【1】
1 テト/キリへ
事務所Bのビルを出ると、いつもの見慣れた黒塗りの空豆型の自動車が出入り口前に止まっていた。その車の周りには何人もの女が群がっていて、丁度ビルから出てきたテトに気づき、一斉に黄色い声を上げる。
猿みたいだ、とテトは思った。
高かったであろう最新式のカメラを構えた彼女たちは、声をあげたりテトの名前を呼んだりして、別に許可もしていないのに写真としてカメラにテトの姿を何枚も何枚も収めていく。この短いあいだに、一体何枚の写真を撮れるのだろうか。
テトが車のドアに手をかけた瞬間、ドアのロックが解除される。無数の白いフラッシュの瞬きを背に、テトはすぐに車に乗り込んだ。
顔の下半分を覆っていたマスクをしたに降ろし、車の天井をあおいでため息をついた。
「きょうはこのあとどこに?」
運転席に座っているモリが、前を見たままテトに声をかけた。
「とりあえず車だして。適当に走らせて」
テトがそういうと、モリはパネルに触れ、「random」を選択した。
車はすぐに走り出したものの、いまだに自分を呼ぶ喚き声が聞こえた。
「出待ちひどいですね。そろそろ注意厳しくしないと」
モリの憤る声が運転席のほうからきこえてくる。テトには、それについては返事をする気力はもう無かった。
気を使ったモリが、車内に音楽を流す。モリ自身が所有するこの車に登録されている音楽のプレイリストはテトのためのもので、テトのお気に入りの曲しかない。モリは、テトのことを理解している男だ。こうしてあからさまに疲れているときは、すぐに音楽を流してくれる。たまに「クラシックなんていう
実際、クラシックを聴く若者なんてテトの周りにはいない。インタビューなんかで音楽はなにをきくか聞かれたときにクラシックを答えると、以外ですね、と相手は目を丸くしてテトを見る。調べてみると、まだ旧世のときにはクラシックのコンサートもあったりしたそうだ。たまに、テトは旧世の世界へ思いを馳せることもある。
無伴奏で奏でられているチェロの音は、テトを少しは落ち着かせた。
道路の上を滑らかに走る車の窓に頭を預けて、窓の外を見る。
空は暗く、もう夜の十時頃だというのに、まだ人はそこらへんを歩いている。
特に、腕と腕をくっつけて歩く男女が多く、彼らは特にテトの目についた。
「キリに会いに行こうかな」
テトがぽつりとそう言うと、その言葉をきいたモリが反射的に振り返った。が、操作することが少ないとはいえ運転中のためすぐに正面をむく。
振り返った時のモリのいつもの細い目がとたんに大きく見開いたのを思い出してテトは笑いながら、「変?」
「いや……久しぶりなんじゃないかな、と思って」
「そうだな。ここのところずっと忙しくて、会いにいけてなかったからな。外泊が多くて」
「じゃあ、目的地、キリちゃんのところへ変えますよ」
うん。おねがい。そう言ってテトはまた、ぼんやりと窓の外を見た。
しばらくお互い無言でいると、モリが遠慮がちにテトに声をかける。
「キリちゃんって、どんな子なんですか?」
モリは、日本人だ。テトの「父」が、日本へ出張の際に見つけた日本人の青年だ。テトよりも年上なのにもかかわらず、敬語で話してくる。しかも、モリはいつもテトのプライベートに対して遠慮がちなので、テトの個人的なことは一切きいてもこないし、テトがやってはいけないことをやっていたとしても、一切注意もしてこない。もう数年の仲の上に、テトからモリに歩み寄っているのに、だ。
だからこそ、モリが「キリ」という人物がどんな人物なのかをきいてくることは意外だった。やっとか、とさえテトは思う。今まで彼女についての説明は一切せずに、彼女のところに行きたいときは、彼女の名前と居場所だけを告げていた。
「カノジョ……なんですか?」
テトが黙っていたからか、モリは正面をみたままテトにきいた。
「わからない。彼女ではないのかも」
「まあ、彼女いるのに他の女連れ込んだり、女遊び激しいのはできないですもんね……」
珍しくモリが自分の意見をハッキリと言ってくる。テトは腕を組んで、「うるさいな」と運転席を睨みつけた。モリがいつものようにへらへらとした笑い声を上げる。
「ぼく、仕事でこうやってテトを車に乗せるのはいいですけど、テトの連れてきた女の子をテトといっしょに乗せるのは気まずくって気まずくって……」
「今日はやたら言ってくるじゃん。誰かになんか言われた?」
「ええ? 別に」
後部座席からも見えるようにモリは大げさに肩をすくめてそう言ったが、テトにはそれが嘘であるということはなんとなくわかっていた。この車はモリのものとはいえど、内部にカメラがついていて、事務所の人間がログを確認することもできれば、リアルタイムで車内の様子を監視することもできる。事務所の人間ができるのであれば、それはもちろん父にだってできることだ。
この間、久々に父に呼び出されたのでなにを言われるかと思えば、女関係のことだった。他の事務所から苦情かきているからいろんなところから女を連れ込んだり遊んだりするのはやめろ、限度があるとかなんとか。おそらく父は、苦情が入ってきたうえで、車のログを確認したのだ。そしておそらく、本人へ注意したのにもかかわらずなんの変化も見られなかったため、モリに注意をしとけとでも言ったのだ。
たしかに、普段自分に向かってなんの文句も言ってこないあげく自分に対して誠実なモリがこうやって苦言を呈してくるのは、心に響くものがある。
「まあ、テトもまだ、二十代だし…しょうがないとは思うんですけど……」
「もういいよ、そのことは」
で、キリについてききたいんでしょ?
テトがそう言うと、話を元に戻したがったのを察してくれたのかすぐにモリは「はい」と返事をした。「友達とか?」
「なんだろう」
会ったばかりのときは、友達だったのだろうか。
キリがはじめから自分のことを好いているというのは、知っている。キリが自分にすっかり依存してしまっているというのも知っている。ただ、自分を何として依存し、好きでいるのかは正直よくわからなかった。
男として好きでいるのか、友達として好きでいるのか、それとも家族として好きでいるのか。
「キリには好きっていわれるけど、どう好きなのかはわからないし、僕からキリのこと好きだっていったことはないや」
「好きなのは本当なんですか?」
「好きなのは本当だよ。でも言ったこともないし、まだ手をだしたこともない。手を繋いだことしかないんだ」
驚いたのか、モリはしばらく何も言わなかったが、「運転手がいるのに後部座席で女とじゃれ合うひとが言うこととは思えない」
「連れてくる子たちはどうでもいいんだよ。別に、その子自身には興味ないし、あした死んでしまっても何も思わないし、僕のせいで汚れてしまっても、それが本人が許したことなら別にいいんだ。じゃあなんでそうやっていろんなこといっしょにいるかって、それはただ単に僕が寂しくて、キリにはそれはできないから」
キリは違うんだ。テトは続けた。
キリには興味があるし、あした死なれてしまったら僕だってあとを追って死ぬし、たとえキリがそれを許しても、キリを汚すことはできない。
テトは、ゆっくりとまぶたを降ろした。
目を開けると、そこには一面のひまわり畑があった。
キリがずっと行きたがっていた場所だ。テレビでその場所を見てから、キリはそこへ行きたい行きたいと駄々をこね続けた。とはいえ、キリは外出を許されていなかったので、数日後、テトは「父」へ土下座をしてまでキリの外出許可を父に求めた。
何かあったら僕が責任をとりますから、と大声を張り上げて、冷たい石の床に強く額を押し付けていると、テトの頭よりずっと上のところから「わかった」と、父の低い声が聞こえた。
もちろん、テトとキリを二人きりにできるわけがなく、常に三台の円形ドローンが見張っていることになったが、それでも最終的にはキリと二人で例のひまわり畑へと外出することができ、キリはずっと、ひまわりの前で笑っていた。
「すごいね! いっぱい!」
はじめて現実の花を見て目を輝かせて興奮するキリは、ひまわりの茎をかき分けて畑の中へと入っていく。ドローンを通して何人かが見張っているとはいえキリを自分の視界から失ってはいけないので、テトはキリを追った。
やがて、キリの足が止まる。
「ひまわりにかこまれてるから、見えないかな?」
キリがテトにそうきいた。ドローンのことだろう。
「ううん。見えてるよ」
テトの答えに、キリの眉がさがる。「そっか」
「今日、楽しかったね」
言ったあと、テトはまるでもう今日が終わるかのような口ぶりになってしまったことを反省したものの、キリは何とも思っていないようで、「うん」と返事をして、「ずっときょうだったらいいのに」
「そうだね」
ここに来るまえは、繁華街の屋台を回ったり、若者が多く集う街で服を見たり、ゲームセンターへ行ったりした。普段、あの部屋に閉じ込められているだけでは当然キリにとっては経験できないことだ。それをひとりではなく、テトと経験した。それはお互いにとってとても意味があり大切なことだった。繁華街に売っている食べ物は、別に部屋からでてわざわざそこに行かなくても部屋のパネルから注文すればひょっとしたら食べられるものだったかもしれないが、二人でそこへ行って食べるからこそ、意味があることだった。
あの部屋には、不自由がない。
やわらかくておおきなベッド、清潔なバスルームにはふたりが入っても余裕のあるバスタブ、清潔で全自動のトイレ、足を伸ばせるようになっているソファ、両手をひろげてもそれよりもはるかにひろいテレビモニター、数々の電子書籍をよびだせるパネルに、挙句、自分が希望したもの何でもを部屋まで届けてくれるパネル。
そんな部屋にいたって、外に出られなければ、しょうがない。
学園にだって、キリがいてほしかった。席替えのたびに、隣の席がキリであるように願ってみたかったし、クラスが違うのであれば、わざわざキリのクラスまで遊びにいったりしてみたかった。バスケ部で、ゴールを決めるのをキリに見ていてほしかった。放課後、制服のままどこかへ二人で遊びにいきたかった。
なにが悪くて、なにのせいで、それができないのか。
「どうして?」
どちらかが、言った。
テトがキリの頰に触れる。キリの瞳は、空とひまわりをうつしているせいでかすかに青みがかかっていて、そこに黄色が混じっている。その中央にキリを見つめる自分の姿が写り込んでいて、こんなに気持ちに正直になっているその自分の表情にテトは辟易する。
自分の頰を包むテトの手に、キリは手を重ねた。
「テト、」
再びまぶたを上げたころには、あの日キリとひまわり畑へ行った高校生のときの自分ではなく、仕事終わりの疲れた二十代の自分へ戻っていた。あたりを見渡すも、やはりそこは車内で、車は道路を走り続けている。テトは、おおきなあくびを一つした。窓の外を一瞥してみると、見慣れた景色だった。丁度、目的地へ到着しようとしていた頃だった。
もぞもぞと動く音がきこえてテトの目覚めに気づいたモリがそっと声をかける。
「急に寝るから、寝たんじゃなくて、死んじゃったんじゃないかと」
「死んだみたいだったよ。見た夢、夢っていうより走馬灯だったし」
そろそろ長期で休暇とったほうがいんじゃないですか、無理やりにでも。モリがそう言ったが、それができるんならとっくにそうして、誰にも会わずに、数日間キリとあの部屋にこもっている。
目的地につき、車に乗った時と同じく、素早く車からおりた。窓ごしに「ありがと」とモリに声をかけて片手をひらつかせ、テトはキリの元へとむかった。
はじめてあの部屋でキリを見てから、部屋は特に引越しなどもしておらず、場所はずっとあそこのままだ。「有能」の子供だけを通わせる学園兼寮の中のずっと奥、一般の生徒や役員、教員が踏み入れられないような場所にその部屋はある。
もっとも、行こうと思えば行けるし、実際テトは小学生にしてそこにたどり着けたわけであるが、そこへ行くのは本来誰もが許されていないのだ。わざわざ奥へ進んでまでそこへ行こうと考える物好きは少ないし、厳重注意を受けるのがわかっているし、それにそこで暮らす少女がどんな人物なのか、皆知っていたからこそだ。
とは言え、入り口には武装した警備員がいる。今日テトと遭遇した警備員はいたってまじめて、重そうな黒い銃を持っているのにも関わらず、背筋ピンと伸ばして直立していた。
「きょうはもういいよ、お疲れさま」
テトが彼に声をかけると、その警備員の彼はテトに向かって深く頭を下げたあと、テトに背を向けて一本の廊下を進み、どこかへ帰っていった。
ポケットから透明のカードを取り出す。昔はだらしのない警備員から奪い取ったものだったが、今のこれは公式にあたえられたものだ。テトは、そのカードをドアのキーパネルにかざした。
ドアは音を一切たてずにスライドして開く。
足を踏み入れたそこに広がっているのは、昔となんら変わらない部屋だ。ちょっとっしたインテリアなどは変わっているものの、他はほとんど変わりがない。
もう夜遅い。やはり、キリは眠っていた。ベッドに腰掛けて寝ている彼女を見下ろし、指先で前髪に触れると、「う」と小さな口から声が漏れる。
キリの眉間にシワが寄った。そこからキリが起きてしまうまでは早いもので、ふわあ、とあくびをして、彼女は目を一気にあけた。
「テト?」
「ごめん、起こしちゃった」
「わーい!」
キリがテトに思い切り抱きつく。「まってたんだよ、さみしかったんだよ」
テトが部屋を出ていけば、そのあとはまたテトが部屋を訪れるまで、「待つ」ことになる。
「ごめんね」
言って、テトは機嫌をとるようにキリの頭を撫でた。
「それと、他にも謝らなきゃいけないことがあって……」
「なに?」
その「謝らなきゃいけないこと」を言うのに躊躇をする。言えば、どんなことになるか予想できるからだった。
「……明後日、キリの誕生日でしょ?」
「うん!」
この流れだとどんなことを言われるのか普通だったらこの時点でわかるのに、キリにはそれは無理だった。誕生日、という単語をきいただけで、嬉しそうな顔をしてテトを見つめる。
「その日、やっぱり仕事があって……休めないんだ。休んで、一緒にいたいと思ったけど……だから、別の日にお祝いするっていうのはダメかな」
キリから笑顔が一気に消え去る。眉が下がり、「でも、やくそくしたし、おとうさんがやすみでいいっていってたよ」
「父さんはキリにはそう言ったかもしれないけど、休めないんだ。許されないし、明後日の仕事は休めない仕事なんだ」
キリは、テトから顔を背ける。それから、またベッドに寝そべって布団にくるまった。
「もういい」
「キリ」
キリのもぐる布団に触れると、布団がわずかに震えていた。泣いているのだということがわかり、思わず手が止まる。今まで、キリは気に入らないことや嫌なことがあると子供のように喚いて泣いていたのに、今は違った。キリが静かに泣くのを見るのははじめてだった。
よくよく考えなくても、キリの誕生日を祝うのは自分しかいない。高校生のころまでは、日付が変わる瞬間にキリの誕生日を祝っていたが、高校を卒業してからは多忙で、それができなくなっていた。誕生日を祝うどころか、なんでもない日にキリとふたりでいるというのもすっかり減った。
キリは、テトといる時間以外は、常に孤独だ。
「おとうさんも、テトも、どうしてキリにうそつくの?」
それはテトに対しての言葉というよりは、独り言のようだった。
ごめん、としか言えない自分が情けなくなり、同時に、今この瞬間キリに対して大したことをしてあげられない自分のことが腹ただしい。
テトはただただ、布団にくるまって泣き続けるキリのそばにいることしかできなかった。
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