第2話揺りかごにてⅠ


 どれだけ眠っていたのだろう。

 鼻の粘膜に刺さる苦味のある匂いに意識が覚醒する。今度は目蓋も薄く開いてくれた。

 匂いの正体は顔面左側面に貼られた薬草の様だ。どうやら、顔だけじゃなく体の至るところにそれは貼り付けられている様だった。


 ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていく。

 古びた木製のベッドに僕は横たわっていた。


「目が醒めたかい?」


 木々に馴染む様な深い緑色のローブに身を包んだ女性が話し掛けてくる。喋り方がお婆ちゃんみたいだなと思ったが、それにしては見た目が若かった。

 胸元に垂れた金色の長い髪を背に払い除けながら、彼女はベッドの傍らに腰を掛けた。


「傷はおおよそ治したよ。痛みもそれ程は感じないはずさ」


 囁く様な喋り方だからだろうか、僕にはそれが優し気に感じられて安堵を覚える。


「──ここ、は?」


 初めて言葉を発するみたいに空気が詰まった感覚があるが、なんとか振り絞って声を出した。


「その前に自己紹介と行こうか、坊や。私の名はロゼ、ここの管理者…………まあ、庭師の様なものかな」


 ロゼと名乗った女性をまじまじと見つめる。僕よりも幾分歳上に見えるが、村の大人達と比べるとずっと若そうだ。お姉さんといったところか。


 声をつっかえながら、ゆっくりと自分も名乗る事にする。


「えと……アイン、です。僕は拾われっ子なので、正確な歳は分からないのですが、数えで十歳と、いう事になってます」


 ふむふむ、とロゼが頷く。

 時折目を細めては、口の中で僕の名前を咀嚼する様に復唱している。


 そうしてようやく満足したのか、ロゼさんは最初の質問に答えてくれた。


「──此処は『神の庭』と呼ばれる場所。神話の土地、古の幻たる不可侵の巨樹、その中さね」


 その言葉に僕は訝しげな顔を見せる。

 正直な話それはにわかに信じがたいものだった。

 何故なら、『巨樹』とは創世神話──子供でも知っているおとぎ話だ──に登場するものだからだ。

 それによると、『無より出でし母なる神、吐きたる泥より四柱の神を産む』とあって、その四柱の神がそれぞれ巨樹を作り、その上に大地と海と境界となる山脈を作る。神々はこの巨樹の中に住むとされ、故にそこを『神の庭』と呼んだ、らしい。


 確かに、この世界の果てを見た者はいない。旅立って帰った者もいない。神話を否定出来る証拠を観測出来ていない以上、それは本当なのかも知れない。

 しかし、過去に大地を掘って巨樹を目指した王もいたらしいが、終いぞ地下世界など見付けられなかったのだそうだ。


 だのに、僕がいるこの場こそが『神の庭』、巨樹であるなど──。


 察した様に彼女は一つ咳払いをすると、話を続けた。


「本来ここには死した魂、肉を持たないものだけが辿り着くのさ。生身で落ちて来るなんて、坊やが初めてなんだよ」


 くくっ、と微笑む。


「それで、一体何があったんだい? 坊やがここに居る事は、間違いなくイレギュラーなんだ。であれば、原因があるはずだろう?」


 彼女は僕の頭を一撫でしながら、母親の様な瞳で話を促した。


「──あれは、そう。村の離れにある森から帰る時に──」




 今にも雨が振り出しそうに、重そうな黒い雲が空を覆っていた。

 まだ夕刻には早いはずだったが、まるで真夜中の様に暗く色は沈み、森の動物達もいつになく低い唸り声を上げていた。


「ねえ、アイン。今日はもう帰ろう? 病み上がりだし、なんだか空が恐いもの」


 僕がお世話になっているおじさん宅の、すぐ隣に住む幼馴染の女の子──ミシェルが不安気に僕の手を引く。背中で揺れる綺麗な金髪の三つ編みがションボリとしているみたいだ。


 ここ数週間、僕は体調がすこぶる悪くずっと寝込んでいたのだが、今日は少しばかり調子も良かった様で、幾分かマシになった僕を見たミシェルが気分転換にと連れ出してくれたのだった。


 朝早くに出発してお昼は二人でお弁当を食べて、本当に久々に走り回って──そうして陽が暮れるまでに村に着けば良いやなんて思っていたところに、これである。


 正味な話、村にいるより森にいた方が大分体が楽に感じているのだが、ミシェルの『予感』は馬鹿に出来ないのだ。

 なので、僕らは手を繋いで急ぎ足で村へ帰る事にした。


 獣道を抜けて舗道に出ると、もう村が目に入る。それ程離れている訳では無いのだ。


 ミシェルは胸騒ぎが収まらないのか、苦しそうに胸を押さえていた。その表情は最早、泣き出す寸前の──まるでこの空を映しているかの様だった。


 それと同じくして、僕は体が重くなっていくのを感じていた。なんなのだろうか、自分の体が思う様に動かせない。足がもつれそうになるのを必死に堪え、握っている手だけは離さない様に強く握り締める。


 ふいにミシェルがこちらを振り向き、にこりと微笑んだ。


「大丈夫だよ、大丈夫。置いていかないから」


 なんだか、無性に照れる。

 でも、僕を見てくれている事がなんだか嬉しかった。






 …………村の入り口まであと少し、といったところでそれは起きた。


 黒雲が村の真上に渦巻き、そして────無数の雷を撒き散らした。


 家屋はごうごうと燃え盛り、村人も一人として動いている者は見えない。


 これは、なんて地獄だろうか?

 目の前の肉の焼けつく臭いに、胃の中身が溢れ出す。こんなのものは、知りたく無かった。知ってはいけないものだ。

 あらかた吐き出し終えて、ふと隣のミシェルを見やると、微動だにせず目を見開いて立ち尽くす彼女がいた。


「ミシェル……早く、逃げなきゃ」


 しかし、聞こえていないのか動く気配が無い。


 ミシェル、ミシェル、ミシェル!!


 肩を掴んで揺さぶるが、それでも反応が無い。それどころか、これだけ揺すっているにも関わらず、足が縫い付けられた様に動かないのだ。


 途方にくれていると、ミシェルの瞳が大きく揺れた。

 その視線の先、村の広場、物見矢倉が建っていた場所にソレはいた。


 頭から被ったボロボロの真っ黒なローブ、そこから覗く傷だらけの両腕、その肌はおよそ人間とは思えない白さで、滴る血液が何かの紋様にも見えた。


「──見付けた。いずれ我らが障害となる、護りの加護を授かりし女よ」


 爬虫類に似た瞳が僕らを、いやミシェルを睨み付ける。

 そいつは腕を真上に伸ばすと、口の中で何事か呟いてこちらに向けて振り下ろした。


 空で空気がぶつかり合っている様な、重たい音が響き、光が地面を切り裂いて僕らに迫ってくる。




 ──きっと、それが見えた瞬間にはもう遅いのだ。避けようも無く、僕らは殺される。

焼き殺される。斬り殺される。灰も残らないだろう。


 それでも、ミシェルの前に出られたのは、僕にしては上出来だったんじゃないかと思う。もうほとんど動かない体だったけど、ああ、これが、天命かと思ったのだ。


「ミシェル──逃げ」


 言葉はそれまで、圧倒的な暴力に圧殺された僕の意識は、そこで途絶えた。






 僕は話終えると、ロゼさんからお水を一杯貰った。

 彼女の無事を確認出来て無いのが心苦しい。

 標的はミシェルだった訳だし、簡単に逃がすとも思えないのだから。


「僕が生きていたのは、奇跡に等しいです」


 実際、僕は死んだと思っていた。

 まあ、死んでもミシェルは守りたいと思っていたから、例え自分が死んでも構わないという気持ちもあった。


 だが、それをロゼさんはあっさりと否定した。


「いや、坊や。君は間違い無く死んでいるよ? うん、一度死んでる。無理も無い、その体では人の世は生き辛かろうよ。……最期の最後にやった無茶で傷付いた肉体を、精霊が全力修復したんだ。お陰で加護を使い切っちまった、てところかね」


「すみません、良く分かんないんですけど」


「ああ、まあ、そうだね…………簡単に言うと、『坊やは実は精霊の加護を持っていた』けれど、『それら全ての力を使って出来るだけ肉体を直したよ』という事。死にながら生き返ったみたいな、変な状態だったからここに生身で来られたんだろうよ」


 どれも初耳である。

 そも、加護などと言われても恩恵に覚えが無いのだが。いや、現にこうして生きている以上、それのお陰なんだろうけれど。


「坊やはね、人としては欠陥品なんだよ。本来この世界の生物が先天的に持つ機能が無いんだから。──魔気を操作する導気が無いんだ」


「魔、気? 導気って……?」


 んん、とロゼさんは小首を傾げる。


「……ああ、魔導師でも無きゃ一般人が知る由も無いのかね。

 『魔気』とは、生きる上で絶対に必要なエネルギーだね。それ自体はそこら中にあるんだ。それを『導気』で指向性を与えて操作する。これは呼吸の様に、生物ならば教えられるまでも無く備えてる機能だ。

 それが坊やには無いんだよ。人のいる村より、人のいない森の中の方が楽だったろう? 当然さ、周りに坊やしか居ないのであれば、魔気を奪われる事など無いんだから。能動的に吸えなくとも、多少はマシだったんだ」


 なるほど、そう言われれば確かにと思う。

 だから僕の体は常に不調を訴えていたし、回復の兆しも無かったのか。


「でも、ここはとても楽です。息苦しさを感じない」


「それは、ここは魔気で満ちているからね。地上の人間が全員落ちてきたところで希釈される事も無いくらいに」


 取り敢えず、自分が命を繋ぎ止めた事が分かっただけでも良かったと考えよう。

 そして、生きているなら僕にはまだやるべき事があるのだ。


 ゆっくりと体を起こしてロゼさんに向き直る。僕は上に帰らなければ。


「ミシェルを助けに行きます」


 ふむ、とロゼさんは考え込む素振りを見せた。


「戻ったところで、その大切な幼馴染ちゃんが生きているとは限らないよ。殺されている可能性の方が高い。そも、坊やには地上で満足に活動するだけの力も無いねえ」


 決して嘲っている訳では無いのは分かる。それは事実だった。


「…………もし、私に協力してくれるなら、私も坊やの力になるが、どうだろう?」


「それは、願っても無い事です」


 僕の返事に、一際眩しい笑顔を向けるとロゼさんは言った。


「それでは、坊やには私の手となり足となって地上の調査をお願いしよう。その過程でミシェルちゃんの行方を探るなりなんなり、好きにすると良いよ。

 私はここを離れられないから、地上へは私の分け御霊を込めた端末が同行するよ。坊やに足りないのは魔気だけだ。それを私自身から提供する。これで最低限の問題はクリアだ」


「何か、契約みたいなものってあるんですか?」


 なんせ彼女は『神の庭』の管理者である。

 恐らく人間では無いのだろうし、自分が手足になるとは言え何の対価も無く力を得られるとは思えなかった。


「──そうだね、それじゃあ主従契約といこうか。我が僕となる事を君は誓えるかい?」


 僕、しもべ、シモベ──。

 それはいつまでなのか、もしかしたらこの命が尽きるまでか。僕には分からないけれど、悩む必要なんて無いのだ。


 僕はただ、ミシェルを助けたい。

 それだけなのだから。


「誓います。貴女の僕となります」


 ほんの一拍の逡巡に意を決して答える。


「──よろしい。我が愛しき二番目の僕よ、これより共に地上に行こう」




 こうして、僕の二度目の生が始まったのだった。

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