第45話 姉の気遣い

 結局ボーリングを断って学校から帰ってくると、リビングに聡美の姿があった。

 大学は昼に終わることもあるらしく、聡美は大抵俺より早く帰ってくる。

 サークルがない日以外十六時には一度家に帰ってくるらしく、高校生からしたら羨ましい限りだ。

 今日は部活もなかったのに、それでも姉が早いとは。理奈とタツが話していた大学というものは、なんて素晴らしいのだろう。

 あいつら二人と動機は些か違うだろうが、今回の期末試験は俺もいつもより頑張ってみようか。


 そう思いながらリビングに入ると、聡美が食卓で黒焦げになった異物を口に運んでいるところだった。


「おい、姉貴。何食ってんだよ」

「そんな目で見ないでよ。私だって好きでコレ食べるわけじゃないわよ」

「コレってなんだよ、黒すぎて分かんねえよ。死ぬぞ」


 聡美がコレと呼んだソレは、明らかに本来あるべき姿からかけ離れている。

 形状からして、恐らく──


「ホットケーキよ」

「ひでえよ、そのホットケーキが姉貴に何したってんだよ!」

「か、勘違いしないで、私が焦がしたわけじゃないわ!」


 憤慨したように黒焦げになったホットケーキを皿に戻して、俺の方へ歩みやって来た。異臭が近付いてきて、思わず後ずさりする。

 ホットケーキを刺したフォークから異常な臭いがすることから、少なくとも口にしてはいけないものが我が家にあることが分かった。


「姉貴じゃないなら、一体誰が焦がしたんだよ」


 鼻をつまみながら訊くと、聡美は恨めしそうに指差した。

 その先にはホットプレートがある。中を覗くと、ホットケーキの焦げカスがこびりついていた。


「おい。まさかこれが焦がしたとか言うなよ?」

「え。だって、私ちゃんとしてたもん。でもいつのまにか変な臭いしてきて、様子見てたらこのざまよ。理奈ちゃんからこれ借りてきたんだけど、壊れてたみたいね」


 ──なぜ様子を見た。変な臭いがしたらその場で電源落とせ。

 呆れたような声色の聡美をぶん殴りたい衝動を抑えるのにまる十秒使い、ようやく「これ理奈のプレート?」と絞り出した。


「うん、理奈ちゃんに貸してもらったのよ」

「ったく、なんでよりによって料理に挑戦してんだよ。母さんから一人で料理するのは止められてただろ」


 もっとも、プレートでホットケーキを作ることが料理と呼べるのかは分からないが。

 だがそんな初歩中の初歩レベルのことでさえこの惨事を起こすのだ、母さんの判断は正しかったと言えよう。

 聡美はむくれた後、息を吐いた。

 歪なホットケーキを食べたからか、息まで焦げ臭い。


「あんたに食べさせてあげようと思って」

「一体何の恨みがあって!?」

「ちっがうわよ! あんた試合に負けて以来ちょびっと元気ないでしょ。好きなホットケーキでも食べたら少しはマシになるかと思って」

「あ、姉貴……」


 再び聡美は盛大に息を吐く。

 どうやら聡美は俺を元気付けようと、慣れない料理をしようとしていたらしい。


 ……そんなに元気がなかったように見えただろうか。

 地区大会が終わったのはもう先月のことだ。敗北を喫したことに悲観する選手はいない。それは良いことだと思う。

 だが、悔しさからくる激情をチームで感じることはついぞなかった。

 その違和感がずっと胸を燻り続けているのだろう。

 多分俺だけが、あの敗戦を乗り越えていないのだ。


 そこから来る悄然しょうぜんとした気持ちを言い当てられては、頭ごなしに叱ることができない。

 聡美はなんだかんだ気遣いのある人間だ。

 そんな思いが顔に出たのか、聡美は笑った。


「別に、大したことないわ。家に憂鬱な雰囲気ばら撒かれるのが嫌なだけよ」

「息くさい」

「はぁ!?」


 率直な感想が口をついて出てしまった俺を、誰が責められるのだろう。


◇◆


『それならうちに来なさいよ』


 電話越しに聞こえる幼馴染の声は、欠伸を噛み殺したような声色だった。

 プレートの顛末を報告するべく久しぶりに電話をしたのだが、返事の第一声がそれだった。プレートを返すために行くのは聡美が行くべきだと思ったが、理奈の声色を聞くとそれを言い出す気にはなれない。


「まあ、いいけど。隣だし」

『渡しただけで帰らないでよね。私の親に挨拶していきなさい、話させてってうるさいんだから』

「おー、そういえば理奈の母さんとは高校入ってからまともに話してなかったな。んじゃ今からでいいか?」


 現在時刻は二十時半。普通ならこんな時間にお邪魔をするのは迷惑だが、相手が香坂家ならそれも問題ないだろう。

 だが理奈は慌てたように、

『え、今!? だ、駄目よ、駄目!』

 と言った。


「駄目なのか? ……まあ、もうお互い高校生だしな。今のはさすがに非常識だったか」

『ち、違くて。えっと、その。……部屋掃除させて』

「……は? 部屋?」


 理奈の家にプレートを返しに行くだけで、なぜ部屋の掃除をするのだろうか。決まっている。こいつは俺が理奈の部屋にお邪魔すると勘違いしているのだ。


「おい、理奈」

『なによ』

「俺は別にお前の部屋に上がる気ないぞ、安心しろ」

『え』

「お母さんと話すならリビングだろ。大丈夫、お前の部屋が汚いことは知ってる」


 小さい頃、理奈の家にはよく行っていた。あの頃の部屋と変わってないとするならば、部屋には脱ぎ捨てた服や読み終わった本、雑誌がそこら中に散らばっているに違いない。

 料理ができるようになっていたのもあって整理整頓の方も克服しているものだと思っていたが、この態度から察するに現状も悲惨な状態なのだろう。


『言ったわね。絶対よ』


 念を押す理奈に、一体どんな部屋なのかと興味を唆られる。だがそれを言うと話がこじれそうなので、素直に了承した。


「ああ、絶対だ。約束する」

『……分かったわよ。じゃあ今から来なさい、私ママに伝えてくるから』

「おう、じゃあまた後でな」


 通話を終了させる。暗い画面の中に自分の顔が映って、表情が明るいことに驚いた。

 理奈の家に行くのは本当に久しぶりだ。聡美も連れて行こうか迷ったが、何となく一人で行くことにした。

 大学のテストも近いらしいし、勉強の邪魔をするのも気が引ける。

 聡美はあれでも、俺が名前を知ってる程度の有名な大学に通っているのだ。


 ──いや、俺だってテスト近いじゃないか。

 そこに思い至った時、メッセージを知らせる通知音が鳴った。

 メッセージを開くと、差出人は藍田だ。


『桐生くん、テスト最終日のことなんだけど。よかったら、以前言ってた動物園行こ? 最終日は部活も休みだし』


 添付されてた画像を開くと、ここの近くで一番大きな施設だった。行ったことはないが、よくパンフレットなどで見かける。触れ合える動物が多いということで、よくクラスの間でも話題になっていた。

 定番のデートスポットとしても有名なようで、休日は家族連れよりもカップルが多いと聞いたことがある。

 藍田と付き合ってから何度か二人で遊びはしたが、こういったデートスポットの誘いを受けたのは初めてだ。

 動物は好きだが、テストで疲れた身体に鞭を打ってまで行きたいかと言われたら唸るしかない。


「まあ、返信はまた後でいいか」


 電源を切り、携帯を学習机に置いた。

 とりあえず今は理奈の家に行かないといけない。

 部屋着を脱いでクローゼットを開けると、我ながら微妙なセンスの服で溢れている。


「制服って楽だよなー」


 制服があれば、こうして服を選ぶ必要がない。まだお洒落を楽しむ段階まで成長してない俺は、色合いだけを意識した無難なコーデを着た。

 それをスタンドミラーで全身を確認して、思わず顔をしかめる。

 ……デートでもあるまいし。

 理奈相手にコーデなんて関係ないではないか。


 だが俺は結局、自分の納得いくコーデを探し当てるまで十五分程度格闘した。

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