第7話 夏の日
蝉の煩い猛暑日の昼下がり、夕依はうっすら額に汗を浮かべて転がり込んできた。そして、まるで自分の家のような手際で、エアコンのリモコンを握って設定温度を下げた。
いつもと違うところは、肩から提げている生成り色のトートバッグだ。冷たい直風が当たるベッドに上がるなり、そこから少しの厚みがある冊子を取り出した。ペンケースをベッドヘッドに置いて黒鉛筆を握ったところまで見て、冊子の正体は彼女のスケッチブックだと気づいた。
中学時代、僕が炎天下のグラウンドでボールを投げている時、夕依は美術室で絵を描いてた。前よりも学年の壁が厚くなった中学では、他学年と関わることは殆どなかったが、同じ野球部で腐れ縁となった凪が言っていた。小学校から絵の上手かった夕依は、中学で美術部に入り、高校でも続けているのかもしれない。
ベッドから追い出された僕は仕方なく、勉強机について朝から読んでいる小説の続きを開いた。フランツ・カフカの【変身】は国語の教科書から見つけた。変身論というよくわからない説明とともに表紙の絵が紹介されていて、気になるのに本文は載っていなかったのだ。いつか古本屋に立ち寄ったときに、思い出して探してみた。それから持ち帰って1度読んだが、何となく今になって読み直したくなったのだ。朝目覚めると、自分が虫になってた、という衝撃の場面から始まるこの物語は、どうしようもなく悲劇的で不条理で、悲しい同情を僕に与えた。虫になった自分は何もできず、部屋に1人佇んでいるだけで家族の不幸の原因になってしまう主人公・グレゴールに、無益な今の自分自身を重ねているのかもしれなかった。
部屋から一番近いところで騒がしく鳴いていた蝉がその音を止めた時、僕はしばらく読み続けていたページを捲ろうとしてやめ、ベッドを振り返った。スケッチブックを抱えた夕依は、体育座りで壁にもたれかかって眠っていた。先ほど彼女に奪い取られたリモコンを拾い、風向きを変えて定位置に戻した。
高校生になった夕依が、どんな絵を描くのか気になったが、寝ている間に盗み見るのは些か罪悪感があった。僕は戻って小説の続きに目を落とした。
…ゆ。ふゆ!
控えめな揺さぶりと声に気が付いて顔を上げる。読みながら寝落ちたのか。
「冬。何読んでたの?どんな本?」先に起きたらしい夕依が尋ねる。
「カフカの変身。自分が突然、虫になるやつ」
それを聞いて彼女は笑った。なんだそれ、変なファンタジーって。違うよ、ファンタジーなんかじゃなくて、面白いのはもっと、と訂正したかったが、やめた。自分にこの魅力をうまく伝えられる気がしなかった。少し悔しかったけど、話題をそらす。
「絵、完成したの?」
「ううん。でもいいところまで進んだ。いつか描き終えたらみせるよ。」
「うん。」
「じゃあ今日は帰るね。」
「うん、気を付けて。」
家の中から彼女を見送ると、さっき言われた「いつか」が待ち遠しくなった。
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