5 ググ/キリ、テト、銀の箸
首の熱さ、痛みはすっかり消えていたものの、ググの中に不安だけはまだ残っていた。
男が店を去ってから一時間程。
平日なので、それから他に客は訪れていない。普段からこんなものだ。
無痛のうなじに手をやり、それからググはもう片方の手を伸ばし、天井の角に備え付けられたテレビモニターを手動で起動させた。
番組は、どうやらアイドルの寮の部屋紹介らしかった。
自分と同じくらいの年齢だろうか、青年が部屋の椅子に腰掛け、インタビューを受けている。
蜂蜜色の明るい髪に、ほんの少しつり上がった目尻。美しいアーチを描く眉。
凛としているも、どこか幼い顔立ち。
『休日はだいたい外出してるんで、自分の部屋はあまり使わないんですけど。楽曲を作ったり、演出について考えたり、ゲームをするときにはこの部屋にこもります』
意外と低めの声で、彼が言った。
ググは、芸能人には興味がない。
彼の名前も知らない。
椅子に座り、膝に肘をつき頬杖をついて、ググはテレビから視線を外した。
五歳になる年の四月、最寄りのクリニックで頚椎に埋め込まれた「
ググは、
ググが生まれるはるか昔、まだ金が物体として存在していた頃、その金を入れる布や革でできた「財布」が存在していたらしいが、頚椎に小板を埋め込まれるようになってからは、その財布というものは今や不要になり、小板で資金を管理できるようになった。
この小板が無ければ。
買い物ができない/国の用意する交通機関に乗れない/戸籍が無い/病院に行けない/通話ができない。
この小板があれば。
お互いの生体情報を交換できる。よって、お互いの嘘偽りのないプロフィールを知ることができる。それは、生年月日/血液型/出身/はたまた、職業/生物学上での性別/自分で追加すれば、趣味から何まで。警察は交換しなくても、位置情報を把握できる。
ただ、地頭のよさがあれば、この小板と掛け合わせて、もっと色んなことができ、それができる人間は「有能」とよばれ、できない人間は「無能」の烙印を押され、「石頭」と呼ばれることになる。
では、見ず知らずの男に社会で生きる上で必須の小板を破壊された挙句、「石頭」の自分には、一体なにができるというのか?
答えは決まっている。
「何もできなくなる」
ググは、頭を抱える。
さっきはまだ現実を見たくなくてテレビモニターのボタンを手で押し、手動で起動させたが、本来であれば拡張視界を起こしてそのままそこからモニターに触れずに自分の手前に浮かんだ文字に触れてモニターを起動させることができたし、それが普通なのだ。
幸い、店のモニターが古かったため、手動ボタンなんてものがついていたが、昨今のモニターには大体手動用の部分は無くなっている。
気が進まないが、確認しなければどうしようもない。
目をつむり、わざわざこめかみを人差し指でコンコンと2回たたく。現在の拡張視界のバージョンでは不要になったコマンドだが、自分を落ち着かせるためにそれは必要だった。
恐る恐る瞼を上げる。
と、視界の右端には「連絡先」の欄が表示され、そこにはちゃんと登録済みの母の名前、同じアパートに住む隣の部屋の住人の名前があった。
それが確認できた瞬間、どっと全身の力が抜け落ちる。
安堵による深く長いため息を一つする。
ググは、天井を見上げた。
だったら自分は一体あの男になにをされたのか、という懸念点があるものの、自分が今平気である以上、この時点でそれを気にしていても仕方がない。
それに、ここはあまり治安のよくない地域だ。犯罪は首都と比べ少ないが、変わった人間はよく出くわす。恐らく、何かのいたずらに遭ったのだろうし、ググとしてはそう思い込みたいところだった。
ちょうど安心したところで、やっと次の客が入ってくる。
それからは夜の九時ころまで、客の入りが続いた。
満席とまでは言えなかったものの、夕食どきなのもあり、観光客も訪れ、その間ググから暇な時間は消える。つい先日まではググの他に中年のアルバイトの男がいたために夕食どきはそれほどググの仕事に負担はなかったものの、ある日突然その男が無断欠勤をしてから出勤をしなくなってしまったために、それからはこの時間帯はググにとってはとても忙しくなってしまった。
「良々鶏」は、この地域の他の飲食店と比べ早めの閉店で、夜十時。
この日の閉店間際の客は聞き分けのいい客だったため、ラストオーダーが九時ということを前もってつたえていたところ、閉店時間の夜十時にはしっかり退店してくれた。
十時数分前に、ググは裏口のドアも施錠されているのを確認してから、表の入口ドアのパネル表記を「本日は閉店しました」に切り替え、そこも施錠する。
自分の夜食——賄い——を最後に用意しておいて、ざっと店内を清掃し、本日の売上を精算した。
これで、あとは自分が食事を済ませ、裏口から出て、また施錠をし、帰るのみだ。自分の食事で使った食器洗いは、明日出勤してから。
自分用のチキン定食をテーブルに並べ、着席しようとする。
と、後ろのほうで「カチャ」と軽い音がし、ググは反射的に振り返り、立ち上がった。
裏口前に、見知らぬ少女が1人でぽつんと立っていた。
黒いサテン生地のパジャマ。切りそろえられて内側へ巻かれているボブヘアーに、白い肌。
その白い両頬にはべっとりと、赤黒い血のようなものがついている。
裏口のドアの鍵は、しっかりと施錠したはずだ。いや、したつもりになっていただけか?
営業時間外の来客、それも見るからに不審者な彼女に対し、あまりにも突然のことだったためにググはなにも言えなくなる。自分から何と声をかけるべきなのかわからないのだ。
彼女の年齢はわからない。自分と同じくらいにも見えるし、自分よりも年下に見えるといえば見える。
彼女はググをじっと見つめたあと、店内をキョロキョロと見渡して、やっと口を開いた。
「ご飯屋さん?」それは子供のように高い声で、舌っ足らずな口調だ。
「そう……なんですけど、もう閉店で」
いかにも怪しい人物だ。できれば追い出したい。
が、閉店と告げたのにも関わらず、彼女はテーブルに置かれたググの賄いを見て近寄ってくる。
ぺた、ぺたと音がするので彼女の足元を見ると、裸足だった。
「おなかすいた」
今にも泣きだしそうな潤んだ瞳と弱々しい声で彼女はそう言い、ググを見上げる。
そんな様子で見られてしまっては、仕方がない。
「今から作るのは無理だから……これでいいならどうぞ」
ググが言うなり、彼女は椅子に座る。
定食を見つめ、それからまたググを見上げ、「チキン?」とググにきくころには、涙となってこぼれ落ちそうだった瞳の水分はすっかり消え失せていて、表情も明るいものになっていた。
「キリ、チキン、知ってる」
どうやら、彼女はキリというらしい。
キリがググに笑いかけ、そのまま素手でチキンを掴もうとしたので、ググは慌てて箸入れに刺さっていた銀の箸を渡す。
するとググから箸を受け取った「キリ」と名乗るその彼女は、ググがいままで見たことのないような奇怪な箸使いでチキンを黙々と食べ始めた。
「…………」
あきらかに不審者。
迷子にだなんてなる年齢でもないだろう。
それとも、ワケありなのだろうか。
本来自分が食べるはずであった定食を喜んで食べている彼女の姿を一瞥してから、ググはまず裏口のドアへと向かった。ドアノブに手をかけ、引くと、どうやら施錠されていなかったのか、ドアは開いた。ポケットから裏口の鍵と表の鍵両方がついたキーリングを取り出し、今度はしっかりと裏口を施錠する。
そして次は、表の入り口だ。
鍵のレベルは、どこの店とも変わらないレベル5。
解錠は、原則として鍵に生体登録をしている人間にしかできない。
解錠しようとしたり、解錠できたとしても、それは法律に反する立派な犯罪であるため、その時点で
表の入り口も施錠したところで、ググは振り返って彼女を見た。相変わらず、奇怪な箸使いでゆっくりと定食を食べていた。
警察に連絡して、保護してもらうか。
いや、ひょっとしたら説得すれば自力で元いた場所に帰ってくれるかもしれない。
溜息をつきたいのを我慢して、彼女のいる目の前の椅子を引き、ググは席についた。
「ここはチキンやさんなの?」
ググから声をかけるつもりだったが、咀嚼しながら先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「そうだよ」
彼女、キリの口のまわりにはべっとりと甘辛ソースがついている。「口の周りがすごいけど」
ググが指摘すると、キリはにっこりと笑った。
自分でとる素ぶりがないので、ググはしかたなく紙ナプキンを引っ張り出してキリの口を拭いてやった。ついでに、ソースと同じくべっとりと両頬についていた血も拭き取ろうとしたが、血は時間が経ったものなのか少し乾いていて、完全には拭き取れない。
「キリ、チキンやさん好き」
「ありがとう……」
「でも、はじめて。来るのは」
キリが白米を食べはじめたところで、今度はググが自ら声をかける。
「あの、怪我してる?」
「なんで?」
「血がついていたから」
「けがしてないよ」
「じゃあ、どこから来たの? 家は?」
「部屋」
「……その部屋は、どこにあるの?」幼稚園児と会話をしている気分だった。
「どこかわかんない」
「場所だよ。たとえば、ここみたいに、第二新釜山、とか」
「だいにしんぷさん?」
「この市の名前だよ」
「し?」
まるで会話にならず、思わず、両手で頭を抱える。
目の前のキリを見ると、キリのほうが目を丸くしている。この様子だと、ふざけているつもりではないらしい。
「名前は? キリ?」
「キリ!」キリはググを見つめ、「なまえは?」
どうやらググの名前をきいているらしかった。
「ぼくはググ」
「ググ?」
「ところで、家族は?」
「かぞく?」キリがまた首をかしげる。
「お父さんとお母さんは?」
「おとうさんとおかあさん?」
「ママとパパ……」
彼女の知能の低さからするに、一人暮らしは有り得ない。きっと、保護者と同居しているのだろう。そう思っての質問だった。これを確認してから、彼女と生体情報を交換し、彼女の家族に連絡をして彼女を引き取ってもらえればそれでよかったし、それが無理ならば、一旦警察に保護してもらう他ない。
「あ」キリが思い出したかのように口を開け、「ママ! パパ!」
「どこにいる? 名前は?」
「ママとパパ、すいそう」
「すいそう、って?」
「中に入るの。魚といっしょの。中に入るやつ」
二度目の頭を抱える時が訪れた。
「魚じゃないけど、すいそうにいて、でもぜんぜんあえないの」
「……ふたりの名前は?」
「ママ、パパ」
「ああ……」ググの眉間に、思わず力が入る。
「あ、お父さん、いる」
ググは、眉間に指をやりうつむいていたが、顔を上げてキリをみた。「パパとは違うの?」
「ちがうの。パパはパパ、お父さんはお父さん、それでふたりだよ」
「お父さんはどこ? 名前は?」
「お父さん、しせつ。名前わすれちゃった」
もう、お手上げだった。
「キリ……キリちゃん」
ググがキリを呼ぶと、キリはどことなく嬉しそうにググを見る。
「迷子みたいだし、ママかパパ、それかそのお父さんにむかえにきてもらおうか。警察はいやでしょ? 一回、ぼくら、生体情報を交換して……それから、ご家族にぼくが連絡をするから……」
「キリ、まいごじゃない」キリの皿はもう空だった。「キリ、逃げてきたんだよ」
「え?」
すると、その先のことがききたかったものの、タイミングよく表のドアがドンドンと強く叩かれる音がする。
キリがびくりと体を震わせた。
ググは振り返り、ドアのほうを見る。誰かがドアを叩いているようだった。
椅子から立ち上がり、おそるおそるドアに近づく。
ドアの上半分はガラスのため、ドアを叩いていたその人物の上半身を確認できた。
黒いマスクで目から下が覆われている。キャップを深く被り、青のニットを着た若い男だ。見るからに警察ではない。
「開けろ」
きいたことがあるような低めの声で、彼が言った。
「開けてくれないなら、開ける」
「え、ちょっと」
ググが何をどうする間もなく、カチャカチャとドアの鍵穴部分から音がし始める。
しつこく震えるその音を聴きながら、ググの身体は硬直し、何もすることができない。
鍵穴に集中するように下を見つめた彼の目が、どんどん充血していく。
正気ではない。
レベル5の鍵を解錠しようとしているのだ。
拡張視界によって、ドアの取っ手まわりに赤く表示され点滅しはじめたのは、「危険」の文字だった。
「そんな」
『解錠』。
危険、の文字が消え、次に現れたのはその文字だった。
ドアはガラガラと音を立て横にスライドし、開く。
男はドアに手をつき、マスクを顎下まで下ろす。青ざめた肌からは何粒も汗が浮かび上がり、息は荒い。
苦痛により表情は険しいものだったが、低めの声の他にも、その顔はググにとって見覚えのあるものだった。
「テト……」
後ろでキリがぽつりと呟く。
テト、と呼ばれた彼は、震える手を膝につき、肩で呼吸する。
ただの「有能」であれば、本来ならば施錠しようとした段階で本人の小板によって神経機能は一旦停止されているはずだし、そこを乗り越えたとしても、今度は解錠した段階で頭から後ろに倒れて意識を失っているはずなのに。
彼は、両足で立ち、意識は失っていない。
「キリ」彼が荒い息のまま言う。「帰ろう」
充血したままの瞳は、苦痛によるものなのか、涙がにじんでいる。
「もう、大丈夫だから。約束したんだ、父さんと。帰ってきたら、もうずっと一緒にいられるから。だから、」
彼が一歩前に踏み出す。
「いや!」
キリが立ち上がり、手を前に突き出した。
途端、銀色の閃光が店内に走った。
いや、そうではない。
店内の全ての箸入れから全ての箸が飛び出したのだ。
銀色に輝くそれらは、ググの理解が追いつかない速さで飛び出し、テトの周りを取り囲み、先端はまるで今にも彼を八つ裂きにしたがっているかのように、全てテトのほうを向いている。
一本も肌に触れてこそいないが、目と鼻の先に箸がある。全身を取り囲んでいる。
ただものを掴むためだけの食器にしかすぎない箸の先端は鋭利ではなかったものの、キリがここまでできるということを今ここで確認したググからしてみれば、この箸でキリが人間を蜂の巣に仕上げることもできるのは容易に想像がついた。
テトの目は見開く。勿論、一歩も動けはしないし、一歩も動けないどころか、1ミリも動けない状況だ。
もし、少しでも動けば、箸が迫ってあらゆる角度からテトを串刺しにしてもおかしくはない。
「キリ……」
テトの額から、汗が伝う。
キリが手を下ろし、テトによって解錠された表の入り口から走って店外へ出て行く。
テトを取り囲んでいた無数の箸は、命を失ったかのようにガシャガシャと大きな金属音を立てて床に落ちて行く。
テトは膝から崩れ落ちた。
ググが思わず駆け寄ると、テトはググを見上げて言う。
「あの子を……追ってくれる? 僕は少し休めば大丈夫だから、とにかくあの子を」
状況を把握するのが難しかったものの、ググはとっさにこくこくと頷く。
キリがどこへ向かったのかは、当然わからない。
まず、自分がなんでこんなことに巻き込まれているのかもわからないし、そういえば今日は変わった人物によく会っている。まず、自分の小板にいたずらをしたあの男。それに、おかしな少女。それから、見覚えのあるこの青年。
混乱しているも、ググの頭はわりと冴えてはいた。
そうだ、とググは思い出す。今日テレビで見たあの人物。今日だけというわけではなく、たまに店内でテレビを見たり、電車に乗った際の広告、買い物に行った際の広告で見たことがある。
あの芸能人。アイドルだ。グループ名は忘れたが、メンバーの一人だ。
名前は、テトに違いない。同じ大学に通う女子生徒がたまに口にしているのを耳にする。
テレビを見上げると、ちょうどまたその彼が映っていた。今度はバラエティ番組ではなく、音楽番組だった。
そしてその彼が今自分の目の前にいて、あの奇妙なキリという人物を追ってきたのだ。
「早く」
テトに言われ、ググははっとし、それから急いで店を出た。
とにかく、店を右にでて、まっすぐ走る。
他に何かを考える余裕などなかった。
キリは、案外近くにいた。店から歩いて十分、走ればすぐの公園にいた。
夜なのにそんなところにいればすぐにわかる。
店のドアを解錠し終えたときのテトのように、全力で走ったググの息は荒いものになった。
誰もいない公園の滑り台の下に、キリは座り込んでうつむいていた。
ググがキリのほうへ駆け寄る音をきいて、キリはしんどそうに顔を上げる。
「かえりたくない」
消えるようなか細い声で、キリがググに声をかけた。
ググはしゃがみ、キリを見つめる。
「帰りたくないって、どうして?」自分でもびっくりするほど、優しくて静かな声がでた。
「かえっても、ずっと部屋だもん、キリ。とじこめられるんだよ、キリ」
「閉じ込められてたの? だれに?」
「みんな」キリがまたうつむいて、「キリね、外にでたかった。テトがいたら、もっとよかった」
キリの声が震え、鼻をすすったので、彼女が泣いていることがわかり、ググは動揺する。
ググが黙ってキリの肩に触れると、キリは続けた。
「もどるの、ちがうよ。こわいよ。さみしいよ」
キリがそう言ったときだった。
さっきまでそんな気配は無かったのに、土砂降りの雨がはじまる。
滑り台の下と言えど、雨と風が激しく勢いが強いせいで、一瞬にしてキリとググはびしょ濡れに寝る。突然の豪雨に、公園の目の前を声をあげて走りながら横切る地元の住民らしき人々がいた。
ググが驚いて空を見上げたとき、横でびしゃりと音がしたのでキリを見ると、キリが横に倒れている。
ググが反射的にすぐにキリを抱きかかえて上体を起こし上げ顔を見ると、キリの口は少し開き、表情は虚ろなものになっていた。
「しっかり」
「……キリ、もう動けない……」小さな口からか弱い声と言葉が漏れる。「つかれたのかも……」
涙で潤んだキリの目を見て、ググはキリを背負う。
力が抜けきっている状態のものの、キリの体は軽かった。
雨に打たれながら、ググはキリを背負ったまま歩き、公園に出る。
店に戻るのではない。向かうのは、自分の住むアパートの一室だった。
キリは「帰りたくない」と言ったし、「閉じ込められる」とも言った。詳しくはわからないが、そんな感想が出るならば、キリがいたところはそんなにいいところではないはずだ、とググは思う。ならば、このままあのテトという青年に彼女を引き渡すのは、違う気がしたのだ。
その時にはもう警察に保護してもらおうという考えなどなく。
ググの頭の中は、なぜか自分がどうにかしなければ、という考えが無意識にあった。
キリがなにもいわないので右肩にあるキリの顔を覗き込んでみると、キリは目を瞑っている。寝たのか、意識を失っているのか。雨が土を打ち付けるうるさい音に包まれる中耳をすますと、かすかにキリが呼吸している音が聞こえたので、ひとまずは安堵する。
ちょうど公園から徒歩二分くらいのところに、ググの暮らすアパートがある。
階段を登り、2階の自分の部屋の前にたどりつく。
キリを背負いながらのドアの解錠はわざわざ鍵を使わないといけないせいで一苦労だった。ここが石頭として生きる上での不便な点のひとつである。両手がふさがっているときは、結構不自由だ。
キリを落としそうになったもののなんとかドアを開け、玄関で靴を脱ぎ、部屋の照明をつける。寝室のドアを開け、キリをそっとベッドに寝かせた。
ググと同じく雨でびしょ濡れになったキリがゆっくりとだるそうに目を開ける。
「どこ……?」
「ぼくの家。あのひとに説明してくるから、ぼくが戻ってくるまでここで寝てて」
「いかないで」
ググがすぐに部屋を出ようとしたところ、キリがそっとググの手を握る。
「……だいじょうぶだよ、戻ってくるから」
ググが声をかけると、キリは手を下ろし、再び瞼を下ろした。
アパートを出たころには雨は小雨になっていて、店に再び到着するころにはさっきまでの豪雨が嘘だったかのように止んでいた。
走って店に戻ると、テトはテーブルに突っ伏していた。
鍵のかかっていないドアをググがあけると、テトはすぐに顔をあげググのほうを見たが、ググがキリを連れてきていないことに気づくと、彼は落胆したのか呆れたのかで、顔をしかめる。
「キリは……」
それでもテトがきくが、ググは返す。
「ごめんなさい」それから口からでたのは、嘘だ。「見つかりませんでした」
「くそ……」テトの手が拳になり、力が込められる。「時間がないのに……」
二人の間で数秒、沈黙が流れたが、テトが溜息をついて、それからつらそうな表情を消して自分の近くに立っているググを見上げる。
「あの子のことでなにかあったら、連絡して」
テトが手招きをする。
ググがさらに近寄ると、伸ばされたテトの人差し指と親指がググの左耳をそっとつまんだ。
生体情報の交換は、相手のどこかに触れ、相手が承認すれば、可能になる。
一般的には指先と指先で触れ合うため、耳たぶに触れられたググが思わず目を丸くしてテトを見ると、
「ああ、これ。僕たちの間ではやってるんだ……癖でやっちゃった。きみに気があるわけではないからね」
拡張視界により、ググの前に「承認」「非承認」の文字が浮かび上がる。
ググが承認を選択すると、テトの生体情報が表示された。
ホンダ・テトラ/新生1995年生/
「言っとくけど、僕の情報、売るなよ。苗字とか」
「や、やらないですよ、できないですし」
「できたらやってた?」にやついて、テトがググを見る。
「別に……そんな」
「みんなが欲しがってるんだ。僕の連絡先を」
それはさておき、とテトが立ち上がる。「じゃ、ありがと」
店を出ようとするも、テトはまだ少しふらついている様子だった。
「だいじょうぶですか?」
「うん、まだ気持ち悪いし、具合も悪いけど……歩けはするから。このままキリを探す」
その言葉をきいて、罪悪感が生まれるも、ググはそれでも現状をテトに言うのをやめた。
あれでよかったのか。
でも、もう戻れない。
「ありがとね、ググ」
名前をそえて礼を述べ、テトの目は細まって、ググに微笑みかける。
そして思い出したかのようにテトは振り返り、
「意外とピアスいっぱい空いてるんだね」
そう言って、彼は店を出て行った。
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