6 テト/シスター・コンプレックス



「テトから来てくれるなんて、嬉しい」

   

 訪ねてきたテトのために部屋のドアを開けて、ソラが顔をほころばせてそう言った。


 腰のあたりまでまっすぐに伸びた、黒く艶やかな髪。


 タイトな黒のノースリーブのワンピースから伸びる白くなめらかな腕でテトに抱きつき、ソラはテトを見つめた。

 深い、エメラルドグリーンの瞳。その瞳を縁取る、長い睫毛。


 キリそっくりの目だ。つくづく、テトは思う。


 ソラがキリに似ているのは当たり前だ。

 彼女はキリの妹なのだから。


「ごめん、突然」テトはソラの手に自分の手を重ねた。

「ううん。いいの」ソラが微笑む。「化粧落としてなくてよかった」


 さっきまで番組の収録してたの。

 ソラがそう言いながらテトの手を引き、「入って」と部屋へ促した。


「いや、ただ、聞きたいことがあって」


 テトからここに来ることはあまりない。


 ここは事務所Bの女子寮だ。男子が入ることは基本許されない。テトがいるのを見られたところで何も言われないが、それは何も言われないだけで、いい目で見ない女子も勿論いるし、その目はテトだけではなくソラにも向く。


 テトがソラの部屋には用がないということを知ると、彼女の顔からさっと表情が消えた。テトからするりと腕が解かれ、その腕は彼女の胸の前で組まれる。


「あ、そ。なんなの?」


 この様子だと、ソラも薄々察してはいるらしい。


「キリのことで」


「だと思った」呆れたように、ソラが視線を逸らす。「わたしも知ってるから、何が起きたか。そのせいで収録が中止になって、帰ってきたんだから。暇になったからテトが遊びに来てくれてちょうどいいやって思ってたけど」


「知ってるなら話が早いよ」


「あっちの施設見に行ってないから、話にきいたくらいだけどね」


「見なくてよかったと思うよ。僕は見た」


 ただの肉塊に成り果てた人間を見たし、まるで海のように広がる血を見た。

 床に少し残された白の部分に、キリのものだと思われる血の足跡も見た。


「なんであんなことになっちゃったの? あの子がやったんでしょ?」


 ソラは、キリのことを名前ではなく「あの子」と呼ぶ。


「僕が悪いんだ。全部キリがやった。みんな殺されてた」詳しくは言わず、「キリを探しに第二新釜山まで行ってきた。キリはそこにいたけど、話せばちょっと長くて」


 ソラがテトを一瞥する。


「なんで第二新釜山にいるってわかったの?」


 ソラの問いに、テトは左の手首を彼女の顔の前に出す。

 手首で、シルバーの小さなプレートがついたブレスレットが輝く。


「これを前にキリにあげたんだ。キリに生体情報がないのもあり得る話だったから、万が一に備えて位置情報をぼくに送信できる機能アクセサリーを仕込んでたってわけ」


「ふーん、アクセサリーのアクセサリーね……こういうことになるってわかってて、渡したのね」


 わかってたのに結局これなの? と、責められているような気がして、テトは気まずくなる。実際、彼女はテトを責めたいに違いなかった。


「まあ、そういうこと……キリにはずっとつけておいてって言ってあったし、キリが気に入ってたのもあって本当にずっとつけてくれてたんだ。

 それで、僕のほうも仕事が途中で止めになって、施設に向かって父さんとあって、その後すぐに第二新釜山へ向かって位置を辿ったけど、ブレスレットは商店街に落ちてて、キリはいなくて。近くを探したら、閉店済みでドアの閉まったチキン屋になぜか居てさ」


「で、無許可解錠したんだ?」


「なんでわかったの?」テトは目を丸くする。


「疲れてるから」


 ソラがテトの頰に触れた。その表情とは裏腹に、ソラの手のひらは熱く、体温が下がっていたテトの顔を温める。


「無理やり解錠した後、あの子に逃げられて、それで一旦こっちまで戻ってきたんでしょ……想像つく」


「あー、その通り……僕も体力的にきつかったし、これ以上むやみに探すよりは、と思って……」


「まあ、わからないのは」ソラが手をおろし、「あの子がなんで閉まってる店にいたか、ってことじゃない?」


 テトは目を見開き、「それは考えてなかった」


「閉店してる店に勝手に入ったのか、それとも店の人間があの子をかくまって、閉店にしてたのか。店の人はそのときいたの?」


「うん。いた。店にキリがいるのを見つけて、僕が解錠して中に入って……キリは料理を食べてた……キリを連れ戻そうとしたけど、僕、箸で殺されそうになったんだよね……」


「はあ? 箸?」


「うん。それで、キリは店を飛び出してどこかに。僕その時やばかったから、そこのバイトの子に代わりに探しに行ってもらったんだ。そうしたら、しばらくして戻ってきて、どこにもいなかったって……そこまで遠くには行ってないとは思うんだけど。キリ、走るの遅いし」


「ふーん。あの子にご飯食べさせてたのは親切心からだろうけど、あの子が見つからなかったのは本当かしら」


「わからないけど……嘘をつきそうな子じゃなかったし」


 ソラがキリを睨む。


「テト。すぐに人のこと信じちゃ駄目。疑わなきゃ」


 ソラが言うことは確かにその通り、自分が気をつけないといけないことだった。

 が、テトはソラの前に手を差し出し、手のひらを上に向けた。


 拡張視界によって、テトの手のひらの上に一人の青年の俯瞰の顔写真が映し出される。

 黒い髪に、黒い瞳。口角が上がってはいるものの、笑ってはいない。瞳はつぶらだが、明るさは感じられない。白い肌は、不健康そうに見える。


「ググ、っていう子。生体情報交換したし、連絡をいつでもとれるようにした。もしかしたらこの子があとからキリのことを見かけるかもしれないし」


 髪をかき上げ、ソラが顔写真をのぞきこむ。


「男の子なのにかわいくてワンちゃんみたい」


「そうなんだよね」


「……たしかにこんな顔してる子が嘘なんてつきそうにないけど、ま、実際どんな子かなんてわかんないから」


 ソラがそう言ってから、テトは黙った。本題に切り込みにくかったからだ。ソラをじっと見つめ、何と説明しようか迷う。ただでさえキリについての相談でソラをイラつかせているのに、言い方次第では更に彼女は不満げになるに違いなかった。


 キリとは違い、つり気味のソラの眉が歪む。

 何も言い出そうとしないテトにしびれをきらしたソラが、自分の腰に手を当てて口を開いた。


「で? わたしにきいたところで、あの子の居場所なんてわかんないけど。テト以上に、あの子のことは知らないんだし」


「ああ、ソラにキリのことをきくっていうよりは……」


 一人の人物の名前を思い浮かべる。


 かつて、今回のように自分が引き金となってキリに起きた事件があったとき、自分を何度も何度も殴った人物。


『お前なんか、いなければよかったのに』


 と、彼は今までテトが見たことがなかったような憎悪の表情でテトを見下ろし、息を切らしながらテトに向かって吐き捨てた。


 いなければよかった。

 この僕が。

 この世界に。

 たしかに、そうかもしれない。

 と、テトは思う。


「ジュノさんのこと」


 ジュノ、という人物の名前を自らの口から出し、つい表情が暗くなったテトだったが、ソラの表情は変わらず、まばたきすらしない。


「ジュノさんがどこか知りたい」


 ひょっとしたら、自分と同じくらい、いや、それ以上にキリのことを知っている男。愛している男。


「兄さんね……」


「ジュノさんのことだから、きっとあのひとも今頃キリのことを追ってるはず。モリにきいたら、あっちの施設にも、こっちの事務所にも寮にも居ないって。ってことは、キリのことを探しにどこかに行ってるはずなんだ」


「……じつは。わたしも、兄さんのことを探してる」


「え?」


 ソラが前髪をかき上げる。「こっちに帰ってきて、父さんに呼ばれて、言われたの。兄さんのことを探してほしい、テトは今キリを探してるから、って」


 ソラがテトを見つめる。


「あの変態が急にAからもBからもいなくなったら何するかわからないし、この緊急事態に父さんの秘書みたいなことやってたヤツがいなくなるのは、困るでしょ。それに父さんでさえ場所を知らないってことは、もうそういうことよ」


「……一応きくけど、変態って、ジュノさんのことだよね?」


「え? 知ってるでしょ? 変態じゃん、アイツ」


「まあ……で、 僕、ジュノさんに嫌われてるから生体情報交換したことなくて、ジュノさんの妹のソラなら情報持ってるかなーって思ったんだけどさ」


「持ってるわけないでしょ」あっさり言い放ったその言葉は、テトを絶望させるには十分だった。「わたしも好かれてないから、兄さんに」


 ソラがジュノに好かれていない、というのは意外だった。確かに、二人がやりとりしているところはそういえば見たことがないが、さすがに妹であるわけだし、キリに顔が似ているのもあり、テトは彼が彼女のことを無条件に愛しているのだとばかり思っていた。別に、ソラがジュノに好かれていないとわざわざ嘘をつく必要もないし、ソラはテトに嘘をつくタチではない。


「信用されてもないし。兄さんが愛してるのは、あの子だけ……わかるでしょ。いくらわたしがあの子に似てたって、あの人はわたしのことをただのあの子の『成り損ない』、『偽物』だと思ってる」


 ……ま、その通りなんだけどね。

 ソラは自分でそう言って、鼻で笑った。


「父さんもあの人がどこにいるのかわからないってことは、オフラインにでもしてるんでしょ。どうやってるのか知らないけど。あの人、父さんに見つかって帰ってきたら殺されるんじゃないの?」


「父さんもわからないのか。あれ、ジュノさんのそばによくいた、ユングとユナは?」


「二人もいないみたい。ついていってるんだと思うけど」


「じゃあ、もう、手がかりが……」


 ジュノは基本、誰にでも愛想がよく(ただし、テト相手では例外)、人柄もよいので慕われるが、親しく付き合う人間はテトが知っている中でもごく少数だ。父・ドウォンとさえ仲がいいのかは知らないが、ただ、そのユングとユナというジュノより年下の男女二人組がジュノのことを慕っていて、ジュノと仲良くしているのは知っている。


 ジュノはドウォンの秘書のような立場にもあるが、あの事務所A兼第一有能開発学園の芸能科で音楽コースのボイストレーニングの講師も務めている。ユングという男子生徒と、ユナという女子生徒はふたりともジュノの講義を毎回受けていて、二人とも「狂信者」と言っていいほどジュノのことを慕っている。


 ジュノのレッスンは早く予約をとらないと定員でいっぱいになってしまいなかなか受けられないほど人気だ。テトも在学中に彼のレッスンを受けたことがあるが、ある一件以降、彼のレッスンの予約をとることはやめてしまった。


 ボイストレーニングの講師でもありながら学園の専属の医者でもある、という噂もきいたことがあるが、そこらへんは定かではないし、父にわざわざそれが事実であるのかどうかも聞きにくいので、真偽の程は不明だ。


「やっぱり、もう一回第二新釜山に戻って、くまなく探してみるしかないのかな。ただ、時間がない」


 父にあそこまで言われた以上、自分の手でキリを見つけるしかない。キリが見つかるまでの間、もともとスケジュールにある自分の仕事もどうなっているのかもきになる点ではあるが、父と音信不通にしてまでキリのことを探しているのであろうジュノが先にキリのことを見つけたとして、こちら側にキリを引き渡してくれるかどうか、というのも懸念のひとつであった。


 父もキリの捜索に動いているに違いない。父よりも先にキリを見つけられなかったら、自分の立場は……自分への罰は、と考えると、恐ろしくて仕方がない。


「テト」


 ソラが自分の腕に触れ、そこでようやくテトは自分の手が震えていることに気づく。


「これ」


 テトがググの写真を見せたときのように、ソラがテトに向かって手を差し出した。

 手のひらの上に、トランプサイズの長方形の何も描かれていないカードのようなホログラムが拡張視界によって映し出される。


「兄さんの男子寮の部屋の鍵。生体情報は持ってないけど、これだけは持ってるの。父さんが複製してくれた。だからこれだけが手がかり。ま、もし部屋に何もないなら、こんなん手がかりでもなんでもないけどね」


 どう? 行ってみる?

 そうきいてくるソラを一瞥し、テトはまた鍵に目を向けた。


 鍵に手を伸ばす。


 が、すい、とソラの手が上がり、テトが鍵を取ろうとするのを拒む。


「ただし、もし部屋に手がかりがあったら。条件があるの。きいてくれる?」


 すぐに肯定してしまうところだったが、ソラが何を考えているかはわからない。


「条件次第かな。どんな条件? キリを見つけて連れ戻してきたらキリと離れる、とかだったら絶対に嫌だ」


「そんなんじゃないって」手口にやり、ソラが笑う。「もっと簡単なこと。きいてからどうするか決めれば?」


「だったら……きいてみようかな、まずは」


「うん、あのね」


 にやついているソラは、嬉しそうだった。赤いリップが塗られた口元が緩む。

 背伸びをし、テトの耳元に口をもっていく。

 ソラが、「条件」をテトに囁いた。



   ■



「うわ」


 部屋を見たテトの第一声が、それだった。


 男子寮の最上階、そして一番奥の部屋。ソラからの条件をのんだあと訪れたその部屋は、一言で言うならば「異質」だ。


 玄関のドアを開けると、廊下があり、左右におそらく風呂場、寝室へ続くのであろうドアがある。このへんはテトの部屋と変わらない。


 廊下を進んだ先にあるドアを開けると、奥には大都会、首爾ソウルの景色を一望できるような一面の大きな窓があり、見慣れているはずの首爾の夜景が美しく見えた。その手前には、物があまり置かれておらず整然としたデスクが設置されている。


 左右の壁は、すぐに元の壁の色がなんなのかわからないほど、びっしりとある物が貼られている。


 キリの写真だ。


 数ミリの薄さの電子板で、全て数秒ずつキリが動く。

 いつ撮ったのだろうか。いつ入手したのだろうか。


 歯を見せて笑うキリ。ただ窓を見つめて何かを考えている様子のキリ。口を開けて目をつむり、泣いているキリ。頰を膨らませて不満そうにしているキリ。口角を上げて笑うキリ。必死に何かを喋っている途中のキリ。


 テトが知る全ての表情のキリが、無数に壁にいた。


 驚嘆の声を上げてからは、もう何も言えなくなってしまう。

 テトは、そっと一枚のキリの写真に触れた。


 どこでどうやって撮影し、どうやって入手したのだろう、それはひまわり畑を背景に、青空の下でこちらを見て笑っている、ワンピース姿の夏のキリだ。このとき、彼女の目の前にいるのは、他でもない、自分だ。


(ジュノさんは知ってるのかな)


 テトは思う。このときキリといたのは、僕だってことを。

 いや、知っているだろう。それを知っていても尚、このキリの写真を壁に貼っているジュノのことを考えると、なぜかはわからないがなんとなく胸が痛む。


「噂通りの変態部屋ね。棚とか、見たくもないわ。見ないとだけど。もっとひどそう」


「キリも僕の写真を部屋に貼ってたけど、これほどじゃないよ」


「なんで壁に貼りたがるのかしら。兄妹そっくり」


 きみもそんなふたりの妹だろ、と言いたくなったが我慢し、


「やっぱり、会えないからじゃないかな……ジュノさんは僕と違ってキリに会えなかったし、誰よりもキリに会うのを規制されてたから」


「なんであの人があの子に会えなくなったかって、あの子への愛が異常だったからよ」


 実の妹なのにね。


 顔をしかめ、ソラは近くにあった白いソファに座り、脚を組んだ。柔らかなソファに、ソラの華奢な体が沈む。


「……ジュノさんはどういうふうにキリのことを愛してるんだろう」


 キリの写真は壁一面に貼られていたが、壁ではなく、デスクに一枚、わざわざフレームに入れられ立てかけられた写真があった。


 手に取ってみると、それは五歳ほどだと思われる小さなキリと、中学生または高校生くらいであろう、制服を着たジュノが手を繋ぎ、壁に沿って垂れる藤の花の前で立っている写真だった。まだあどけないジュノは照れくさそうに微笑み、そして小さなキリは口を開けてこちらを見ている。


 確か、ジュノは今年三十になる。しかし、ジュノはまるで二十歳で時を止めたかのように、老いを知らない。顔にも首にも皺は一切なく、肌はむしろ若々しく、テトよりも幼く見える。他の三十歳と比べれば、ジュノの見た目はだいぶ若い。


 なぜジュノが若いままのか、テトは知っている。



   ■



 二ヶ月に一度、あのキリの部屋にキリのための健康調査班が訪れ、彼女の健康状態を検査していた。二ヶ月に一度の検査は半年に一度の検査よりは簡単な内容だったが、その中には採血があった。勿論それは必要不可欠なもので、キリの血は検査にも使用されていたが、一方で、別のことにも使用されていた。


 数年前、テトがキリの部屋にいた際に健康調査班が訪れ、本来ならテトは出ていかねばならなかったが、キリがそれを嫌がり、調査班も渋々了承しテトが部屋に残ったまま検査が行われたことがあった。


 ほとんど全ての検査に疑問を抱かなかったが、採血のみ、見ていて違和感があった。


 テトが在学中に受けた健康診断では血は注射器一本分しか抜かれなかったが、キリの採血ではなんと彼らは十一本分も血を抜いたのだ。


『こんなに採るんですか?』


 キリ本人は注射器を刺すのに少し痛がったくらいでこの量の血を抜かれた程度では別になんともない様子だったが、テトは驚きその場にいた班員に思わず声を荒らげてきいた。


『要るんですよ』白衣の班員の男は動揺した様子で、『彼女の体は特殊ですから、検査もふつうの人間とは違います。これだけ採らないと』


 何か嫌な予感を感じたテトは、検査が終わり班員が部屋を出ていったあとを追い、問い詰めた。


 採血の量が規定かどうか父を通して確認を取りにいく、何か隠しているなら父・ドウォンに然るべき対処をとってもらう、と、いつも困ったらそうしてきたのと同じくドウォンの名前を出して脅すと、案の定班員はうろたえ、簡単に口を割った。


『ジュノさんです』


『は?』


 班員から彼の名前が出たため、テトの口から素っ頓狂な声が出た。


『検査用は一本。他の十本は、ジュノさんに』


『なんであの人がキリの血を?』


 薄々勘づいたが、あえてそう聞きテトが班員に顔を近づけて睨みつけると、班員の男は両手を上げ、顔を横に振り、


『それは、知りません。用途はきいてませんから。でもきっと、彼も医者らしいですから、研究用、とか?』


『なんで協力した?』


『ば、買収されたので』


 男はなんとも正直だった。


『目が飛び出るような金額を提示してきたので、つい。二ヶ月に一度の調査で、自分にあの子の血をこのくらい持ってきてほしい、そうしたら毎回報酬を渡すから、と……もうだいぶ前の話です。血を持っていくたびに、本当に報酬をくれるので……』


『用途は本当に知らないんだな?』


『知りません! 受け渡しのとき以外には彼に会わないので、何かに使っているところを見たことがなくて。何に使うのか聞きづらくて、わざわざきいたことも……』


 知っているのであればこの調子だと知っていると正直に言っているに違いない。


『あの、このこと、ドウォンさんには……』


『言わない』


 ただ、ジュノには確認するつもりで、テトは男に背を向け、ジュノの部屋へと向かった。


 ジュノの部屋の扉のインターホンを押すと、何も反応がなく誰も出迎えて来なかったので、不在とのことで諦めて踵を返しその日はまたキリの部屋に戻ろうとしたが、振り返ると、ちょうどそこにはジュノがいて、部屋に戻ってこようとしていたところのようだった。


 夜空のような濃紺の透き通る色の髪に、キリとよく似た白い肌。いつも朗らかな表情をしている彼だが、テトと対面したときの彼は、微笑みはするものの心の底では笑っていないのがよくわかる。


『何か用?』


 テトにニコリと笑いかけ、少し首をかしげ、澄んだ声でジュノがきいた。

 ジュノとあまり会話をしたことがない。あの一件以降は特に、そうだった。

 唾を飲み、テトはなるべく怯えているのを表に出さないよう顔色を変えずに口を開く。


『キリの、健康調査のことで』


『ああ、今日だったよね。何かあった?』


『血です』


『採血のこと?』


『キリの血、注射器十本分。ジュノさん、受け取ってますよね、調査員にお金渡して』


『……うん、受け取ってるよ。当然ぼくは検査に介入できないから、調査員に報酬を支払って、キリの血を受け取ってるんだ』


『なんでですか? なんで、キリの血を?』


『研究だよ』


『違う。僕は気づいてます』つい、大きな声がでた。


 ジュノがそれまでにこやかだった表情を一切消し、自分よりも身長のあるテトを見上げ、睨む。


 身長に違いがあるものの、ジュノの視線は鋭く、全身に悪寒が走る。今すぐにでも自分を八つ裂きにしそうな、殺気を感じ取った。


 平静を装っていられない。

 テトは、恐る恐る口を開く。


『飲んでますよね?』


 キリの、血。


 数秒、ジュノは何も言わなかったが、やがてケラケラと笑いだした。


『あはは……』


『何がおかしいんですか……』


『いや、だってさ、逆にききたいよ』


 ジュノは目尻の涙を指で拭い、


『なんで飲んじゃダメなの? ぼくが悪いことしてるみたいに言うけど。ぼくの妹だよ? そもそもなんで赤の他人のきみがキリに会えてぼくは会えないんだよ』


 ジュノがテトの胸ぐらを掴む。


『おかしいだろ。あの子は正真正銘ぼくの妹だぞ。それなのに、ぼくは理不尽なルールにのっとって、キリに会ってない。それだけでまともだろ。会わないで、他人に採らせてしかもわざわざ金まで払って受け取ってる』


『キリは了承してない』


 テトはジュノの手を掴み、胸元から離す。


『うん、キリは何も言ってないよ。けど、ぼくとキリのためだから。きみには関係ないし、父がこのことを知ったところで、だ。きっとぼくにはなにもない』


 で、ぼくになにを言いたいの? どうしたいの?

 ジュノがテトにきく。が、テトは何も言えず、そこですごむ。

 そんなテトを見て、ジュノは片方の口角を上げてニヤリと笑った。テトが初めて見るジュノの表情だった。


『嫉妬してるんだね、ぼくがキリの血を飲んでるから。血を飲んで生きているから』


『違う……』


『ぼく自身、自分の体が大嫌いだった。人間の血肉を食べてしか生き延びられない、有能でいられない自分のことが。でも、キリの血を飲んでからわかったよ、ぼくはキリの血を飲むためにこの体で生まれてきたんだ。だからキリも生まれてきたんだ。キリ以外のものを食べて飲めばそれで生きていられるし、力だって使えるわけだから、そもそもの目的は『生活』とはまた違うんだけどね』


『だったら、なんで』


『キリとずっと生きていたいから』


 元々顔立ちが幼いジュノだったが、前よりもさらにジュノは若返っているように見えた。いや、実際そうだった。


 その時、テトとは十歳程離れていたはずなのに、ジュノとまるで三〜四歳ほどしか離れているように見えなかった。


 テトが絶句していると、ジュノが今度は悲しそうに微笑み、


『ぼく、あの子とずっと生きていたいんだ。知ってるよね、キリは死なない。それにいつかキリも歳をとらなくなる。きっとそれももうすぐだよ。キリがあのままで、そして永遠の命なのに、ぼくが先に死んでどうするの? いつか二人きりになれたときに、ずっと二人で過ごしていたいのに。きみもキリのことを愛しているなら、ぼくの気持ちがわかるよね?』


『……僕は……』


『でも、きみは残念だったね。きみがキリの血を飲んでも、きっと永遠の命を得られないだろうから。これはぼくだけの特権なんだ。きみが今キリと会うのを許されているのと同じだよ。


 ぼくがキリの血を飲むのって、悪いことかな。たしかにそれをキリが了承してくれたわけじゃないけど、キリはわかってくれるに違いないし、それに、キリを傷つけているわけでもなければ、これを利用して他人を傷つけているわけでもないのに。知らない人間の死体を食ったり、食うためにだれかを殺したりするよりは、よっぽどいい事だと思うんだけどな』


 でも、ごめんね?

 いやな気持ちにさせたなら。


 ジュノがテトを覗き込み、微笑んで、言う。

 なにも言えないままのテトの肩に手を置き、それからジュノは部屋へ入った。


 なんとも言えない気分だった。悪いことではない、と言われればそれまでだし、彼がキリと生き続けることに対してはどことなく疑問だった。

 彼が永遠に生き、そしてもしキリが彼の手に渡ったとき、キリとは違い歳をとりそしていつかは死ぬ自分の存在する理由は、いったいなんなのか。


 テトはしばらくその場に立ち尽くした。



   ■



 ジュノのデスクの前に立つと、デスクの中央に長方形のホログラムが自動で立ち上がった。


「おかえりなさいませ。『ジュノ』さん」


 ホログラムに、主人を出迎える言葉が表示され、声をかけられるも、テトはジュノではない。


「——新着メッセージが一件、『キリ』さんより、ございます」


 続けて、機械的な女性の声が響き、ホログラムに『キリ』の文字が表示される。

 テトは思わずデスクに手をつき、目を見開いてホログラムを見つめる。


「キリから……?」


「このメッセージは、ボイスメッセージです」淡々と、ホログラムは喋る。「開封しますか?」


「テト、ちょっとまって」ソラがテトの腕を掴み、慌てたように言った。「あの子がどうやってあの人にボイスメッセージを送るの? 生体情報もないのに」


「生体情報がなくても、開発小板チップが埋まってれば、できなくはない」


「あの子に小板が埋まってるか確証もないのに?」


「キリに小板が埋まってないだなんて、考えられるか? 僕たちだって、小板があってはじめて有能なのに」


「とにかく……このPCにアクセスするのは、相当やばいことだと思う」


「勝手に部屋に入ってる時点で相当やばいのに」


「テト」


 下唇を噛み、ソラがテトを見るも、テトはソラの言うことをきかないつもりのようで、ソラから目をそらさずにソラを見据えるだけだった。


 ソラは大きくため息をつく。


「ま、わたしの『条件』、ちゃんときいてくれるならべつにもうなんでも……」


 ソラが独り言を呟いている途中に、テトはホログラムの「開封」に触れていた。


「開封」と同時に、キリのボイスメッセージが再生されることはなく、ホログラムには、テトとソラが見知った男の胸から上の姿が映し出される。

 それを見た瞬間、「やっぱりね」ソラは舌打ちをして、呆れたように言い放った。

 男は、見事に騙されたテトの顔を見て口に手を当てて笑い、


「久しぶりだね、テト、ソラ」


 声変わりの済んだ少年のような透き通る声に、優しい表情。


 キリの兄、ジュノがそこにいた。

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