第2話 恋のはじまり

 それからの記憶は正直なところ鮮明には覚えていないのです。何せ初めて空を飛んだものですから。私は必死にしがみつくのが精一杯せいいっぱいでした。それでも彼は、私と彼にかかっている地球の重力など御構い無しおかまいなしと言うかのような軽い足取りで、いや。あれは足取りと言っていいのでしょうか。緩やかな放物線ほうぶつせんを描きながら、五・六階建てのビルよりも高い高度で跳躍ちょうやくを繰り返し、何度も、私を見たことのない景色の見える高さまで持ち上げるのでした。

「さぁ、ついたよ。」

 思わず私は、「あ、今日は送ってくれてありがとう。」と、言いそうになりました。なぜって? ついたと言われ降ろされたのが他でもない私の家だからです。また彼から疑問のタネを脳内に植えつけられました。なぜ私の家?なんで知ってるの? そんな質問などする暇もなく彼はぴょんとまたまた容易よういに二階のベランダに飛び乗り、行き慣れた食堂に入るかのようにうちの窓を開けました。

 私を迷うことなく部屋へ連れて行き、ベッドにちょこんと座らせる彼。ここまで来ると私も、今まで浮かんできた数々の疑問たちは有象無象うぞうむぞうな泡と化し、脳内でひとつずつ弾けて消えるのでした。私が一人で頭の中の泡たちをぱちっぱちっと潰していると、また彼が可笑おかしな事を言うのです。

「僕は明日、君のクラスに転校する。僕といられるのは出会った今日から夏休みが終わるまで。夏休みが終わったらお別れだよ。この夏にきっと、君は僕を好きになるだろう。」と。

「なんで私なの?」

 聞きたいことは山ほどありましたが、とっさに口から飛び出したのはこの言葉でした。すると彼は当然じゃないかと言わんばかりにこういうのです。

「だって君、銀色の猫を見たろ?だから君になったんだ。」

 思い出ししました。なんで忘れてしまっていたんでしょう。真っ先にあなたに伝えようとしていたのに。確かに私は銀色の猫を見ました。そうですね、話を少し戻しましょう。五限の英語、眠気に襲われるあたりです。

 その時私は、ぼんやりと校庭を眺めていました。どこに焦点しょうてんを当てるわけでもなく、ただ時間が流れていくのを待っていました。相変あいかわらず教室では、商店街などで聞こえる、何処どこから鳴っているのかわからないBGMのような英文のCDが垂れ流されていました。どれくらいの時間そうしていたのか。私も、時計の針を目で追う事をやめていたものですから検討もつきませんが、ふと校庭の端、体育館の物陰に目をやると、それはそれは大変綺麗な銀色の猫が、校庭の中に歩いてくるのです。夏の暑い太陽の日差しを全反射させ、まばゆく輝くその猫は、波のように光り方を変えながらゆっくりと歩いてきます。私はその猫と私以外の全てを忘れ、そのうるわしき光に見惚みとれていました。今もし猫から目を離したら何故なぜかもう二度と見ることが出来ない気がして、必死に目で追いました。すると一瞬、猫がこちらをみたような気がしました。私は変な後ろめたさと言いますか、見てはいけないものを見ていたら誰かに気づかれた時のような反射を体が起こし、私は机に顔を伏せました。そのまま寝てしまっていたのです。

 私が選ばれた理由は納得できずとも分かりました。では、目の前にいるこの男の子は一体誰なんでしょう。それを聞こうと彼の立っていたところを見ると、まるで今までのことが全て夢で、私はたった今ベッドから朝起きたかのように、そこに彼の姿はありませんでした。その後私が、部屋の隅から銀色の綺麗なヒゲを見つけるのは、この不可思議ふかしぎな日から数日空いた、雨の日でした。


かのう なつ


 見慣れた無機質な黒い板に整った形で書かれた二文字、これが彼の名前です。次の日、彼は本当に私のクラスにやってきました。親が転勤族で短い間しかいられないというような 内容を朝、担任が言っていたような気がしますが、私はそんなことなど気にも留めていませんでした。昨日のことが夢じゃなかった、この事実だけが私の中にぽつんとひとつ、あるだけでした。

 まるで初めから決まっていたかのように、彼の席は私の隣、窓側から2番目の一番後ろの席に決まりました。私の脳内は、常に私内最高議会わたしないさいこうぎかいが招集され、あれやこれやと論争を続けます。昨日から非現実すぎて半信半疑はんしんはんぎだった全てのことが今朝けさ、現実とリンクしたのですから。事務連絡があり、朝のHRが終わりを告げ、規則正しく御行儀おぎょうぎよく並んでいた机や椅子が、賑やかな音を立てながらその整列をあっという間に乱していきます。ふと気づくと、机に一枚、紙が置いてあるのを見つけました。

「昨日は驚かせてごめん。これからよろしくね。」

 それはついさっき見た、彼の字でした。はっとして彼の方へ首を回すと、幼い子供のような無垢むくな笑顔を、彼は私に向けるのでした。くしゃっと笑うその整った顔。もしあなたに、彼の好きなところはどこ? と、聞かれたとしたら、私は真っ先にこう伝えることでしょう。季節は初夏。夏休みまで残り2週間と少しです。私は彼とのタイムリミットのことなど忘れ、目前に迫った期末試験に本腰をいれることにしました。


 彼からもらった最初で最後の手紙は、綺麗に折りたたみ、そっと筆箱に仕舞しまいました。


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