第47話 抱擁
久しぶりの香坂家の団欒、俺のために腕を振るったであろう豪勢な料理。
生憎と理奈の父さんはいなかったが、心の温まる時間となった。
「ご馳走でした、めっちゃ美味しかったです」
あさりの酒蒸しなど、佳子さんの作る貝料理は抜群に美味しかった。
居酒屋で食べると倍美味しいのよ、とは佳子さんの言葉。
大学に行く楽しみが増えてしまった。
「お粗末様でした! 私も久しぶりに陽ちゃんとご飯食べられて嬉しいわぁ、またいつでも来ていいのよ?」
「ありがとうございます、ぜひぜひお邪魔したいです」
佳子さんは俺の返答に満足そうに頷くと、ふと思い付いたように提案した。
「陽ちゃん、今日は昔みたいに泊まっていく?」
「はあ!?」
理奈が横で仰天する。
俺はそんな理奈を横目に、
「いえ、さすがにそれは──」
──彼女もいるので。
そう言おうとして、佳子さんの反応を想像して踏みとどまる。
面倒なことになるのが想像できるので、明言を避けたほうが良いだろう。
「……お互い、もう高校生ですし。今日はここでお暇します」
「あらもう、ご丁寧にどうも! そういうことなら仕方ないわねぇ」
佳子さんは愉快そうに笑うと、リビングから上に続く階段を指差した。
「じゃあ、理奈の部屋だけでも見ていって? 久しぶりの家だし話題には尽きないでしょ?」
以前、あの階段に上がったのはいつのことだったか。
あの時は俺も理奈もまだランドセルを背負っていたはずだ。
「いや、遠慮しときます。さっき電話で理奈に入るなって忠告されたんで」
「あら、そうなの?」
断ると、佳子さんは残念そうな声を出した。
いくら幼馴染とはいえ、年頃の娘の部屋に男子を入れたがる母も珍しいだろう。
席を立つと、理奈が口を開いた。
「別に言ってないわ、来なよ」
「は?」
「待ってるから」
そう言い残して、理奈は先に部屋へ戻って行った。
なんなんだ、さっきは部屋に入らないなんて約束まで取り付けたくせに。
戸惑っていると、佳子さんは「なんだ、陽ちゃんが恥ずかしがってただけなのね!」と俺の背中を押す。
「い、いやいやいや」
断ろうとするもグイグイと二階に引っ張って行かれ、ついに部屋の前まで連行された。
部屋にはプレートが掛かっていて、カラフルな文字で『理奈』と描かれている。
「これって」
覚えている。
あれはまだ小学生の頃だ。
両親が共働きで夜帰るのが遅く、俺は学童に預けられていた。
そこでは楽しく遊んでいたが、三年生が終わると学童は卒業しなければならない。
急に遊ぶ友達が減ってしまった四年生の夏休みは、家で過ごす毎日。
夏休みでなければ、学校でバスケができるのに。
週に一、二回しかないミニバスじゃ夏休みの空虚感は拭えなかった。
そんな時、不意にインターホンが鳴ったのだ。
「遊ぼ?」
カメラ越しに見えたのは、バスケットボールを抱えた理奈。
小さい頃からバスケなどを通して遊んでいたし、学校でも話すことは多かった。
だが長期休みに遊びへ誘われたのは初めてのことで、俺はつい「やだ」と断ってしまった。
それを聞くなり理奈はさっさと家に帰り、数分後に戻って言ったのだ。
「家で遊ぼ。絵描くの好きでしょ」
その日、理奈と部屋に掛けるプレートを描いた。
理奈の家で遊び出したのは、そこからだ。
俺はとっくに閉まってしまったが、理奈はこうして未だに掛けていたのだ。
「これ、前と変わってないでしょ。あの子も愛着湧いてるみたいでさ」
「……そうですね」
懐かしい。
理奈と高校で再会した時、あいつはそれまで空いた時間を感じさせないくらい変わらない態度で接してきた。
それはあいつが普段誰とでも仲良くするように、再会した俺にも同じ振る舞いをしていただけだと、そう思っていた。
だが恐らくは違ったのだ。
こうして思い出をいつも目にすることで、あいつはこうした懐かしさを毎日感じていたのかもしれない。
「あいつ、俺がいない中学時代、寂しそうでした?」
「え?」
こんな質問、的外れなら大笑いを通り越してドン引きだろう。
だが佳子さんは少し間を置いて答えた。
「たまに部屋に入る前、そこにあるプレートをちょっと眺めてたわ」
「……そうですか」
理奈はどんな気持ちでプレートを眺めていたのだろうか。
その情景を思い浮かべても、俺に答えは出せそうになかった。
今、出してはいけない気がした。
「あの、今質問したことは」
「分かってる、理奈には言わない」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、佳子さんは一階へ降りていった。
佳子さんが出て行くのを見届けてから、理奈の部屋前に移動する。
二回ノックをして声をかけた。
「は、入ってますか」
「ここはトイレか!」
デジャヴを感じるツッコミと共に扉が開く。
「ほら、入りなさいよ」
「あざす」
扉をくぐると、微かに理奈の香りが強くなった気がした。
流行りのマスコットのぬいぐるみやテーマパークの建物が映るカレンダーなどが壁に掛かっていて、理奈のイメージ通りの部屋といえる。
バスケのユニフォームには沢山の寄せ書きがびっしりと書かれていて、人気の高さが垣間見えた。
「で、感想は」
「意外と片付いてる」
「しね」
「すみません」
今のが女子の部屋に入った感想じゃないことは自覚している。
だが気の利いた言葉が思い浮かばなかったのだ。
理奈の部屋だから許されるが、将来の自分が少し心配になった。
「あんた、あんまりお姉さんを心配させんじゃないわよ」
唐突に、理奈がそう言った。
「は? 姉貴心配してたのか?」
「あんたね、じゃないとお姉さんが料理するわけないでしょ? いや、ホットケーキが料理かはさておき!」
その答えに思わず苦笑いする。
「確かにな。ちょっと考えたら分かることか」
「当たり前でしょ。あんた小学生の頃、負ける度部屋に閉じこもってたじゃない。あれだけスリーポイント外しまくって、悔しくないはずがないわ」
「……お前も部屋で泣いてたらしいしな」
「うっさい」
パシリと額を小突かれる。
「いてえ」
「ふん。自業自得よ」
茶化しながらも、俺は理奈が異変に気付いていたことに驚いていた。
自分でもハッキリと自覚していなかった悄然とした気持ち。
藍田やタツといった、いつも一緒にいる人間が気付いている素振りはなかった。だからこそ聡美に指摘された時に驚いたのだ。
理奈は俺が中学時代負けても飄々としていたことを知らないからこそ、図らずも言い当てることができたのだろうか。
恐らく違う。
小さい頃からの俺を知っていて、その根本が変わっていないと確信しているから。
姉を除けば、理奈にしか出せないであろうその言葉を噛みしめる。
「何を無理してるのかは知らないけど、ちょっとは周りに頼りなさいよね。バスケで個人技中心なのは分かるけど、現実の独りは周りに心配させるだけよ」
不満顔とは裏腹に優しさを感じさせる声色。
理奈の言葉で触発されたように、記憶の波がせり上がってくる。
あの時、千堂高校に敗北した時。
笛が鳴った、その瞬間。
俺はただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
悔恨はない。だが、それよりも遥かに大きな虚無感が俺を襲っていたのだ。
目の前の瀬川は俺に向けて僅かに視線を投げたが、声をかけることなくチームメイトの元へ戻っていく。
決勝への進出校が決まり祝福の拍手が鳴り響く会場で、俺は最後までコートに残っていた。
疲労で靄が掛かった視界に映るものは何もない。ただ、ベンチに戻るのが憚られて俺はただ一点を見つめていた。
そんな姿がギャラリーの目に止まったのか、再び拍手が鳴り始める。祝福の拍手よりは疎らで時間も短い。千堂高校に抗った元弱小高校エースへの、健闘を讃える拍手。
それに背中を押されて、俺はようやくベンチへ足を向けた。
全身全霊をかけて戦った試合で、負けた。
中学までと違い、俺は試合をフルで出場し最高に近いパフォーマンスをしたと思う。
それでも、届かない。
自分の全てを跳ね返された絶望感。それは俺の想像を遥かに超えるもの。
中学時代も、負け試合は大会の数だけ味わってきた。だがその頃は周囲の視線を気にしたプレーを主軸としていて、勝利へ貪欲になれば勝てたであろうと思い返せるような試合ばかり。
本当に敗北を感じた試合なんて、小学生の頃まで遡る。
試合に負けた時は悔しくて、いつも理奈に付き合わせて練習をしていた。理奈との1on1はその頃俺が優勢で、理奈も俺に負けじと食らいついてきた。
人を成長させるのは敗北そのものじゃない。悔しさから生まれる奮起だ。
俺は千堂高校に敗けて、そんな当たり前のことを熱が迸る頭で考えた。
だが北高のチームメイトは、悔しそうな表情を見せるもそれが練習に繋がることはなかった。
早々に敗北からの悔しさを切り替え、皆んないつも通りに戻っている。
練習をハードにして次の大会では絶対に県に行くという目標も、北高カラーに合うかと訊かれたら否だ。真面目に練習をしつつ和気藹々としている、みんなが仲のいい部活。そんなチームを少しでも長く持たせようと、今大会を勝ち抜いてきたのだから。
上級生引退の時期を長引かせることに成功させた今、上にいくために練習をハードにしようという提案をしても皆んなが心から頷くことは難しいだろう。
だから俺は、分からない。
この悔しさを切り替えて、またあの心地いいチームに溶け込んでいくのが一番無難な選択なのだろう。
だがそれをするにも、俺はまだ気持ちの整理がついていない。大会終了から一ヶ月が経った、今でもだ。
「この気持ちをどう処理していいのか、分からないんだ」
やっとのことで口から漏れた言葉は、掠れて自分の声じゃないみたいだった。
「今更バスケで上を目指したいなんて多分俺の勝手だ。じゃあ強豪校へ行けばよかっただろって言われても文句言えない。でもそれじゃあ、この悔しさの行き場はどこだ。どこで晴らせばいいんだ」
想いの末端を切り離しただけの吐露から、一体何を伝えようとしたのだろう。自分でも解らない無様な言葉を、理奈は数秒間目を瞑って聞いていた。
その後もしばらく間を空けて、理奈は漸く口を開いた。
「まあ、正直端折られすぎてるとしか言い様がないわね」
「……悪い」
当たり前のことだろう。自分の胸中に渦巻くものをそのまま言語化できるほど、俺は器用な人間じゃない。
こんなこと、北高バスケ部の誰にも言えない。清水主将にも、戸松先輩にも。タツにも、藤堂にも。
……そして、藍田にも。
だが、誰かに想いの一欠片でも伝えたかった。一人で抱え込むのが辛かったのだ。
口に出してから幾分かマシになった胸中に、俺は少し口角が上がった。
……理奈がいてくれて助かった。
俺と同じ集団に属しておらず、尚且つ信頼できる存在。
俺を、解ってくれる存在。
かけがえのないとはこういうことを言うのだろう。
「ありがとな」
そう言って席を立つ。
瞬間、理奈に服を引っ張られた。
体勢が崩れ、倒れ込む形で理奈に吸い込まれる。
「……理奈?」
気付けば俺は理奈の胸に抱き寄せられていた。
「割り切るってさ。簡単だよね、言葉では」
「……あぁ」
「負けたら苦しむのが当たり前。大小はあっても、それはみんな同じでしょ。私だって、苦しむときあるわよ。悔しいことも、沢山ある」
今だって、と理奈は小さく呟いた。
「でもね、私思うんだ。一つの負けを、悔しさを原動力にするには限界あるって。人の気持ちなんてね、変わっていくものだよ。ずっと変わらないと思っていた事もね、ふとした瞬間には変わった後だったりするの」
──それはまるで、俺にではない誰かに言い聞かせているようで。
「だから楽しいんでしょ、高校の部活って。全く同じ考え方の人が集まったチームなんて、きっと何処にもない。変わっていく考え、変わっていくメンバーで何か爪痕を残せるからいいんじゃん」
顔は見えないが、俺には理奈がどんな表情をしているのか分かるような気がした。
「それでも、どうしても北高で雪辱を晴らしたいって、勝ち上がりたいって思うならね。言葉より先に態度で示しなさい。練習は人一倍声出して、人一倍チームに溶け込みなさいよ」
「……それで変わらなかったら、仕方ねえな」
「そう、仕方ない。日が経った頃には十中八九気持ちの整理が付いてるわ。そんなもんでしょ。……うん。その、陽はこういう言葉を欲しがってたってわけじゃないんだろうけど。でもこれが、私の本音かな」
諦めるな。そんな鼓舞を俺は理奈に求めていたのだろうか。
だが多少の逃げ道を用意してくれた理奈の答えも、不思議と胸に染み込んでいく。
「でも、部活してない時って何すればいいんだろうな。何か、気持ち紛れるものが欲しい」
「あら、それが人の胸に身体預けてる人の態度かしら」
そう言うと理奈は、俺の頭を少し動かした。
日常で体感することのない、不思議な柔らかさが俺を包む。
「うおっ」
「どう?」
「……ちょっと紛れた」
「でしょ」
「ありがとう」
「いいって。今日は、全部忘れて。なーんにも考えないで、楽にしなさい」
「……ごめんな」
「……別にお礼のままでいいしょ。ばか」
図らずも出た謝罪の言葉に、理奈は敏感に反応する。
俺がここにいない誰かに発した言葉だということ。
それを理奈は察していたのかもしれない。
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