第48話 藍田の変化

 電話が鳴っている。

 ジーンズのポケットが携帯のバイブで震えている。

 それでも俺は、携帯を取れないでいた。


 休日である今日は藍田とのデートの日だ。

 約束の時間は午前十一時。そして現在十三時。


「やっちまった」


 期末テスト前ということもあり、昨夜は夜遅くまで勉強していた……訳ではなく。

 ただ香坂家であったことを考えていただけだ。

 眠気が来る峠を越えた後はどうやっても寝ることができず、いざ寝付くと目覚まし時計のベルが聞こえないほど熟睡してしまった。


 急いで集合場所である駅前に走っていると、電話がかかってきたのだ。

 二時間も遅刻した手前、何と謝ればいいのか分からない。相手が理奈なら、良くも悪くもこういう時は気が楽なのにと思ってしまう。

 だがここで電話を無視するのは、人として有るまじきことだろう。

 意を決して電話に出ると、まず聞こえたのは電車の走る音だった。


『……あ、桐生くん。ごめんね、今ちょうど電車が通ってて。聞こえる?』

「き、聞こえる」


 電車の音はうるさいわけではなく、微かに聞こえる程度だ。電車の音より雑踏の音が大きく、恐らく藍田はまだ駅前で俺を待っていたのだろうということが想像できた。

 申し訳ないという感情がみるみる内に増長していく。


「その、まじで悪い! 寝坊した、ほんとにごめん」


 藍田は俺の謝罪を聴くと一瞬の間を空ける。

 俺が百パーセント悪いだけに、一瞬がとても長い。


『……うん、よかった』

「え?」

『よかった。事故に遭ったんじゃないかとか、そういう心配してたから。電話出てくれてありがと』

「い、いや、それは当然というか、そんなんでお礼言われてもっていうか」

 予想外の言葉に思わずしどろもどろな返事をしてしまう。

 二時間待たされた挙句の一言が「よかった」だなんて、藍田の口からそんな言葉が出るなんて。

 今の藍田からは想像できないような言葉だ。

 猫を被っていた時の藍田なら、如何にもという台詞だが。

 そんな言葉をかけられて、俺が抱いた感想は一つだった。


「……めっちゃ怒ってる?」

『早くきて』

「ご、ごめん今行く!」


 電話を切り、猛ダッシュ。

 試合の時より切羽詰まった思いで、俺は駅へと駆けた。




 駅に着くと藍田の姿は見当たらなかった。

 見渡してもどこにもいない。


「……帰ったか」


 五分ほど辺り探した後、俺はそう結論付けた。

 二時間も待たせたのだから仕方ない。

 急がせておいて自分は帰るという仕返しは藍田にしては幼稚な気もするが、それほど頭に来ていたのだろう。

 俺なら三十分で帰ることを検討するだろうし、先に帰られても俺は全く腹が立たなかった。


 集合場所である『西北駅』は以前のデートで使った駅だが、この市内では恐らく一番活気のある場所だろう。

 周りにはショッピングモールが並び、お洒落なカフェもある。

 大学生も多く見受けられることから、学生スポットであることは間違いない。

 今日は休みだし、俺もカフェでも行こうか。

 そう思案していると、ジーンズのポケットが再び震えた。


『ごめん、うとうとしてた。駅の構内にいるから、ちょっと待ってて』


 届いたメッセージにはそう書いてあった。

 理奈が猫公園のベンチで熟睡していたのを思い出す。

 女子はもう少し危機感を持ったほうがいい。

 特に、二人のように可愛い女子は。

 藍田もタチの悪いナンパをされていたこともあったし、それを踏まえると彼女を二時間も待たせた俺はどうしようもない男に思えてくる。

 俺は一応、藍田の彼氏だ。


「……一応な」


 思いがけない形で付き合うことになった俺と藍田。

 当初はその関係に他のカップルと同じように、気持ちが通じることはないと思っていた。

 だが段々と距離は近くなり、最近は自分のことを藍田の彼氏と認識することに抵抗はほとんど無くなった。

 だからこそ、昨晩のことが──


「お待たせ」


 不意に藍田が顔を覗かせる。


「おう、藍田」


 思考を中断されて、浅慮に返事をしてしまう。

 後悔するが遅し、藍田はしかめ面をした。


「反省してる?」

「し、してる!」


 背筋を伸ばしてから勢いよく頭を下げる。

 許してもらうにも、まずは姿勢からだ。


「ほんとごめん。これだけ待たせて第一声が謝罪じゃないなんてありえねえな」

「ほんとに。さっきも言ったけど。心配させないで」


 その言葉に思わず顔を上げた。

 やはり、明らかに以前と違う。

 付き合った当初の藍田ならこのタイミングで「ふざけてるの?」などと怜悧な視線を飛ばしてきそうなものだ。

 だが今はどうだ。

 怜悧どころかその瞳は、まるで、本当に。


「ねえ、桐生くん。寝ぼけてる?」

「いや、うん。そうかも」

「もう、いいご身分ね。たっぷり寝られて羨ましい」

「そんなこと言うなって、何か奢るからさ」


 手を合わせると、藍田は溜息をついた。


「そういうのはいいよ。もう今日は動物園行けないし、買い物でもしよっか」


 ……そうだった。

 地区大会の決勝戦前、休みの日に動物園に行きたいと放課後の教室で話をしたのを思い出す。


「今日がその日だったのか」

「まあね。でも、また今度だね」


 動物園は閉園するのが早い。市外へと出なければならないため、交通時間もかかる。

 十四時という時間は、動物園へ行くにはあまりにも遅すぎた。


「……悪い。夏休みが始まったら、行こうな」

「うん。絶対だよ」

「おう」


 藍田は俺の返事に頷くと、暫し遠くを見つめる。

 視線の先を追っても、特に何かがあるわけではなかった。


「じゃあ行こっか」


 再びこちらを向いた藍田は、少し疲れたような表情をしている。

 罪悪感がチクリと胸を刺すのを感じ、俺はこのデートで何か取り返せないかと思案するのであった。

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