第57話 オレンジジュース
九条先輩は短く息を吐いて、額に浮かんだ汗を拭った。
「さすがね。手も足も出なかったわ」
「いえ……」
こうした時、何と言えばいいのか分からない。そんなことないですよ、なんて誤魔化しが効かないほど完封したのだ。最後は攻め辛かったですなんて言っても、どこか上から目線に感じられそうで憚られる。
だから続けざまに九条先輩が口を開いた時は安堵した。
「理奈には、こうもいかないんでしょ?」
「そう……ですね」
「気を遣わなくていいから。それじゃ、見物させて貰うわよ」
そう言い残して、理奈が入れ替わりにやってくる。
「先輩、お疲れ様です」
「お疲れ……って、嫌味か!」
「違いますよ!」
九条先輩と理奈のやり取りに、見物している女バス部員たちはクスクスと笑う。九条先輩が完封されたのは、女バスの士気を下げることには繋がらなかったらしい。俺は胸を撫で下ろした。
「んじゃ陽、やろっか」
「また皆んなの前かよ……」
小声でぼやくと、理奈は苦笑いした。
「今日はちょっと、女バスのリハビリを手伝って。もう少しみたいだから」
「もう少し?」
辺りを見渡すと、どうやら先ほどより笑顔の数が増えている。俺と理奈の1on1を、純粋に楽しもうとしているのか。
「対抗する方法は他の選手が実力を伸ばす。確かにそれが効率いいわ。理に適ってる。でも、それは私たちエースが出すべき結論じゃない」
理奈にボールをパスされる。それが1on1が始まる合図となる。
「これは、あんたにも通じることだから。私たちエースは仲間を信じるのも必要。でもね、それと同じくらい自分も信じてあげなくちゃ」
理奈はそう言ってボールをつき始めた。
ドリブルのリズムから、理奈がこの勝負に猛っているのを感じ取る。
「エースも成長する。成長すれば勝てるようになるのは、皆んな同じ。それを私はこのプレーで伝えるの」
瞬間、理奈がダックインしてくる。1on1が得意な人に共通するのは敏捷性の高さだ。理奈のそれは女子の中では破格と言ってもいい。一瞬でも気を抜けば、俺も食われてしまう。
唐突に視界からボールが消えた。理奈の姿は変わらず捉えているのに、ボールだけが無い。
後ろからドンッと音が聴こえて、俺は何が起こったのを察した。理奈は抜き際に、バックボードへボールを下から投げたのだ。
「──は!?」
理奈はボールを持たないままターンして俺を振り切る。振り切った位置にボールが落ちてくるのを確認するや俺は距離を詰めるも、理奈のタップシュートが僅かに先を行った。
ゴールに入るのを見てギャラリーは歓声を上げた。
バックボードを利用してダッグインした方向と逆の位置にボールを落とすなんて、相当練習したことは明白だ。
今しがたのプレーは1on1でしか使えない、言わばストリートバスケのテクニック。実戦ではゴール下にこんなスペースがあることは稀だし、速攻でスペースを作れたとしても一歩遅れる。タップシュートでそのスピードを速める努力もしたようだが、それでも現実的には難しい組み合わせだった。
だが、ギャラリーは湧いた。
女バス部員は、俺が体育館に入ったばかりの頃とは見違える。笑い、興奮し、自分もあのプレーを真似してみたいと近くにあるゴールへ駆けていく。
理奈のプレーは、沈んでいた女バスに活力を取り戻させたのだ。
「以前ダブルチームに1on2仕掛けてね、そりゃまあ全国ベスト8のチームだし、あんまし結果残せなかった訳」
理奈が横で話し始める。
「こうした奇を
「実戦で使えるかは怪しいけどな」
そう言いながらも、理奈の目的がその先にあることは気付いていた。俺が気付いていることに理奈も分かっているようで、軽く笑う。
「ううん、得点以上に、チームを盛り上げることが大事なのよ。男バスでいうダンクみたいなものよ。同じ得点でも、士気はダンクの方が上がるでしょう。封じられても、鼓舞はしたいから」
「それで俺を引き立て役にしたんだな。どうだった、俺のやられ方は」
「もう最高。これでもかってくらい綺麗に決まって、私も超気持ち良かったし!」
「ちぇ、この野郎!」
俺は転がったボールを回収し、きつめにパスした。
ボールを受け取った理奈は顔をしかめる。
「野郎じゃないんですけど。淑女なんですけど」
「細けーな。とりあえず次は俺がオフェンスだぞ」
スリーポイントラインまで移動すると、理奈は愉しそうに笑った。
◇◆
1on1を終えて何処か清々しい気分になれた今なら、話せる気がする。
女バスとの練習が終わった帰り道、学校付近の山道を下りながらふと思った。
横では理奈が先程自販機で買ったジュース缶の封を開けるのに奮闘している。
俺は自分のジュースを一口飲むと、一言告げた。
「藍田に告られた」
「……はい!?」
唐突の発言に理奈は大きな声を出す。
「告られた……っていうのは、どういう?」
缶を開けることよりこの話に集中ことを決めたのか、理奈は缶を鞄に放り込む。
「藍田と俺は、その。本物の恋人関係じゃないだろ」
「やっぱりそう……よね。いや、それは知ってるけど」
歯切れの悪い返事に、俺は首を傾げた。
それに応えるように理奈は口を開く。
「最近それも怪しいなと思ってたから。傍から見たら、普通のカップルだったし。最近特に、さ」
「……でも、始まりがあれだしな。仕切り直さない限り、本物にはなれない。少なくとも、藍田と俺が互いにそう思ってたからこそ、藍田は告白してきたんだと思う」
「……藍田さんが、告白か。以前のような強制はしてこないのよね?」
念のため、という口調で訊いてくる。
「してこない。返事はしっかり考えてからしてほしいとも言われた」
「……そう、変わったのねあの子」
理奈なら「騙されている」と言ってくるかもしれないと思ったが、不思議と信じているようだった。
「それで、だったら何が問題なの」
質問が核心に迫る。
告白に対する答えはまだはっきりとは出ていない。俺はそれ以前の場所で躓いている。その枷を取り除くために、この胸中に渦巻く想いを誰かに話しておきたかったのだ。
「──藍田は俺を見ているのか。それとも俺のバスケを見ているのか。藍田が好きと言ったのは、本当にこの俺なのかなって……考えちゃってさ。一旦考え出すと、告白の答えを出すどころじゃなくなっちゃって」
自惚れだろうか。痛いやつだと笑われるだろうか。だが、一度芽生えてしまった疑念は一人で抱えるより、誰かに話してしまった方が楽だと思った。
理奈はしばらく黙っていたが、やがてポツリと呟いた。
「名刺みたい」
「……名刺?」
「うん、勿論比喩だけど。人間、誰にでも名刺はあると思うの。他人に見て貰う上でまずはじめに確認される物……みたいなね」
黙って続きを待つ。理奈は俺に語るというより、自分に言い聞かせるように言葉を紡いでいく。
「それは藍田さんのように容姿や雰囲気が名刺になったり、タツくんのように陽気さが名刺になったり。あんたにとってはそれがバスケなのね、多分」
「じゃあ仮にバスケっていう名刺を無くしたら、藍田からどう思われるんだろうな」
思わず自嘲気味な口調になる。不安に拍車がかかったとはいえ、子供っぽい態度に我ながら閉口してしまう。だがそれも、相手が理奈ならばそれも許容してくれると思えた。
「名刺なんて見られるのは最初だけよ。後はその人自身によるでしょ」
「その人自身、ね」
「そうよ。あんたは立派な名刺を藍田さんに渡した後、その後何にも喋ってないんじゃないの。何にも喋らないと、名刺から生まれる想像だけで判断するしかないでしょ。それが嫌ならきちんと向き合いなさいな」
「それは──」
言う通りかもしれない。
藍田と付き合って、少し経った。期間にしては短いが、高校生という身分だからか体感では長く感じている。
話を沢山した。週末にはデートも行ったし、たまに電話もして、学校でも一緒にいることが多かった。
俺は藍田としっかり向き合ってきたのだろうか。藍田に好かれる要素がバスケしかないのではと下手な勘繰りを入れてしまうのが、その疑問を否定する答えになってはいないか。
俺は心の中で首を振る。
向き合っていなかったのは、過去の話だ。
藍田を判りたい。
その想いを以前のデートで、面と向かって口にできたからこそ、多分藍田は告白してきたのだ。
「ありがとう。何か色々吹っ切れた気がする」
「ふん。もう私これ以上、何も言わないからね」
情けない質問だった。
他の人にはこんな自分は見せたくない。だが、不思議と理奈に見せることはできる。付き合いが長いから、幼馴染だからという理由だろうか。
理奈は鞄から缶を取り出して無理矢理開け、仰ぐ様にジュースを飲んだ。俺もそれに倣うと、刺すような日光が襲ってくる。
口に含んだオレンジジュースは、いつもより甘ったるく感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます