2 テト/欠陥、出会い、部屋

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 算数の足し算を習い始めたばかりで、手を使わずに物体を動かす、という初歩の初歩を学園で学んでいたころに、テトは彼女と出会った。


 雨の日は校庭で遊べないため、学園の低学年の生徒たちの間では、施設内での鬼ごっこが流行っていた。大声ではしゃぎ、バタバタと駆け回るような鬼ごっこではなく、いかに静かに鬼をし、いかに静かに鬼から逃げ、いかに気配を消すか、というのが重要視されている鬼ごっこだった。


 静かに鬼と逃げ手をまっとうすることは、当時のテトにとっては退屈極まりなく、追っても追われても大きな声を出して大げさに走り回りたいことこの上なかった。「静かに」というルールを無視し、ひとりだけおおはしゃぎで鬼ごっこに徹してから、テトが雨の日の施設内鬼ごっこに誘われることはなくなってしまった。


 大人しくしてまでも皆に混ざりそんな鬼ごっこに興じる気はさらさらなく、雨の日の食後の昼休みや放課後は、ひとりで施設内を探索するのがテトの恒例行事になっていた。


 他の生徒よりも、テトは叱られることが少なく、それを自分でもわかっていたので、あまり入ってはいけなさそうな部屋のドアにも躊躇なく手をかけることができた。


 一つ、「近寄るな」と施設内の生徒全員に言いつけられている部屋とその付近があり、それは一階の奥にある。そこだけがまだテトが足を踏み入れていないエリアで、生徒たちが「あそこには幽霊がでる」だの何だのと噂しているようなその他の部屋は入っても拍子抜けするほどふつうの空き部屋だったりして、唯一そこがテト期待の部屋だった。


 一階の出入り口付近の受付を通り過ぎ、どんどん奥に進んでいっても、全く近寄ってはいけないような雰囲気すら感じられない。いつもテトやほかの生徒たちが暮らしているような寮や、教室があるようなエリアとなんら変わりがない。


 ただ、突き当たりに進んだところで、ひとり、警備員がいた。右手にドアがあり、そこの部屋前を警備しているようだった。が、警備しているとは言い難い状況だ。ひょろりとしていて、厳重な装備付きの制服がまるで似合っていない若い警備員は、立ったまま寝ている。天井に向けられた大きな口はぱっくりと開いていて、唇からはよだれがたれていた。


 襟に一滴、さらりとしたよだれが垂れたのを見送り、テトは教室の扉に手をかけた。


 が、もちろん、生徒にも近寄るなとさんざん言いつけられるほどの部屋が、ちょっと手をかけたくらいでは開かない。


 警備員がカードキーを持っているなんて知っている。実際に使っているところは見たことがないものの、経緯は忘れたが「父」からは警備員はカードを各々所持していて、それで要警備の部屋は管理している、というのをこっそりきいたことがある。


 おつかれの警備員の左ポケットをまさぐると(そんなことを堂々とやってみせようが、彼が起きることはなかった)ちょうどカードキーらしきものが入っていた。テトの予想ではカードキーはもっと複雑で文字が書いてあったりするものだと思っていたものの、テトが警備員のポケットから奪ったそれは、無色透明の薄いシートのようなものだった。


 それがただのシートであれば、わざわざポケットにしまい込む必要はない。カードでなければ、これはゴミにすぎないのだから。


 まったく怖くはなかったし、やめようとも思わなかった。それに、昼休みではなく放課後だ。時間を気にする必要すらない。

 取っ手のかわりに、ドアには白く薄い円盤がついている。これに、カードキーをかざした。


 ドアは音を立てずに左にスライドし、素早く開く。

 たしかに、怖くはなかったし、足を踏み入れても、それは変わらなかった。


 そこに広がっていたのは、空き部屋でもなければ、怪物や幽霊が住んでそうな古びた暗い部屋でもない。


 なぜ、ここに、こんな部屋が。


 むしろそう疑問に思ってしまうほどに、自分が足を踏み入れたそこは、どこからどう見ても、一人の少女が暮らすような部屋だったのだ。


 テトの二倍はあるようなおおきなクマのぬいぐるみは中央で座り込んでいて、ドールハウスなんかがあれば、もちろん、その家にくらす人形もいる。スタイルのいい数体の少女の人形は片付けられていないようで、散り散りになって寝ている。


 天井からだろうか。心が落ち着かされるようなオルゴールの音色がかすかにきこえる。

 薄い桃色の壁紙ももちろん、全てがこの施設の中でテトが目にしたことがないようなものだったが、少女の部屋だということはすぐにわかった。


 それにしても、なんでここが? なんで、ここに? 誰がここに?


 自分は誰よりも特別扱いされていると思っていた。なにをやっても叱られないし、他の生徒よりも自由にこの施設で暮らしていると思っていた。しかし、この部屋の主はどうだろう。みたところ、欲しいものは全て買い与えられているようだし、それに一人部屋のようだ。テトでさえ、ルームメイトがいる。それはルールだ。どの学年のどの生徒だって、ルームメイトがいる。


 それに。


 テトは、部屋の奥に目をむけた。それに、こんなものがある。天蓋つき、レースのカーテンつきのおおきなベッド。


 こんなものがある部屋に暮らしているだなんて、一体どこまで特別扱いなのだろう。どんなに、自分より優秀な子供なのか。もし、この部屋で生活をしているのが一人ではないにしろ、こんな部屋で生活させてもらっていることのほうがおかしい。


 オルゴールの小さな音がきこえる部屋の中、耳を済ますと、そのオルゴールの音よりも小さな寝息がかすかにきこえた。


 ゆっくりと足をすすめ、ベッドに近づく。


 普段うるさくしていて、あの静かなる鬼ごっこから外された子だとは思えないくらい、静かに、テトはベッドへと近づいた。今の姿を見れば、皆テトのことをすぐにあの鬼ごっこに参加させたかもしれない。


 柔らかい感触のレースのカーテンに触れ、引く。


 やはりそこには一人だけ、少女が眠っていた。


 自分と同い年くらいの少女だった。肌は白く、唇は血のように赤い。

 滑らかな肌を見つめていると、飲み込まれそうになっていく。テトはなんとなく、自分がいま立っているこのベッド周りの空気のあたたかさをかんじた。


 死んでる?

 いや、寝息はしたし、生きているはず。


 どの教室、寮も簡素なインテリアで統一されているのにもかかわらず、この部屋だけ、まるで姫のもののような豪華さと自由さにむしろ不気味さを覚える。


「きみは? だれ?」


 ひょっとしたら本当にお姫様? それにしたって、なぜ?


 気がつくと、テトの手は少女に伸びていた。小刻みに震える指先は、少女の頰へとたどり着く。


 指先が頰の肌に触れた瞬間、少女の目がゆっくりと開いた。


 テトは、慌てて手を引く。逃げたほうがいいか、とも思ったが、今から逃げてももう遅いということがすぐにわかったし、なによりも少女の姿がテトを足止めした。

 少女はゆっくりと上体を起こし、それから一つ大きなあくびをした。


「だれ?」


 うつろだった目はぱちりと大きく開き、テトのほうをむく。だれかとテトに尋ねた声は高く、テトよりも年下なのではないかと思わせるような舌ったらずな口調だった。


「ぼくは……テト。テトラ……」


「テト?」


 少女がじっとテトを見つめる。瞳さえもがテトがはじめてみるような色をしていて、それは深いエメラルドグリーンだった。


「テトは……逃げない?」


「逃げないよ」テトは生唾を飲み込んで、「だって、逃げても……」


「じゃあ、遊ぶ?」


 少女が笑顔でテトの顔を覗き込んだ。その表情は、同年代のテトの周りの子供たちとなんら変わりのない、無邪気なものだった。


「いいけど……でも、きみはだれ?」


「きみはだれ?」


 少女は、首をかしげてテトの言葉を繰り返した。


「きみのことだよ。名前は?」


「キリは、キリ! キリって言うよ」


 キリ、と名乗る少女は、掴んでほしそうに、自らの白い手をテトへと差し出した。


 悪、という一文字さえ連想させない、光のような笑顔を浮かべた彼女のことを見つめ、息をするのも忘れ、テトはただその手を握った。

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