第4話 恋の秘密

 連日の猛暑が続き、もはやテンプレートと化したセリフが今日も、画面の向こう側から耳に届きます。


 私たちは無事に期末試験を乗り越えて、学生の自由の象徴、夏休みを迎えました。日々の規則正しい生活から一歩離れ、自由気ままな1日の始まりを全身で感じます。窓の外からは蝉の声や水撒きの音など、夏の季節音が様々な方向から不協和音を築き、その暑さをより一層厄介なものにしています。


 暑すぎる日中の気温は、私からやる気を奪う天才でした。怠惰たいだなまま時は流れ、変わらない景色の中で息をする私。今頃、彼は誰といて何をしているのだろう。どうしたら彼と会えるのだろう。彼を想う様々な思考が、一向に働こうとしない脳内をぐるぐる巡っていました。ゆっくりと歩みを進めていた太陽が、1日の中で一番高い位置に辿り着いた頃。私はやっとの事で言うことを聞かない体をなんとか言い聞かせ、外出の準備を始めるのでした。


 一足外に出ると、しつこい程の熱気が私の全身を包み込みます。今日初めて見た空はどこまでも蒼く、ただ一つ燦々さんさんと輝く球体を浮かべて、容赦無く私を照りつけるのでした。


 30分ほど歩いたところで、街で一番大きな図書館に着きます。ここは、坂の上にある為に大変見晴らしがよく、私たちの街を一望できる場所に立地していました。


 坂を歩き、うっすらとひたいに汗をかいた私を歓迎するように、無機質なセンサー音の後に扉が開きます。たちまち地球の裏側にワープしたのかと思うほど心地よい、外とは真逆の温度が私を迎えてくれました。太陽光をこれでもかと吸収し熱を帯びた全身を、満遍まんべんなく包み込んで行きます。


 外から見ると小さな体育館のように見える、丸みをびた建物の中は、その可愛らしい構造を生かして真ん中のロビーを囲み、木の年輪のように本棚が連なっています。一階の天井は吹き抜けになっていて、二階とその上にある観測室が見えます。


 階段を上へ行くと、一階同様の配置の本棚と、所々に本を読むために腰掛こしかけるスペースが設けられています。その中でも、階段から一番離れた二人がけの小さな椅子と机。丁度、目の高さになるように設計された窓がわきにあり、空と本が好きな私にとって、お気に入りの席があります。


 貴方には特別に教えて差し上げますので、もし訪れる機会があったら是非、座ってみてください。とても素敵ですから。きっと気にいると思います。でも、私が先着でしたら譲りませんよ。もちろん冗談ですけど。その時は好きな本の話でも、好きな彼の話でも、なんでも聞かせて差し上げますね。


 1時間おきに館内に鳴り響く優しい鐘の音を5回ほど聞いたあたりで、彼は私がここにいることを知っていたかのように、私の前に現れました。


「そんなに夢中になるなんて、君はほんとに本が好きなんだね。」


 静かな館内に響かぬように、優しくそう呟く彼は、休みの今日も制服を着ていました。


「どうしてここが分かったの?」


「君の考えてることなんて全部わかるよ。」


 夏休みの間に彼に会うためにはどうすればいいのかという今朝けさの私の最大の悩み事は、呆気あっけなく消滅しました。普段は隣にいる彼が、今日は向かい合う形で座っています。無抵抗で彼を眺めていられるこの席は、やはり私にとって特別なものであると再認識させられました。


 もうすっかり日は落ち、館内にいた人は数える程しか残っていません。夢中になって読んでいた、「時計仕掛じかけのオレンジ」が一区切りついた頃、 待ってくれていたかのように彼が口を開きました。


「これから時間があるなら、僕のお気に入りの場所へ案内するよ。一緒にどうかな。」


 その質問にはもはや、私のこれからの時間など関係ありませんでした。声を出すことも忘れ頷く私を見ると彼は、ただ悪戯いたずらに笑うのでした。


 名残惜しい図書館を後にして、私は彼の後を必死についていきます。時々後ろを振り返りながら彼は、どんどん狭い路地へと入っていきました。まるでいつも通る道を散歩する野良猫のように、迷いなくり組んだ道を進んでいきます。家の近所だというのに、私はこんな道があるなんて全く知りませんでした。なぜ転校してきたばかりの彼がそれを知っているのか? その矛盾に私が気づくのは、もう少し先のお話です。


 かなりの数の道を右に左に曲がりました。彼はやっとその歩みを止めてくれたようです。路地によって狭められていた視野が突然広がったかと思うと、そこには住宅街には似ても似つかぬ、一面の草原が広がっていました。


 辺りを見回すとどうやら入り口はここだけらしく、他は塀や、使われている形跡のない民家の壁が高く連なり、この場所を円形に囲んでいます。まるで、ここだけ街から隔離されているようでした。


 若緑色にしげる夏草でいっぱいの空間に私は思わず、おもいきり大の字になって寝転がりました。爽やかな香りが鼻を抜け、私のまぶたを自然と閉ざします。


 昼の温度とは打って変わり、すっかり過ごしやすくなった気温に身を任せ、私はしばらくの間目を閉じていました。


「ねえ。目を開けてごらん。」


 彼に言われた通りに目を開けてみると、丸く切り取られたような夜空が一面に広がっていました。


 大きな望遠鏡を覗き込んでいるように見えるその眺めが私には、彼が無数にある夜空の中からこの景色けしきを選び取って、そこにはめ込んでくれたかのように感じました。


「ここは、僕と君しか来ることができない場所なんだ。君は空が好きだろ? だからこの景色を早く君に贈りたかったんだよ。」


 私は彼に、空が好きだと口を滑らせたことがあったでしょうか。きっと、その時の私にはそんな事どうでもよかったのでしょう。初めてあったあの日から私の心の距離は日に日に彼に近づき、まさにあの日の彼の有言通りです。心地良いまでに感じる恋の奈落を、私は真っ逆さまに堕ちていくのでした。


「もう遅いね。家まで送るよ。僕の手を握って。」


 時間を忘れ空を眺める私に、差し出された色白の彼の右手。そこに私はそっと左手をえました。その瞬間、海に飛び込んだ時のような浮力を感じました。


「近道をするよ。ゆっくり大きく歩いて。息は止めちゃダメだ。」


 先ほどの感覚は思い違いではありませんでした。私たちの体はふわりふわりと浮き。いや、手を繋ぐ私たちは、先ほど後にした図書館よりも高い位置をゆっくりと歩いているのです。驚き慌て、怖がる私を彼は右手で強く握り、大丈夫。と、支えてくれます。


 私も徐々に歩き方に慣れ、私の方を向く彼と目を合わせ微笑み合いました。空気のように軽い帰り道。わずかですが確かに感じる重力が、これは夢ではないと私に言い聞かせているようです。


 あの日の彼の腕の中からは見ることのできなかった景色を、私は心ゆくまで堪能たんのうしました。久しぶりに見た彼の不可思議ふかしぎな一面も、今は左手をつたってじかに感じることができます。私の家が足元に見えてきたあたりで、長いようで短い浮遊歩行を終え私たちは、久々に地面に足をつけました。


 私は彼に、その不思議な力の秘密を聞こうなどとは一度も思ったことがありません。聞いてしまったら彼ともう二度と会うことができない気がしていたからです。


 いえ。それ以上に、その秘密を握っている感触が、彼に会えないひとりの時間を、そっと埋めてくれる気がするのです。


「私!... あの...私ね。また明日も同じ時間に、あの席に座ってるよ。」


 地球を逆から一周するほど遠回しなデートの誘いは、私から彼への最大限の愛情表現でした。


「また明日ね。おやすみ。」


 振り向く彼から返事を聞こうと見つめていましたが、突然激しい風が吹き、次に目を開けると彼はもうそこにはいませんでした。


 湿った夏の夜の温度を肌で感じながら、私は家の前の段差に腰掛けました。家に入るのはまだ、勿体無もったいなく感じたのです。私は今日起きた素晴らしい出来事を一つ一つ、頭の本棚に大事に仕舞しまいました。


 何処どこからか、猫の鳴き声が聞こえたような気がしました。うながされるように私は、いつもより重く感じる扉をゆっくりと開けました。


 今日の疲れをぬるま湯で流し、火照った体を冷まそうと、いつもの窓に手をかけました。私は、明日からの毎日が楽しみで仕方ありませんでした。


 彼との秘密の約束。明日はどんな服を着て彼に会うことにしましょうか。出来るだけ私を魅力的にしてくれる服は名乗りを上げて下さい。と、言わんばかりに、私はクローゼットをゆっくりと開けました。


 その夜は、月は消えてしまいそうなほどに細く、星がより一層引き立てられているようでした。彼と二人きりの秘密がまたたく星達にばれないように、私はカーテンを閉めました。

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