第3話 恋の気持ち

 彼は、バケツに張った水に落とした絵の具のように、自然とクラスへ溶け込んで行きました。夏の日差ひざしに似た明るい性格で、まさに名前の通りの人柄だなぁといった感じです。スポーツ万能で成績優秀、おまけに容姿も文句なし。猫の目ように丸く、思わず引き込まれてしまいそうな鳶色とびいろの瞳は、知らぬに見惚れてしまうほど綺麗なものでした。


 しかし彼は、何処どこからどうみても普通の高校生なのです。


 私を抱き上げ窓から飛び降りたり、フリーフォールを繰り返すほどの跳躍を見せたりすることもない、普通の高校生なのです。私と初めて出会ったあの日に見た彼は全く別の人物かと思ってしまうほどです。


 日が経つにつれてたちまち人気者になっていく彼が、皆には見せない一面いちめんを私は知っている。特別な秘密を私だけが彼と共有している。何故なぜだかその優越感ゆうえつかんを思い起こすたび、それは私のほほをだらし無くゆるくさせるのでした。


 彼が私たちの日常に加わってから、かれこれ1週間ほど経ったでしょうか?


 彼を中心として長らくクラスに停滞していた話題という台風は、次第にその勢力を弱め、平穏へいおんな温帯低気圧にその姿を変えました。


 クラスには再び、なんの変化も面白みもない夏風が吹き、すごろくのように進む時間割を、淡々たんたんとこなす日々が戻ってきました。彼と私は席が隣同士のものですから、嫌でも自然と会話は弾みました。彼と無条件で話せるチケットをもらった私はもちろん、嫌などとは一度も思ったことはありません。


 毎日がファーストクラス。私は朝登校すると、私専用の特等席に悠々ゆうゆう座り、よく弾むボールのような会話を彼と投げ合うたび、次第に彼のことを少しずつですが理解していきます。


 彼はボールを使うスポーツが一番得意なこと。嫌いな食べ物はチョコレートと玉ねぎ。勉強はできるのになぜか唯一、作中の人物の心情を読み取る現代文はてんで駄目なこと。彼の様々な面を知るたびに私と彼の距離が縮んでいく感覚が、私の毎日を鮮やかにいろどりました。


 私の学校では、期末試験の1週間前は全ての課外活動が強制中断され、その時間を勉学にいそしむように。といった期間が設けられています。今日からその1週間に差し掛かりました。私は部活動には所属していませんでしたので、少し長く学校に居るだけの事でしたが、運動部に所属している方達はこの期間になると、たちまち顔をどんより曇らせるのです。まるで、遊ぶ予定を立てていたのに突然の土砂降りで遊びに行けなくなった子供のように、ふてくされた顔で教科書とにらめっこをするのでした。


 各々おのおの、足りない知識を目一杯自分の脳内メモリに書き込んでいるようです。何気なにげなくふと隣を見ると、買いたてのような真っ白なノートと現代文の教科書を開き、硬直している彼が目に留まりました。やはり、苦手な現代文に危機を感じているようですが、一向に進んでいる気配はありません。


 この彼の姿に一瞬でも顔がほころび、コンマ1秒でも可愛いと思ってしまった私は、どうしようもなく彼のことが好きでたまらなくなっていたのでしょう。


 もちろんその時の私は、そんな気持ちに気付きながらも無理に知らんぷりをし、脳内エラーだと思い込むようなウブな子でしたけれど。そんな私を見透かしていたかのように彼は、担任に見つからないように私に近寄り、ささやきました。


「この人の気持ち、読み取るにはどうしたらいいの?」


 彼は教科書に書かれている所定の箇所を指差しながら言いましたが、私は不覚にも、その言葉をそっくりそのまま彼に返したいと思ってしまいました。真剣な眼差しで私に答えを求める彼に正解を教えてしまったら、その目線がまた私から外れてしまいます。傲慢ごうまんにも私は、彼の視線が愛おしくてたまりませんでした。


「その前に書かれている情景を見てみるとわかるよ。その人の気持ちを知りたいのなら、周りを見るとわかりやすいの。」


 今思い返すとこれは、半分自分に言い聞かせる意味もあったように思います。私の予想通り、ヒントをもらった彼はありがとうと少し微笑ほほえみ、また机に体を向けるのでした。名残なごり惜しい彼の視線を一度忘れ、私も自分の難題に立ち向かいました。


 拘束こうそくの時が終わり張り詰めた緊張の糸がほどけたのか、全員が心からの声をあげながら帰宅の準備を始めました。私たちも、今日1日でつちかった知識をひとつひとつかばん仕舞しまい込んで行きます。


 窓から差し込む日の光はずいぶん弱まり、東の空にはもう、うっすらと星がまたたいているのが見えます。黄昏時たそがれどきの空というのは、何故なぜこんなにも美しいのでしょうか。昼間の温度をゆっくりとますかのような二藍ふたあい色の空。私はこの夏の黄昏時が、1年の中で一番好きでした。


 帰路に立ち、歩きながらぼんやりと眺めていた夏の天井。するとそこに小さな宝石のような光が一瞬、かぼそい線をえがいては消えました。私はこの時ひとつ、我儘わがままな後悔をしました。もしも、ほんの数秒前の私の目線をそっくりそのまま録画できる機能があれば、この素晴らしい景色を何度も彼と見返すことができるのに。きっとその時間は何よりも心地いいものになると思うのです。


「流れ星は、一瞬だから美しいと思う。一瞬だから人はきっと、それを見たくて空を見上げるんだ。」


 彼はきっと後悔している私に、優しくこう伝えてくれることでしょう。せめて今起きたことを全て、新鮮なまま、暖かいまま、彼に伝えたい。明日の学校がこんなにも待ち遠しくなるなんて、私は考えたこともありませんでした。ベッドの中で明日の彼との会話をシミュレーションしてみるのも、これが何度目のことだったでしょうか。今まで一度も、想定通りに言えたことは何一つ無かったのに。


 壁にかかった時計の針は一定のリズムで回り続け、やっとの事で一番高いところですれ違いました。このまま微睡まどろみの世界へ身を委ねたら、この気持ちを忘れてしまうような気がして、そんな不安でその日の夜はあまりよく眠れなかったことを今でも覚えています。初めて出会ったあの日、彼が私を抱きあげながら開けた窓から星を数えていると、何故なぜだか自然に、彼と同じ景色を見ているような気持ちがこみ上げてくるのでした。


 私はちゃんと表現することが出来ていたのでしょうか? 今はもう確認するすべはありませんが、きっと、どんなにつたない文章であっても、精一杯の気持ちを込めて、あの日みた小さな幸せを彼に伝えたと思います。人の気持ちを読み取るのが苦手な彼のことですから、もちろん保証はできません。それなら私は何度でも、彼に同じ話をしたいと思います。


 他の誰でもない。彼の為だけに生まれてきた私の言葉が、彼を想う私の心の熱で溶けて無くなってしまうのは、あまりにも可哀想かわいそうですから。

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