えに至ったのか理解できず各々眉間に皺を寄せたり小首を傾げていれば焦れた様にキャサリンが口を開く。勢い余って少し唾が飛んだがキャサリンは気にしないし、気付く余裕なんてない。

 

 キャサリンがいうには、キャサリンのことが嫌いになって、移動陣でおちびちゃんがどっか行っちゃう。

 

 と、いう事らしい。キャサリン以外の三人は同じ事を思う、それだけはない、と。


 あのキャサリンにベッタベタに甘いおちびがいくら喧嘩したといって何も言わず短絡的に他国に渡るような事はしないだろう。それにマチルダも付いてるし、何より夕飯はいらないと言って出て行ったのだ。なら朝食は食べる。

 だから大丈夫とキャサリンを宥めてみるが一向に聞く耳を持たない、それどころか「マチルダがおちびちゃんに手を貸して行かせちゃうかもしれないじゃない!」と疑心暗鬼にすらなっている。それに対して強く否定できないのは相手がマチルダだからだろう。あれは自分の悦楽を一番優先させるきらいがある。今回のおちびに対してどう思っているのか全く分からないので判断しかねるのだ。


 そんな荒ぶるキャサリンを一応落ち着かせたのがバーバラが発した「ちびさんは自分の庇護下に置くと決めた子供を放って何処かに行くような方ではないと、キャサリン、貴方が一番知っているでしょう?」という言葉だった。流石、神聖術師としか言いようがない言葉のチョイスだ。そしてマチルダへのフォローがないのは推して知るべし。最近の彼はおちびに対しての信用が少し薄い。


 バーバラの一喝とおちび達が依頼仲介所から動かない事実が功を奏して若干の落ち着きを取り戻す事ができると、キャサリンは真っ赤に腫れた瞼や鼻をかみ過ぎて擦れてしまったりと色々と大変なことになっている顔の治療を受け、武具庫の掃除をしたり滅多に洗わない物の洗濯をしたりして何とか気を逸らそうと動き回る。でもアンジェリカにおちびの居場所を聞くのは止めなかった。手を抜いて30分に一度しか真面に感知していなかったとしても許されるだろう。


 そしてとうとうキャサリンが限界を迎えたのは、空がちょぴっと薄暗くなってきた時分のおちびがいらないと宣言していった夕飯を作り終わった時だった。作った料理はおちびが好きな香草をふんだんに使った肉料理。奇しくもおちびが猛烈に食べたがっていた肉である。キャサリンとハナちゃんはズッ友だょ……!!

 ついでに言えばアンジェリカが苦手な香草だったりもするので、本日のプンプンさんも踏んだり蹴ったりである。でもアンジェリカが好きなスープ――バターとミルクをベースにした濃厚な、言うなればシチューみたいな物――なところが感謝を表している。

 そんなお腹の虫が騒がしくなる好物を前にしたアンジェリカにキャサリンがもじもじと恥じらいながら頼みごとをしてくる。


 「もう夜も遅いし、おちびちゃん迎えにいってきて」と。


 この言葉にとうとうアンジェリカがブチ切れた。「どこが遅いだ! まだ完全に暗くもなってねえし、おちびはメシいらねえっつってただろうが!!」と、育ちの良さを完全にかなぐり捨てた荒い口調で反論するアンジェリカに、しかし男兄弟で育ち尚且つむっさい男所帯である騎士団に所属していたキャサリンは怯まない。というか魔術師にいくら凄まれようが全然怖くない。だって顔が整い過ぎているのだ。美人は怒ると怖いというが綺麗なだけだとキャサリンは思っている。でもこっそりマチルダが怒って浮かべる笑顔が怖いって思ってるのはここだけの秘密だよぉ?


 素気無くアンジェリカが「ふざけんな」と拒絶するがキャサリンは諦めずに何度も「お願いぃ」と繰り返し懇願する。そのやり取りを数回繰り返し、そしてアンジェリカは悟った。


 引き受けない限りメシが出てこない、と。


 胃袋を掴まれている者の辛いところである。キッチンの鍋には自分の好物、出された条件はおちびのお迎え。絶対的に割に合わなすぎる。しかも空腹のまま行けってか、とアンジェリカは心底うんざりした顔をした。

 だが救いの手は思いもよらない所からすっと伸ばされ、その手はアンジェリカの目の前にスープを置いた。視線を上げてその人物に目をやれば、泣いて少し赤くなった眼元を優し気に細めるカトリーナだった。


 キャサリンが「あー!」と抗議の声を上げ、小さく裏切者ぉと溢したのがアンジェリカの耳にも届いた。好物を質に取っている自覚はあるらしい。感謝の気持ちからの献立チョイスではなかった、確信犯である。

 そんなキャサリンに文句や嫌味の一つも言いたいが日頃家事などの手伝いを一切しない自分の立場も分かっているので、アンジェリカは開けた口から言葉を出す代わりにスープを掬った匙を突っ込んだ。


 カトリーナがパンと肉料理を続けて持ってくるのを視界に入れながらアンジェリカは不貞腐れつつ「食い終わったら行ってやる」と尊大に言い捨てると運ばれたばかりのこんがり焼き色のついたパンを千切り口に放り込んだ。その言葉にキャサリンが感極まった声で「ありがとううう!」と感謝と一緒に安堵の涙を溢した。

 バーバラに諫められても余程心配だったらしい。アンジェリカは表情を緩めて涙を拭うキャサリンを一瞥すると舌打ちし「ごねるだろうから時間かかるぞ」と誰がと言わずに釘だけは刺した。多分、いや確実に無駄だろうが。



 そして現在の依頼仲介所に至る。


 よってアンジェリカが超絶不機嫌な原因の大元はおちびである。

 短時間で爆発的にプンプン度を急上昇させたのはキャサリンなのだが、そうさせたのはおちびなのだからコイツが悪い。あとマチルダの信用の無さも悪い、とアンジェリカは二人に苛々の原因を擦り付けた。ここに至るまでの過程が一番の要因なのだが、まあ間違ってない。


 相変わらずアンジェリカから冷めた瞳で見られている当のおちびは、アンジェリカが来てからの短時間の間によりご機嫌に磨きをかけていた。ようはもっと酔っていた。そうなった原因であるマチルダが冷静に「多分これが限界値だろう」と結論を小さく呟き、おちびが酔って力の入らない手から落としそうになったグラスを丁寧に支え、その手に掴み直させている。そして「まだ残ってるじゃないか」と煽る様に言ってはムキになったおちびに杯を空けさせた。


 確実におちびの酔いの限界を調べている愉し気なマチルダをアンジェリカは勿論、止めない。どうせ言ったところで無駄になるだけだ。自分に被害がないならいいと黄金色の酒をゆっくり楽しんでいれば、呂律が怪しい声がまた横から邪魔をしてアンジェリカの短い傍観者の時間は終わりを告げた。


「アンジェリカぁ、ずっと言いたかったんだけど、前髪ぃ邪魔じゃね?」


 おちびはカウンターについた肘で上半身を支えながら盛大に酒臭い息でそう言うと、何かを閃いたという表情をする。そしてアンジェリカとは反対側、マチルダの方に顔をやり「ちょっと、背中、むけて」と頼む。

 言われたマチルダはどうするんだと面白そうに成り行きを楽しむ笑顔を浮かべると素直にスツールを回転させおちびに背中を向けた。そしておちびの眼前に揺れ動く一本の緩く結ばれた紫色の三つ編みが現れる。目の前のそれをおちびは迷うことなく両手で掴むと、あろうことか三つ編みを留めている髪紐を躊躇することなく引き抜いた。


 その行動に気付いていないマチルダ以外、アンジェリカや店員、周りにいる仕事終わりに一杯やっている同業者は目を見開くと呼吸と一緒に時を止めた。


 髪を解く、女性相手にその行為をするならば許されるのは伴侶か家族、仲のいい同性のみ。なら男性相手ならいいのか?


 答えはノーだ。


 しかも相手が魔術師。もっと言えば独身。完全にアウトである。


 だからおちび以外、その危険性を理解している外野に一瞬で緊張が走った。この女、死ぬぞ、と。


 だがそんなことを全く知らない、いや知っていてもこの深酔い具合では頭から抜け出ていそうなおちびは抜き取った髪紐をカウンターに置くと解けてきた紫の髪を片手で掴んだままマチルダの二の腕を押すと回転させた。酔っぱらっているおちびの力ではスツールは動かなかったがそこはマチルダが気を利かせて自分で回転させ、おちびと真正面から向き合う。そうしてマチルダの視界に解けた自身の髪を満足げに掴むおちびの姿が映った。


 瞬間、マチルダは極限まで瞳を細め、表情を一切悟らせないただ綺麗なだけの笑顔を深く浮かべる。しかし形よく口角を上げた薄めの唇をマチルダが開こうとするよりも早く、おちびが動く。まだ何かするのか、と益々周囲の緊張が張り詰める。


「あらら、マチルダの髪が大変だ! でも首にグルグル巻けば大丈夫、わあ素敵なショールの出来上がりだね!」


 他人から見ればワザとらしくも本人は至って真剣に、そう言いながらおちびが手に持ったマチルダの髪を首に巻き付けようとスツールを回転、させられないのでまたマチルダ自らが回る。深い笑顔のまま。

 二回転くらい髪をグルグル巻くとおちびは髪の端を無造作にマチルダのコートの懐に突っ込んだ。ただ突っ込んだだけなので結局すぐ垂れてきたがおちびは気にしない。だって酔っぱらってるからね!


 全く何を考えているか読ませない笑顔のままマチルダが「ありがとう」と心が何も見えない感謝をおちびに述べれば周囲がザワつく。そんなことに気付かずおちびは「どういたしまして!」と満足げに元気な声をマチルダに返した。特に行動を起こさないマチルダを周りの者達は信じられない目で眺めながら一応の緊張を解く。

 そのままおちびは「よしっ」と気合の入った声を上げるとカウンターに置いてあったマチルダの髪紐を掴み、今度はアンジェリカに向き直る。

 

「待て。何がよし、だ」


 言わずにいれなかったのかアンジェリカが完璧な無表情のまま言うが、おちびは「ん?」と何を言われたのか分からないと声を漏らすが伸ばした手は的確にアンジェリカの片方だけの長い前髪、常に片目を隠す紅色の髪を掴んだ。止めさせようとアンジェリカは咄嗟に手を動かすがしかし、マチルダのねったりと浮かべたせせら笑うような顔がおちび越しに見えた瞬間、ぴたりと動きを止める。


 マチルダの眼が問うのだ、「受け入れ、貰うばかりでお前は返さないのか?」と。

 今しがたマチルダはそれをして見せた。アンジェリカはマチルダから視線を外すと眉間に深く皺を刻み苛立ちを乗せた舌打ちをする。そして持ち上げた手はおちびを構うことなくショートグラスを掴み煽ると、酒を喉に流し込んだ。その動作で手から赤い髪を逃したおちびが抗議の声を上げたがアンジェリカは無視して店員に怒鳴りつける様におかわりを頼む。マチルダは愉快そうにそれを眺めているだけだった。



「満足したか?」


 満足げな鼻息を出しておちびが鮮やかに目を引く深紅の髪を紐で留めたのを視界の間近に映したアンジェリカは、その一言を地を這うような低さで発すると同時におちびの顔面を容赦なく掴んだ。お馴染みのアイアンクローである。

 深紅の髪とお揃いの爪紅が彩る指先が掴んだ顔の肉に力任せに食い込んでいき、おちびが「い゛ぃ!」と鋭い痛みの声を上げかけた瞬間、ぐったりと力が抜け前のめりに倒れ込む。アンジェリカは意識のないおちびの肩を掴んで倒れるのを防ぐとそのままマチルダと呼び、渡すようにマチルダの方に倒れ込ませた。そしてアンジェリカは酔いなど感じさせないしっかりとした動作で立ち上がる。


「もう帰るぞ」


 いつになく視界が晴れた両の眼でマチルダを見やりアンジェリカが言えば、流石のマチルダも反論はないのか肩を竦めて了承を示す。それを見て短く鼻で息をついて歩き出そうとするアンジェリカだが、意識のないおちびの両肩に手を、頭に顎を乗せたマチルダが飄々と「酒が足にきて、悪いが歩けそうにないんだ。肩貸してくれるかい?」という言葉で早々に出鼻を挫かれた。

 小動物を渡すように両脇に手を入れておちびをこちらに差し出すマチルダに、アンジェリカは怒鳴り声を上げそうになる感情を盛大な舌打ちでやり過ごすと無言のまま軽々とおちびを片腕で受け取り、残った片手をマチルダに伸ばす。と、見せかけて殴った。

 だが残念ながらマチルダは余裕を持った笑顔で自身に向かって放たれた拳を真っ向から掌で受け、包むように止める。またアンジェリカの舌打ちが鋭く響いた。


 マチルダは気にする素振りも見せずに掴んだ拳を離すとその続きにある肩に手を置き「よっ」という声を出しそこを支点にアンジェリカに体重を預ける。嫌々と分かる顔ながらアンジェリカもマチルダを支える為、脇に手を差し入れるとしっかりと掴んだ。本音を言えば置いて帰りたいのだが、奢りで飲んだ酒の対価だと諦めた。


 おちびの頭を肩に乗せる様にして片手で抱き上げ、反対の肩にはマチルダの腕を担ぐという大荷物な状態なのにそうと全く感じさせない歩みでアンジェリカは今度こそ帰路に足を動かす。

 若干引きずられる様な形だがマチルダが後ろ手で無茶ぶりをしまくった店員に向けて「ご馳走さん」と言葉をかける。そこには掛け値なしの評価が含まれていたが、残念なことにそれに気付ける程余裕のある人間は周囲に居なかった。周りにいた同業者、店員も魔術師二人の先程からの行動に完全にドン引きしていたからだ。




 さっさと今日という日を終わらしたいアンジェリカはおちびが吐き出す酒臭い寝息を間近で感じようとも文句も言わず黙々と歩みを進める。眼が据わり、瞳は烈火の如く激しい苛立ちを表しているが。

 大通りを早々に抜け、穏やかで落ち着いた空気を纏う南区に入る。上機嫌なマチルダが一言も口を開かないまま視界の先にホームが見えてきた頃、アンジェリカが思わず安堵の息を小さく溢すのを合図にするかの様にマチルダが機嫌良く上がった口角のまま口を開きアンジェリカと呼んだ。


「昼間ちょっとあってな、ちびちゃんに荒地を出して見せたら面白いものが見れた」


 今日あったことの何気ない雑談。愉し気なままマチルダはそんな風に口にするが、それを言われたアンジェリカは眼を見開きすぐ近くにあるマチルダの顔を凝視する。自然と歩みも止まった。


「お前はどうなんだろうな、ギルバート」


 アンジェリカと間近で視線を合わせたままマチルダはさも愉快だと伝わる、それでいて何かに酔うような気持ちよさげな眼をすると支えにしていたアンジェリカの肩からするりと手を外す。

 そしてしっかりとした足取りで、もうすぐそこにあるホームの玄関扉の前まで歩いていく。アンジェリカはただ呆然とマチルダの後ろ姿を見詰めることしかできないでいた。


 マチルダがさっさとホームの中に入ると同時に、玄関でずっと待っていただろうキャサリンの問い詰める鋭い声が上がるのが聞こえた。それからすぐに内側から玄関扉が大きく開いてキャサリンが姿を見せる。

 アンジェリカは動揺を無表情で覆い隠し、足早にキャサリンの前まで行くと有無を言わせずおちびを雑に渡す。その突然な行動にキャサリンが慌てておちびを受け止めるのを確認もせず、アンジェリカは全てを振り切るように二階に向かい一歩階段に足をかけた所でマチルダに「先に伝えておきたいことがある」と呼び止められた。邪魔が入った事で湧き上がるどうしようもない苛立ちを乗せた盛大な舌打ちが玄関ホールに空しく響いた。



 いつものように温かく明るいリビング、そこにあるダイニングテーブルに仲間である六人全員が揃う。

 見た目には冷静さを取り戻したと思われるバーバラとカトリーナ、激しい炎を思わせる見た目とは反して冷気を纏うアンジェリカ、おちびが寝てるのをいい事にぎゅっと抱きしめて腕の中から離さないキャサリン、そして依頼仲介所でアンジェリカに昏睡をかけられ絶賛夢の中にいるおちび。その五人を視界に映すとマチルダは「大したことじゃあないが」と前置くとコフ茶を頼む気軽さで本題を告げる。


「キャサリンやカトリーナには悪いが、今回は中立の立場を取らせてもらう」


 おちびにも既に告げた宣言をマチルダが言い終わった瞬間キャサリンが大きな声を上げ、そうになって慌てて自身の大きな手で口を塞ぐ。おちびが起きてしまうのを恐れたのだ。そんなキャサリンの心情を酌んでマチルダが頬杖をついたまま気のない声で「昏睡かけられてるから起きないぞ」と教えるとキャサリンは困惑の声を溢すがその利点を理解するとホッとするように表情を和らげた。そして安堵の気持ちが赴くまま容赦なくおちびに頬ずりする。じょりっと音がしたが皆聞かなかったことにした。あとカトリーナがいつの間にかおちびの頭を撫でている。唯一バーバラだけがおちびの肌が傷付いてないかと気にした。最早職業病である。怪我、ダメ、絶対。


 おちびが自身の腕の中にある安心感がある程度満たされるとキャサリンが先程上げかけた文句を口にする。


「マチルダはおちびちゃんが居なくなってもいいのお!?」

「中立と言ったばかりなんだがキャサリン」

 

 マチルダは呆れを隠さない声で「それに答えればどっちかに賛同するようなもんだろう」と溜息交じりに返すがキャサリンは責める目を強くする。


「どんなに拒んでもこれから変化し始めるぞ」


 ちびちゃんが望む限りな、とマチルダがキャサリンの腕の中に目を向けながら言えば取られてなるものかとキャサリンはおちびを隠す様に一層腕に力を入れた。と同時にバーバラが声に圧をかけながら「キャサリン、力を弱めて下さい」と叱った。脳筋の力技はダメって散々おちびに注意されてたね。


 おちびをじっと見つめながらキャサリンが涙声で「変わらなくたっていいのにぃ」と漏らした言葉にマチルダが愉し気に片眉を器用に上げると問うてくる。


「キャサリンは二年前と今じゃ、何も変わってないのかい?」


 問いに反してマチルダの眼は「違うだろ?」と既に答えを示していた。


 それにはキャサリンも反論が出来ない。その通りだからだ。二年前のおちびを知らなかった自分、出会っておちびを好きになった気持ち、そして現在のおちびを大好きな気持ち。

 二年前より今、昨日より今日。日が経つほど好きが沢山になるこの気持ちはマチルダが言うように変化し続けている。変わらなくていい、とはとても言えない大切な変化だ。


 何も言い返せなくて悔しいと悲しい、他にも自分にもよく分からない感情が混ざってキャサリンは泣きそうな声で「マチルダの意地悪ぅ」と漏らすが「良い機会だ、少し自分の気持ちをしっかり確認したらどうだい?」と返されてキャサリンは不貞腐れた様に口を窄めると黙った。 


 キャサリンのその態度を見てマチルダはこれは先が思いやられるな、と思いながら少しも案じる素振りはない。聞き取れるかどうかの音で「まあ、悪いようにはしないさ」と囁き、愉し気に浮かべた笑みを深めた。



 渦中のおちびを余所に、こうして様々な出来事が凝縮した長い一日が終わりを告げようとしていた。




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