2.たぬきのはなし
たぬきのはなし
夏休みの登校日をどうにか消化したあとの家路はつらい。昼下がりの太陽が槍のように降り注いで、それに焼かれたアスファルトは真っ黒な溶岩みたい。要は暑いのです。
こんなことならカラオケの誘いには乗っておくべきだったかな。日が沈むまで歌って……まあいいや。過ぎたことだし。
髪をかき上げてみると、頭皮に汗がにじんでいるのがわかる。そろそろ切った方がいいんだろうな。でもちょっとめんどう。
太陽は小さくなるべきだ。熱と引力が弱まれば、地球ともいい感じの距離感になるなじゃないかな。逆に冬には膨張してくれればいい。
もうそうなったら、南半球の人たちはみんな北に避難するかもしれない。
環境とか、移民とか、ニュースでよく聞く話題になっちゃったと思ったら、家がもうすぐだ。大きなマンションの12階。
広い内廊下の照明は夏に似合わない暖かみを放っているけれど、空調が働いているからそんなミスマッチも気にならない。エレベーターホールから右に行って、その一番奥がわたしの家。
「ただいまー」
扉のロックを解除して入った玄関には37℃のお風呂みたいなぬるい空気が渦を巻いていて、大きなため息が出た。
「……お」
玄関からリビングまでをまっすぐ結ぶ廊下に、わたしは小学生くらいの小さな人影を見つけた。
ぶかぶかのTシャツは大人用のSサイズ、その裾に隠れて見えないけれど下にはホットパンツを履いた、とびきり小柄な女の子。ちょうど部屋から出てきた、南国の砂浜と雪山との白を混ぜ合わせたような肌と鱗粉をまき散らしそうなくらいまばゆい金髪の彼女は、同居人のクロノちゃん。
クロノちゃんを見たわたしは、とっさに校則違反のスニーカーを脱ぎ捨てて駆けだした。風も追い抜くわたしの瞬発力を前に、運動オンチで動きの遅いクロノちゃんは反応しきれない。
すずしー! と叫びながら抱きつこうとして、空気を抱いた。
……あれ?
それはあまりにも非現実的なことだから、クロノちゃんに抱きつきをかわされて空振りしたんだと気づくのに1秒くらいかかった。
クロノちゃんがギザギザの歯を見せてにやついていることに気づいたのはその直後。どんな方法を使ったのかわからないけれど、身体能力で出し抜かれたみたいで腹が立ってすかさず手を伸ばしたら、あっさり捕まった。そしてぐいと引き寄せて抱きつく。
「……あれれ?」
おかしい。クロノちゃんが涼しくない。
クロノちゃんは魔術師……というか、魔法使いだ。夏場はいつも魔術を使って周囲に涼しい空気をまとっていて、いつでもどこでもエアコンいらずの快適な日々を過ごしている。わたしはその涼しさを求めて彼女に抱きつくのです。
にもかかわらず、今日はぜんぜん涼しくない。クロノちゃんの体温は暖かくて、この猛暑日に触れても心地よくはならない。
ここ連日暑い日ばかりだったのに、どうして今日だけ? いや、というか、そんなことより……
「なんか、けものくさい?」
「失礼な」
クロノちゃんはわたしの手をふりほどいて、リビングへと歩いていく。それを追いながら、意外に腕力あるんだなあって思った。
リビングに入ると、エアコンの吐き出す涼しい空気がわたしを包み込んだ。汗が冷えて、すっと引いていく感覚がした。生き返った気分。
クロノちゃんは室内をキョロキョロ見回していた。なにか捜し物かなと思っていると、クッションを抱いてソファに寝そべりはじめた。なにがしたいんだろう。
わたしは対面キッチンの冷蔵庫からオレンジジュースを取りだしてコップに注ぐ。クロノちゃんのぶんは……まあいっか。寝ながら飲まないでしょ。
「わたしのもちょーだい」
「自分でやりなよ、もー」
とは言いつつ、わたしはやさしいもんだからクロノちゃんのぶんも用意してやる。ストローはどこにあったかな?
「大学ってもう夏休みなんだっけ?」
「んー」と雑な返事が返ってきた。クロノちゃんは家にいる時間といない時間とがばらばらで、いつ大学に行ってるのかわからない。
……そう、クロノちゃんは大学生。見た目は小学生なみで運動オンチだけど頭はとびきりよくて、おとなりの国の魔法学校を飛び級で卒業してこっちの大学に入学してきた。そして、縁あってわたしの家に下宿しているのです。
「そういえば、エイルちゃんがたぬき飼ってるんだけどね」
「へ?」
話題を切り替えてみると、ソファから身を起こしてこちらを見た。興味があるらしい。コップを両手に持ちながら、わたしは続けた。
「たぬきだよ。おとぎ話で化けたりするやつ。それが逃げちゃったんだって」
「あらめでたい」
「なにがさ。エイルちゃん困ってたよ」
「飼われるより自由なほうがいいじゃない」
「そうかな」
まあ、そういうものかな。
ローテーブルにコップを置いてから、わたしは玄関に戻って放り出したままの鞄を回収して、ついでに脱ぎ散らかしたスニーカーをそろえた。忘れていた手洗いを済ませてからリビングに戻る。
「そういえばさ、たぬきって本当に化けるの? 魔術ならできそうだけど」
エイルちゃんはたぬきが逃げ出したときのことを、化かされたみたいって言ってた。脱走の顛末はそれくらい奇想天外だったらしい。
わたしの小学生でもしないような質問に、クロノちゃんは答えてくれた。
「魔術ってのはヒトの築き上げた技術であって、動物に扱えるものじゃないわ。たぬきが自動車を運転できると思う?」
それが魔法なら別だけどね。最後にそう付け加えた。
魔術と魔法ってのはじつは別物なのです。なんだかよくわからないことを起こすのが魔法で、それを解明するために魔法を科学的に再現しようとして生まれたのが魔術。魔術の研究が盛んじゃないこの国では、この区別がけっこう知られていない。
「結局迷信なの? 違うの?」
エイルちゃんは「もしかしたらたぬきってほんまに化けるんかなぁ」って言ってたけど、そんなの寝ぼけてただけだよって言うべきなのか、そうじゃないのか。
「まあ、嘘といえば嘘だけど……正しくない、のほうがいいかしら」
「おんなじじゃんか」
オレンジジュースを一息に飲んでシャワーで汗を流したいところだけど、遠回しな言いかたで興味を煽ってくる。ソファの背もたれに寄りかかって、クロノちゃんをのぞき込みながら訊く。
「結局どういうことなのさ」
クロノちゃんは一瞬だけわたしに目を合わせて、細い脚をぱたぱた振りながら語りはじめた。
「昔、とある国に雇われていたとびきり優秀な魔法使いが、禁忌を犯して国に追われる身になったの。
いくら優秀とはいっても、国家権力の手から逃れるのは困難だわ。でも、ひとつだけ生き延びる可能性があった。それが人間以外のものに変身すること……つまり、化かすことだったの。
人に変装したのを見破るならまだしも、動物や植物まで全部調べて正体を見抜くなんてこと、現実的じゃないでしょ? 狸に変装して、山や森に紛れて息を潜めて、ついにはその罪が忘れ去られるくらいの時間が過ぎて、国も滅んで、魔法使いはついに逃げおおせた。
でも、想定外の出来事が起きたの」
あ、もしかして。
「人間に戻れなくなった?」
「違う。戻れることには戻れるけど、たぬきのままになっちゃったのよ」
「んん?」
わたしが首を傾げると、クロノちゃんはクッションを掲げて見せた。
「このクッション、手で押さえたらへこむけど、離したらすぐに戻るでしょ?」クロノちゃんはクッションを押さえては離し、押さえては離し……と繰り返す。「でも、ずっと押さえていたらどうなる?」
「……くせがついちゃうね?」
「そ。魔法使いはこのクッションと同じなの。押さえ続けたせいでつぶれた形が普段の形になってしまったみたいに、変身し続けたせいでたぬきの姿が普段の姿になってしまったの。押さえて形を整えることはできるけど、元の人間の姿のままではいられない」
「はあー……」
感心して、思わずため息が漏れた。
きっと、元の姿に戻るための変身を繰り返している様子を見られて、「たぬきは化ける」なんて噂ができたんだ。
「ま、しょせん伝説だけどね」
クロノちゃんはクッションをぎゅっと抱いて目を閉じた。寝るつもりらしい。
「もとの姿に変身ぐせをつけることはできなかったの?」
「たぬきに変身し続けられたのは、生死がかかっていたからよ。逃げおおせたあととなっては、そこまでの気力を保つことはできないわ」
悲劇なんだか喜劇なんだかわからない。捕まって死刑になるのと、一生たぬきとして過ごすのと、どっちがましなんだろう。
動物になるなら飼い猫がいいなあ……なんてどうでもいいことに思考が移って、シャワーを浴びに行こうと立ち上がった矢先、廊下につながる扉が開いた。
お母さんが帰ってくるにはまだ早すぎる。うちにはいまわたしとクロノちゃんしかいないはず。不信感を抱きながら扉を注視していると、小さな人影が現れた。
南国の砂浜と雪山との白を混ぜ合わせたような肌と、鱗粉をまき散らしそうなくらいまばゆい金髪。ぶかぶかのTシャツは大人用のSサイズ、その裾に隠れて見えないけれど下にはホットパンツを履いた、とびきり小柄な女の子。
それは間違いなくクロノちゃんだった。
なにか言おうとして、声が出なかった。
そのとき、ぼん、と出来の悪い花火みたいな音がしたかと思うと、小さな黒い塊が飛び出して、クロノちゃんの足下を抜けてリビングの外へ逃げていった。
クロノちゃんはとっさには反応できず、飛び出していったあと、一拍子くらい遅れて足下と背後とを確認した。これでこそクロノちゃんだよ。
「……なに、いまの」
「……たぬき?」
「はあ?」
怪訝な表情を見せるクロノちゃんに、テーブルの上に残されたオレンジジュースを勧めた。クロノちゃんは「いらない」と言った。
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