第65話 あいつの為に
大きな瞳が、濡れている。
瞳に映る自分の姿が、揺れている。
月光で微かに照らされている藍田の顔は、これまでで一番美しかった。
公園にいるのが不思議なくらい、現実離れしている程に。
ドラマのワンシーンを垣間見ている錯覚に陥る程に。
だが、これは現実逃避だ。
幻想的な表情も、次の瞬間には崩れて。崩れた堤防から、塞きとめれていた透明な雫が滴り落ちる。
地面に付着した線香花火の残火もいつの間にか消えていて、俺の元から去っていく華やかな浴衣姿も、目を瞬かせる度に遠くなる。
引き留めたいという気持ちは、僅かながらあった。
だがその行動の源は、恋ではない。
そうであるならば、伸ばしかけた手を下ろす他にない。
恐らく、お互いに覚悟はできていた。
「──別れよっか」
そう言われた時、とっさに否定の言葉が出なかった理由は、自分でも解った。
相手が藍田だからこそ、確信できた。
たとえ中学の俺の性格に問題があったとしても、藍田を想う気持ちは真実だったから。
一度本気で好きになったからこそ、如実に感じてしまったのだ。
──今の俺は、藍田奏に恋をしている訳ではない、と。
付き合った当初は別れたい気持ちもあったが、段々と恋人関係にも慣れてきて、いつの間にかそのことを考える機会は減っていた。
このまま一緒に高校生を過ごすのかもしれないとさえ思っていた。
だが、痺れるような口付けで目が覚めたのだ。
心が満たされない。
熱くなる身体の中で、唯一唇だけが冷たかった。
高揚する気分もある中で、お前のそれは恋愛感情ではないと、冷めた自分が囁いた。
その時点で、俺の答えはきっと決まってしまっていたのだろう。もしかすると、最初から。あの、体育館裏から。
「だから、俺は……」
藍田のことは、人としては好きだ。
そうでなければ、情が移りようもない。
こんなに、胸が痛むこともない。
マネージャーとして手厚く尽くしてくれた時。
俺が藍田の看病をした時。
長いようで短い、濃密な時間。
だが、それは恋ではなかったのだ。
この短い間にも、俺は随分成長できたように思える。
まだまだ未熟な部分は沢山あるが、北高入学当時と比較すれば、確実に変わることができた。
藍田と付き合うことがきっかけになったのは間違いない。
藍田の彼氏になってから、自分について考える機会は増えた。
だが、俺が成長できたのは。
俺が感謝すべき人。俺を本当に想ってくれて、俺が本当に一緒にいたい人が誰かと考えた時。
頭に浮かぶのは、藍田じゃなかった。
……あいつだった。
それを確信してしまえば、もう俺には藍田の告白を受け入れる道理がなかった。
あいつと一緒にいたいと思ってしまっているのだから。
負けず嫌いで、気が強いくせに、常に相手を慮ってくれるあいつ。
天真爛漫な振る舞いにも、確かに伝わってくる気遣いと、愛情。
愛情といっても、それが恋であるのかは定かではない。
小さい頃からずっと仲が良いから、関係性を決める指標が曖昧で、この気持ちを、相手の気持ちを判別することが難しい。
それでも、一緒にいたいという気持ちがあれば十分なのではないだろうか。
この胸中に渦巻く気持ちを、無理に言語化する必要もない。
だから、たまには素直に従ってみよう。
気持ちを、率直に伝えてみよう。
あいつなら、あの幼馴染なら。
──香坂理奈になら、気持ちを伝えることができる。
無理に言葉を飾らなくても。無理に虚勢をはらなくても。
ありのままの自分で、話すことができる。
俺が傷付くことを恐れずに、自分の想いを伝えること。
それが藍田と別れた俺の、俺なりの誠意。
分かっている。
藍田がそれを望んでいるかは別問題。これは独り善がりの、自己満足な決意に過ぎない。
だが、ここでウジウジと悩んでまた問題を先送りにするのは、情けなくはないだろうか。
俺は、嫌だ。
藍田奏という女が好きになった男ならば、それに見合うくらいの行動を伴ってみせろ。
たとえ藍田自身が、俺の決意を望まなかったとしても。
──自分を第一に考えてる、自分に正直な人に、惹かれていった。
藍田は確かにそう言った。
一つの信念に基づいて、周りのことを顧みず行動するのが、藍田が好きになった男のはずだから。
もう一度だけ、他の人を顧みずに、好きなように行動してみよう。
中学時代の自分の全てが悪かった訳ではない。
時と場合を鑑みれば、あの頃の俺の方が良い一面もある。
過去を否定するのではなく、受け入れて昇華させるのだ。
今の自分がいるのは、あの時の自分のおかげなのだから。
──夏休み最終日。
俺は携帯を手に取った。
理奈に、想いを伝えるために。
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