第46話 香坂家への訪問
久しぶりに香坂家のインターホンを鳴らす。
以前と変わらない音に少し安堵感を覚えながら、玄関が開くのを待つ。
数秒経つとガチャリと扉が開いた。
「やっほ、入って」
「おう」
理奈に導かれるまま家に入ると、俺の家とは違った匂いが迎えてきた。
比較的広めの玄関には観葉植物が置いてあり、恐らくそれらの匂いだろう。
観葉植物を繁々と眺めていると、理奈が口を開いた。
「それ、前来た時にはなかったでしょ。モンステラっていうの」
「へぇ、モンステラ。良い匂いがする」
そう言って鼻を近付けてみると、ほとんど匂いはしない。
なぜだ。
不思議に思って首を傾げると理奈がくつくつと笑った。
「良い香りがするのはそこにある芳香剤よ。モンステラの裏に隠れてるから分かりにくいでしょうけど」
理奈がそう言いながらモンステラを少し横にずらすと、緑色のラベルが貼ってある芳香剤が見えた。
「げ、フェイクかよ。騙された」
「勝手に騙されたんでしょ。ほら行くわよ」
「ちょっと待ってくれよ」
さっさとリビングに行こうとする理奈を思わず静止する。
靴を揃えて理奈の傍で佇むと、怪訝な表情をされる。
「? なによ」
「久しぶりで緊張する」
「バカじゃないの、さっさと行くわよ」
理奈は呆れたような口調で言った。
一蹴されてリビングまで引きずられていくと、懐かしい顔が出迎えてきた。
「陽ちゃーん久しぶり! 元気にしてたー!?」
「おばさん、ご無沙汰です。お変わりないようで安心しました」
「まぁまぁ陽ちゃん、そんな畏まらないで。あとオバさんじゃなくていつもの呼び方でいいのよ?」
少し大人に見られたかった俺の思惑なんてお見通し、と言うように
「いつもの呼び方って……」
言い淀むと、理奈が背中を小突いた。
「理奈のお母さんでしょ。恥ずかしくなっちゃった?」
「別に恥ずかしい呼び方でもないけど。でもなんか長いし」
弁解すると、佳子さんは手をブンブン上下に振る。
佳子さんの年齢は四十を過ぎているはずだが、見た目は三十代を維持している。見た目は大人の色っぽさを感じなくもないが、俺の前で見せる言動がそれらの感情を見事に跳ね除けていた。
「あらー陽ちゃん、いいのよ遠慮しなくて! 私は何て呼ばれてもいいもの!」
「じゃあおばさんでいいですか?」
「ダメよ」
「ダメじゃないですか」
友達の母をおばさんと呼ぶのは至極一般的なことで、その呼び方に他意は存在しないのだが。
「……じゃあ佳子さんで。もうそろそろキチンとした呼び方にしないといけない気がするんで」
「なーに言ってんのよ高校生のくせに! まだまだ大人に甘えていいのよ!」
「うちの先生たちがそれ聞いたら瞠目しそうですけど」
そこそこ進学実績のある北高は、先生たちの意識が高い。
生徒の意識が全く追いついていない悲しい現状ではあるのだが、一つだけ先生たちが口を酸っぱくしている言葉の中に共感するものがあった。
それが「高校生はもう大人の一歩前」という言葉だ。
中学までの義務教育と違い、高校生には様々な選択肢が自分に委ねられる。
増えた選択肢の分、こちらもそれに相応しい言動をしたい。
……それも思っているだけで、全く言動に表れていないことは認めよう。
だが佳子さんには久しぶりに会ったということもあり、少し見栄を張りたかったのだ。
それもあっさりと見破られたので、佳子さんと呼ぶのは俺の最後の抵抗である。
そんな思考すらお見通しと言わんばかりに佳子さんは口角を上げているが、なるべく見ないようにした。
「陽、ホットプレート」
「あ、そうだった」
右手にある重量感が何を意味しているのかすっかり忘れていた。
理奈が差し出す手に、ホットプレートが入った紙袋を掛ける。
その際指が触れた。
……こんな女子らしい華奢な手で、全国レベルのバスケをするんだ。
こうして間近で指を見ると少し不思議になってしまう。
「な、なに」
じろじろと見てみたせいか理奈が硬い声を出す。
嫌がる様子はないが、佳子さんに気付かれても面倒だ。
聞きたいことができて、佳子さんの方へ向き直った。
「佳子さん。理奈って俺にバスケで負けた時どんな感じでした? 最初のころです、出会ったころ」
「は!? 何訊いてんのよあんた!」
理奈の抗議を無視して、佳子さんの答えを待つ。
肩をぐらぐらと揺さぶられるが、それでも無視した。
佳子さんは理奈をチラリと窺う。
理奈はブンブンと首を振ったが、佳子さんは無情にも俺に視線を戻した。
「そりゃもう泣いて、泣いてのお祭り騒ぎ。もー抑えるのが大変だったわよ。今でも私とお父さんは恨んでるんだからね?」
「ちょっとママ!」
耳元を理奈の掌で塞がれるも、本当に焦っているのか佳子さんの声は普通に聞こえてくる。
「いつも次絶対負けないーって泣いてたんだけど、最近は流石に無くなったわね。全国大会で負けた時はさすがに部屋から出てこなかったけど」
「え、そうなんですか」
「そうよ、理奈は負けるたびに遅くまでお庭で練習してたもんね」
ついに理奈が佳子さんの手に掴みかかったが、佳子さんも負けじと手を握り返す。
睦じい親子を眺めながら、以前聡美から聞いていたことを思い出した。
最後の試合を観戦していた聡美によると、理奈は試合を終えた際他の選手を支えながら退場したらしい。
そのことを聡美は賛美していたのだが、実際は気丈に振る舞っていたということだ。
部屋にこもるほど悔しい想いをしておきながら、チームメイトを気遣う。
俺の中学時代とはえらい違いだな、と思わず苦笑いをしてしまった。
「陽も何のつもりよ! 今更そんなこと訊くなんて嫌なやつ! やなやつ!」
取っ組み合いの末に佳子さんをソファに座らせた理奈が、鼻息を荒くして睨みつけてくる。
「悪い悪い。でも……」
負けたらやっぱり悔しいよな。その分、練習するよな。
そんな言葉を噛み殺した。
理奈にとっては当たり前で、かつての俺にとっても当たり前で、今の男バスにとっては当たり前でないもの。
「……? 陽?」
「ん。大丈夫」
バスケ部が好きだ。だから勝ちたい。そんな想いが膨れていくほど、今のバスケ部の居心地が悪くなっていくのではないか。
そんな不安を抑えるように首を振る。
「陽ちゃん、久しぶりなんだからうちでご飯食べちゃって! お母さんには連絡付けといたから!」
「あ、はい。いただきます」
勢いに押されて、反射的に返事をする。
食卓へ視線を移すとご飯は既に用意されているようだった。
香坂家のご飯は本当に久しぶりのことだ。
俺が座り、横に理奈が座る。
食卓に並べられた豪勢なフォークに、俺の瞳が反射した。
……これじゃ姉貴に見破られても仕方ないな。
そう思える瞳を、俺は数秒間見つめた。
その時はまだ、理奈の視線には気付いていなかった。
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