第14話

「……はっ、はっ、はっ」


 朝。

 まだ日の出を過ぎたばかりの時間、住宅街に人気はない。たまに見かけるのはカラスとか野良猫とかその程度。

 そんな静かな街の中を俺はただひたすらに走っていた。


『ほれ、あと少しじゃ。気合をいれんかー』

(煎餅でも食ってそうな声で発破かけてくんな……!)


 屋敷を出てからますます駄刀として邁進している子狐丸にイラっとするが、正味相手にしている余裕はない。息は上がっていて横っ腹は痛いし、足も棒のようなのだ。

 しかし目標まであと少しなのは確かなので、俯きかけた頭を上げて足を動かす。


「はぁー……はぁー……」


 ゴール地点と決めていた公園に着いた時には全身汗だくだった。纏めていたはずの髪が解け、首筋に張り付いて気持ち悪い。

 荒い息のまま水道に近づき頭から水を被る。


「はぁ〜……」


 冷たい水が気持ちいい。動脈のある首にかければ冷やされた血液が全身に巡るので、暫くすれば呼吸も落ち着くだろう。温まった身を急に冷やすのは逆に悪かっただろうかとは思うが、思い出せなかったので考えるのを止めた。

 程よくクールダウンしたところでベンチに座って休憩する。

 大きく深呼吸すると、ようやく一息つけたという感じだ。


(しっかしまあ鍛え甲斐があるとしか言いようがないな、この身体。椿の家から歩いても数分の距離を、ランニング感覚で走っても死にかけるとは)

『年齢以前に屋敷ではまともな運動をしとらんかったからのう。声の事を考えるなら歩けるだけでも十分だと思うのじゃが』

(それは確かにそうなんだがねー。時間はあるし焦る必要はないんだろうけどな、あまりにも貧弱だから落ち着かん)

『まあ今後も狙われるじゃろうから鍛えて損はないのう』


 長い地下監禁暮らしは伊達ではない。術式による身体強化に頼るのも限度があるので、基礎の底上げをしないといざという時に超困るのだが……流石にこの貧弱っぷりには閉口する他なかった。


『だが、この調子じゃと時間はかかりそうじゃがな』

(そう簡単に効果がでるもんじゃねえよ。この辺りは根気が重要だからなー)


 一週、二週で鍛えられれば軍人やアスリートは苦労しないっての。中にはいるかもしれないが、そんな奴は万人に一人の話。地道な努力はどこにでも必要なのである。

 特に今の俺は"走る"という動作さえ補助なしには満足に行えないので、たとえ長い道程でもやっていくしかないのだ。


(さて、次は発声練習でもすっか)

『地道な努力、じゃのう』


 息を大きく吸い、口を開けてそれを吐き出す。

 "声を出す"ということを意識して、腹に力を込める。


「――――ぁ」


 役者や歌手のような発声練習とは全く異なる、ただ単に声を出す為だけの、文字通りの練習だ。

 声帯そのものが出来ていない為に強く叫べば直ぐに傷ついてしますらしいので、これもまたゆっくりとやっていくしかない。


 それを何度か繰り返し、一息つく。


(……そろそろ帰るか。俺より遠くまで行った二人も戻る頃だろ)

『あの二人仲良いのう。夜以外は殆ど行動を共にしとらんか?』


 どこか呆れたようなと言うか、砂糖と蜂蜜を限界まで煮詰めた挙句にシロップも混ぜた菓子を食べたような、逆に苦々しい雰囲気が子狐丸から伝わってくる。


『朝早くに走りに出て途中で合流。一旦は別れるものの椿の身支度が終わるころに隆仁が到着し、共に朝食。そして並んで学び舎へ。当然の如く帰りも隣を歩き、もう同棲でもしろと言いたくなるのじゃが』

(何で付き合ってないのか不思議なレベルではあるのは確かだがねー。たまに俺邪魔なんでね? とは思うし)

『いや、むしろお主を理由にして更に一緒に居るから、大して変わらんじゃろ』


 恐るべしバカップル予備軍。

 過去モテなかった男として藁人形でも送りつけてやろうか。


(その内に隆仁の義妹とか幼馴染みとやらが乗り込んできて、収集つかなくなりそうだよなあ。それなんてエロゲ?)

『……一つ言っておくが、第三者から見ればお主もその一員じゃからな?』

(……ゑ?)


 いつの間にかロリ枠として組み込まれかけてる事に戦々恐々としつつ帰宅したのだが。そこには朝っぱらから頬に大きな紅葉を作った隆仁と、同じぐらい顔を真っ赤にした椿がいた。着替えと鉢合わせでもしたのか?

 ……ラッキースケベまでこなすとは、やはり隆仁はハーレム物の主人公ではなかろうか。




 そんな妄想はさておき。

 椿と隆仁が学校に出掛ければ、そこから本格的に行動開始だ。


『今日も図書館に行くのかの?』

(ああ、あそこはかなり設備が充実してるからな。新聞は古いものもデータとして閲覧できるし、ネットもできるから時事ネタを集めるのに最適だな)

『その分税金がかなり投入されてそうじゃがのう』

(謎の海外出張だったり会合だったりで豚が肥えてるよりかは遥かにマシだ)


 二人を見送ってから先にやるべきことはやっておく。

 皿洗いと簡単に掃除、後は仕事の資料を保管している部屋"資料室"の整理整頓だ。仕事に関する情報の大半は暗号化されているとは言え、当然全部ではない――のだが、当の資料室は今までの"資料"が大雑把に詰み込まれているだけなのである。

 紙の報告書に始まり磁気テープやCD等の記録媒体、挙句には証拠物件と思しき血濡れの品まで湧いて出た。これを徐々に片づけていくのが俺の仕事だ。


(つっても量が量な上に体力ねえから、どうしても地道にすぎる作業になるんだよなー)

『気持ちは分からんでもないが、少しは遠慮しても良いと思うぞ?』

(年齢考えれば問題ないとは知ってるがね。自宅警備員してる気になるから、やっぱ駄目だわ)


 働かざる者食うべからず――とまでは言わないものの、子供だから何だと甘える気にはなれない。前世では成人した男だったという事もあり、椿や隆仁が"年下"に見えてしまうのだ。

 "前"の職場が、そんな甘えた阿呆から消えていく環境だったから、というのは大いに影響しているだろうけどな。


『いや実際に八歳の女子ではあるのじゃがな』

(理解はしてるんだがねー……)


 外見が妹様仕様のおかげで精神的な拒否反応が出ており、どうにも精神が前世に固執している。

 人間は慣れる生き物と言うし、せめて内心の一人称だけでも変えてみるか? ……まだ無理そうだな。


 兎に角、そんな訳で何もしないという選択肢がなかった為に資料室の整理を買って出た。

 と言っても乱雑すぎて直ぐには終わらないのは明らかなので、一日に数時間ほどだけの作業である。午前は資料整理、昼飯を食ってその後に街に出る、そんなスケジュールだ。


(さて着替えるかー。別にジャージでもいいんだがなあ)

『だからちっとは女らしくしろと言うに。椿が用意しとるじゃろう』

(……へーい)


 てなわけで着替えだ。場所は椿の部屋である。

 別に寝る場所なんぞ事務所のソファで十分なのだが、強引に連れ込まれてしまった。時折風呂と同じく布団にまで入ってきたり入らされたりするが、エロい事はないので一安心……なのだろうか。たまに隆仁が凄く心配そうに見てくるのが気になって仕方がない。


 今日用意されていたのはパンクス風のショートパンツに、長袖だが総丈が短いのでヘソが出るタイプの上着だ。縦縞で袖丈は逆に長いので手が見えないという、ちと狙いどころがピンポイントすぎやしないだろうか。

 ちなみに服代などは峰坂氏から出た、あの時の謝礼である。峰坂氏曰く先行投資も含まれているんだ、と笑って言っていたので、その内なんか頼まれそうだ。

 それはそうと、


『黒のパンツと暗色系の上着と対比するように、白い肌の腹と足を惜しげもなく晒した姿は……疑うなく椿の趣味じゃな』

(あいつ足好きだからなあ……昨日蹴り飛ばしたら拝まれるとは思わなかったぞ)

『そういえば普段は服に隠れて見えんが、隆仁はバランスの良い筋肉の付いた体をしておったのう。特に足とか』

(…………)

『…………』

(存外、マジで同棲すんのも遠くない未来かもな。大丈夫か隆仁)

『心配処は椿でなく隆仁なところがなんとものう』


 どう考えても隆仁"が"椿に押し倒されている未来図しか思い浮かばなかったが、その時は、その時だけ子供のふりをさせてもらおうと思ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る