第56話 模索
夏休みに入った三週間後、八月中旬。
俺は一人体育館へ訪れていた。
今日男バスの練習は休みだ。女バスと違い、男バスは比較的緩やかな練習スケジュールが組まれている。
それでも体育館に来たのは、家で一人になりたくなかったからだ。
一人になると、頭の中をあの事で支配されてしまう。
──答えは未だ出せていない。
藍田は返事を催促することはなく、練習でも普段通り接してくる。何も変わらないその挙動に、俺はあのキスが夢だったのではないかと思わず疑ってしまう程だ。
「ちょっと、あんたこんなとこで何してんのよ」
体育館の入り口付近に立っていると、後ろから声がかかった。理奈だ。
「男バスって今日練習無いでしょ? 何しに来たの」
「家にいても暇だからな。ボールだけ貸してもらって、隅の方で触ってよっかなって」
「え、そっちの方が暇そうだけど」
理奈は怪訝な表情を浮かべる。
確かに、いつもの俺なら自分からはあまりしない練習だ。ボールをその場で永遠とドリブルするのもスキル向上には必要な積み重ねだが、小さい頃からボールに触れてきた俺にとっては退屈な時間でしかない。
「今のうちに基礎見直すんだよ。上を目指すためにな」
「はいダウト、あんた家に居たくないだけでしょ」
鋭い指摘に顔をしかめるも、俺は認めることにした。
「ああ、まあな。ちょっと色々あって」
藍田に本当の恋人になるための告白をされ、返事を考えている。それに、キスをされた。家で一人になると色々考えてしまうので、体育館へ来た。
そんなこと理奈に言える訳がない。
「色々ねぇ」
どうせ藍田さんのことでしょ、とでも言いたげな声色だ。
「ま、今はいいわ。それならあんた、女バスの練習に参加する? 勿論全部への参加じゃないし、そもそも許可されるかも分かんないけど」
「いいのかよ。俺男子だぞ」
「そんなの見たら分かるわよ。それに以前は試合もしたでしょ。練習くらい余裕よ」
理奈は俺を体育館へと促すと、扉を閉めた。
奥にはちらほらと女バス部員が練習開始前の自主練をしている。
だが覇気は感じられない。ただ作業的にシュートを繰り返し撃っているだけで、身が入っていないのだ。
「今ちょっと女バス元気ないの。インターハイ行けなかったから。だから何か刺激が欲しいの」
理奈が溜息を吐く。
俺もその試合は聡美と観に行っていた。
インターハイ出場を懸けた試合で理奈はダブルチームで徹底的にマークされ、他の選手のみで戦うことを余儀なくされたのだ。それでも理奈一人でディフェンスを二人引き寄せるのなら数的優位を確保したのは北高で、有利なはずだった。
だが、理奈を抑えられた北高女バスは脆かった。
相手が昨年全国ベスト8の成績を残した高校だったことも大きく、試合は43-76。惨敗だった。
「あれはお前のせいじゃないよ」
敗因を挙げるなら、他の選手の力不足だ。
数的優位をほとんど活かせず、オフェンスが成功しなかった。
「誰のせいとか、どうでもいい。もう、私以外のスタメンは引退した」
ピリついた声に、俺はハッとする。
引退した先輩たちに敗因があるのは事実だ。
だが理奈は決してそんな言葉を欲しがりはしない。先輩と抱き合い、共に泣くような関係を築いていた理奈にとって、俺の言おうとした事は看過できないものに違いなかった。
「……悪い」
うなだれると、理奈は首を振った。
「ううん。慰めようとしてくれたことは分かるから」
そう言って、理奈は俺の頭をポンと叩いた。
理奈はいつもこうだ。
何があっても自分の芯をしっかりと持っている。天真爛漫なイメージの影に、そうした強さがあることを皆んな感じているからこそ、部内での信頼も厚いのだろう。
そして俺もそうした理奈の強さにはいつも心を動かされる。
理奈といると成長できる。そんな気持ちがいつ生まれたのかは分からない。
だがその気持ちが、未だ発展途上であることを俺は密かに感じていた。
「ボール取ってきたわよ。何ぼーっとしてんのよ」
オレンジ色の球体がこちらにバウンドしてくる。
それを拾い上げると、人差し指に乗せて回転させた。
「お前ってすごいよな。いつも曲がらないところ。正直憧れる」
ボールの回転する音がやたらと大きく聞こえる。
理奈は何度かまばたきをした後、口を開いた。
「なにいきなり」
「いや、思ったことがそのまま口から出た。忘れて」
「……変なの」
そう言いながらも、理奈は少し照れたように笑った。
理奈の笑顔が変わったからなのか、俺の認識が変わったからなのか。その笑みは何だかいつもと違う気がした。
「んじゃ陽、私キャプテンに許可取りに部室へ戻るから。適当に遊んでて」
理奈はそう言い残して体育館から出て行く。
後ろ姿は心なしか先ほどより元気に見えた。
◇◆
掛け声が体育館に飛び交う中、俺と理奈は隅の方でハンドリングをしている。
ボールを自在に操っていると、不思議と心が安らぐことに気付く。いつも敬遠しがちな基礎練にも意味があると誰かに言われているみたいで面白かった。
「ねえ、陽ってさ。藍田さんと最近どうなの」
「どうってなんだよ」
ボールを細やかにバウンドさせながら返事をした。
理奈は無言で続きを待っている。もう何かあったのだと分かっているのだろう。
俺は何も話したくない。
余計な心配を掛けたくないから? ──それもある。だが話したくない理由は恐らくそれだけではない。
気持ちを誤魔化すようにボールをゴールへ放る。
シューティング中の女バス員が驚いて俺を見たので、慌てて頭を下げた。
「何やってんの。今から参加したいの?」
理奈が訊いてきたので、逃げるように頷いた。幼馴染の大きな目を見れないと思ったのは久しぶりだ。
理奈はリングから弾かれたボールを拾う。
「そ。じゃあちょっと予定より早いけど、少しの間ゴール一つ貸し切るから。待ってて」
言い残して理奈は新キャプテンらしき先輩の元へ駆ける。
貸し切る? 先程は練習への参加と聞いていたのだが。
疑問に感じるも、話が逸れたことに内心胸を撫で下ろした。
しばらくすると新キャプテンらしき先輩が一人こちらへ歩いて来た。近付くにつれ年上という雰囲気が如実に感じられて、思わず背筋が伸びる。
「こんにちは、桐生君。主将の
長い黒髪を高い位置で束ねており凛とした佇まいだ。
目幅は狭めだが目力があり、風格があった。
「こんにちは。あの、理奈からは何て……?」
理奈からどんな事を喋られているのか興味があった。
質問すると九条先輩は淡々と言った。
「バスケが強い。それ以外はからきし」
「誰がからきしだ!」
思わずつっこむと九条先輩は表情を変えることなく、「それは理奈に言って」と返す。
恨めしげに理奈の方を見ると、理奈は奥で呑気に後輩と談笑していた。
「さてと、ゴール貸す代わりに」
「はい」
何かお願いされるのだろうなと直感し、女バスの練習に参加したことを後悔した。体育館の掃除を一人でしろと言われたら億劫だ。
だがその内容は俺の想像からかけ離れたものだった。
「私と此処で1on1しなさい」
「えっ1on1ですか?」
男女の1on1など、条件が違っておりフェアな勝負をするのは難しい。理奈の様な実力者ならこちらも気兼ねなくできるのだが──
「ははっ、正直な顔」
「え?」
「理奈以外の女子とやっても仕方ないみたいな顔してた。失礼な男子」
「いえ、あの、すみません」
「謝っちゃだめでしょ、認めることになるんだから」
九条先輩は短く息を吐き、上を見上げた。
「この前の敗因は分かってる。理奈以外が機能しなかったからって」
俺が何か言おうとすると、それを視線で遮られる。
「勘違いしないで、引退した先輩方を責めているんじゃない。他の誰が出てもそうだったし、先輩方は私たちより実力があった。私が出たら恐らくもっと点差は開いてた。……エースは真っ先に封じられる。これに対抗する方法は他の選手が実力を伸ばすことって私は思う」
九条先輩がバッシュを床に擦り音を鳴らした。
「以前理奈と1on1してたよね。勝敗は?」
部員の前でしたのは、まだ地区大会も始まっていない頃だ。大会前に別のことで身の入らないプレーをしている俺に、理奈は1on1で喝を入れてくれた。あの時は確か──
「……負けましたね。俺はその時オフェンスしかやってないですけど、ボールカットされました」
「そ。なら今日も桐生くんはオフェンスだけでいいよ」
九条先輩の真意は図りかねない。
とりあえず言われた通り、俺はボールをつき始めた。九条先輩もそれに呼応して体勢を沈める。
特にフェイントをかけずに歩いてみる。バウンドの高いボールは、相手が理奈ならばもう俺の手元には無い。
九条先輩は俺の緩やかな動きを逆に警戒している様子だった。ならば九条先輩が警戒しているであろう動きをそのままなぞってみようと、ボールが手元に来た瞬間一気にギアを上げる。
スピードの緩急に付いて来れなかった九条先輩の姿が視界から外れ、リングが頭上へ現れる。
そのままシュートを撃ち、ネットを揺らした。
「凄いな、やっぱり」
「ありがとうございます」
「うん、もちろん君もだけど。貴方に対抗できる理奈も」
九条先輩は、やはり淡々とした口調で言った。
一瞬の攻防だったので息は切れていない。
「だけど、これが理奈より強いかは判らないな。あの子は1on1なら桐生君の方が強いと言ってたけど」
そのまま三回続けて対戦するも、どれも攻防と言えるほどの時間を要することなく勝負はついた。
気がつくとギャラリーも増えて、理奈も俺と九条先輩の対戦を眺めている。
「先輩、そろそろ」
「いや、もう一回だけ。五回勝負って決めてたから」
仕方なく再びドリブルを始める。
ボールが手に吸い付く。
軸足を僅かに動かすが、九条先輩はボールを見つめたまま動かない。
この変動を察知しなければ俺を止めるのは難しい。
いつでも抜ける。
だが俺はその場に留まっていた。
これまで四回対戦して、全勝。このまま五回目の対戦も簡単に決めてしまうか、正直迷う。
理奈は敗戦により女バスの活気がないと言っていた。新しい主将がこうもあっさりと退けられたら、それを助長させることにならないかと危惧してしまう。
「全力で来て」
九条先輩は少し強い口調で告げた。
「その方が、理奈との差がよく分かる」
──この先輩は強い。
バスケの実力以上に、強い心を持っている。だからこそ主将を務めることになったのだろうが、俺は素直に尊敬した。学年が一つ違うだけで、果たしてここまで割り切れるものなのだろうか。
俺には難しい。俺はバスケ以外これといった取り柄がない。そのバスケで、中でも得意の1on1で負けることはどうしても看過できない。
藍田が唯一口に出して俺を褒めるのは、バスケについてのことだけだ。
皆んなが俺を褒めるのはバスケについてのことだけだ。
かつてはそれだけでいいと思っていた。何か褒められることが一つあるだけで、それは随分立派なことではないのかと。
だがあの瞬間。藍田からキスをされた瞬間、俺の中で何かが弾けたのだ。
その瞬間だけ、俺を繕っていたバスケという装飾は存在せず、存在するのはこの身一つだけだった。
俺が強く在ることができたのはバスケをしている時くらいだったと悟ってしまった。
自覚できたからこそ、俺は自分にない強さを持つ九条先輩を尊敬する。そして勿論、その感情は理奈に対しても。
もし彼女達の強さを俺も持つことができれば、見える景色も違うのだろうか。例えば、藍田の告白も。
「──陽」
ギャラリー席から聴こえた理奈の声に意識を引き戻される。
そうだ、考えたいことは山ほどある。
だが今は。
「分かりました。全力でいきます」
この瞬間だけは、目の前のことだけを。
俺はボールをつく指先に力を込めた。
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