第3話始まりの村で。


 僕らの間で契約が結ばれると、おもむろにロゼさんが僕の手を取る。

 早速地上へ連れていってくれるそうだ。冷たく冷えた手はしかし、柔らかく僕の手を包んでくれる。すらりと背筋を伸ばした彼女を少し後ろから見上げると、僕も着いていった。


 彼女が神の庭と呼んだ大森林を僕らは歩く。体の小さい僕に合わせてか、その足取りはゆっくりだ。

 微かな音色に、僕はふと隣のにこにことした顔を見上げる。ともすれば風のささやきに掻き消えてしまいそうな、けれども耳に染み込む様に残るそれは、ロゼさんのものだった。


「なんだか楽しそうですね」


「──そう見えるかい? まあ、半分は正解だねえ。誰かと一緒に歩くなんて、本当に久しぶりさ」


 久しぶりという事は、昔は他に誰かがいた様だ。そういえば契約の時に僕を『二番目の僕』と言っていたし、その人なのかも知れない。

 ついでにもう一つ質問をする。楽しさが半分なら、それじゃあもう半分はと訊ねたが、「それは内緒さ」と教えては貰えなかった。


 再びの静寂が訪れる。しかし、それに居心地の悪さは感じなかった。

 この場所は本当に僕に馴染むのだろう。地上での息苦しさはまるで感じず、どこまでも走って行けそうな程に体は満ちていた。


「坊やには一つ、謝っておかなければね。──大切な人が『殺されているかも知れない』などと不安を煽ってしまった」


 そう言う彼女の表情は変わらないが、声音は少しばかり申し訳無さそうに聞こえる。


「いえ、その可能性だって無い訳じゃありませんから」


 ただ、その可能性と同じく『生きている』可能性もあるのだ。それを信じただけだ。

 ローブの異形はミシェルを指して『護りの加護を授かりし女』と言った。あれだけ凶悪な力を持った奴が、まだ幼い子供を殺しに掛かったのだ。それだけの『力』がミシェルにはあったという事だろう。それが言葉通り『護り』に特化したものであるなら、生きている可能性だってゼロでは無いのだ。……そう思いたかった。


「さすが、坊やは聡明だ。私の手足として申し分無いね」


 声を弾ませて言う。

 少しばかり照れ臭かったが、それよりも嬉しいと胸が鳴った。


 黙々と歩いていると、ぴたりとその足が止まる。


「この先を抜ければ、坊やがいた村の近くに出られるよ」


 前方に見える光を指してロゼさんが言った。

 どういう構造なのかは分からないが、そもこの場所自体が非現実的なのだ。自分の常識などまるで通用しないのだろう。僕はそれに頷きで返事をし、再び歩き出した。




 眩い光を抜けた瞬間、そこには見慣れた林道があった。僕とミシェルが遊んでいた、村近くの森。あの日と同じ様な暗い空模様。ただ、どういう訳か木々に元気が無い様に感じられた。

 所々、葉が落ちて裸になっていたり、痩せ干そって倒れたりしている。かといって、冷たい雪に覆われている訳でも無いので、樹木が眠りに入る冬の時期でも無かった。


 僕が目を丸くしていると、ロゼさんが歩みを促した。


「嫌な予感がする。ここには魔気がほとんど無い。大移動が起こったかな……」


「大移動?」


「そうだよ、坊や。君の話を聞いてもしやと思ったが……これは村も相当荒れているかも知れないねえ」


 そう言うと、僕の手を前に引っ張って村への案内を頼んだ。

 周りの景色は確かに以前と違う所はあるけれど、慣れ親しんだ道は変わらず覚えていた。

 林道をなぞって数刻、遠目にかつて村があった場所が見えてくる。──そう、それはもう村では無くなっていたのだった。


 取り囲む様に歪な木の根が這い回り、鬱蒼とした草木はそこかしこに生い茂っていた。


 それを外からしばらく観察して、ロゼさんが口を開いた。


「坊や達を襲ったのは恐らく魔導師だね。どこで手に入れたんだか、相当に強力な──魔気を封じ込めた『魔石』を持ち込んだんだ。

 しかし、その魔石の封印を解くのにも多大な魔気を必要とした。だから…………導気を以て他所からそれを補ったのさ」


 導気を意識的に操作出来る術を持つ者、それが魔導師なのだと言った。普通の生物は『最低限活動維持が出来る程度の導気操作』しか無意識に行っていないそうだが、思い出すだに、なるほど、これは普通では無いと思えた。


「この中は残留した導気に引っ張られた魔気で充満していて、およそ通常の人間には猛毒に等しい。──が、こと私と君に関しては話は別さね」


 くく、と含み笑いをして村へ向かった。


 村の入口、アーチ状の門があった場所にその面影は残っておらず、入る者を拒まんとする様に木の根が密集して扉を形作っている。

 ロゼさんは僕に向き直ると、一体どこから出したのか伐採用の鉈に似た大振りの刃物を僕に渡してきた。


「私が直接干渉する訳にはいかなくてねえ。ここから先は坊やに働いてもらう事になるよ」


 ずしりと重い感触、まるで鏡の様に外界を映し出す刀身に目が吸い込まれた。

 ──あれ、僕、こんな髪だったっけ?

 黒髪に混じって、まばらに白髪の様なものが見える。僕を育ててくれたおじさんよりも、それは多いかも知れなかった。


「潤沢な魔気に触れて不純物が抜けたんだね。大丈夫さ、特に問題は無いから。

 ──この中なら私が結界を張る必要も無いくらい魔気があるから、坊やはここの大人達よりもずっと強い力を得られる。目的地は君が遭遇した魔導師のいたところだ」


 何度か素振りをして感覚を覚える。だが、まだ僕にこれは重すぎると感じた。


 取り敢えず目の前を塞ぐ蔦や根を切り刻んでいく事にした。

 一振り、二振り、と回数を重ねていく。切る度、指先にピリピリとした痛みを微かに感じたが、構わず鉈を振るう。

 すると、その隙間から『神の庭』で感じた様な匂いが噴出してきた。

 ただそこにあるだけのエネルギーである魔気。それを取り入れる機能が欠けている僕だが、これだけ満ちていれば吸う必要も無い。

 体に力が満ちるのを感じる。あれほど重かった鉈は、今や木の枝の様だった。


 後ろを振り向きロゼさんを見詰めると、彼女はこくりと頷いて僕の後ろに着いてきた。


 足元は勿論、僕より背の高いロゼさんが引っ掛からない様に、頭の上に伸びる障害物も切り裂いていく。

 そうしてその都度、後ろに合図を出して進行していった。


 程無くして、村の中央広場へと出る。

 何故かそこだけ、樹木も避けるように開けていた。


「さて、矢張りというか何というか。魔石は砕けてただの石ころになったみたいだが、放出された魔気の残滓が周囲の魔気を食って形を成そうとしている」


 ここだけ開けていたのはつまり、封印解除の為に呼び込まれた森の魔気は、ここを避けていたのでは無く…………吸収されていたからなのか。


 空はまだ根が覆っていてよく見えないが、あの日に見た黒雲が渦巻いている様だ。

 となれば、次は──。


 空気が金槌で叩き付けられたかの様な振動と、唸り声にも似た轟音。

 一瞬の閃光の後に現れたのは、一匹の獣だった。


 四つん這いで全身の毛を針金の様に逆立て今にも飛び掛からんとするソレは、体は人間の様に見えるが首が異様に長い。その長い首の先には人の上顎から上が三つ重なった形の、正しく異形とも呼べる姿をしていた。


 蕾の様に閉じられた三つの上顎が開き、鋭利な牙を剥き出す。首の中程まで口を開くと、ソレはこちらに駆け出してきた。


「私は適当に逃げてるから、ソレの処理を頼むよ、坊や」


 どこかから僕に声を掛ける。

 分かりましたと呟くと、僕もソイツから目を離さない様に横へ飛んだ。


 間一髪だった。

 先程まで僕が立っていた地面にソイツは足を踏ん張り身構えていた。

 一声吠えてまたこちらに首を向けてくる。生理的な気味の悪さを体現しているかの様だ。


(なんとか動きを止められないかな……)


 奴と僕とでは早さの上で同じステージには立っていないのは明白だ。だから、無闇に距離を取る事に意味は無い。ならば奴の動きを止めるしか無いのだが、思考を回避に回している為か上手く考えがまとまってくれない。


 突進を引き付けては避けてを繰り返して、それがもう何度目かも分からなくなった頃、ふいに声が聞こえた。


"闇雲に逃げず相対する判断が出来たのは上出来だ。今はまだ思考する余力は無いだろうけど、いずれ出来るようになるよ"


 だから特別にヒントをやろう、と声は言った。


"アレの突進は恐るべきものではあるが、連続では出来ない様だねえ。あの細過ぎる手足では負荷が掛かり過ぎるんだろう。引き付けて避けるのに一杯で見落としているが、追撃はこれまで一度も無かったろう?"


 そう言えばそうだ……。

 距離をなるべく取らず避ける事に夢中で──避けきれていたというのもあった──分からなかったが、あのスピードで連撃を受けていれば、とっくにやられていたのだ。


 フェイントを交えつつ突進を誘導して少し大きく避ける。思考に割く時間が少しでも欲しい。


 避ける。避ける。避ける────。


 そうして少しずつ見えてくる。

 直線的な動き。突進後はまず頭を向けてから体も向き直す。走り出してから曲がれないのも、再突進までにタイムラグがあるのも、全ては足を庇っての事だ。


 このまま自滅するまで走らせるかとも考えたが、駄目だ。僕がこの場でこれだけ動いて疲労しない様に、この魔気に満ちたフィールドでは奴も疲労しない。限界を超えて足を折ったとしても、すぐに修復してしまうかも知れないのだから。


「だったら──」


 僕は、避けるのを止めた。

 厳密に言えば、ぶつかるのを覚悟して最低限の動きで避けるのだ。そして手は休めない。擦れ違い様に切り付ける。突進後の仕切り直しなど待ってやらない。後ろ足だ。前足が急停止に使われるなら、後ろ足は加速装置だと思った。

 ──後は僕と奴のどちらかのリズムが崩れるまでの勝負だ。


「フッ──」


 気持ちの悪い六つの瞳が僕と交差する。

 その目は未だ、捕食者としての色を備えていた。食らってやる、殺してやると、言葉にせずとも伝わってくる眼光。

 それでも僕は止まらない。止まれば死んでしまうのだから。ただただ、ひたすらに後ろ足を切り付けた。


 ふと胴体と接触してしまい撥ね飛ばされるが、突進を終えた奴の硬直が長い。その足から垂れ流れた赤黒い液体が、ぼたぼたと地面を濡らしている。凄まじい腐臭が鼻を突く。


 そして、遂に奴は僕を『自分を殺し得る者』と認識したのか、無理矢理な体勢から突進をしようと足を滑らせながら吠え、走った。

 もう、今しか無い。

 これ以上長引かせ無い。

 僕の両脚にも魔気が滾る。姿勢は低く、両手で掴んだ鉈を後ろに引き絞る。


 駆け出したのは同時。

 だが、一度リズムを崩した獣の突進は、これまでの見る影も無く──。


「と、ま、れ────!!」


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!!!!!」


 渾身の一薙ぎが脛に吸い込まれる。

 硬い骨を砕いて肉を引き千切る感触と、夥しい量の血液。

 怒りと痛みを訴える咆哮をすり抜け、僕はさらに追撃をする。

 残る手足を切断して完全に動きを封じ、止めに首を落とす。


 …………そして、横たえた体の痙攣もようやく無くなった頃、全身から煙の様なものを吹き出しながら、ソレはようやく掻き消えたのだった。



「お疲れ様、坊や。よくやったねえ」


 立ち尽くしていた僕の真後ろでロゼさんが言う。彼女には怪我も汚れも無く、それに安堵する。


「魔気から産まれた魔障生物、生物でいる以上、導気も備えていた訳だが、それを殺した事でこの地と森は解放されたよ。停滞していた森の魔気も、いずれ元の場所へ戻るだろう」


 そう言って僕の頭を優しく撫でる。

 村を取り囲んでいた樹木は魔気が抜けて急激に枯れていき、痩せ干そっていく。

 ──そうして僕らの頭上には、久しぶりに見る地上の青空が広がっていたのだった。

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