恋という奈落
AKARI
第1話 恋の音
私はあの夏の日々を一生涯忘れることはないでしょう。今からあなたに話すこの物語は、私がちょっと大人になった頃の不思議な夏のお話です。
あの年の夏は、頭からとろけてしまいそうなほどに暑く、いっそこのまま溶けて無くなってしまえたらいいのになぁなどと、呑気なことを考えていたのを今でも覚えています。そんなどうでもいい事ですら鮮明に記憶しているほどに、あの年の夏は私の人生の中で一番輝きのある夏でした。恥ずかしい話ですが、私は生まれてからというもの恋という脳内トラブル的な何かを起こす事なく常に一定、平常稼働で生きてきたものですから、もちろん不純異性ウイルスに対して抗体があるわけでもなく、私のマザーボードは瞬く間に感染していきました。今思うと、あの夏の私の脳内コンピュータは暑さで相当やられていたのだと思います。
あの日、私は初めて自分が恋という奈落に落ちて行く音を聞きました。
遡る事三年前、受験の夏を迎えた私は、進路という私史上最大の問題と対面し、毎日頭から煙が立つくらい悩みふけっていました。世間一般でいう受験の夏というものを目前に控えている私にとって日々の授業ほど退屈で逃避したくなるものはありません。五限の英語が始まってから時計の針は明らかにさぼりだし、その歩みを確実に遅くしています。ちゃんと仕事をしてほしいものです。まぁ、教科書の隅に絵を描くだけの私が言っても毎日休まず仕事をしている針達は聞く耳も持たないでしょう。そうこうしているとほら、また眠気が私を襲ってきます。暖かい昼下がりの午後、英文は右から左に私の中を通るだけ、もはや子守唄なのでは? と錯覚してしまうほどで、先生の声、チョークの音でさえ私の中では、まどろみの中のとろけた音のようで ...
「キーンコーンカーンコーン...」
はっと気がつくと、私はやはり、ちゃんと寝てしまっていたようです。今は何時? なんの時間? 遅れをとっていた脳内の思考が追いつくまで、私は見慣れた教室を見回していました。あぁ、やっぱりいつもと変わらないなぁ...。さて、次はなんの時間だったっけ。やっと私の思考と体、目線の全てが足並みをそろえた時、私は自分が置かれている状況をやっとのこと理解しました。大変な時間がかかってしまったことを後悔しても遅いよ。と、追いついた脳内が教えてくれているような気がしました。
日の傾きや時計の針、すべてが寝ていた頃から時が進んでいます。それはもちろん。寝ていたのですから。しかし、この教室には私一人きりです。まだ放課の時間でもないし、移動教室の授業があるわけでもないのに。まだ夢でも見ているのでしょうか? ほっぺたを引っ張ると、あれ、ちゃんと痛い。なんて鮮明な夢なんだろう。こんなリアルな夢を見ることができる私の脳内は素晴らしいなぁなどと意味のない賞賛を自分に与えていると、
「今年は君が選ばれたんだね。思ったより可愛いじゃん。」
私だけの世界のはずなのに、誰かの声が廊下の方から聞こえてきます。もちろん声をかけられているのは私。私しかいないですからね。可愛いって? 今年は私? 何が何だかさっぱりです。さっき褒めてあげた脳内をほったらかしにして、声がする方を振り返るとそこには見慣れない一人の男の子が、うちの高校の制服をしっかりと着こなして立っていました。
「それじゃあ、行こっか。」
「え? どこに行くの? 」
「秘密だよ。」
貴方がもうお気付きの通り、この男の子が私を恋の奈落に突き落とした張本人です。え? どうやって恋に落ちたのかって? それはもういきなりですよ。ものすごい速さで落ちていきました。怖かったです正直。そして痛かったです。落ちたんですもの。
声をかけられて数秒後、私をお姫様のように軽々担ぎ上げ、5階建ての校舎の窓から飛び出した彼の腕の中から見えた、雲ひとつない青い空。何物にも言い換え難いあの青、吸い込まれそうなその色は、それはそれは素晴らしいものでした。
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