第64話 線香花火
夏の風物詩といえば、様々なものが挙げられる。
例えば、俺と藍田が先ほどまでいた夏祭り。
そして今藍田が片手に持っている花火セットもまた、その内の一つ。
「この辺りならいいかな?」
藍田はそう言って、俺がコンビニで買ってきた小さなバケツの側に、花火セットを置いた。
夏祭りの会場から出て小一時間ほど。
射的を終えてしばらくした後、俺は藍田から花火に誘われて夜の公園へ訪れていた。
花火といっても、レジ前に置いてある簡単な花火セットだ。
俺がバケツを購入してから、十分ほど一人公園で待っていた甲斐あって、藍田の用意してきた花火は実に種類に富んでいた。
「水汲んで来るわ」
「え、私が行くよ。誘ったのはこっちなんだし」
「重いだろ、こういうのは男が行くんだよ。藍田は荷物見ててくれ」
俺は有無を言わさず、バケツを手に取って水道まで駆ける。
後ろから「ありがと」と小さな声が追いかけてきた。
蛇口を捻ると、ぬるい水がバケツに勢いよく入水する。満水に近い水位まで粘ってから持ち上げると、藍田に持たせなくて良かったと心底思った。
女子一人には重すぎる。
藍田の元に到着すると、口から大きく息が漏れた。
「ふいーっ」
「お疲れ様」
藍田は小物入れからハンカチを出して、俺の額に軽く当てる。
汗が拭き取られるだけで、随分と涼しげな気持ちになれた。
「あざす」
「ん」
短く返事をした藍田は、並べられた蝋燭の周りにアルミで風を防ぐ壁を作っている。
「なにこれ」
「ここで花火を点火するの」
藍田は口元を緩めて言った。
俺はポリ袋の中身を除きながら息を吐く。
「じゃあ、チャッカマンの出番は
「あれ、ずっとチャッカマンが良かった?」
藍田の問いに、口角を上げる。
「男子はこのカチカチする感覚が好きなんだよ」
「毎回やってたら絶対面倒になるよ。見て、この量」
藍田が指差した場所に視線を落とすと、袋から出された大量の花火。
思っていたよりもボリュームがあったらしい。
中にはネズミ花火やロケット花火が混じっていて、それらは端の方に寄せられている。
「確かに、男女二人でやるもんじゃねえな」
俺の言葉に、藍田は小さく笑って頷いた。
「でしょ。近隣住民の迷惑にもなるしね」
「さすが、優等生の鑑」
「褒めても何も出ないよ?」
「別に褒めてはねえよ」
「えー、褒めてよ」
藍田はそう言って、唇を尖らせる。
その表情、仕草と、彼女は抜群に可愛い。
だが、何かがいつもと違っていた。
濃密な時間を共に過ごしてきたからこそ分かる微々たる差異。それを生み出しているのが一体何なのか、俺には分かる気がした。
少し頼りない蝋燭の火に手持ち花火を
「綺麗」
「……だな」
二人で屈みながら、どんどん花火を消化していく。
時には両手で持って身体を回転させてみたり、タコおどり花火をゆっくり眺めてみたり。
雑談はあまりしなかった。
花火の音だけが聞こえる、非日常的な時間。
無言ではあるが、二人で過ごしたどんな時間よりも、心が通っている気がした。
「わっ」
どのくらい時間が経っただろうか。
唐突に、藍田が声を上げた。
「どうした?」
「……あと残ってるの、線香花火だけだ」
その言葉に、俺は驚く。本当にあっという間だったからだ。
あれだけ積み上げられていた花火は軒並みバケツの中に放り込まれおり、すっかり鎮火している。
言葉も交わしていないというのに、時間の流れがあまりにも早い。
「付き合ってくれて、ありがと」
「いや、俺も楽しかったから」
小さく笑いながら答えると、藍田は沈黙する。
怪訝に思って見上げると、至近距離に藍田の顔があった。
「……ど、どうした」
「……あのね、桐生くん」
藍田はニコリとして、何でもない事のように、明るい声色で言った。
「──別れよっか」
夜の公園に沈黙が降りる。
本当は『最後に夏祭り行かない?』というメールを見た時から解っていた。
──"最後"とは、こういう意味だ。
目蓋をグッと閉じる。
藍田はあの告白の返事を欲していた。あの時俺が「最近は藍田のことを解っているつもりだ」と言った言葉に嘘はない。
俺が答えを返さない期間を、藍田は拒否と捉えうることも知っていた。
今日俺は、今の藍田との関係を恋人とは思うことができなかった。
射的屋のおじさんにも、話を合わせただけだ。
本当は、俺の口から言わなきゃいけなかった。
「俺は──、」
自分が何を言おうとしているのかも分からないまま、口を開く。
だが、藍田は静かにかぶりを振った。
「いいの。今日より前に言われてたら、今のこの時間はなかったから」
藍田は少しだけ寂しそうな表情を浮かべて、線香花火を手に取る。
俺も一本を取って、最後の線香花火に着火する。
「同じ別れでも、メールで終わらせるのと、電話で終わらせるのと。教室で終わらせるのと、体育館で終わらせるのと。終わらせる場所によって、後から振り返ると全然違う印象になると思うんだ」
俺が人生で初めて振られた、中学三年の秋。
場所が屋上だったということが、余計に記憶に残る出来事にさせていたとは言えるかもしれない。
「ほら、どう? ……今くらい、素敵な別れ方、私思い付かない」
夜の公園に、二人で線香花火。
お互いが、お互いの線香花火を見守っている。
儚げな情景に、今までの藍田との想い出が脳裏に過ぎった。
蕾。藍田と出逢った、体育館。
牡丹。藍田に告白した、赤とんぼの舞う屋上。
松葉。藍田と再会して久しぶりに言葉を交わした通学路。
柳。藍田と付き合い始めた体育館裏。
散り菊。──今。
萎んでいく火の玉が、最後に一際大きな輝きを放つ。
「あっ」という声が、俺の口から漏れた。
落ちた火の玉はチリチリと地面を焦がす。
顔を上げると、どの花火よりも華やかな浴衣を羽織っていた藍田が、目に透明な雫を溜めながら、掠れる声で言った。
「……今まで、ありがと」
「……こちらこそ」
答えると、藍田の瞳から透明な雫が溢れた。
藍田は深く頷くと、おもむろに腰を上げる。
「私、行くね」
藍田は最後に俺の頬に触れて、去っていく。
「……後片付けは一人か」
口角を上げようとしたが、上手く表情を作ることができない。
笑いたくもない時に笑おうとするのは、案外難しい。
唇をギュッと噛んで、俺は込み上げてくるものを耐える。
ひぐらしの鳴き声が、夜の帳に飲み込まれるように消えていく。
夜空を眺めると、笑ってしまうくらい見事な満月が俺を見下ろしていた。
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