第63話 夏祭り

『最後に夏祭りに行かない?』


 そんなメールが届いたのは、夏休みが残り一週間となった八月下旬。

 俺は冷蔵庫から取り出していたアイスクリームを一旦戻して、携帯の画面を凝視する。


「……藍田か」


 送信元は藍田。

 俺の──彼女という表現は、今となっては適していないかもしれない。

 未だにあのキスが脳裏に浮かんで消えてくれない。

 いつになく弱っていた藍田のキスは、俺にとってのファーストキスだった。

 男のファーストキスなんて口にするだけでなんだかむず痒くなってしまう話だが、女子は違う。

 恐らく藍田にとっても、あれがファーストキスだったのではないだろうか。

 だとすれば、俺と藍田のそれに対する価値が同じな訳がない。

 相手は、藍田奏だ。

 綺麗で、高校生にして既に妖艶な一面もあって、それなのに意外と子供っぽい部分もあって。

 俺しか知らない一面だって沢山あるはずで、俺はそのことに誇らささえ感じる。

 そんな相手と唇を重ねたことに高揚感が全くないと言えば嘘になる。

 ──だが、胸に燻りがあった。

 この燻りの正体が不明瞭なうちは、衝動のままに行動することは避けた方が良いと思う。

 衝動のまま行動し続けた結果がどうなるか、今の俺は知っている。

 それは中学のチームメイトが、体当たりで教えてくれたことだから。

 それでも。

 この誘いを断る理由にはならないかなと思ったから。


『行こうか』


 四文字だけ打って、返信した。


 ◇◆


 八月下旬に開かれる祭りは、結構珍しいと思う。

 だから藍田が誘ってきた夏祭りがどこで開かれているものを指すのかは、言われなくても分かった。

 地元の小学校で開かれる祭りだ。

 此処は、かつて俺と理奈が通っていた小学校でもある。

 有名な祭りには遠く及ばない規模だが、校庭に丸々出店が連なっていることもあり、小学校という単語から連想される規模感ではない。

 出店には簡単な審査が行われており、ぼったくる気満々の出店は入ることができないので、比較的安全して楽しめる。

 ──そして。


「行こっか」

「おう」


 合流した藍田は、浴衣姿だった。

 浴衣は黒の生地に真紅の花が散りばめられていて、髪には大きめのかんざし。それが藍田に一層の大人びた雰囲気を纏わせている。

 もしかしてと思っていたが、本当に浴衣で来るとは。

 高校生にとって浴衣は高価で、かく言う俺も浴衣を持っていない。

 親の浴衣はまだサイズが合わないし、一日のために一万円以上使って用意をするのは、酷く非効率な気がするからだ。

 だが、藍田は浴衣を着てきた。

 親のものなのか、レンタルしてきたのかは分からない。

 藍田の浴衣姿は雑踏に紛れることなく、凛とした存在感を放っていて、周りの目を惹いているのが隣で歩いている俺へ如実に伝ってくる。


「ね、桐生くん。どうかな?」


 下駄を控えめにカランコロンと鳴らしながら、藍田が訊いてきた。

 チラリと隣を見ると、藍田の大きな瞳と視線が合う。

 こうして藍田と一緒に出歩くのは、夏休み前の時以来だ。

 たった一ヶ月程度時間が空いただけなのに、随分と久しく会っていなかった気がする。


「似合ってる」


 藍田奏という女性の魅力を最大限に引き出すような浴衣姿。

 自分で自分の魅力を把握していなければ、こんなにも似合う服装を選ぶことはできないだろう。

 ……そんな穿った見方をしようとしなくても、単純に似合っていると思う。

 藍田は俺の言葉に意外そうな表情を浮かべてから、口元を緩めた。


「男子三日会わざれば刮目して見よ、か」

「え?」

「ありがと」

「……うん」


 特に何も成し遂げた訳ではないので、俺に刮目かつもくするところなんてないだろう。

 そんな事を思い訊き返してしまったが、藍田から見れば俺に何らかの変化を感じたのかもしれない。


「会場に着いたら射的しようぜ」

「あはは、うん。しよっか」

「なんで笑ったんだよ」

「会場に入る前から射的に行こうとするの、男の子だなぁって。女子同士だと、最初のお店はりんご飴とかが多いと思う」

「じゃありんご飴食べてから!」

「曲げなくていいよー、最初に射的しよ?」


 藍田は俺の背中をトンと押して、会場へ促した。

 触れられた部分が若干の熱を帯び、そして消える。

 会場に着くと、思っていたより人は混雑していて、普通の祭り会場と何ら劣らないものになっていた。


「人多いな」

「人気なんだね。この時期にお祭りしてるの、近くじゃここくらいだから集まってるんだろうな」


 俺も、その事はよく知っている。

 小さい頃からこの祭りには毎年参加していたから。


「何か取ってやろうか」

「射的で?」

「そう、射的で」


 最初に見付けた射的屋に入り、少し並んでから店主から銃の玩具を受け取る。


「頑張れ〜っ」


 後ろで応援する藍田に、店主も口角を上げて煽ってくる。


「にーちゃん、彼女さんが応援してるぞ。ここで取ったらカッコいいぞ〜」

「──っ」


 今の俺たちにとって、恐らく彼女という単語はかなりデリケートな部分に触れるものだ。

 構えていた銃がぴくりと動いたのが、自分でも分かる。


「彼女さんは何を取ってほしいんだ?」


 この店主は第三者だから悪気も何もない。

 ただ祭りの場を盛り上げようとしてくれている、気の良いおじさんだ。


「え、えっと──」


 藍田は少し困った様子を見せる。


「あれなんかいいんじゃないか?」

「え?」


 俺が指差したのは、ハシビロコウの小さなぬいぐるみ。

 以前の放課後に藍田が好きだと言っていた、目付きの悪い鳥だ。


「あ、うん。あれいいかも」


 藍田が言うと、俺は頷いて照準を合わせる。

 ぬいぐるみは棚の端の方にあり、一番上の段にあるのでかなり遠い。

 射つ位置が決まっているので、近付いて射つことはできない。弾は四発。

 一発目は命中。だが、ぬいぐるみは揺れただけで倒れてくれない。

 二発目、三発目は隣の賞品に当たり、そのうちの一つが落ちた。

 残弾は一発。

 店主のおじさんは嬉しそうに笑ってから、「近付けてやろう」と歩き始めた。


「これで取るんで大丈夫です」


 俺が断ると、店主と藍田は同時に「えっ」と反応する。

 反応があったの同時に、射った。

 弾はハシビロコウの頭上に命中し、ゆらりと揺れる。

 今までで一番大きな揺れ方で、そのまま落ちていった。

 後ろで藍田が「わっ!」と小さく歓声を上げる。


「なんちゅータイミングで射つんだ! 彼女の前で良い胆力してるな」

「当たる確信があったんで」


 本当は取れるまで射つつもりだったので、気軽に射てただけだが。

 そんな胸中も知らない店主は「気に入った!」と、命中させた賞品の他にお菓子をおまけしてくれた。

 射的屋の店主に手を振り、二人で少し離れた場所に落ち着きに行く。

 出店が並ぶ端の方は人も疎らで、俺たちは一旦立ち止まった。


「ほら」


 ぬいぐるみを藍田に手渡しする。


「──いいの?」

「いや、あげるために射的したんだし」


 藍田の掌に乗せてやると、目付きの悪いハシビロコウの表情が僅かに緩んだ気がした。

 十中八九気のせいだろうが。


「……ふふ。ありがとっ」


 いつになく嬉しそうなお礼に、思わず藍田の顔を見る。

 吸い込まれるような大きな瞳が、俺を映していた。

 かつての俺が惚れていた時以上の微笑みが、そこにはあった。

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