おはよう、無情な現実


 温かく心地のいい場所で漂っていると、幾十に膜を隔てたその向こうから呼ばれる声が聞こえた。


 ふわふわとする心地のままその声に集中すればその声はキャサリンの優しく甘やかす声で目覚めを促していて、ああ、もう朝なのかといつもの日常を認識した途端、膜が薄れていきやっと動き出した思考が色々な情報を感知し始める。


 手加減をされてつんつんと頬を突(つつ)くキャサリンの指に擽ったさを覚えてくすりと笑い声が小さく零れた。まだ持ち上がらない瞼のまま突く指を止めさせようと持ち主の名を呼ぶ為に深呼吸するとカオカの甘い匂いで肺が満たされた。今日はいい休日になりそうだ。


「おはよう、キャサリン。なんだか疲れる夢を見たよ」


 とても変な夢だった。先日オネエさん達がからかった女の子が訪ねて来て一騒動起きる、特にマチルダが酷かったと寝ぼけながらも力説した。重い瞼を持ち上げて瞳に映ったキャサリンの顔は困った様に、気の毒そうな表情をしていた。

 そんな顔をされたら察する能力に長けた民族的に余裕で伝わってしまう。いや民族関係なくキャサリンの表情は分かり易いけど。


「そん、な……まさか……」


 信じたくなくて、どうか夢であってくれと思いながらも呟いた言葉は、キャサリンのごめんねという謝罪で一気に現実に戻された途端、夢の出来事が走馬灯の様に生々しく再生されて私は頭を抱えて憤りを叫んだ。


「夢じゃなかった! 夢じゃなかった!! どちくしょう!!」


 目が覚めたら育ったのは森じゃなくて木の芽だよ的なささやかな奇跡が私にも起こって欲しかった。

 あれが現実とかもうやだ、当分引き籠っていたい。キャサリンの背中におんぶされてバブーとか何も考えずに思考停止してお世話されたい。あ、やっぱそれなし。それは人としてなしだわ。いけない、尊厳まで手放す所だった。


 キャサリンに背負われておしゃぶり咥えてる自分を想像して少し冷静を取り戻す。そんな私の勝手な妄想対象にされたキャサリンは気遣わしげに大丈夫? と私に心配の声をかけてくれた。すまねえ、すまねえ。


 寝ていた上体を起こせば掛けられていたブランケットがずれて自分の寝間着が目に入る。キャサリンは前科があるので勝手に着替えさせられなかった事にホッとした。そのまま目線を上げて周りを見渡す、どうやらリビングの長椅子に寝かされているらしい。


 うっかりダイニングテーブルに居るマチルダと視線が合った瞬間、キャサリンの広くてカッチカチの胸元に隠れた。

  

「……あんた、おちびに何したの」

「なに、アンジェリカを見習って顔面を掴んだだけさ」


 私の露骨に避ける行動にアンジェリカが呆れ混じりの責める口調で問うもマチルダは少しも悪びれず、逆になぜ君に責められるのか不本意だと言わんばかりに肩を竦める仕草をした。日頃お仕置きとして用いられていた弊害であるのでアンジェリカもそれ以上追及できない。そりゃそうだ、追求して責めた所で盛大なブーメランである。悪しき習慣の撤廃を!

 痛い所を突かれてアンジェリカが追及を諦めようが、私は引かぬ!


「アンジェリカ! マチルダがおかしいから何とかして!」


 アンジェリカは普通に接してるけどマチルダは未だに男の口調のままだし絶対おかしい。


「あー、……それも含めて説明するからこっちに座んなさいよ」

「やだ!」


 尤もな提案を即断ると余計に意地でもこの安全地帯から離れるものかとキャサリンにしがみつく。キャサリンはあらあらと珍しそうに声を上げるだけだが、アンジェリカはイラァとしたのか目が据わり綺麗な片眉がどんどん吊り上がっていく。あ、アレやばいやつ。


 今にも腰を上げてこちらに向かってきそうなアンジェリカと益々しがみついて最早だいしゅきホールドをキメている私を交互に見たキャサリンはやれやれと子供に言い聞かせるように私達に話しかける。


「もうっ、困ったさん達なんだからあ」 


 引っ付き虫と化した私に片手を添えるとキャサリンは立ち上がりダイニングテーブルに向かう。しかも苦々しい顔をして私を睨んでいるアンジェリカのお向かいに腰を下ろした。勿論、私をくっつけたまま。背中がガラ空きで怖い、助けて。


「……おちび、顔だけでもこっち向きなさい」  

「睨むからやだ」


 怒りを押し殺した様な声でアンジェリカが言うがその声音自体やばい。素直に思った事を述べてお断りすれば椅子が勢いよく動いて床から悲鳴が上がる。咄嗟に身体をすくめて小さくなるが、衝撃も怒声もやって来ない。ただ小さくアンジェリカの舌打ちが鳴った。


 キャサリンに引っ付けていた顔を少し離してそろりと窺えば、意外な事に今にもこちらに向かわんと椅子から立ち上がったアンジェリカの前に、マチルダが腕を伸ばし進まぬように止めていた。予想外過ぎてその様子をぽかんと見ていると、バーバラが横から声をかけてきたので慌てて顔をキャサリンにくっ付けた。頭の上から、んもうっ! と可愛い抗議が落ちる。


「ちびさん、確認したい事があるんですがこちらを向いて貰えませんか?」

「……それは私の知ってるバーバラのお願い?」

 

 いつものバーバラと変わりない声。確認という不穏な言葉に何か事情があるならば素直に協力はする。けど少しばかり意地の悪い返しをしてしまっても許されると思う。


「ええ、ちびさんのよく知るバーバラです」

「なら、いいよ」


 苦笑する声でバーバラが言い終わると、私もやっと顔を上げた。バーバラの細められた目を見ながら何の確認なのか尋ねると、バーバラは安堵した笑みを浮かべながらも念の為にと言い神聖術を発動した。キラキラと光が降ってくる。無視か。


 おう、何の確認をしたのか聞いてんだけど。答えろや。


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