逸らしていた目
ぼんやりと、サナが部屋の中を眺めています。キョロキョロと辺りを見回して、そして、母親に視線が止まりました。
「あ、あう、おか、しゃ……おなか……」
「は? なんて言ったの? ちゃんと言葉にしてくれなきゃわかんないわ」
どうやら、お腹が空いたと訴えているようですね。この頃、サナは七才。健康体で生まれた子供で、一般的に育てられたのならば、ちゃんと言葉を話せる年齢です。
「ご、はん……ほちー」
「え? わからないわ。もう、こんなに大きくなったっていうのに、なぜ話せないのよ。町の子ども達はペラペラ喋ってるのに!」
この母親は子育ては初めてで、かつ人里離れた場所に住んでいるからか、常識というものが欠如していたように思います。子どもは勝手に育ち、大きくなれば色んなことが勝手にできるようになる、と本気で思っていたのです。
特別な教育など受けなくても、子どもと会話をし、遊ぶ時間を設け、時に叱り、愛情を注げばそれなりに言葉も覚えたことでしょう。けれど、この両親はそう言ったことを一切行ってきませんでした。会話は必要最低限、ご飯は床に置いておくだけ、泣かれても呼ばれても、無視され、時にうるさいと殴られる日々。
それでいて、歩けるようになるまで外に出されることはなく、うるさいからという理由で地下の陽の当たらない部屋から出ないように閉じ込めていたのです。
こんな状態では、ろくに言葉も覚えませんし、運動能力だって低いままですよね。
ですから結局、空腹を訴えても食事が与えられなかったり、具合が悪くても放ったらかしにされることも日常茶飯事でした。
「はなし、ちたい、な……」
それでも。これだけの目に遭っていたというにも関わらず、サナは両親を慕い、縋っていました。他に頼れる人はいませんし、これが普通だと思って生きていたらそうなるのも無理はありません。でも、弱々しい姿で、邪険にされても必死でコミュニケーションをとろうとするサナの姿には、酷く胸を打たれました。
『もっと、かしこくなったら考えるわ!』
これが母親の口癖だったようです。かしこく、の意味もサナはわかっていなかったでしょうね。けれど、なんとなく、もっと色んなことがわかるようになれば、きっと母親も話してくれると受け取ったようです。
ですから、サナは毎日毎日、何度も何度も願いました。そうしてある日、サナの心の中に真っ白に強く輝く光が溢れたのです。
──そうして生まれたのが、私。ジネヴラ。
生まれた直後から、私はあらゆる事を理解していました。言葉や計算はもちろん、世界の常識からサナの置かれている状況についても、すでに知っていたのです。
この状況が普通ではない、とすぐに気付いたのですよね。けれど、私だって生まれたばかりの頃はまだまだ未熟で、色々と焦っていたように思います。
とにかくこの状況をなんとかしなければ、と必死になっていたのです。
「おかーしゃん。お腹がすきまちた。食べ物を、くだしゃい」
ですので、私はすぐに交代して表に出て、活動を開始しました。ええ、この頃は積極的に表に出ていたのですよ。そうしないと、死んでしまうと思っていましたからね。突然、自分の意思を言葉にして伝えられた母親は、これが成長期ってやつかしら、と不思議におもうこともなく受け入れていました。それはそれでどうなのでしょう、とは思いますけどね。
「でも、なんだか気味が悪いわ。話しかけてこないでちょうだい」
けれど、母親の本質は変わりません。ただ単に、面倒だっただけなのでしょうね。言い訳を探して、良いように言っていただけだったのです。
これではいつまでたっても、この子は言葉を覚えない……そう危機感を覚えた私は、母親にアピールしたのです。外で運動したい、と。
「外に? まあいいわ。町の方にさえいかなけりゃ好きなとこにいってちょうだい。その代わり、人に見つからないで。帰ってくるなら暗くなってからにしてちょうだい。なんなら帰ってこなくてもいいわ」
そう条件をつけて、母親はついに私を地下の部屋から出してくれたのです。……それが結果的に良かったのか悪かったのかは……判断に苦しみますが。
でもそのおかげで、私は毎日決まった場所に行き、岩に絵と言葉を書き記し続けました。ここで言葉の練習をし、せめて滑舌だけでもよくしようと練習も繰り返したのです。こうして、少しずつサナと交代を繰り返す事で、よくわからないながらも、サナは言葉を覚え、喋れるようになり、森を歩き回る事で体力もついてきたのです。
森にある食べられる実やキノコの事や、森での安全な過ごし方も、この時私がしっかり教え込みました。私の存在は、知られていませんが、ある日サナはポツリと呟いたのです。
「見えない、先生がいるみたい。いつも、ありがとう……」
わからないながらも、何かを感じ取っていたのかもしれません。あるいは、夜になるとこの場に他の人が来ていて、自分に色んな事を教えてくれている、と思っていたかもしれませんが。どのみち、サナの力になれたのですから、どちらでも良いことです。
いつしか、サナにあらゆる事を教え、守っていくのが私の生き甲斐のように感じていました。いまや、サナを守るのは私の使命といっても良いでしょう。
こうしてここまできたのです。信頼できる仲間に出会えて、そして……
「さあ、ジネヴラ。交代してみてはどうですか? それとも……やはり、まだ隠すつもりなのですか?」
エーデルが再度私に問いかけます。……私が、魔王? いえ、そんなはずはありません。危うく惑わされるところでした。私は魔王ではないのですよ。まだ私が生まれたばかりのあの日々の中で、私は自分の姿を川で見た覚えがあるのですから。
私の瞳は黒でした。間違いありません。今更、確認するまでもありませんよ。
私がそう言うと、おや、つまらないですね、とエーデルがさらりと返します。わかっていたようですね。全く、本当に嫌な性格をしています。
「それならそろそろ、核心をついていきましょうか」
本当に揺さぶりが好きですよね、あなたは。ナオたち三人も、固唾を飲んでエーデルを見つめています。変に不安を煽るのはやめて欲しいのですけどね。
「ジネヴラ、いい加減、魔王を隠すのはやめませんか?」
途端、渦が今までにないほどに広がりました。一体なにが!? いけない、今あの中にはサナがいるのに。私が立ち上がり、すぐにでもサナを助けに行こうとした時です。エーデルの叫ぶ声に足を止めました。
「待ちなさいジネヴラ! 逸らしている目をなぜ向けない!?」
逸らしている目を……? なにを言っているのですかあなたは。
「あなたはいつだってそうです。都合の悪い存在に、蓋をする」
エーデルは爪を噛みながら苛立たしげに告げました。都合の悪い存在に?
「人と違うから、闇の魔法を使うから、乱暴者だから、卑屈だから、自分の言う事を聞かないから……そういった理由で、見たくないからという理由で、その人物を厭う者のなんと多いことか。嘆かわしい……ジネヴラ。あなたがしているのはそれと同じではないのですか」
見たくないから。私にとって、都合が悪いから厭う? そんな事は、私はそんな風に人を扱った事はありませんよ。……ありませ……
『サナ、今日から貴女が
記憶が、流れてきます。
『彼女のために、頑張ってください、サナ。どうか……いつか私の声が届きますように』
彼女……ああ、そうでした。エーデルの言う通りですよ。愚かです。私は愚かでした。私は、いつから錯覚していたのでしょうか。
サナは、本来の身体の持ち主ではないのに。
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